湖岸にて





 短い夏休みの後半を、昭彦は伯父の源造とともに過ごすことになった。源造が泊まりがけで釣りに行く計画をたてていたのだが、祖母と母が、源造が一人で釣りに行くのを心配して昭彦について行くよう頼んだのだった。出発の日、源造は大学の同僚に借りたという車を運転して昭彦を迎えにきた。源造はあちこちにポケットのついた釣り用のエンジ色のチョッキを着込み、野球帽をかぶっていた。禿げた頭がかくれると、源造は少し若く見えた。
 大きな湖を半周してトンネルをくぐると、あたりの様子が一変した。湖の対岸には褐色の熔岩がつらなり、その向こうに樹木が同じ高さで広がっていた。 「あれが、樹海だ」
 源造はハンドルに手をかけたまま顔だけ横に向けて言った。同じ高さで水平に広がっている森を眺めながら、昭彦は不思議な感慨にとらわれた。
「行ったことなかったかなあ、アキさんは」
「いえ、ありません」
「紅葉台ってところに展望台があるんだけど、そこから見るとそりゃ見事なもんだ。見渡す限り原始林が広がっていてな」
「いつごろできたんでしょう」
「富士山の中腹にある火山から熔岩が流れ出て、それが大きな湖を西湖と精進湖にわけたんだけど、平安時代のはじめだったと思うな、それは。あたり一体はやけただれて、木も草もなくなった筈だけど、あちこちから木の種子が飛んで来たのだろうね。熔岩の上にだんだん樹木が茂って、森になったんだ。それ以来この森は人の手が入ってないということだな」
 濃い緑が富士の山裾までを埋め尽くしていた。その広大さが、昭彦に人を寄せ付けぬ厳しさと寂しさのようなものを感じさせた。武蔵野の雑木林の親しみ深さと対照的な森林だなと昭彦は思った。
 宿につくと、荷物だけを預けて、二人は早速湖岸へと急いだ。ちょっとした林を抜けると、すぐに目の前が明るくなって濃い青色の湖面があらわれた。岸はごつごつした熔岩でできているので、足場のよい所をみつけるのが大変だったが、湖にそった細い道をたどるうちに平たい熔岩でできた格好の釣り場を見つけることができた。短い釣り糸の残りや、餌の残りが岩の上にわずかに残っていて、そこで釣りをした人がいたことがわかった。 二人はさっそく釣りの準備にかかった。
「アキさんは仕掛けの取り付け方、おぼえとるかなあ」
「どうかな、随分まえだから、この前来たのは」
 源造が昭彦をさかんに釣りにさそったのは中学のときだった。最初は源造の家の近くの海だったが、そのうちに遠出もするようになった。三浦半島も行ったし、伊豆にも行った。最後に行ったのは大学時代の奥多摩湖であるような気がした。
「伯父さんはよく来るの、最近は」
「いや、一年ぶりかなあ。もう今度が釣りおさめかもしれんなあ」
 源造は寂しそうにそう言って、針の先に練り餌を巻き付けた。昭彦も準備が整ったので餌をつけて釣り糸を水辺に投げた。水平に横たわったウキがすっと横に動いて、それからむっくりと起き上がった。源造のウキは昭彦のウキよりずっと岸に近かった。熔岩でできた岸はまっすぐに切り立っていて、湖底は見えなかった。
   じっとウキを見つめていると、ふと同僚の菅の顔が目に浮かんできた。公然と活動をはじめて、猛烈な弾圧がきて、それでもあいつ元気でやっていけるのだろうか。村八分のようなことになっても耐えられるだろうか。菅の親父さんがそれを知ったらどんなに悲しむだろうか。そんな思いが、次々と昭彦の頭をかすめていった。
「おい、引いてるぞ」
 源造が低い声でいって、昭彦の肩をつついた。昭彦が竿を上げると、餌のないハリが寂しげに水からあがってきた。昭彦は再び餌をつけて、釣り糸を投げた。ウキを見つめているとまた菅の顔が浮かんできた。昭彦は何か自分が責められているような気がした。なぜだろう、なぜ責められているような気がするのだろう。やはり、菅たちのやろうとしていることが正しいと自分が感じはじめたせいではないだろうか。自分がそう思っているにもかかわらず、自分には勇気がなくて、そういう人たちにほんの小さな手伝いさえできない。そこからくるのだろうか、このうしろめたさのようなものは。昭彦は考え込んだ。頭の中に浮かんだ菅の顔が苦しげに歪んだような気がした。
 コツンのウキが揺れた。昭彦の思考は中断された。白いウキが水中に引き込まれて、サーッと青くなった。昭彦は糸の先で魚があばれる感触を確かめながら引っ張られた分を引き戻す感じで竿をあげた。大ぶりのヤマベが白い腹をみせて水面すれすれに跳ね上がってきた。
  「つれた、つれた」
 源造は大きな声を出して自分のことのように喜んだ。
 源造が二十匹、昭彦がその半分くらいを釣ったころ、源造はちょっと休もうと言って竿をあげた。源造はリュックの中から魔法瓶を取り出し、紙コップに注いで昭彦に渡した。
「伯父さん、ちょっと聞いていいですか」
 昭彦はコップの麦茶を飲み干してから言った。
「どうしたんだ、急に真面目な顔をして。何でも聞いていいけど」
「思想の力というのは、どんな辛いことも忘れさせるほど強力なんでしょうか」
「なんだ、いきなり。何のことだ」
「伯父さんも思想をもっていることによって、いろんな不利益をうけましたか」
「ああ、そういう話か」
 源造は昭彦から紙コップをうけとりながら言った。
「わしも教授の中に反対する人がいて、なかなか教授になれなかった。助手の時、職員組合の書記長なんかやってたからな。一生助教授で終わるかと思ったこともあったな。給料もだんだん上がり方が少なくなったしな」
「そんなことがあっても、思想をもっていれば平気なんですか」
「そりゃあ平気じゃないさ、だから、自分を教授にさせないのは不当だって何度教授会にもうしいれたことか。ただなあ、教授になることが、自分の人生で唯一の目的だ、とは思ってなかったから、心に余裕はあった。同僚で、ただ運が悪くて教授になりそこねた男がいたけど、そういう人の絶望感とは無縁だったよ」
「伯母さんはそのことをどんな風に思ってたの」
「淑子は淑子で学校で教えることに熱中してたから、おれの昇進にはあんまり関心がなかったな」
 昭彦が聞きたかったことがなんとなく伝わっていない感じだった。
「でも、いきなりなんでそんなこと聞くんだ」
 源造は腕に止まろうとするアブを払いのけながら尋ねた。
「実はねえ、研究所の友人が、多分伯父さんと同じ思想、まあそういう考えをもっているんだけどね、これから公然と活動を開始するつもりみたいなんだ。もの凄い差別や弾圧が予想されるんだけど。それでねえ、その男の気持がわからない、というよりも、その男をささえるものの凄さに驚いているというのか、自分だったらそんなことできるだろうかって考えたりして」
「そういうことか」
 そう言って源造は黙った。風が出てきた。波が湖岸に打ち付けてざぶざぶと音をたてた。
「若いのに感心だな、その人も。アキさんの疑問もわかるがな。わしの経験からいうとな、辛くて辛くてたまらん、しかしみんなのためだから自分を犠牲にしてやってる、そういうもんじゃないな。この活動は。もっと楽しいものだ。その人も、これから襲いかかってくる攻撃の中でもただ辛い思いをするばかりじゃない。世の中をいい方向にかえていこうとする運動に自分が参加しているという誇りや喜びはいつも心にあるはずだ」
「研究ができなくなったり、昇格が遅れたり、まわりの人が口をきいてくれないとか、そういうことにも笑ってたえていけるんですか。思想や組織の力で」
「そういうことじゃない。ちがうんだ。笑って耐えてしまってはいかん。思想による差別は許さないという立場で闘わないといけないんだ。」
「今の研究所では、容易にそれが功を奏するようには、思えませんが」
「不当なことが行われていても、弾圧をおそれてそれに目をつぶる卑屈さにくらべれば、正当に自分の考えを主張して、そのためにおこってくる弾圧と正々堂々と渡り合うほうがよほどまっとうな生き方なのだよ。良心の問いかけに敏感な人にとっては、そういう風に生きるほうが、ある意味ではよほど楽なのだ」
「ああ、そうでしょうね」
 昭彦は小さく頷いた。少しわかったような気がした。
「その友達のこと、平気でいられないんだろう、アキさんは」
「ええ」
「そこが、いいところだな、アキさんの」
そう言って源造は立ちあがり、地面に横たえてあった竿をつかんだ。
 釣った魚を宿で料理してもらったので、夕食のメニューは豪華なものになった。源造はビールを半ダース頼んだ。源造にあまり飲ませると体に良くないと思って、余分に飲んだので昭彦はすっかり酔っ払ってしまった。源造の飲んだビールはわずかのはずだったが、源造は上機嫌だった。
「どうだい、アキさん、少し社会科学の勉強もしてみては」
 源造は日にやけて赤くなった顔をほころばせて言った。
「アキさん、わしの家には、そういう本もたくさんある。マルクスもエンゲルスも何でもある。日本語版だけでなく英語版やドイツ語版もある。もし気にいったものがあれば、どれでも持っていってくれ」 
 源造はそう言って、ビール瓶の底にわずかにのこったビールを自分のコップに注いだ。

 (この作品は、長編 「雑木林」の中の一章を短編として独立させたものです)




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