一 ほこりのつもった床や机に雑巾をかけ、ダンボールから日用品をとりだして棚にならべると、古びた殺風景な部屋も少しは人の住めるところらしくなった。一区切りついたので、昭彦は部屋の壁にそって置かれた作りつけのベッドの上に腰をおろし、あらためて部屋の中を見まわした。四畳あるだろうか。昭彦がこれまで暮らしてきた自宅の部屋の半分くらいの大きさだった。日本で最大規模と言われる研究所の独身寮にしてはずいぶんおそまつな部屋であった。それでも自分が金をだしてはじめて借りたこの空間が、昭彦にはなんとなく誇らしく思われた。日曜なので外に遊びに出ている人が多いのか、寮の中は静かだった。どこかから、下手なバイオリンの練習曲が聞こえてきた。時計を見ると四時半だった。夕食にはまだ時間がありそうなので、まわりをすこし歩いてみようと昭彦は思った。寮の裏手から茶畑にでる道を昭彦は歩き始めた。茶畑の中を折れ曲がって続く細い道は、やがて新緑の林の中にはいりこんでいた。これがいわゆる武蔵野の雑木林なのだろうか。これまでの昭彦の生活圏である横浜から都心にかけては、こんな雑木林は見かけなかった。昭彦は雑草がはびこって途切れそうになった道を、林の中へと踏み込んでいった。背の低い薮をつきぬけてブナや、くぬぎや、いいぎりの大木が、斜めに差し込む赤い夕日をあびていた。夕日は、林の奥の方まで淡い光となってひろがっていた。枝をとりまいて、芽吹いたばかりの小さな葉が、ほのぐらい空間に浮かび、ずっとむこうではそれが重なり合って、緑のもやがかかったように見えた。その小さな葉は、木の種類によって微妙な色合いの変化があった。萌黄色、淡いみどり、やや赤みのついたもの、どの葉も脱皮をすませたばかりの昆虫を思わせる初々しさがあった。微風をうけて若葉は揺れ、濃くうすく木の肌に映ったその影が細かくふるえていた。小道を歩き続けると、時おり見上げるばかりのケヤキの大木があらわれた。さまざまな木がよりあつまり、それぞれが思いきり枝をのばしあっている雑木林が、昭彦はすっかり気にいってしまった。一つの林がつきると畑にでた。里芋であろうか、太い茎にささえられた大ぶりなスペード型の葉っぱが、風に揺れて、子どもがいやいやをして首をふっているように見えた。そのとなりの畑には畝ごとに黒いビニールがしきつめられ、丸く開けられたたくさんの穴からは小さなうす緑の芽が出かかっていた。その先の茶畑は紗のようなうすい黒布に覆われていた。畑のまん中に三角の屋根がついた火の見櫓があった。火の見櫓は銀色に塗られてぴかぴか光っていて、それはいかにも小さかった。道が、もう一度林に入りこんだ。ギー、ギー、チョチョチョと鳴く鳥の声が聞こえたので声のする方に目を向けたが、鳥の姿は見えなかった。耳をすますと、鳴き声の合間に、梢をわたる風の音が、低く響いていた。遠くで自動車のクラクションの音が聞こえた。その林を抜けると、見晴らしのよいところに出た。平らな平地の中に横たわる林は、海の中の小島を思わせた。ずっと向こうに山が連なっていた。昭彦は、飽きることなく道をたどって行った。昭彦が、寮への道を引きかえしてきた時、あたりはもうすっかり暗くなっていた。茶畑の隅にちんまりとかたまった新築の住宅に明りがついていた。その明りを見ると、昭彦の胸にさみしさがこみあげてきた。なんということだ、今日出て来たばかりなのに、もう家のことを懐かしく思い出してしまうなんて、と昭彦はにが笑いをした。入社してから一年間、昭彦は、自宅から一時間半かけて研究所に通った。仕事が忙しくなったせいもあったが、昭彦が今度会社の寮に入ることにしたのは、いつまでも家にいて甘えていてはいけないと思ったからであった。昭彦は家の明りから目をそらし足を早めた。四角い窓の明りがたくさん並ぶ大きなコンクリートの建物が見えるところまで来て、昭彦は立ち止まった。「今日からはここが自分の家だ」自分を励ますようにそうつぶやいて、昭彦は大きく息をついた。食事を終えて、昭彦が机にむかって符号理論の論文を読んでいると、ドアを乱暴にノックする音が聞こえて、ずんぐりした体つきの菅が入って来た。菅は研究室は違うが、同じ情報機器研究部の同期生で、この寮の寮務委員をしていた。菅は、眉毛の太い角張った顔をしていた。耳の下の肉が盛り上がって、それが意志の強さを表しているように思われた。「わあ、きれいに片づいとるやないか」菅はベッドに腰をかけ、部屋を見回しながら言った。「あんまり持ってこなかったんだ、本も道具も。ここは狭いからね」ふんふん、とうなずきながら、菅は昭彦が家からもってきた本箱に並ぶ本を興味深そうにながめていた。昭彦はポットの紅茶をカップに注いで菅にすすめた。菅は砂糖をたっぷり入れて紅茶を一気に飲み干した。寮の規則や寮費の払い込みについて簡単に説明したあと、菅は現在寮生が取り組んでいるテニスコート造成の署名に協力してほしい、と言って署名用紙を差し出した。独身寮の二つの建物の間がかなり広い空き地になっているのだが、ここにテニスコートをつくってほしいという要求が強いので、実行委員会をつくって厚生課と交渉中なのだそうだ。「あんた、テニスは?」菅が聞いた。「まあ、少しやるけど、うまくないよ」「学校でやっとったのか」「正式のクラブじゃなくて同好会」昭彦は、中学の時、クラブでテニスをやったことがあったが、それは軟式テニスだった。顧問の先生が熱心で、昭彦も大いにやる気を出して県大会に出場した。高校では運動クラブはやらなかった。大学に入って、正式の硬式テニスクラブにも入ったことがあったが、長くは続かなかった。毎日練習を義務づけられるのと、先輩への服従を強いられるのがいやだったのだ。同好会は練習場所を見つけるのが一苦労で、やっと確保した一面のコートを数十人が取り囲み、コートに入って練習できるのは一日に十五分から二十分だった。だからうまくはならなかった。そういうことを、趣旨書に目を走らせ署名をしながら昭彦が説明していると、「菅君いるか」とドアの外で甲高い声がした。「おお、ここや。はいれ」菅が大声を出すと、背の高い尾関が体を折り曲げるようにして入ってきた。昭彦は背が高い方だったが、尾関は昭彦より十センチは背が高そうだった。尾関も同期生だったが、部がちがうので、昭彦はあまり親しくなかった。尾関はよろしくと言って昭彦に頭をさげたが菅に何か大切な用事があるようで、話に加わらなかった。菅もそれを感じとったのか、じゃあまた、と言って腰をあげた。尾関は、昭彦の本箱に一瞥をなげたが、最上段の右端のところに一瞬視線が止まったような気がした。二人が出て行ったあと、昭彦はあらためて本箱をながめた。尾関が視線を止めた一番上段は、ソ連の学者の書いた数学全書だった。その本に興味をもったのだろうか。いや、少し数学をやろうとした人には珍しくない本である。なんだろう、もう一度本箱を眺めているうちに、昭彦は数学全書の隣に置かれたバナールの本に目をとめた。これだったのだろうか。昭彦は尾関の立っていた位置に自分も立ってみて視線の方角を確認した。やはり尾関はこの本に注目したようだった。昭彦は本棚から白い背表紙に「歴史における科学」 と書かれた本を抜き出した。その本は伯父の源造がくれたものだった。源造は母の兄で、大学の先生だったが、教員組合の役員をしたり平和運動をやったりする人だった。源造はレーザーの研究をやっていて、その分野ではかなり有名な学者だったが、科学史や技術史も研究していた。昭彦はこの伯父が好きでよく家に出入りしていた。源造は昭彦が研究所に入った記念にと一巻と二巻を贈ってくれた。もらってすぐ一巻は目を通したが、二巻は読むひまがなかった。寮から通勤するようになれば、少しは時間ができるかと思って読み残した二巻を持ってきたのだった。昭彦は本を手にとってページを繰ってみた。近代科学の誕生と、科学と産業について書かれた普通の科学史の本であった。特にかわったところのない本であるように思われた。巻末にはバナールの紹介があったが、結晶学の研究者で、ロンドン大学の教授と書かれていた。世界科学者連盟の副議長や、世界平和評議会の代表委員会議長などの肩書もあった。なぜ、尾関はこの本に注目したのだろうと昭彦は考え込んだ。伯父がくれるくらいだから、そういう人達の間で有名な本なのだろうか。もしそうだとして、尾関はどういう意味で目をつけたのだろう。尾関は寮生の思想傾向に敏感になっているのだろうか。寮の中でそういう人間をチェックする役割を担っているのだろうか。そうは考えたくなかった。だとすれば、尾関がああいう本に共感する人間なのだろうか。伯父のように、社会を変革していく立場に立った人間なのだろうか。それもまた考えにくいことだった。昭彦たちの学生時代は、いわゆる「大学紛争」が急速に静まっていく時期であった。クラスにはまだ過激な言葉で扇動する人もまだいたが、影響力は少なかった。昭彦は一時期「民青系」と言われる人達と付き合いがあり、集会などにも誘われれば参加した。民青同盟に入ることもすすめられたが、自分が将来、技術者や研究者になることの妨げになるような気がしてどうしても思い切りがつかなかった。「大学紛争」の時期にそういうやり方が定着したのか、会社は採用にあたって、思想調査を徹底させていた。民青同盟や共産党員と思われる人達の多くは大企業に就職することができなかった。特にD通信社の思想調査の厳しさは有名で、昭彦のところにも何度も興信所がやってきた。近所の人が教えてくれたことだったが、昭彦のクラブ活動や交友関係まで、興信所はつかんでいた。その思想調査の網をくぐり抜けてこの会社にはいってくる人間がいるとは思えなかった。いずれにしても、この本を本箱に並べておくのはすこし見合わせたほうがいいかもしれない。そう思って昭彦は手にしたバナールの本を机の引き出しにしまった。時計を見ると九時だった。昭彦は洗面器の中にせっけん箱と手ぬぐいを入れ、鍵をかけて部屋をでた。食堂を通りかかると、部屋の真ん中のテーブルを囲んで、菅たちがわいわいと議論していた。研究所からもってきたのであろうか、鋼鉄製の大きな巻き尺や測量用の三脚をもっている人もいた。「あ、花岡君、ちょっと」菅に呼び止められ、昭彦は立ち止まった。「いま、テニスコートの測量の準備してるんや」菅は、「ちょっと頼む」と隣の男に声をかけ、話の輪からはずれて、昭彦に近寄ってきた。「今度の土曜日にやるんやけど、手伝ってくれんか」菅は手にした空き地の略図を昭彦に見せた。「そんなことも自分たちでやるのか」「ああ、研究所の厚生課が、空き地はテニスコートには狭いと言ってるんや。大まかにはかったところではそんなことない。ようするにお金をだしたくないんや、会社は。そいでこんどみんなで正確な測量して、図面も書いて、厚生課に持っていこうってことになったんや」面白い話だと昭彦は思った。「手伝いたいが、今度の土曜はちょっと用事があるんだ」「デートか」菅がにやりと笑った。「いや、そうじゃないけど」じゃあ、いつかまた手伝ってくれ、と言って菅はもどっていった。今度の土曜は昭彦の所属している合唱団の定期練習日だった。風呂には人がいなかった。大勢の寮生の入った後らしく、湯は濁っていた。昭彦は銭湯というものに行ったことがなかったので、こういう広々とした風呂は修学旅行の旅館を思い起こさせた。昭彦は洗面器に湯をくんで肩からかけると、湯船の縁に手をかけて片足を湯にいれた。足先が底のタイルについたとたんヌルリと滑ってあやうく転びそうになった。湯船に全身をひたすと、湯から垢のにおいがかすかにたちのぼった。あまりぬるいので、赤い字で『湯』とかかれた札の下った蛇口をひねったが、コーッと音がするだけで湯は出てこなかった。風呂の入り口にひどくやせた男があらわれた。手と足は長いばかりで筋肉がなく、薄い胸にはあばら骨がくっきりと浮き上がっていた。「やっぱり君だったのか」手拭を腰にあてて湯船に近寄って来た男が昭彦を見て言った。隣の部屋の遊佐だった。「ドアに花岡って名札が出てたから、ひょっとして君かと思っていたけど」「よろしくね」遊佐は、同じ研究部だったが、どことなく都会風の虚無主義を感じさせる男だった。地方出身の新入社員を東京のあやしげな所に案内しているという噂を聞き、昭彦はつきあいを深めないようにしてきた。「あのね、この寮は作りが悪くてね。君と僕の部屋の境はうすい板一枚なんだ。いびきでも寝言でもよく聞こえるんだ。仲が悪くなると本当に生活しにくいから、よろしくたのむよ」遊佐は案外真面目な顔で言った。自分の前に入っていた人とトラブルがあったのだろうかと昭彦は思った。「ぬるいね。この風呂」遊佐が湯船に入ってきた時、昭彦は言った。「そうなんだ。風呂は食事のあとすぐに入るほうがいいよ」「ああ、そのようだね」「特に日曜はね。みんな夕方に帰って来てどどっと入るから」「お湯は出ないの」「ああ、ボイラーをたく人の勤務の関係で九時までなんだ。今、菅たちがもっと遅くまでお湯がでるように交渉してるけどな」「菅も忙しいことだな。テニスコートのこともあるし」「ああ、よくやるよ、あいつも」遊佐は湯船から出て、鏡の前で体を洗いはじめた。昭彦は湯がぬるくて湯船から出ることができなかったが、長くつかっていればいるほど体が冷えてきた。「おお、寒気がする」とつぶやいて昭彦が湯船から出ると、遊佐が風邪をひくなよと言って笑った。風呂から出ると、食堂の隅にある無料電話で菅が話していた。口調からすると相手は恋人のようだった。昭彦はふと、今度の定期練習に中崎翠がくるだろうか、と思った。二 長い打ち合わせが終わって、メーカーの課長たちが愛想よく挨拶して部屋を去っていった。「八木君、仕方ないな、急ぐんだから。この際メーカーの言うとおりにするしか方法はないぞ」室長の壱岐はそう言い放って出て行った。壱岐の後を追うように郷田が飛び出して行った。がらんとした会議室に八木と昭彦だけがとりのこされた。「やっぱりだめだったな」八木は、かすれた力のない声で言った。「残念ですね。新しいアイデア全部却下でしたね。面白いものたくさんあったのに」八木はああ、とうなずいた。「花岡君に本当に申し訳ないことになりそうだな、研究的な要素が希薄になって」「いやあ、こまりましたねえ。しょうがないんですかねえ、こういう研究体制じゃ」「ああ、もう研究体制なんて言葉もつかえないな。名前は研究所ってついてるけど、研究なんて存在しないも同然だからな。共同研究に名を借りて計算機の巨大メーカーに莫大な資金を流すトンネル機関だよここは」八木の口調は珍しく投げやりだった。「じゃあ、僕、部屋にもどりますよ」昭彦がそう言うと、八木はうなずいて額に手をあてた。三十前の八木が、今日はひどく年よりじみて見えた。部屋にもどった昭彦はこれから実験をするかどうか迷っていた。六時を過ぎていたし、四時間を越える打ち合わせで頭が疲れていた。しかし、実験は急がねばならなかった。八木といっしょに検討を加えていた計算機用磁気テープの新しい記録方式が今日の打ち合わせで不採用と決定したので、その記録方式の性能評価実験はいつまで続けられるかわからなかった。昭彦は実験のデータをまとめたファイルをキャビネットから取り出し、それを脇にはさんで部屋を出た。昭彦が廊下をよこぎり重い扉を押して実験室に足を踏みいれると、実験室の奥の方から、ひそひそと話し合う声が聞こえてきた。「なんとか、ならないですかねえ。彼のことはあっちのグループの責任でもっとよく監視してもらわなくてはこまります」「それはやらせてるつもりだよ。仕事もなるべく与えないようにしているし」「仕事のことももっと徹底できないんですか。やっぱりまだ影響力があります。現にこの研究室の何人かは彼から言われて反主流派に投票しているみたいなんですから」「だけど、やっぱり彼にやってもらうと便利なんだよ。仕事が早いから」「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう、時期が時期なんだから。室長も一時的に仕事がストップしてもかまわないって言ってたじゃないですか。今は彼らを追い出すチャンスですよ」「そりゃ、そうなんだけどね」守屋と郷田の声だった。秘密の話を立ち聞きするようでいい気持ちがしなかったので、昭彦は咳払いをひとつして、計算機用の大形磁気テープ装置のスイッチをいれた。装置の空調の音がごおっと広い実験室に響きわたった。守屋と郷田が顔を赤らめてロッカーの陰からあらわれ、足早に実験室の出口にむかった。おかしな話だったな。守屋と郷田の会話を思いうかべながら昭彦は違和感を感じ続けていた。守屋は室長補佐で、研究室の労務管理や事務処理を担当する管理職であった。郷田は管理職目前だか組合員であった。さっきの話では誰かに仕事を与えないとか監視するとか言っていたが、郷田の方が一方的に押しまくっていた。研究室は二つのグループに別れていたが、郷田は昭彦と同じ磁気テープ装置の研究グループであった。さっきの話では磁気ディスク装置の研究グループの人のことが問題になっているようだった。なぜ郷田がよそのグループの人の仕事のことにまで口を出すのだろうか。そんな権限を、郷田はどこから手にいれているのだろう。そう言えば昭彦の上司の八木が、郷田のことを「まあ、あの人は研究で生きていこうと考えてる人じゃないからね」と言っていた。「彼に言ったことは、全部会社に伝わると思った方がいいから、そのつもりでね」とも言った。職場を陰で支配する組織のようなものがあって、郷田がその中で何か責任ある立場にいるのだろうかと昭彦は思った。ディスプレイを見ながら、昭彦は軽くキーボードにふれてテープをセットするコマンドを打ち込んだ。ウィーンと音がして磁気テープ装置のウィンドウが閉まると、左側のリールからテープがはい出て来て、くるくると右側のリールに巻き付いた。すぐにテープへの試験データの書き込みがはじまり、ククッ、ククッと断続的にリールが動き出した。ディスプレイにはテストの状況を知らせるデータが次々とあらわれた。使い古してほこりのついた条件の悪いテープでのテストだったが、読み取り試験の結果は上々だった。画面を見ながら、昭彦はため息をついた。新しい記録方式は、データの読み取り誤りを減らす上で、やはり大きな威力を発揮していた。今日の打ち合わせでも、八木は自分たちの考えた記録方式の優位性を強く主張したが、どのメーカーもIBM社の考案した高密度記録方式をベースにしたいと言って譲らなかった。一般のユーザー向けの製品と今後D通信社に納める製品が大きく異なることをメーカー側は強く嫌っていたのだ。D通信社で使用するシステムなのだから、われわれの意見がもっととりあげられてもよさそうなものだと昭彦は思った。新しい大型計算機システムの開発計画は急ピッチですすんでいた。その一部として新型の高密度磁気テープ装置も今後二年間で大急ぎで開発され、その後全国の事業部局に大量に導入されることになっていた。八木の言うようにほとんど研究的要素のない開発の管理の仕事が堰をきったように押し寄せてくることになるのだろう。本格的に忙しくなる前に、何とかデータを取り切って、学会に発表できる形にしておかなければならなかった。 テープの終端までデータを読み終わったことを知らせるメッセージが画面にあらわれ、すぐに一際高い音をたててテープが巻き戻しをはじめた。昭彦はテープを掛け替えるために立ち上がった。何回かテープを取り替えてデータを取ったあと、昭彦は別の記録方式を試すため、装置のうしろにまわり、扉を開けて、ずらりとならんだ電子ボードの中から二枚を引き抜いた。その時、昭彦はふと麻生のことを思い出した。電子ボードを引き抜くのにつかった道具は麻生に作ってもらったものだったからだ。監視を徹底する、と言っていたが、やはり麻生さんのことだろうか、と昭彦は考えこんだ。麻生は共産党員だと言われていた。昭彦がこの研究所に入った時はまだ二つのグループが、同じ大きな部屋にいて、毎日麻生と顔を合わせた。麻生は四十過ぎの技能労働者で、この研究所が試作工場をもっていたころに旋盤をあつかっていたが、工場がなくなって、研究室にまわってきた。器用な人で、簡単なスケッチだけで、何でもつくってくれるので、研究室の人達から重宝がられていた。新入社員として、挨拶に回った日、麻生は昭彦を実験の部品や事務用品が自由に取ってこれる「スーパー」というところに連れて行ってくれて、その帰りに所内を案内してくれた。その時、麻生は、昔ここは長い平屋の木造だったとか、ここには教養室があったとか懐かしそうに話した。入社して一週間ほどたったころ、昭彦は守屋から、麻生が「危険な人物」であることを聞かされ、なるべく口をきかないようにと言われた。しかし、麻生に挨拶をしなかったり、麻生から話しかけられるのを無視したりということが、昭彦にはどうしてもできなかった。昨年の秋に部屋の移動があって、その時、昭彦たちのグループは今の小さな部屋に移った。麻生のいるグループとの間に室長室が挟まった形となった。その時、八木は首をかしげ「こんなことをやる必要があるのかな」とつぶやいた。昭彦が特に麻生と親しいということはなかったので、まさか昭彦のことだけを意識して二人を遠ざける処置でもなかったのだろうが、何となく不気味だった。最終バスの発車を予告するアナウンスがスピーカーから流れてきて、昭彦はわれにかえった。昭彦はボードを入れ替えると、装置の扉を閉め、一つ伸びをして操作席にもどった。 昭彦が実験を終えて居室にもどったのは十一時過ぎだった。もう誰もいないだろうと思っていたが、八木が机にむかってぼんやりしていた。八木は昭彦を見るとご苦労さん、と言って首をコクンと折った。「花岡君、寮に入ったんだってな」八木は頭のうしろで手を組んで上体をそらせた。八木の顔は赤かった。だいぶ酒がはいっているようだった。「ええ、この前の日曜日」「どんな具合だ」「まだよくわかりません。なんだか寮務委員が頑張ってるみたいですね。菅君なんか」「ああ、菅君か」「知ってるんですか、彼のこと」「ああ、まあね。同じ学校だから」「サークルかなにかですか」「まあ、そんなもんだ」八木の声が小さくなった。そのことを話題にしたくないようだった。「ねえ、何かの参考になるかもしれないから、伝えとくけどね。僕たちがあの寮にはいっていたころ、ちょっとした事件があったんだ」「事件って、盗難ですか」「いや、そんなんじゃない。あのね、僕たちが研究所に来ている間に寮の部屋に寮官が入って持ち物の検査みたいな事、まあ思想調査だね、そういうことやってるんじゃないかって噂があってね」八木が首を回すと、グキグキッと不気味に骨が鳴った。「一度テストしてみようってことになったんだ」「どんなことやったんですか」「部屋のドアに目立たないように髪の毛をはさんでおいたんだ」「髪の毛、おちてました?」「何人かでやったんだけど、みんな落ちていた。やっぱり誰かが、僕たちのいない間に部屋にはいってたんだ。もちろん誰も何も盗まれてなかった。それで寮務委員を通じて抗議したんだけど、寮官の方は知らぬ存ぜぬでつっぱって、結局あいまいになったんだ」「そんなこと、今でもあるんでしょうか」「さあ、どうかな。でもどこの寮にも緊急事態用にマスターキーがあるから、純然たるプライベートな空間とは言えないんだろうね」「なんだか嫌な話ですね」「そうだ、いやな話だ」八木は目をつぶり、いやな話だ、と口の中でくりかえした。「ねえ、八木さん、もう帰りましょうよ。今日は車やめてタクシーで帰ったらどうですか」 八木は迷っているようだったが、もう少し酔いをさましてから帰ると言って腰を上げなかった。三 昭彦の所属する合唱団は土曜日が定例の練習日になっているので、土曜会合唱団という名前がついていた。練習場所は都心の学生街にある小さな教会であった。この合唱団は、コール・アカデミーという大学の合唱団のOBが中心になって運営をおこなっていた。昭彦のいた大学は男子学生が圧倒的に多いので、混成合唱団ではどこも学外から女性を募集していた。コール・アカデミーでも学内の女性は数えるほどで、女子大や音楽関係の大学から来ている女性が大半であった。土曜会の方も、男性は同じ大学の出身者が多く、女性は外部の人が多かった。女性は比較的長く在籍するのに対して、男性の方は二十代の後半から急速に人が減っていた。何組かのカップルができて、そういう人たちは結婚後も会を続けるケースが多かった。その日、昭彦が練習会場に近づくと、フォーレ作曲の「ラシーヌ賛歌」が聞こえてきた。昭彦の好きな曲だった。「ラシーヌ賛歌」はフランスの劇作家ラシーヌの宗教的な賛歌を歌詞としているのでこの名前がついていた。フォーレが二十歳の時、音楽学校の卒業作品として作曲したもので、まだ完成度が高い作品とは言えないのだが、その後の作品にはない初々しさと大胆さがあった。教会の入り口にきて、合唱がはっきり聞こえると翠が来ていることがわかった。味わいの深いオルガンの伴奏が聞こえてきたからだった。翠の入団は三カ月ほど前で、コール・アカデミー時代からの団員でソプラノで歌っている片桐裕子の紹介だった。翠と裕子は郊外にある音楽大学の友人で、翠がピアノ科、裕子が声楽科だった。その大学では、声楽や弦楽器を学ぶ者は、伴奏をしてくれる人を自分で見つけるシステムになっていて、翠は裕子に頼まれて伴奏を引き受け、学内試験や演奏会で伴奏したということだった。翠がはじめてこの合唱団にきて伴奏したとき、指揮者の浜口はため息をついて絶賛した。昭彦も歌っていて翠の音楽性の高さに強くひかれた。「伴奏に教えられる」という言葉を実感したのはこれが初めてだった。翠は出身の大学で講師をしているということだった。「じゃあ、もう一度最初からいきます」浜口が翠にむかって頷くと、翠は静かにほほ笑んだ。白い額にうっすらと汗がにじんでいた。すぐに、ゆったりとした優しいオルガンの前奏が、さあ、歌いなさい、おごそかに、さあ歌いなさい、と昭彦に語りかけてきた。テノールの声が前奏をなぞるように「Verbe gal au Tr s Haut・・・(いと高きところの御言葉・・・)」と歌い始めるとアルトとソプラノの何人かが昭彦の方に顔を向けた。裕子はすました顔で歌っていた。少し声が大きすぎるのかなと思って、昭彦は、ベースの声がはいってくるフレーズになってから頭の響きだけを使う唱法にきりかえて声をひそめた。それにしても、なんという透明な美しさを持った曲であろうか。転調が人の心にもたらす様々な色合いを変化をフォーレは良く知っているにちがいなかった。高く響いていた裕子の声が急に聞こえなくなったので、驚いてソプラノの方を見ると、裕子が目頭を抑えていた。フォーレの曲は、歌っているうちに感動のあまり声がでなくなってしまうことが、昭彦にもあった。あの気の強い裕子が涙を流すのか、そう思うと、昭彦はおかしくなった。裕子は目頭をおさえる時も、かっこをつけていた。まわりの人がいつも自分を見ていることを意識している態度だった。三回通して歌ってから録音をとり、次の曲に移った。今度は日本の作曲家の「旅」という組曲だった。最初の曲は「いけ、旅に、今こそ・・・」で始まる軽快な曲だった。部屋の隅に置かれたピアノのところに行って、翠が前奏を弾くと、解放されたような明るい声がどのパートからもいっせいに聞こえてきた。練習が終るといつものように近くの飲み屋で食事をかねたご苦労さん会が開かれた。一つのコーナーを占領し、堀炬燵のようになっている席に分散して座るのだが、アカデミー時代からの団員はこう言った席では同じ学年だった者がかたまることが多かった。さきに席をとっていた裕子が体をずらして空間をつくり「花岡君、こっち、こっち」と声をかけてきた。コールアカデミーで同じ学年だった者たちは、卒業してからも、女性が男性を君づけで呼ぶ習慣が抜けなかった。裕子のとなりには翠が座っていた。酒が入ると、まわりが急にさわがしくなってきた。隣のグループから甲高い女性の声が聞こえてきた。「ねえ、早川君結婚するんだって」「えっ本当」「相手はだれ」「だれだと思う、みんなの知ってる人よ」「ええっ、だれなの」「それが、織絵なのよ」どよめきがおこった。早川は昭彦の一年後輩で特に女性に人気のあった男だった。昭彦の向いに座った石川が珍しく無口だった。「どうしたの、石川君。元気ないじゃないの」裕子が、とがめるように言った。「会社のほうで、しぼられてるのか」昭彦はビールを石川のコップにつぎながら言った。石川はコップにちょっと口をつけ、一呼吸おいてからつぶやくように言った。「俺、会社やめようと思ってな」「何で?」「俺はどうも労務管理はむかん」石川は、目の前にある焼き魚の身を箸で乱暴にむしりとった。「やっぱり組合対策やるのか」「おれなんか、まだぺーぺーだからたいしたことやるわけじゃないんだけどね。会社の息がかかった組合を育てるために、随分金つかってるよ。それから、会社にとって都合の悪い人たちの動向をつかむためにスパイのような役割の人を育てたりしてるしね」「そうだよなあ、すごいことするよな、会社は」石川の隣に座っていた矢沢が話に割りこんできた。矢沢は、船を中心に重機械を造る会社に就職した男だった。「うちは自衛隊との取引が多いから、左翼の連中の動向には敏感だね。やっぱりスパイのような組織があるんだ。最初はおれもあきれてな、でもだんだん慣れて来たよ、このごろ。石川は真面目すぎるんだよ、そんなに深刻に考えることないって。仕事、仕事、仕事だと割り切るんだよ」矢沢が酒で赤くなった手を石川の肩においた。「やめるって、それでどうなさるの」翠がひどく心配そうに聞いた。「まだ決めてないんだ。この前、ゼミの先生のところに行ったら、先生はえらく反対したな。俺がやめること。あんたの会社にこれから入る後輩にわるい影響があるって。それから日本の大企業はどこだってそれぐらいのことやってるって言ってたな」「弁護士って手はないのかしら、あなた在学中に受けたじゃないの、司法試験」裕子が慰めるように言った。石川は法学部の出身だった。コール・アカデミーの団員の中にも司法試験をめざす者が何人かいた。在学中に合格する者もいたが、石川は合格しなかったので、あきらめて電力会社に就職したのだった。ぱんぱんと手を打ち鳴らす音がした。部屋の真ん中に立ち上がったマネージャーの岸本が、そろそろ、やろうか、とみんなに声をかけた。いつも食事の後に愛唱歌を数曲歌ってから解散になるのだった。なじみの店なので、ほかの客も迷惑がらずに聞いてくれて、客の中からリクエストがでたり、昔やっていたといって一緒に歌う人がいたりした。岸本は、胸のポケットから小さな音叉を取り出すと、それを軽く頭にぶつけてから、丸い柄を耳に入れた。岸本がそれぞれのパートの音を順番にハミングして、それからおおげさな身振りで手をふりあげた。ロシア民謡の重厚なハーモニーが部屋全体にひろがった。岸本はうれしそうだった。岸本は指揮がやりたくてたまらない男だったが、同じ学年に指揮者として優れた嵯峨根という男がいたので、岸本の出番はなかった。土曜会にきてからも、やはり正式の舞台では、岸本の指揮者としての出番はなかったが、浜口が遅れて来たりすると、その間、岸本は積極的に指揮をかってでたりした。そんな時、女性たちからは、「花岡さん振ってよ」という声もあがったが、昭彦はあんなにやりたがっている岸本をはねのけて自分が指揮する気にはなれなかった。昭彦は大学の四年のときアカデミーの団内指揮者をやったことがあり、土曜会でも浜口から「花岡君やってくれ」といわれていたが、毎回の練習に参加できる自信がなかったので、断り続けていた。渋谷でみんなと別れると山の手線の内回りに乗るのは昭彦と翠だけになった。二人だけになると、昭彦は何かおちつかなかった。昭彦を見つめる翠の目が光を増したように思われた。昭彦は恥ずかしくて、なかなか翠の顔をまともに見ることができなかったが、いったん目をあわせると、昭彦は、翠の顔からなかなか目を離すことができなかった。翠は裕子とちがって化粧もほとんどせず、服装も地味だった。みんなの中でなるべく目立たないようにしているようだった。しかし、こうしてまともに顔をあわせると、翠は裕子の品よくまとまった日本的な顔と全くちがうダイナミックな美しさをもっていることに昭彦は気がついた。昭彦は背が高いほうだったが、翠はハイヒールをはくと、昭彦の額まで背丈があった。目が大きく、笑うときれいに揃った大きな歯がよく見え、頬骨の下にかすかに線がはいった。横から見ると、鼻と、唇とあごの先が一直線になっていて、少し日本人ばなれのした顔のバランスをもっていた。顔の色が浅黒いので、その分歯の白さが際立っていた。「花岡さん、『ラシーヌ賛歌』すきなんですか」電車が動き始めた瞬間、翠は肩までとどくカールした髪を指先に巻き付けながら聞いてきた。「ええ、なにかひたむきなものが伝わってくるから」「不思議ですね、私なんか歌詞もよくわからないし、宗教的な感動もわからないけど、あの歌が自分の深いところから、何かをゆり動かすようで」「本当に不思議ですね。歌ってると心が洗われるような気持になるから」「よく歌ってらしたわ、今日も。花岡さん」翠が自分の声を聞いてくれていたことが、昭彦はうれしかった。「ここの合唱団は、フランス語がずいぶんお上手ね」「ああ、さっきの石川君が教えてくれるんです」「フランスにいたことがあるの、あの方」「いや、行ったことはないんだろうけど、小学校から、フランス人の経営する私立学校に行ってたそうだから」石川は大学受験も外国語はフランス語で受けたほどだった。合唱にフランス語の歌詞がでてくると、ちょっと恥ずかしそうな顔をして、流暢なフランス語をみんなに披露した。「随分純粋な考え方をするのね、あの方」「彼、信者なんだ、カトリックの」「ああ、それで」翠は納得したようだった。「でも、会社やめて大丈夫かしら」「そうだね。ずいぶん思い切ったことするね」「大変でしょうにね、これから」「まあ、そうだろうね」昭彦は、なぜ翠が石川が会社をやめることにこだわるののかを不思議に思いながらあいまいな返事をした。電車がM駅に近づいてスピードをおとした。昭彦はもっと翠と話していたかった。「家まで送りましょうか」昭彦が言うと、翠はえっと小さく叫んで目を大きく見開いた。「ええ、ありがとう。でも駅のすぐそばですし、道も明るいから」そう断りながらも、翠は昭彦がM駅で一緒に降りるのを拒まなかった。昭彦は翠が自分に好意を持っているのではないかと感じた。M駅に着くと、翠はこちらよと言って、駅前の大通りの方に歩きだした。大通りが高速道路の下をくぐると、道の両側の店の規模が急に小さくなった。二人が大通りから斜めに別れる細い裏通りに入った時、ライトを光らせて前からきた自転車が急ブレーキをかけてとまった。「翠じゃないか」痩せた初老の男が、大きな声をあげた。「あ、おとうさん」翠は驚いて声をあげた。翠は慌てた様子で、合唱団の友達だと言って昭彦を紹介した。翠の父は昭彦をじっと見ていたが、「とにかく、家にあがんなさい」と言って、自転車を曳いて歩き始めた。「心配して迎えにきたのよ。ちょっと遅くなるとこうなの」翠は昭彦の耳元でささやいた。翠の家は、飾り気のないコンクリート造りの二階建ての家で、わずかな前庭を残して敷地いっぱいに建てられていた。中崎と角張った字でしっかりとかかれた表札が昭彦の心を圧迫した。玄関で、翠に似た、顔色のわるい女性が翠の母だと言って昭彦に挨拶してすぐにひっこんだ。玄関の右手の部屋は板張りの大広間で、応接室をかねたピアノの練習場になっていた。部屋の隅には、真黒い木でできた等身大の東南アジアの彫像が飾られていた。人間のようでもあり、鳥のようでもある奇妙な像だったが、髪の毛の一本一本まで見分けられるほどに精巧な造りであった。壁には青紫にぎらぎらと輝く蝶の羽根をあしらった大きな絵がかけてあった。すぐに翠の父がカーデガンに手を通しながらあらわれた。昭彦が立って挨拶すると、もう一度食い入るように昭彦を見つめ、座るようにすすめた。「小さなところなんですがね。輸入の装飾品をあつかってるんです」そう言って、翠の父は手にもった名刺を机の上に置いた。名刺には中崎商会社長 中崎高吉 と書かれていた。昭彦は名刺を持って来なかったので、その事を詫び、D通信社の研究所で計算機の磁気テープを研究していると自分を紹介した。「ああ、そう」高吉は軽くそう言って、ちょっと考え込んだ。頬のおちこんだ精悍な顔ににあわぬ温和な目がやさしく光った。高吉の額は狭く、カールした灰色の髪が頭の後ろにむかって流れていた。「昔、飛行機のエンジンを作っていた工場の跡に建っているのではないかね、その研究所は」「ええ、よくご存じですね。そのころの建物が今も一部に残っています。研究所に来られたことがあるんですか」「いや、行ったことはない。戦争中に知りあいが亡くなったんだ、そこで。勤労奉仕に行っていたんだがね」昭彦は、軍需工場だった時期につくられた地下道が今でも残っていることや、不発弾が発見されて研究所が休みになったことを話した。不発弾の話は昭彦が直接体験したことではなく、麻生から聞いた話だった。高吉は遠くを見つめるような目つきになって、家が空襲で焼けてしまって、家族がばらばらになり、千葉の親戚の家から出征したことや、横須賀の海兵団での出来事などを、ときどき鬢に手をやって後ろになでつけながら話した。翠が紅茶とメロンをお盆にのせて運んできたのをきっかけに、話題が昭彦の仕事のことに移っていった。高吉は昭彦の研究に興味をもったらしく、熱心に質問してきた。昭彦はふと、高吉が昔エンジニアだったのではないか、と思った。小一時間くらいで昭彦は翠の家を辞した。駅の方に歩いていると、後から翠が追いかけてきた。「どうしの」「今日はありがとうございました、本当に」翠は息をきらしていた。「父が、あんなにうれしそうな調子で話すのは珍しいんです。私もうれしかった」「そうか、なんだか僕のほうは緊張して疲れちゃったな」翠の声ははずんでいた。「ねえ、今度、上野に絵を見にいきませんか?印象派の展覧会やってるんですけど」「ああ、いこうか」「じゃあ、楽しみにしてます」翠は、さよならと言って駆け出して行った。昭彦は翠の意外な積極性に驚きながらも、翠と二人きりで会える喜びに胸が躍った。四 家に帰ると、母の時子はダイニングルームでビールを飲みながら医学雑誌を読んでいた。「あ、あきちゃん、お帰り。あんた食事は」時子は雑誌から目を上げて聞いた。「ああ、すんだ」「じゃあ、一杯飲む?」「ああ、少しもらおうか」そう言って昭彦は椅子に座り、コップにビールをうけた。一口飲んだが、苦く感じて、それ以上飲めなかった。夕食の時少し飲んだせいだろうと思った。「周二は」「あの子はおデートよ、おデート。今日は。めかしこんで出て行ったわ」そう言って時子は再び雑誌を読み始めた。「今日は、僕もおデートだったんだ」「あっそう」時子はそっけなく言った。わざと無関心を装っているようだった。「デートってほどじゃないんだ。合唱団の人を家まで送っていたんだよ」「それで、家によったのかい」「そんなつもりはなかったんだけど、道の途中で親父さんにあったんだ。それで上がって行けって」「どんな人なの、その人」「合唱団に最近きた人。ピアノを弾くんだ」「どんなおうちだった」「普通の家」「ご家族は」「両親だけ。親父さんは輸入会社の社長さん。お母さんは主婦。奇麗でおとなしそうな人だったな」時子の眉間に皺がよった。「あんたのお父さんも、奇麗でおとなしい奥さんがよかったのよねえ」時子はそういって寂しくわらった。父と母は結婚する前は国立病院の同僚だった。昭彦が小学生の二年の時に、父には好きな女性ができて、二人は離婚した。急に名前が花岡になって、昭彦は学校で友人に説明するのに困った。それから月に一度父から電話がかかってきて、弟と二人で父に会った。父は車に二人を乗せ、公園で乗り物に乗せてくれて、レストランに連れて行ってくれた。その女性の方に子どもができてから、だんだん父から呼び出しがかからなくなった。一番最近会ったのは、大学の入学式の時だから、もう七年も会ってなかった。「せっかくあんた帰って来たんだけど私もう寝るわよ、あしたも多分病院に呼び出されるから」そう言って、時子は立ち上がった。時子と入れかわりに祖母の峰が力のない歩き方で部屋にはいってきた。峰はもともと小柄だったが、最近背中がまるくなって、そのぶんよけいに体が小さくなっていた。「悪いお母さんだね、息子が久しぶりに帰って来たのに」そう言って、峰は茶碗にご飯を盛りはじめた。「ああ、僕はもういいんだよ。食べたから」「まあ、そう言わずに。おいしい漬物があるんだよ」峰は昭彦の言葉を無視して、昭彦の前にご飯と漬物の皿を並べた。峰にそう言われると、昭彦も食欲が出て来た。峰は、時子の母で、時子が離婚してからこの家に住むようになった。家庭を空けることの多い時子にかわって昭彦たちの世話をしてくれた人だった。「源造がのう、昭さんがこんか、昭さんこんか、とまっとるようじゃが。明日でも行ってやってくれんかの、届け物もあるから」「ああ、いいよ。僕も伯父さんに会いたいから」「ありがとうよ。あれも、寂しいんだろうな、淑子さんなくして」そう言って峰はため息をついた。源造には子どももなかったので、今は一人暮らしだった。ただ今、と声がして弟の周二が部屋に入って来た。随分酔っているようだった。「ああ、兄さん、帰ってたの」そう言って、周二は上着を脱ぎ、ネクタイをはずした。「おデートだったんだってな」「まあね」「この前家に連れて来た人か」「あれとは別れたよ。今度のはすごい美人。連れて歩くと人が振り返るんだ」「しゅうさんは、しょっちゅう女の人をとっかえて。今にとんでもないことにならなきゃいいけどね」峰は周二の食事の用意をしながら言った。「あのな、医大生はもてるのかもしれないけど、結婚する気がないのなら、深入りするなよ。この前みたいなことになると気の毒だぞ。女の人が」「あれは、はずみだよ。はずみ」周二は付き合っていた女性と一時同棲していた。不動産屋の娘で、父親は二人が結婚するものと期待して、アパートを提供した。やがて周二は、その女性に飽きて別れると言い出した。パンチパーマの赤銅色の腕をもった大男がこの家を訪ねてきて、周二に会わせろと大声をだした。時子が平謝りにあやまり、病院に出入りしている弁護士に中に入ってもらってなんとか決着がついた。「本当に兄弟でも随分性格が違うもんだね。両方つきまぜたたらちょうどいいくらいになるのかもなあ」峰は、冷蔵庫から取って来た氷を周二のグラスに入れながら言った。周二は、煙草を指にはさみ、残った指でグラスを持ち上げて口に運んだ。そのしぐさが、いかにも物なれていた。学生の身分でバーのようなところによく出入りしているようだった。昭彦は周二を見ていると、兄弟というものは、相手とことさらに違うものを目指して自分を形成していくものだと思えてならなかった。それほどに性格が対照的だった。周二は小さいころから、要領がよく、利にさとかった。そして自分がどうすれば人に気に入られるかを知っていた。いろんな手を使って母から金を引き出すのがうまかった。時子は普段めんどうをみてやれない負い目があって、子どもには甘かった。特に周二には甘かった。昭彦はもともと物を欲しがらない子どもだった。何かがうらやましいという気持をもったことがなかった。学校の先生からは「もっと欲を持て」としばしば言われた。学生時代に周二とのバランスを考えて、時子が金を渡そうとしても、昭彦は決まった小遣い以外は受け取らなかった。金のかかる友達づきあいが昭彦にはなかったのだ。「ねえ、兄さん。馬やったことある」峰がつまみをつくりに台所に入った時、周二がそっと聞いてきた。「馬ってなんだ」「競馬だよ」周二は騎手が手綱を引き締める格好をした。「ないよ、そんなもの」昭彦はそっけなく答えた。「馬はおもしろいぜ、一度やってみなよ」昭彦は舌打ちして立ち上がった。もともと共通の話題の少ない兄弟だったが、最近ますます話があわなくなってきていた。「僕はもう寝るからな」昭彦はそう言い残して部屋を出た。五 翌朝、案の定、時子は病院から呼び出しをうけた。担当している患者が危篤になったのだった。「夕方には帰れると思うわ。そうしたら一緒に食事にいこう」枕元で、時子のそう言う声がきこえて、すぐに車が出て行く音がした。それからうつらうつらして、目がさめると九時だった。食堂に降りて行くとテーブルの上に食事の用意ができていた。テーブルのわきで、峰が昭彦に持たせる源造の浴衣を縫っていた。「母さんは出かけちまったよ」峰は気の毒そうな顔をした。「いいんだよ、いつもこうだったじゃないか」「ああ、そうだね」峰は立ち上がって、ティーカップにお茶を注ぎはじめた。時子は家庭の団欒を中断して病院に出かける時、戸惑ったような怒ったような顔付きになり、「私がここにいてあんたたちにしてあげられることは、せいぜいご飯をつくって、お話をきいてあげたりすること。でも今、私が病院に行かなければ、患者は確実に死ぬの」と言った。時子は透析の治療をおこなう腎臓専門の病院につとめていた。腎不全で生死の境をさまよう患者がよその病院からつぎつぎと時子のところに送り込まれてくるのだった。食事が終わるころ、峰は風呂敷包み一杯の届け物を用意していた。衣類が主だったが、薬の袋が入っているのが気になった。峰はその袋から三種類の薬を取り出し、名前を一つ一つ口にして服用の注意を昭彦に告げた。峰は八十を大きく越えていたが、記憶力が衰えていなかった。「伯父さん、まだ悪いの」「まあ、特別悪いことはないが、よくもならん」峰は悲しそうな顔をした。源造は心臓がよくなかったのだ。昭彦は食事をすませると、自分の部屋にもどってレコードを聞いた。寮にはステレオを持ち込んでいなかったので、久しぶりに聞くプーランクの合唱曲が心にしみた。横浜駅で乗り換え、四っつ目の小さな駅で降りると、駅の左手を急な細い坂が続いていた。いつもはこの急な坂を中学生や高校生がわいわいと騒ぎながら降りてくるのだが、今日は日曜なので、生徒の姿はなかった。曲がりくねった細い坂道は、途中で一度ゆるやかになり、二つに別れていた。そのあたりに雑貨屋とクリーニング屋と酒屋があった。昭彦は左側の道を歩きはじめた。道はまた急な坂になり、それを一気に上ると高台のようなところに出た。道の両側には古い屋敷が続いていた。屋敷がつきると、比較的新しい家が並んでいた。源造の家は、こぢんまりしていたが、珍しい赤紫色の屋根瓦が目立つ洋風の建物だった。家の前庭に植えられたたくさんのバラの根本には水がたっぷりとかけられ、門扉が開け放たれていた。源造は、糊のきいた紺の浴衣に絞りの帯を巻き付け、正座をして手紙を書いていた。昭彦が部屋に入ると、源造は嬉しそうな顔で迎えた。昭彦は届け物の包みを開き、薬の伝言をつたえた。源造は手を止めうなずきながらきいていたが、昭彦が話し終わると丁寧に礼を言った。「食事まだだろう、ちょっと待てよ。今、手紙書いちまうからな」源造はそう言って、再びペンをさらさらと走らせた。源造は、机の上の紙片をかさね、その上に文鎮を置くと、台所に行ってごとごとと音をさせた。源造は、淑子が生きている時にも、結構まめに家の仕事するほうだった。「二階の方が見晴らしがいいから上がってろ」そう言われて、昭彦はギシギシときしむ階段をあがった。二階の客間は、窓が開け放されていて、風がはいってきた。畳のうえに竹であんだ敷物がしかれ、そのまん中に大きな黒塗の机があった。その机の前にすわると、毎週のようにここに来て、勉強を教えてもらった日々が思い出された。本命の県立高校の入試の前に、ひやかし半分でうけた実力不相応な私立高校に偶然合格したので、入学当初、昭彦の成績は最低だった。時子は心配して源造に昭彦の勉強を見るように頼んだ。源造に勉強をみてもらうようになってから、昭彦の成績は徐々によくなっていった。その学校には、高校生を対象にした、国際的な数学競技に出場するような生徒もいたが、そういう人ともだんだん対等に話せるようになったし。二年から始まった物理では先生から「わからないところは花岡に聞け」と言われるようになった。昭彦は源造の家に来るのが楽しみであった。家の中は壁という壁に本がぎっしりと並んでいて、思う存分読書ができたからだった。源造は、サラダと、カレーを運び終わると、グラスを昭彦に渡し、ビールを勢いよくついだ。「ビールのうまい季節になったな」そう言って、源造は浴衣の袖を肩までたくしあげて、毛むくじゃらの太い腕で自分のコップにビールを注いだ。源造は根っからのビール好きで、ほかのアルコールは口にしなかった。美しい黄色い液体が、芳ばしい香りを口中に発散しながら一気に昭彦の喉を通り抜けた。源造は、一本のビールを飲み終わると、カレーを食べはじめた。食欲はあるようだった。早く食べ終わった昭彦は源造が食べる様子を見つめた。汗が額からしたたりおちて目にはいるのか、源造は時々首に巻いた手ぬぐいで目のあたりをぬぐった。源造はありふれていない立派な風貌をしていた。切れながの涼しげな目が一番の特徴で、鼻は高くて大きかった。その下の唇は薄く形が良かった。頭はすっかり禿げていて顔の輪郭が見事な楕円形だった。人の良さと知性がそのまま形になったようないい顔つきだと昭彦は思った。ラグビーをやっていたので以前は筋骨逞しい体つきだったが、最近はさすがに筋肉が落ち、かわりに脂肪がついて体全体がまるっこくなっていた。時子は、「おまえは、兄さんの若いころにそっくりだ」と言ったが、今の源造と自分が似ているとは思えなかった。年をとると、だんだん伯父さんのようになるのだろうかと昭彦は思った。「どうだ、寮の生活は」食事が終わると源造はナプキンで口を拭きながら昭彦にたずねた。「そうですねえ、まだ一週間ですからよくわかりませんが、自分でなんでもやるのはいい気持ちですね」そうだなと源造はうなづいた。昭彦は源造にバナールの本のことを聞いておきたいと思った。「ねえ、伯父さんからもらったあのバナールの本、あれ何か特別な本ですか」「特別な本ってこたあないけど」源造は、昭彦の皿に手をのばしながら言った。「そうだな、少しユニークだな。まあ、それがバナールのいいところだけど、あの第四巻では社会科学のことをあつかっているんだ。バナールはもともと結晶を研究していた純粋の自然科学者だけど、視野が広くてね。社会科学に関する見識もなかなかのもんだ」そう言って、源造はウーとうなりながら目を閉じた。何かを思い出そうとしている時の源造の癖だった。「そうそう、こんな文章があったな。・・・社会についてのいろいろな科学は、一括していうなら、諸科学のうちで最も新しく最も不完全な科学である・・・だっあかな。それから、こんなのもあったな、・・・社会の諸科学の後進性は、・・・むしろ社会というものの土台についてのまともな議論を、妨げることはできないまでも、歪曲しようとする既成の支配者団の強い社会的圧力によるものである・・・それで、バナールの本がどうしたんだ」「あの第二巻を寮の棚に置いといたら寮の人が興味を示したんです」「ほう、この本に興味を示すとは筋がいいな」「ええと、そういうんじゃないのかも知れない」「どういうんだ」そうね、と昭彦は言いよどんだ。「へんな本持ってるやつだってチェックしたのかもしれないんです」「ほう、この民主主義の世の中に、れっきとした大人の、しかも研究者の読んでる本をチェックするなんてことがあるのか」「いや、そう決まったわけじゃなくて、そうかもしれないし、そうでないかもしれない」 源造は思慮深い顔付きになった。「まあ、いずれにしても本ぐらい自由によめなきゃしょうがないと思うけどな」「まあ、そうですね」風が吹いて来て、軒先に吊るしてある鉄の風鈴が澄んだ音を響かせた。「おい、アキさん。散歩に行こう。待っててくれ、今着替えるからな」源造はそう言って、どかどかと大きな音をたてて階段を降りていった。昭彦は立ち上がって窓のところに行った。小さな裏庭の向こうは崖になっていて、木立のむこうに工場地帯が見渡せた。大きなガスタンクや、化学工場の複雑なパイプの群れや、赤と白に塗り分けた煙突が見えた。電車は見えないが、崖下を通る電車の音が、ゴトン、ゴトンと聞こえてきた。階段の下で昭彦を呼ぶ声がした。戸締まりをして下に降りて行くと、源造が涼しそうな白いシャツと白いズボンに着替えて待っていた。源造は案外おしゃれだった。平坦だった道がゆるやかにくだりはじめると、右手に高校が見えて来た。昭彦の通った都心の高校にくらべるとゆったりとした造りだった。グランドでは、ラグビーの試合がおこなわれていた。「それで、研究の方はどんなことやってるんだ」源造は、金網の前に立ち止まって、試合に目を向けながら言った。昭彦は装置の大まかな設計をやって三つのメーカーに試作させていることを話した。「そういうことが好きか」「どうでしょう、毎日が忙しくて、好きか嫌いかなんて考えたことありませんが」「二十代の後半は、研究者にとって一番大事な時だぞ。そんな大事な時に、そういう手配師のようなことで時間をとられてしまうのはちょっと心配だな」高々と蹴りあげられたボールをめがけて、赤いジャージーの大男たちが突進して行った。ボールを取ろうとしてジャンプした白黒の縞のジャージーの男に、赤いジャージーが組みついた。アーリータックルだ、と源造がつぶやいた。鋭く笛がふかれた。反則らしかった。「もし、何をやってもいいと言われたらアキさんはどんなことがやってみたいのだ」 源造は金網に手をかけ、昭彦の方に顔をむけた。「やっぱり、物性関係かな。自然の現象そのものの解明に興味があります」源造は頷いた。「アキさんは、理論的な解明や洞察力のようなものがすぐれている。こういっちゃ何だが、物を作るのはあんまりうまくない。トレーニングでうまくなるのかもしれないけど、それで一級の仕事ができるかどうかな。自分がやりたいこと、得意なことというのは大切にしなきゃいけないんだろうなあ」源造はそう言って、再びグランドに目を向けた。密集した人の間からコロコロと楕円球が転がりでて、それをつかんだ小柄な赤ジャージーの選手が素早くパスをすると、横一線になって走っていた選手の間にボールがつぎつぎと渡っていった。「揚振寧のことは前に話したかな」「ええ、ノーベル賞の系譜についての話のところで」昭彦がまだ大学院の学生だったころ、源造は、ノーベル賞を受賞した人たちの系譜について話してくれたことがあった。ノーベル賞を受けた人の下で研究を進めた人がまたノーベル賞をもらうケースが圧倒的に多いが、不思議なことに、師がノーベル賞をもらう前にすでに師のところにやってきて師弟関係をむすぶ場合が多い。後にノーベル賞を受けることになる若い学者はその分野で誰が一番重要な仕事をしつつあるかを見抜く力をそなえており、その人と一緒に仕事をするために積極的に働きかけをするのだ、とその時、源造は話した。 その一例として、中国に地方大学にいた揚が、フェルミやウィグナーと一緒に仕事がしたくてアメリカに渡ったことを挙げたのだった。「その時話したかもしれないけどな、揚は、最初実験物理をやってたんだ。だけどなかなか目が出なくてね。しかし、先輩のアドバイスで理論物理に転向したんだ。それからだ、それから揚は、この分野で、誰にも負けぬ力を発揮しはじめたんだ。まあ、彼に理論物理への目をひらかせたのが水爆の父と言われるエドワード・テラーだったことはちょっと皮肉だけどな」「そういう話は初めてです」「どの分野にいても一級の仕事をする人もいるけど、多くの人はそうはいかないからな」「どうなんだ、自分の希望する分野で仕事をするとか、この人と一緒に仕事がしたい、といったことが通るのか、アキさんの研究所では」「たぶん、そういうことは難しいと思います、今は。研究所の考え方として、大学でやってきたことや、本人の希望は二の次です。与えられた部署で全力をつくすようにと言われていますが」「困ったもんだな、そりゃ」試合が中休みになったので、源造は金網からはなれて、ゆっくりと歩きはじめた。一緒に並んで歩くとどうしても源造を急がせることになるので、昭彦は源造の少し後から歩くようにしていた。住宅が途切れて、下がちょっとした崖のようになった見晴のよいところにくると源造は立ち止まり、少し丸くなった肩で大きな息をついていた。「伯父さん、大丈夫? 少し休もうか」「ああ、ちょっと待ってくれよ」そう言って、源造はポケットから薬の袋を取り出した。源造は板状の包装から、パチパチと音をさせて錠剤をはずすと、それを口の中にほうり込んで、顎を上げて飲み下した。「ねえ、もう帰ろうよ、心配だから」「もうちょっとだ、アキさんに見せたいものがあるんだ」源造は、足を早めた。バスの通る大きな道を横切ると、深い緑の中に平屋が点々と見えた。アメリカの海軍の将校の官舎だった。ゆるやかに曲がる歩道にそって、数字の書かれた札が次々とあらわれた。一つの家の敷地は二百坪をくだらないと思われる贅沢なつくりだった。官舎がなくなると、森の中にブルドーザーが見えた。「ここだ、ここが米軍から返還されることになったんだ」源造はちょっと自慢気に言った。源造は基地返還運動にかかわっていたのだ。源造は、戦前は大学で研究一筋に打ちこんできたが、原爆の投下に衝撃をうけた。学問が人類を大量に虐殺するのに使われたことがどうしても納得できなかった。その思いの強さが戦争が終ってから源造を平和運動に駆り立てた。「ここは、市民の公園になるんだよ。いまそれで造成中だ。もっとも、海軍に接収された土地のうち、まだ半分しか返ってこない。向こうの山一つ全部基地だ」源造の指さす方を見ると、繁みの向こうに、古いコンクリート造りのがっしりした建物が見えた。建物の上には、星条旗と日の丸の旗がはためいていた。散歩を終えて、源造の家の近くまで来た時、源造が道端にしゃがみこんだ。「どうしたの、伯父さん。胸が苦しいの? 救急車よぼうか」昭彦は驚いて、源造に声をかけた。源造の顔は血の気がなく、額には脂汗がにじんでいた。「大丈夫だ、暫くこうしていれば直る」源造はそう言って、胸を押さえ、額に皺をよせて目をとじた。顔に少しずつ血の気がもどってきた。「さあ、もう歩ける」源造は立ち上がったが、よろけてすぐにまたしゃがみこんだ。「伯父さん、僕がおぶってやる」昭彦はそう言って、源造に背中を向けた。「アキさんにわしが背負えるかな」源造の声はかすれていた。「大丈夫だよ、ほんの少しの距離だから」咳払いが聞こえて、源造の分厚い手が昭彦の肩にかかってきた。ずっしりとした源造の体が昭彦の背中に感じられた。昭彦は、源造の全体重を背中に受けると、源造の足を脇に抱え込んでから、一気に足を延ばした。立つ瞬間によろめいたが、立ってしまえば源造の体に押し潰される心配はなかった。昭彦は一歩一歩踏みしめるように歩き始めた。源造の体温がじわりと昭彦の背中につたわってきた。源造の頭が昭彦の顔の近くにきて肉桂の香りがかすかにただよってきた。昭彦はふと、源造に背負われた時のことを思い出した。その時も、源造からかすかに肉桂の香りが発散していたのだ。それは小学校の三年生の夏休みのことだった。食中毒で峰と周二が入院して、昭彦は源造と淑子のところに預けられた。源造と淑子は大喜びで、毎日のように周二を海水浴や遊園地に連れて行った。帰りに疲れてしまって電車の中で寝込んだ昭彦を、源造はいつもおぶってくれたのだ。昭彦は源造をおぶったまま家の中に入り、居間にたどり着くと、片膝を畳について、源造をそっと背中から降ろした。源造は小さな声ですまないとくりかえした。布団を敷いて源造を寝かせてから昭彦は家に電話した。時子はもどっていた。「とにかく動かさないで、車ですぐ行くから」時子の口調はきつかった。六 その日の昼休みに、昭彦は室長補佐の守屋から電話をうけた。十分後に屋上で待っているから、来てほしいとのことだった。守屋の声の調子が固くて変だった。屋上に出ると、守屋は鉄の柵にもたれて煙草を吸っていた。昭彦に気がつくと、守屋は煙草を柵に擦り付けて消し、吸い殻を足元の溝に落とした。眉間に深い皺が刻まれていた。守屋は戦前の専門学校出身で、この研究所ではノンキャリア組であり、めんどうみがよかったが、うまく立ち回るところがあった。「あっちへ行こう」大極拳をやっている人達を気にしたのか、守屋は空調設備の小屋の方にむかった。鉄のブラインドで囲まれたなかでは巨大なファンの回る音がしていた。小屋の裏のほうに回りこむと守屋は足を止め、昭彦の方に向き直ると、ためらいながら、口を動かした。昭彦には聞き取れなかった。「えっ、何ですか」守屋の顔がこわばった。少しずり下がったメガネの上から昭彦の顔を見上げる守屋の目が険しくなった。「言っておきたいことがあるんだ」守屋はメガネを中指で押し上げながら今度ははっきりと言った。「君も知っている通り、会社はここ数年、この研究所の組合の体質改善にずいぶん力を入れて来た。その甲斐あって、ようやく末端の組合役員まで、いわゆる反主流派を駆逐することができた。だが、彼らの勢いもなかなか衰えない。今度の組合選挙でも彼らは相当な動きをすることが予想されるんだ」守屋は急にささやくような口調になった。「それでねえ、もし、君のところに誰かから反主流派、つまり麻生君たちだね、その人たちに投票してほしいって言ってきても、絶対に応じないでほしいんだ。できればそれを私の所に知らせてほしいんだがね、時間や場所なんかを。それから、もちろん彼らからなにか新聞のようなものを薦められても、購読したりしないようにね」昭彦は自分の顔がこわばっていくのがわかった。何かを言わなければならないと思ったが、言葉が出てこなかった。守屋は昭彦の表情を見てちょっと慌てたようだった。「私は何も強制してるわけじゃないよ、ただね、今、この研究所にはいろんな情報の網が張り巡らされているから、誰がだれに働きかけたかすぐ分かるようになってるんだ。その時、働きかけられた方から連絡がないと、ちょっと目立つんだよな。まあ、彼らの主張に同調していると見なされることもあるからね。もし、君がそういう風に連絡してくれれば、私も花岡君は絶対思想的に大丈夫ですって上に言えるからね。少し先だけど主任の昇格も責任が持てるし・・・」守屋は、いかにも相手を思いやっているといった表情をみせた。守屋の得意の表情だった。「誤解してもらっては困るよ、強制してるわけじゃないからね、これは」守屋はそう言って昭彦の肩に手を置いた。ふっと酒の匂いが昭彦の鼻を刺激した。「具体的には郷田君から指示があると思うけど」守屋はそう言うと、愛想よく笑って足早に階段の方に歩いて行った。随分露骨にやってくるものだな、と昭彦は思った。組合員の一人ひとりにこんなことをやるのだろうか。それとも、自分だけ特別に目をつけられてこんなことを言われるのだろうか。昭彦は腕を組み、守屋の話していったことを反芻しながら歩き始めた。その夜遅くなって独身寮に帰った昭彦は、食事と風呂をすませた後、隣の部屋の遊佐を訪ねた。遊佐は昭彦より一つ歳下だったが、大学を出てすぐに研究所に入ったので、先輩とも後輩ともつかぬ関係だった。隣の部屋なので何かと行き来はあるのだが、遊佐は最初昭彦が想像していたよりはずっと真面目な男だった。父親が中学の先生で、小さいころから「先生の子供だから」と窮屈な環境で育ったので、大人になってからわざと悪ぶったことがしたくなるのだと遊佐は言った。半月ばかりの付き合いだったが、研究のことも、生活のことも気軽に話せる仲になっていた。遊佐の部屋にも頻繁に出入りしたが、遊佐の部屋は昭彦の部屋と対称に作られていて、部屋全体が鏡に写っているようで、昭彦は落ち着かなかった。遊佐の机の回りには、壊れたテレビやテープレコーダーやアンプが積み上げられ、遊佐はそれを直すのを趣味のようにしていた。「遊佐は、組合選挙のことで、何か言われてるか、管理者から」昭彦は、部屋に入るなり、思いきってそう聞いてみた。「なんだ、いきなり」遊佐は半田鏝で電子回路の配線を続けながら言った。「いや、今日、屋上に呼び出されて、いろいろ言われたから。補佐から」「ああ、そうか。もちろん言われてるよ、俺も」「どんな風に」「主流派に投票しろって」「ほかには」「まあ、反主流派の人から働きかけがあったら知らせてくれというようなことかな」「それで、働きかけがあったら知らせるのか。遊佐は」「まさか、そんな密告のようなことできるわけないだろう」「そうだろうな。本気でやる人なんかいないよな。そんなこと」遊佐は、半田鏝をホールダーに置くと、素通しの眼鏡を外して顔を撫でた。眼鏡は半田が飛んで目に入るのを防ぐためのものだった。「でもな、おれの研究室には、そういう目に見えない陰湿な情報網が張り巡らされているみたいなんだ。俺のちかくに反主流派の人がいるけど、その人の行動の一つ一つがすぐに室長や補佐に伝わるシステムになっとるな」「しかし、露骨だな。管理者が組合員を呼び出してどっちに入れろって言うなんて」「あれ、花岡は初めてだっけ、組合の選挙は」「ああ、去年はこの時期、現場実習だったから、研究所にいなかったんだ」現場実習というのは、新入社員が現業部門に三カ月研修に行く訓練で、大学を出て研究所に入った者は必修、大学院を出た者の場合は選択になっていたが、昭彦は現場で働く人の仕事を見ておきたいと思って希望した。「毎年、こんな具合か」「ああ、まだ、いろいろあるぜ、実際の選挙までには」ノックの音がして菅が現れた。「なんや、なんや、深刻な顔して、二人とも」遊佐が、なんでもないよ、と言った。「選挙やろ、そうやろ。そろそろ管理者やインフォーマルが動き出すころやからな」図星をさされて、昭彦はどきりとした。「あっちこっちで、ひどいこと言われてるみたいやな、みんな。いっぺん管理者に言ってやれよ、あんた、それ不当労働行為やって」遊佐が苦笑した。「まあ、それは冗談、冗談。遊佐君、この前の英会話教室の教材や。それから来週は先生の都合で休みやからね」菅はそう言ってプリントを遊佐に渡して部屋を出て行った。「この寮の中で英会話やってるの」「ああ、近くにすんでいる外人に菅たちが交渉してきてもらってるんだ」「何でもやるんだね、彼は」「まあな」遊佐は低い声で言った。「随分いせいのいいこといってたけど、菅は管理者に言われないんだろうか、投票のことなんか」「さあ、どうなのかな」遊佐はそっけなく言って立ち上がり、電子回路のボードをアルミのシャーシーにはめ込むと、あちこちのスイッチをぱちぱちと入れた。急に低音の効いたジャズがスピーカーから流れ出した。「やっと、いい音になったよ」遊佐はそういって、机の上に散らばった赤や青のリード線のくずを片付けはじめた。七 土曜の午後が昭彦は好きだった。一人、また一人と人が職場を去っていく度に部屋が静かになっていった。月曜の打ち合せに用意する書類を机の上に重ね、その上に重しがわりに電卓をおいて、昭彦は伸びをした。ドアがあいて背の低い麻生がのっそりとはいってきた。麻生は部屋に人がいないのを見定めてから昭彦の机のところにやってきた。「一度ゆっくり話したかったんだ」はあ、と返事をしたが、昭彦は落ち着かなかった。剣道の練習に行っている郷田が帰ってくるのではないかと心配だった。去年の秋に部屋が別れてから、麻生はこのグループに顔を見せることが少なくなった。昼休みにやってきても、郷田がしつこく何の用事ですか、と聞くので、だんだん来にくくなったようだった。「選挙なんだ、花岡君よお」そう言って麻生は隣の机から椅子を引き抜いてすわった。わざと落ち着きを見せているようなゆっくりとした動作だった。麻生は手にした手作りのパンフレットを開きながら、今の組合執行部がどうやって成立したのかを訥々と説明しはじめた。一九六十年代の中頃から、会社は組合つぶしのプロをこの研究所に送り込み、酒やブルーフィルムでインフォーマル組織をひろげながら、組合のまじめな活動家には昇格差別、配転、仕事の取り上げなど物凄い攻撃が加えられた。そういった意味のことを、麻生は、やつら、きたねえんだ、という言葉を何度も発しながら、話した。昭彦は麻生の話を聞きながら落ち着かなかった。廊下を誰かが通る靴音がするたびにヒヤリとした。「これ、あげるから、よんどいて」一通りの話が終わると、麻生はパンフレットを昭彦の手に押し付けた。麻生は立ち上がりかけたが、ああ、そうだ、と言ってもう一度座り直した。「一カ月ほど前に、あなたの実家に行ったんだけど、留守だったなあ、お母さんがでてこられて。あの時、預けたもの、読んでくれたか」ええ、と昭彦は小さな声で答えた。預けものは、週に一回発行される「赤旗」新聞だった。麻生が訪ねて来た日、昭彦は本を買いに出かけていた。ちょうど時子がいたのだが、昭彦が家に帰ると、時子は、お前の研究所にも源造兄さんみたいな人がいるんだねえ、と言った。時子は麻生の置いていった封筒の中身を見たようだった。「あれ、今までに見たことあるか」「ええ、あります」麻生の目が一瞬光を増した。「ほう、前に読んでたのか、学生のころに」「ええ、まあ」昭彦は源造の家でそれを見たことがあったのだ。「大変ためになる新聞なんだがね」「僕、寮に入りましたから、購読はちょっと無理だと思いますが」昭彦は先回りして答えた。麻生は頷いた。「週に一回だから、俺が職場で届けてもいいんだが、購読となるとちょっと困るんですが。それに何だか漫画みたいなものが多くて、ちょっと抵抗があります」「じゃあ、毎日のやつもあるが」「寮では無理じゃないでしょうか」昭彦は麻生に申し訳ないと思いながらも、早く話をうちきりたいと思った。麻生は昭彦の打ち解けない様子に少し失望した表情を見せたが。「じゃあ、とにかく毎日のやつを見せような」と言って腰をあげた。麻生が部屋を出て行ってすぐ郷田が壊れた竹刀を手にさげて部屋にもどってきた。郷田の顔は上気していた。よほど激しい練習をしてきたようだった。鼻の下から唇にかけて真っすぐに走る古い傷痕が、てらてらと赤みをましていた。郷田は、自分の机のまわりをうろうろしながら、ときどき鋭い視線を昭彦の机の上に投げかけた。麻生のくれたパンフレットをすぐにカバンにしまっておいてよかった、と昭彦は思った。郷田は麻生が来たのではないかと疑っているようだった。「麻生がきたのか、麻生が」郷田は凄みのある声できいた。十以上も年上の麻生を呼び捨てにしたところに郷田の憎しみが感じられた。「いえ、来てません」来たと言えばやっかいなことになりそうなので、昭彦はとっさに嘘をついた。「そうかなあ、麻生の話し声が聞こえたような気がしたんだがなあ」郷田は、自分の席につくともっていた竹刀で、ぴしり、ぴしりと自分の膝を打った。「まあ、いい。選挙だから、あいつくるかもしれんから、気をつけろ」郷田は八木がいなくなるといつも昭彦に対して横柄な態度をとった。「今日は、ひとつ麻生たちの本当の姿を、花岡に教えてやろう」郷田はそういって立ち上がり、腰に手を当てて、昭彦を見おろした。、「やつらの目的は党の勢力拡大だな。それだけなんだ。組合でもなんでも利用する。やつらがこの研究所の組合を牛耳ってたころは、ひどいもんだったぜ。自分たちだけで執行部を独占してな。無理勝手な要求ばかり並べるから取れるものもとれないし、本部とは対立するから研究所の要求がちっとも上にあがっていかないしな」もう何回も人に話したのだろうか、郷田の言葉はめりはりが聞いて迫力があった。郷田は話しているうちにだんだん自分の言葉に酔ってきたようだった。「やつらの目指すのは革命だ。組合員のことなんかどうでもいいんだ。会社がのめないような法外な要求をふっかけて、会社を悪者にして組合員の不満をあおる。みんなで決めたことを踏みにじって党の方針を優先させる。四・一七がいい例だ・・・・」 昔のことを持ち出されても、昭彦には判断のしようがなかった。しかしさっき麻生が説明してくれたパンフレットの中には過去の組合役員の一覧表がのっていて、その中にはあちこちの部の部長や室長の名前も載っていたので、すくなくとも共産党の人だけで役員を独占したということはなかったのだろうと昭彦は思った。郷田は何人かの党員の名前をあげて、奥さんを働かせて楽な生活をしているとか、仕事をさぼっているとか言って個人攻撃をはじめた。昭彦はせっかくの土曜の午後がこんなことについやされて不愉快だったが、郷田の気迫に押されて、席を立つことができなかった。翌日、昭彦は何かが床を滑って行く音で目覚めた。部屋の中はまだ薄暗かった。枕元の時計を見ると六時だった。昭彦はベッドから手を伸ばし、床に転がった茶色い封筒をひろいあげた。中には今日の日付の「赤旗」新聞が入っていた。だれが入れたんだろう。昭彦はきのうの麻生とのやりとりを思い起こした。麻生は、毎日のやつを見せようと言った。麻生がわざわざ新聞をこの部屋まで入れにきたのだろうか。それとも他の新聞のように地域の販売店の人が入れていったのだろうか。昭彦は立ち上がって窓のカーテンを少しあけ、その隙間から通りに通じる道を見つめた。だれも出て行く気配はなかった。麻生が来たとすれば、朝早くから入り口で目を光らせている寮官と一悶着ありそうな気がした。この寮は大学や大学院を出て三、四年めまでの若者だけが入っているところだ。麻生のような活動をしている人はいないはずだった。昭彦はもう一度ベッドにもぐりこんで布団を引き上げながら、新聞がこの部屋に届いた経路をあれこれと考えていた。いずれにしても何日も続けてこの新聞を入れてもらうのは危険なことだと思った。昨日の郷田の話は、ばかばかしいと思いながら聞いていたのだが、この研究所の中で共産党に近づくことの危険性だけは、昭彦の中に生々しく植え付けられていた。今日は翠と会う日だが、その帰りにでも麻生に連絡をとって入れるのをやめてもらおう、と昭彦は思った。美術展はひどく混んでいた。絵の前を並んで歩く昭彦と翠は前後から押されて自然に体がふれあった。「やっぱり、色がいいわね」橙色の屋根瓦の向こうに山の見える風景の絵を見ながら、翠は言った。「昭彦さんは、絵を描かないの」翠が花岡君でなく、初めて昭彦さんと呼んだことに、昭彦は、新鮮な親しみを感じた。「僕は見るのは好きだけど、どうもうまく描けない。中学校でも高校でも美術の先生から『花岡の絵は頭で描いた絵だ』といわれたんだ。翠さんはどうだったの」昭彦も翠さんと呼んでみた。「私もだめだったわ。でも、いつも先生がひいきしてくれたので、成績は悪くなかったけど」人の波に流されて出口まできたが、気に入った絵の前で立ち止まることもできず、昭彦には満たされない思いが残った。あとからあとから人の波は押し寄せて来た。翠はもう一度入り口にもどってコースを一巡したいと言ったので、昭彦もつきあうことにした。美術館を出たとき、昭彦はくたくただった。人込みの中は苦手だった。「今度は静かな美術鑑賞しないか。博物館で」「ええ、そうしましょう」昭彦は学生のころ何回か国立博物館に来たことがあったが、そこはいつも人影がまばらで落ち着くことができた。昭彦と翠が美術館を出て公園の中を歩きだした時、大粒の雨が空から降って来た。「あら、困ったわね」翠はそう言って、頭に手を当てた。「ちょっと待って」昭彦は、翠が頭にかぶるものがないかと思って肩掛けカバンのチャックを開いた。カバンの中には、二冊の文庫本と「赤旗」新聞が入っていた。昭彦は一瞬迷ったが新聞を取り出して翠に手渡した。「建物の中に入ろう」激しさを増した雨の中を、昭彦はカバンを頭にのせ、翠は新聞を頭にかざして博物館の建物に駆け込んだ。「これ、ありがとうございました。大切なものじゃなかったんですか」入り口のホールで翠はそう言って、濡れて半透明になった新聞を申し訳なさそうに昭彦にかえした。仏像や武具を中心にした一階の展示室を見て回る間、翠は黙っていた。顔色がよくなかった。大理石の回り階段で二階にあがって中世の仏教画の展示室に入った時、昭彦は気になって尋ねてみた。「気分が悪いの」「いいえ」と言って、翠は首を振った。壁いっぱいに広がった大きな曼荼羅を見ていた老夫婦が昭彦たちの方を振り返った。「赤旗」のことだろうか、翠は、昭彦が「赤旗」を持っていたことに驚いたのだろうか。昭彦はひとつひとつ点検するように翠の表情や言葉を思い浮かべた。漆の工芸品の展示室をすぎると、ひときわ天井の高いホールのような部屋があらわれた。壁面に大きな日本の近代絵画が並べられていた。昔、美術の教科書で見たことのあるような有名な絵が多かった。二人は引き寄せられるように菱田春草の「落ち葉」という題の大きな屏風のところに歩いて行った。秋の雑木林が緻密な日本画のタッチで描かれていてみごとだった。寮の近くの雑木林も、秋になるとこんな風情になるのだろうか、と昭彦は思った。ガラスケースに額をくっつけるようにして屏風を見つめる翠の横顔に少し血の気がもどっていた。「さっきの新聞のことだけど、あれちょっと普通の新聞とちがうんだ」昭彦は声をひそめて言った。「ええ、知ってます」「人からもらったんだけど、捨てようと思ってたところなんだ」翠は昭彦の方に顔をむけて、ああ、そうなんですか、と言った。昭彦の言葉に納得がいかない顔付きだった。その表情を見て、昭彦は自分の言葉が言い訳じみていたことに気がついた。いつか、八木から寮官が無断で部屋に入るという話をきいたことがあったので、この新聞は寮に置けないと思って処分するつもりでもってきたのだが、今の言葉は隠し事をしているようで、かえって翠に不信感を与えたのではないかという気がした。どういうふうに話せばいいのだろう、と昭彦は考え続けた。博物館を出てから、昭彦は翠を駅の反対側に誘った。すぐに道の両側に芸術を専門に教える大学の門があらわれた。「私、ここ、受けにきたのよ」翠はちょっと肩をすくめた。「私、あがちゃって。メロメロになったの」翠は遠くをみつめるような目つきをした。翠にとって決していい思い出ではないはずであった。ピアノを演奏する人間として、この大学の受験に失敗したということを明らかにすることも自分の評判を落とすことにつながりかねないので、普通は口にしないのではないだろうか。それを率直に話す翠の様子を見て、昭彦は自分も翠に対して誠実であらねばならないような気がした。「ねえ、さっきの新聞のことだけど」「ええ」「さっきも言ったけど、あれは確かにもらったものなんだ。寮に置けないから、捨てようと思ってカバンの中に入れてきたことも事実だ。でも、それは、僕があの新聞を嫌ってるということとはちがうんだ」「あれ、共産党の新聞でしょう」「そう」翠の顔に陰が走った。「僕は、共産党に対して、ある意味で親しみを持っているんだ。身近にそういう人がいるから」「その人からもらったの、あの新聞」「いいや、新聞をくれたのはだれだかよくわからない。今日はじめて寮の部屋に入ってきたんだ」翠はわからない、というように首を振った。昭彦自身、新聞がどうやって自分の部屋にとどいたかわからなかった。そのことを翠に話すより、自分の心情を話す方が大切であるような気がした。「身近な人っていうのは伯父さんなんだ」「党員なの」「多分ね。その伯父さんには、僕は小さい時からとても世話になった。多分伯母さんも党員だったと思うけど、とてもいい人だったよ。伯母さんの方はもう亡くなったけどね。その家にはよく行ったし、伯父さんには勉強もみてもらった。研究者として生きる上での励ましもうけた。その人にかかわる一つ一つのことが、僕の中では好ましい思い出となって残っている。僕には父がいなかったから、その分、伯父さんに甘える気持が強かったのかもしれないけど、とにかく僕にとってはとても大切な人なんだ。伯父の人柄は人柄、思想は思想だから、僕は必ずしも共産党に全面的に同調しているわけじゃないけど、やっぱりそういう人たちに親近感はあるんだ」翠は昭彦の言葉をききもらすまいと真剣な表情になった。「この前、矢沢さんたちが話してみえたけど、花岡さんの研究所でも、そういう人たちに対して弾圧みたいなもの、あるんですか」翠は心配そうに尋ねた。「ああ、ある。仕事をとりあげたり、昇格させなかったり、村八分にしたり」そうなんですか、と言って、翠は口を閉ざした。だらだらと下る坂の両側に煎餅や千代紙を売る古い店があらわれた。「ごめんなさい、突然のことで私少し驚いたものですから」坂を下り切った時、翠がぽつりと言った。食事をして、翠と別れてから、昭彦は駅の近くにある公衆電話のボックスに入った。手帳を見ながらゆっくりとダイヤルを回し、発信音を聞きながら受話器を握り直した。「麻生ですが」いつもより低くてかすれた声だった。「花岡ですが、あのう、例の新聞の件ですが、実は今日私の部屋にはいってまして」「はあ?」「『赤旗』が入ってましたが」「ああ、わかりました。父ですね」おとうさーん、でんわ、と叫ぶ声が小さく聞こえた。ああ、息子だったのか、と昭彦は自分の迂闊さに恥ずかしくなった。やっぱり緊張しているのだ、と思った。「ああ、麻生ですが」今度はほんものの麻生がでた。「花岡です。済みません、声がにていたので、息子さんとまちがえました」「いや、子どもが声変わりしてからよくまちがえられるんだ」「実は、今日、例の新聞が私の部屋に入っていまして、どうもありがとうございました」「ほう、はいったか」「たぶん、大変な苦労をしていただいて、私のところに入れていただいたんだと思いますが、やはりいろいろ心配ですので、今日の分一回かぎり、ということにしてもらいたいんですが」「わかった。じゃあ今日の分をみてよく考えといてくれよ」「あの、今日の分おいくらでしょうか」「いいんだよ、宣伝だから」硬貨のなくなったことをしらせる音が話声に重なった。「あっ時間です。公衆電話なのでこれで切ります。本当にすみません。じゃあまた」そう言って昭彦は受話器を置いた。汗が腋の下からも背中からも吹き出してシャツを濡らしていた。八 私鉄H駅から研究所への道は、電車が着くと道幅一杯に人があふれる。だれも口をきかずに、ただ黙々と道を急ぐ。同じような黒いカバンを手にさげ、背広にネクタイをしめた何十人もの人が連なって歩く。その光景が何となくいやで、昭彦は時々一人で脇道を通ることがあった。静かな住宅街を抜け、池のある大きな公園の側を通り、広い通りを横切って、今は水のない上水跡にそって歩くとやがて灰色のがっちりとしたコンクリートの建物が幾重にも重なって見えてくる。それが昭彦の通う研究所であった。毎週月曜日の朝は、門前で日本共産党の研究所支部が発行するタブロイド版の新聞が配られている。昭彦は、この研究所に入った時、室長からその新聞を受け取らないように言われ、その後も管理者からいく度も同じことを言われた。しかし、回り道をして来た時は、洪水のような人波が途絶えていることが多く、昭彦は辺りに知り合いがいないのを確かめて受け取るようにしていた。組合の新聞や研究所の発行する新聞にくらべて、その新聞は確かに面白かった。その日も、脇道から研究所の裏門にでると、ちょうど一団の人がばらばらになって建物の中に吸い込まれていくところだった。新聞を配っている三人の人は手持ち無沙汰で雑談をしていた。昭彦が門を通りかかると左端にいた一番若そうな人が「おはようございます」と声をかけ、にっこりとわらって新聞を差し出した。昭彦はちょっと頭をさげてそれを受け取り、小さく折って胸のポケットにいれた室長室に入ると、室長のとなりに机を並べている室長補佐の守屋が低い声で電話していた。「困っちゃうよなあ、あんなこと書かれたら。なんとかおさえる方法はないんですかねえ・・・」守屋は昭彦を意識して、後ろ向きになり、一層声を低めた。何だろう、と思いながら、昭彦は出勤簿の判を押して室長室を出た。部屋に入ると、もう八木が来ていた。いつもはもう少し遅いのだが、今日は九時からメーカーとの打ち合わせがあるので、早くきたようだった。郷田の席には蛍光灯がついていたが郷田は席をはずしていた。新入社員の千田は打ち合わせの記録をとるためテープレコーダーをチェックしていた。「花岡君、すまん、打ち合わせの人数が二人増えた。資料の青焼き二人分増やしてくれないか」八木は机の上で資料に数字を書き込みながら言った。「僕がやりましょうか」千田が立ち上がった。千田は学生時代にサッカーをやったということだったが、そのせいか先輩を立てるのが上手だった。「いや、いい。僕がやる」昭彦はそういって、鞄を机の脇に置き、自分の机の上の書類から半透明の原紙を選り分けた。実験室の隅にあるコピー機にスイッチをいれ、昭彦はランプが灯るのを待った。昭彦はポケットを探り、小さく折った新聞を取り出した。守屋の電話が何かこの新聞に関係しているのではないかと思ったからだった。「明かな会社の不法行為」というタイトルがすぐに昭彦の目に飛び込んできた。これだ、これだと思った。電子システム部の管理者が思想の転向を強要する現場が、実名入りでなまなましく報じられていた。「君は多分民青か党にはいっているのだと思うが、君は今27才なわけだ。ここで一度考えてみてはどうかね。民青は28才までときくが、本当かね」「そんなことは答える必要がないと思います。あなたにそんなことを聞く権利があるんですか」「勘違いしてもらっては困るな。僕は君の先輩として話しているのであって、室長という立場ではないのだからね。そういうつもりで聞いてほしいね。僕の考えでは君の生きているうちには君らの考えているような社会はとうていできないと思うね、そうだねえ、99、999・・・%できないね、ま、300年位先かな。」「そういう話は聞きたくありません」「私は君が惜しいから話してるんだよ。君は頭も良いし行動力もある。君は昨年の再訓練の試験の結果でも、とても成績が良いんだ。僕はその力を良い方向へ伸ばしてもらいたいのですよ。しかし好ましからざる人物と見られている。僕はとても残念に思うし、君にとってもマイナスの面だと思うね。さっきも言ったけど、民青に入っているのだったら、ちょうど年令的にも今が抜ける時期だと思うのですよ。その方が君のためにも良いし、悩むこともなく、能力を最大限に発揮できるんだから」「会社は考え方いかんによって、つまり思想とか信条によって差別するということですね」「今の研究所においては仕事だけできてもだめだということなんだ。というのは評価する場合、仕事だけではなく、その人全体をみて総合的に判断するわけで、仕事もでき、学会等に発表していても、その人が好ましからざる人物と見られたら、仕事の面ではプラスであっても総合点ではマイナスということもあり得るわけなんだ。それが差別といえばそうかもしれないが、会社としての考え方、評価の方法がこうなっているのだからしょうがないだろうね」「会社の意にそわないと昇格等がなされないということは、明らかに思想、信条による差別ではないですか。」「今いったように会社の評価がそうなっているのであるから違うね。それを差別とは思っていないのだから観点が違うわけだな。」そこまで読んだ時に昭彦は後に人の気配を感じて、新聞を胸のポケットにねじ込んだ。コピー機のランプが灯り、紫色の光がパネルの間からもれて、モーターが回りだした。「おはようございます」F電気の主任の永井が遠慮がちに近寄ってきた。「ちょっと、コピーさせていただきたいんですが」「ええ、どうぞ、私の分はたくさんありますので、お先に」「じゃあ、五枚くらいですので」そう言って、永井は手にした原紙を薄緑色の感光紙に重ね、次々とコピー機に差し込みはじめた。「なんですねえ。こちらさんの研究所もいろんなことがおきてるんですねえ」永井は独り言のように言った。永井はあの新聞を読んだに違いなかった。研究所の出来事がこういう外部の人達の間でも話題になるのだろうか。そう考えると昭彦はふと恥ずかしさ覚えた。その夜遅く、遊佐が部屋にやってきた。だいぶんアルコールが入っているようだった「あれ、見たか」と遊佐は大きな声を出した。「あれだ、あれ」そう言って、遊佐は両手の人差し指を動かして空中に四角い形をつくった。今朝の新聞のことを言っているようだった。「ああ、見た、見た」「やるなあ、あの人たちも」「そうだね、やられっぱなしじゃない。反撃してるね」「組合選挙が近いから、研究所の方は先制攻撃をしかけてるって感じだな。来週も続きが載るみたいだな」そんなことが書いてあったかな、と昭彦は紙面を思い出そうとした。「遊佐は、あれ毎週もらってるのか」「ああ、門前ではもらいにくいから、ちょっと近くの人にたのんでそっともらってるんだけど」「近くの人って?」「うちの研究室の人だ」遊佐もいろいろ工夫しているのだなと思った。「その人も、やっぱり仕事なんか差別されてる人か」「ああ、彼の場合は特にひどいなあ。研究者として優秀な人で、昔は実質的にはプロジェクトのリーダーみたいなことやってたんだって。部屋の若手を集めて勉強会なんか開いていたし、たくさん論文もかいてたりして、外国でも注目されてたみたい。研究所は彼の影響力をなくすために、彼と同じ研究やってる人を大学から探して来て彼のかわりに正式にプロジェクトのリーダーにすえたんだ。まあ、僕らの研究室は大規模な実験設備と人手がないと研究がすすまないから、彼も実験設備が使えなくなってからほとんど研究の成果も出てないみたいだな。もっとも成果が出ても、横取りするか、発表させないかどっちかだと思うけどね」「そういう人ってたくさんいるんだろうか、この研究所に」「たくさんいるみたいだね。あの新聞によく載るじゃないか。論文から名前をはずしたとか、論文を盗用したとか」ああ、と昭彦はあいまいな返事をした。そういう記事の載った新聞を、昭彦は受け取っていなかった。「花岡はあれ、いつももらってないの」「ああ、たまに受け取るだけなんだ」「じゃあ、この寮なんかのことが載った特集はみてないな」「ああ、この寮のことがどうしたの」ちょっと待てよ、そう言い残して遊佐は部屋を出ていった。隣の部屋でがさがさと紙のこすれる音がした。すぐに、遊佐がピンク色のファイルを持ってあらわれた。「これは、話題になったんだ、この寮でも。君がくる前だったかな」そう言って、遊佐はファイルを開いて、昭彦に手渡した。そこには、研究所の四つの独身寮の設備や生活環境、不便な点などが一覧表になっていた。電話料金が有料のところと無料のところがあったり、食費や共通費に差があったりした。ページをめくると今度は研究所関係の六つの家族寮の報告がのっていた。間取りや寮の運営方法、行事やテレビの映り具合などが克明に調査されていた。どれほど多くの人の協力を得てつくったのだろうか。昭彦は紙面を見ながら、麻生たちの運動の広がりを見る思いがした。「随分いろんなことがのってるんだねえ」「ああ、これを読んでると普段は見えない研究所の姿が見えてくるような気がするな」こんなのもあるぜ、と言って遊佐はファイルを繰った。高卒の人の待遇があまりに悪いので、ここ十数年に採用された人のうち半数以上が研究所を去っている実態を克明に追った記事や、家計簿を公開して生活の苦しさを訴えている記事もあった。昭彦は何とかこの新聞が毎週手に入らないものかと思った。遊佐の部屋の人にもう一部この新聞をもらってもらえるかもしれないし、それが、一番安全な方法なのかもしれない。しかし、翠の心配そうな顔がふと胸に浮かんで、昭彦は、遊佐にそれを頼むことができなかった。九 練習が終わると、そっと近づいてきた裕子が、話があると、昭彦にささやいた。練習した曲の一節を歌う声や、練習の感想を語り合うざわめきが教会の入り口の方に消えてしまうと、礼拝堂の中はシンとしてしまった。「ちょっとここにかけない」裕子は連なった長椅子の一番前に座ってそう言った。昭彦は裕子と少しだけ距離をおいて座った。「ねえ、翠と何があったの?聞かせてちょうだいよ」「何って、ちょっとした行き違いだよ」「デートしたんですって、上野で」裕子はちょっと妬ましそうな顔付きをした。「デートってほどじゃないよ、一緒に絵をみただけ」「そうなのかしら。翠、あなたといっしょに絵を見に行くことになったってとっても喜んでたわ」「君たちの間はツーツーなんだね、何でも」「まあ、いいじゃない。それで、何があったの。あの日の夜、翠私に電話してきたの。何だか元気ないのよ。いろいろ聞いてもはっきりしないのよ。花岡君まさかひどいこと言ったんじゃないでしょうね」「何もいってないよ、そんなこと」「話してくれないかしら、わたしも立場があるのよ」昭彦は「赤旗」新聞にかかわるいきさつを簡単に話した。「そりゃ、翠はちょっとおどろくわねえ」裕子は立ち上がって、高い壁を見上げた。ステンドグラスが夕日を受けて明るく輝いていた。「翠はねえ、最初にこの合唱団に来た日に、私に花岡君のことを聞いたわ。花岡君のことだけね。翠にしちゃ珍しいことだったわ。あの子、うわついたところのない子だから。よっぽど気にいったのね、あなたのことが。わたしもちょっと調子にのってあなたを褒めすぎたのかもしれない」「ほめてくれて有り難うよ」「それで、その時に、翠があのひと何か政党に関係があるかって聞いたの。私、変な質問だなって思ったけど、要するに左翼系の団体に関係している人かどうかを知りたかったみたいなの」「何て言ったの」「関係ありませんって」「そうね、関係ないと言えばないけど。でも僕は共産党に投票ぐらいするけどね、総選挙の時なんか」「私、大学のころ、花岡君が民青の人達とついあいがあったって知ってたわ。でもそれだけのことだったし、ちゃんと就職もしたから、そんなもの関係ないと思ったの。だって大学の時、学生運動やってて、就職したら知らんふりって人は多いけど、その反対はあんまり聞かないから」「僕は、共産党に好意を持ってるよ」「それとは別よ、翠が心配してたのは、会社で弾圧されたり、そういうことが心配だったみたい」「ああ、そういうこと心配してたな、この前も」「あそこは、お父さんが何かわけがあって、そういうこと特に気になるみたいなの」「君の家でもそうなのかい」「そうよ、うちは工場の管理関係だから、そりゃすごいわよ」裕子は「そうよ」のところに思いきり力をこめて言った。「『赤旗』なんか持ってたら勘当されてしまうわよ」「うちなんか言わば自由業だから、そういうのわからないけどな」「ともかく、さっきのことは誤解なんだから、そこのところは翠によく話して安心させてやってよ。あの子、花岡君が隠し事してるんじゃないかって思ってるみたいだから。党員なのに隠しているとか」「ああ、わかってる。今日会えるから、帰りにでも話ができるかと思っていたんだけど、中崎さんお休みだったから」「絶対連絡してよ、翠に。私だって責任かんじちゃうわ」裕子はため息まじりで言って、ピアノのところに歩いていった。「花岡君、弾いてよ」「ゆっくりしたものでないとだめだよ」「ええ、いいわ」昭彦はピアノの上に置かれた楽譜をぱらぱらとめくった。「じゃあ、『ラルゴ』」昭彦はピアノの前にすわって蓋をあけ、前奏を弾き始めた。とても翠のようにいかないが、これぐらい遅い曲なら何とかかっこうがついた。裕子が透き通るような声で歌い始めた。その日は昭彦はごくろうさん会に参加せずに帰途についた。寮のある駅で降りて、駅前の電話ボックスで翠の家に電話した。電話の呼び出し音がいつになく高く聞こえて心臓がどきどきした。「はい、中崎ですが」電話に出たのは翠の父だった。「先日お宅におじゃまさせていただきました花岡と申します」」「ああ、わかってる」何となくぶっきらぼうな口調だった。「翠さんいらっしゃいますか」かえっとらんよ、という返事がすぐにかえってきた。腕時計を見ると七時だった。「お帰りになったら、寮のほうに、お電話いただきたいのですが」そう言って昭彦は電話番号を告げた。寮に帰ってから、昭彦は翠に話す言葉を一心に考えていた。食堂の隅にある電話なので、あまり込み入った話しはできないと思った。とにかくもう一度デートの約束をしなければならない。音楽会か映画か、それとも静かに話し合える公園がいいのか、昭彦は新聞の催しものの欄を見ながら考えこんだ。寮生に電話がかかってきたことを知らせる放送があるたびに昭彦はドキリとしたが、いつまでたっても翠からの電話はなかった。電話がくるはずのない時間になってから、昭彦は手紙を書きはじめた。「・・・・この間はせっかくの楽しいデートだったのに、僕の不注意で、あなたによけいな心配をかけたみたいですね。私の研究所には、共産党員と思われる人がたくさんいて、その人達から若者が働きかけをうけるのは日常茶飯事です。もちろん私は党員ではありません。あの「赤旗」新聞もその職場の人が手配して届けてくれたようです。宣伝のつもりだと思います。これを受け取るのはごくあたりまえのことです。もちろんその程度のことで差別されることなどありません。この前もお話ししたように、私自信は共産党に対して悪い感情をもっていませんが、それは私の心の中にしまってある事です。研究所の中で、私が共産党の人たちに対して特に目立つような好意的な態度をとっているわけではありません。」そこまで書いて、昭彦の筆は止まってしまった。職場の実態とも自分の気持ともちょっとずれがあるような気がした。しかし翠とのつきあいを続けるためにはこのくらい書かなくてはいけないようにも思えた。昭彦の心に珍しく利己的な狡さが目覚めた。十 日比谷にある本社での打ち合せを終えた昭彦は、近くにある源造の大学に寄ることにした。源造は長く勤めた国立の大学を定年でやめて、今は私立の学校に移っていた。梅雨あけのよく晴れた夕方で、いい気持ちだったので、昭彦はぶらぶらと皇居の堀に沿って歩きはじめた。勤めの終わったサラリーマンであろうか、ランニングをする中年の男たちが、汗の匂いを発散させながら昭彦を追い抜いていった。堀をそれて、昭彦は、中学や高校が集まる静かな道にはいりこんだ。グランドから元気のよい掛け声が響いてきた。両側に校舎が密集する狭い道を歩き続けると、突然広い道にでた。歩道はラフな格好の大学生であふれていた。廊下の突き当りのドアをノックして部屋に入ると、大きな机にむかって本を読んでいた源造がおおと声をあげ、窓際にあるソファにすわるように昭彦にすすめた。背広にネクタイ姿の伯父を見るのは久しぶりで、別人のように立派に見えた。「この前はえらく世話になったな。ありがとうよ。おかげで、あれから元気だ。あの時は前の日が原稿の締め切りでちょっと無理してたからな」源造はそう言って、心臓のあたりをなでてみせた。源造は読んでいた本をとじ、「何か食いにいこう」と言って立ち上がった。昭彦と源造が入った店は、ビルの地下にあるドイツ風のビアホールだった。カウンターの席につくと、源造はウェイターにいつものやつ、と言った。ビール好きの源造はここによく来るようだった。すぐに蓋のついた金属のカップに入ったビールが運ばれてきた。源造がビールを一のみすると、泡が唇の上につき、白い髭のように見えた。昭彦はふと、源造の結婚のいきさつを聞いてみたいと思った。翠との関係に何か参考になるかもしれないと思ったのだった。「伯父さんはたしか恋愛結婚でしたね」「ああ、そうだ。あのころはまだ少なかったな、そういう結婚は」「伯母さんのほうの親がすごく反対したそうですね」「ああ、相当なもんだったな」「おばあちゃんも反対したそうですね」「ああ、まあな。昔のことだ、もう四十年も前のことだ。聞きたいのか、そんな話が」ええ、と昭彦は答えた。そうだなあ、と言って源造は遠くを見るような目付きをした。「じゃあ、わしがこの話をする間に飲むビールはあきさん持ちだぞ」そう言って、源造はいたずらっ子のような目付きをした。源造は白いワイシャツの袖をまくりあげたり、おろしたりしながら話しはじめた。「時子から聞いてると思うけど、わしの家は貧乏だった。医者をしていた親父が早く死んでしまったからな。わしが旧制の中学のときだったな。わしは長男で、ほかの兄弟のことも気になったから、普通に高校にすすむことはあきらめた。しかし、学問をしたいという要求はなんとしてもおさえきれなかった。それでな、大きなお屋敷に住み込んで、書生のようなことをしながら、学校に通わせてもらったんだ。その屋敷には、とてもわしに親切にしてくれるお嬢さんがいたんだ」源造のがらがらした声が急に小さくなった。酒を飲んでも決して顔の赤くならない源造の頬が赤くなっていた。「それが、伯母さんだったんですか」「まあ、そうだ。学校へもって行く弁当をそっと運んで来てくれたりしてな。もちろん、自分で作ったものじゃなくて、そっとばあやに頼んだものだったがね。そこらへんがお嬢様だったんだな。書生はわし一人じゃなかったけど、そのお嬢様はわしだけにそっと届け物をしてくれる。わしもピンときて、お嬢様の誕生日にはちょっとしたプレゼントをしたりしてな。そのうちに何というのかな、まあ、懇ろになってしまって。書生の分際で、ということでもちろんお屋敷のほうから許しがでるわけもない。駆け落ち同然で屋敷を出たんだ」「どうしてうちのおばあちゃんが反対したの」「ああ、母はねえ、医者の奥さんだから、プライドが高かった。今は貧乏していても、もともと由緒ある家系、なんて思ってたんだろうね、当時は。わざわざ家が反対するようなところの娘をもらわなくても、って思ったみたいだな。幸い、母は淑子に会うと淑子をすっかり気に入ってくれた。それで、ともかく二人で実家に転がり込んだんだ」こんなに穏やかに見える源造が、そんな激しい行動にでるのか。昭彦は信じられない思いで源造の横顔を見つめた。「どうしたのだ、そんな真剣な顔をして」「いや、なんでもありません」「あっ、そうか。アキさんには、つきあってる女性がいるんだ」「そんなこと言ってましたか、母が」「ああ、気にしとったぞ。うまくいくといいねって言ってた」昭彦は、母がそんなことを伯父に話していることが意外だった。「どうしたのだ、うまくいってないのか」いえ、と昭彦は力なく答えた。「赤旗」のことが原因であるだけに、そのことをストレートに伯父に話すのははばかられた。「なんだか、その人が僕に期待しているものがちょっと重荷なんです。僕には」「期待って、出世とかそういうものか」「ええ、まあ」「出世と言っては聞こえが悪いが、たとえば立派な研究者になってほしいというような意味なら、結婚相手としては当然ではないのか」「ええ、まあそうですが。そういうのともちょっと違うんです」「親父さんの影響か」「さあ、どうでしょう」「親父さんはなんだ」「輸入会社の社長さん、一度会ったけど、なんだか圧迫感を与える人でした」「なんの、社長ぐらいで、遠慮することがあるものか。気持を大きく持て。わしを見ろ、淑子の親父は財界の大物で、やくざまがいの連中をさしむけて、淑子をとりもどそうとした。わしゃ本当に殺されるかと思ったよ」目の前に運ばれて来た肉を昭彦の皿に取り分けながら、源造が言った。母から聞いた話と少し違っているように思ったが昭彦は黙っていた。「大切なのは本人どうしの愛情だ。結婚して二人で暮らすようになれば相手の家なんか関係ない」と言った。それから少し考えて、また言った。「具体的なことは、何もアドバイスできん。ただ、どうもお前は子どものころから諦めがよすぎる。少し嫌なことがあるとすぐにそこから身をひくような傾向があるな。ちょっとしたことで諦めたりすると後で後悔するぞ。簡単にあきらめちゃいかんぞ」源造は、じっと昭彦の目をのぞき込みながら言った。ついたてのむこうから、ドイツ人の歌声が聞こえてきた。「あれ、知ってるか」「ええ、どこかの演奏会で聞いたことがあります。古いドイツの学生歌だと思いますが」「そうだ、あれはどこの大学だったかな。古い校舎の中からこの歌がすばらしい合唱で聞こえてきた」源造は、私立の大学に移り、科学史を教えるようになってから、ヨーロッパの大学や研究施設を調査に行くことが多くなった。「ゲッチンゲン大学のことは話したかな」「ええ、少し。でも面白かったからまた聞きたいですね」新しく運ばれてきた黒い色のビールを源造は目を細めて飲んだ。「わしも、年をとったな。同じ人に同じことを話すことがあるらしい。もし、前に聞いた話ならごめんよ」そう言って、源造は世界中のすぐれた科学者が集まって来たころのゲッチンゲン大学のことを話し始めた。「ゲッチンゲンは西ドイツ中北部の小さな町なんだ。この小さな町の大学が世界から注目されはじめたのは十九世紀になってからで、ガウスがこの教壇にたちこの大学を数学の中心地にして以来だった。その世紀の終わりになって、卓越した組織者フェリックス・クラインは、この大学に数学者ヒルベルトやミンコウスキーを招き、天文学や物理学、工学など多数の研究所をつくった。大学は、プランク、ボーア、ロレンツ、ゾンマーフェルトといった名だたる学者を連続講演会に積極的に招いたし、フェルミ、ディラック、ハイゼンベルグといった、後に名をしられるようになる物理学者たちが、みんなこの小さな町におしよせてきたんだ・・・」源造の口調はまるで自分がそれらの人の間に身を置いて研究したかのように熱っぽかった。昭彦はこういう話が好きだった。科学や研究へのあこがれのようなものがかきたてられるからだった。「しかしなあ、そういういい状態は長くは続かなかったんだ。ナチスが台頭してきて、ユダヤ系の学者に対する『大粛正』がおこなわれたからな。ほんの数カ月の間に、ゲッチンゲンの名声は打ち壊されてしまった。良心的な学者もゲッチンゲンを去って行った。ゲッチンゲンの教授団の大部分はこの不当なしうちに抗議するどころか、勇敢にたちむかった少数の学者を弾劾したんだ。『大粛正』の後で、新任の文化相ルストが宴席でヒルベルトにうっかり尋ねた。先生の研究所が、ユダヤ人やその仲間が去ってえらくお困りになってるって、それはいったい本当ですか。その時、ヒルベルトはなんて言ったか。困ったって?全然困りなんかしませんな、大臣。研究所なんかもうないも同然ですからな!」源造はそこまで話すと、太い首を前に折って目をつぶった。研究所なんかもうないも同然・・・どこかで聞いた言葉、どこで聞いたのだろう。しばらく記憶をたどっていた昭彦は、それが、上司の八木が吐き捨てるように言った言葉だったことに気がついた。十一 半分開け放したドアをノックする音が聞こえて菅が顔をのぞかせた。「あのなあ、この先にひろい雑木林があるんや。とてもええとこなんやけど、ちょっと散歩せえへんか」「ああ、いいよ」昭彦が答えると、菅は玄関で待ってるから、と言って顔をひっこめた。わざわざ雑木林まで散歩に誘うのは何か大切な話しがあるのだろうと昭彦は思った。菅は、昭彦が前に来たことのある道の一つ先の道から雑木林に入りこんだ。濃くなった緑の葉が重なって頭の上にアーチをつくっていた。「武蔵野のおもかげは今わずかに入間郡に残れり、って文章知ってるか」菅は後ろに手を組み、歩を緩めてあたりを見回した。「ああ、知ってる。高校の時の国語の先生が独歩が好きで、その影響で彼のものはたくさん読んだから。入間郡というのはあの入間のことかな。電車の駅の」「ああ、多分そうやろ。そやけどあの文章の中には、その入間郡には、カヤがはてしなく茂っている原っぱのように書いてあったなあ。もう、今はそんなもん、ないわなあ。雑木林と茶畑や」林を抜けると、茶畑に出た。茶畑の一角を覆った黒い紗の布が風にはためいていた。茶畑を横切り、再び林の中に踏み込んだ時、菅の表情がが何かを決意したようにきつくなった。「あのな、組合選挙が近いけど、花岡はどうするつもりだ」「どうするって、投票のことか」「ああ」もしかして菅までが、守屋と同じように主流派への投票を強要するのだろうか。そう思うと昭彦はやり切れない気持になった。「自分の気持ちにしたがって投票しようと思うが」「ああ、ぜひそうしてくれ。それで、参考に聞いてほしい話があるんや」菅は声を低めた。「ヨンテンイチナナ問題って知ってるか」「ああ、聞いたことあるよ」四・一七問題は、同じグループにいる郷田から聞いたことがあった。その時、郷田は組合が共産党に牛耳られているとどうなるか、の例として昭彦に話したのだった。菅もあの問題を持ち出して共産党を攻撃するのだろうか、と昭彦は思った。「あれは、誤りやったと言って、日本共産党は明確な自己批判をやってる」「ああ、そうなんだろうね」「あの問題で、全国の組合の中で共産党は随分と影響力を失ったけど、D通信社の組合もあの問題をきっかけに、右派というか社民いうか、まあ、政党としては社会党なんやろうけど、ともかく会社と気脈をつうじる人たちが執行部を独占しはじめた。全国にある支部も次々と彼らが役員を独占して、良心的な人たちを排除していった。研究所の組合は随分長く、彼らの独占を許さなかったけれどね」郷田の話とちょっと調子がちがうな、と昭彦は思った。菅は時々昭彦の表情をうかがうような様子をみせながら話した。「彼らは共産党に牛耳られたといってるけど、違うと思うんだ。麻生さんたちが組合の役員やってたころには、いろんな人が役員をやっていた。今の部長や所長も若い時は組合の役員やってた人はたくさんいるしね。それを研究所の外から人を送り込んできてその人達を核にして、定員いっぱい候補者をたてて、何がなんでも麻生さんたちを排除しようとする。これは異常な事態だと思うんだ。今の執行部はそうやってできあがったと聞いてる。組合は組会員の要求で団結して闘うものや。それを思想で色分けして、ある人達を排除するのは組合の力を弱めるとちがうか」菅の声がうわずって、震え始めた。菅はもう昭彦の方を見ていなかった。「僕はなあ麻生さんら言うてること正しい思うんや。組合員の要求を、事実にもとづいて取り上げて解決しようとしてる。それなのに、選挙では研究所は管理者とインフォーマル組織をつかって凄い圧力をかけて麻生さんらに票がはいらんようにしてる。当局の支援をうけた人らばかりが大量に票をとって大会の代議員や執行部を独占することなんか許されないんとちがうか。そもそもそういう風にしてできた組合なんか、組合の名にあたいしないんとちがうか」昭彦は自分の耳を疑った。菅は麻生たちを応援しているのだ。しかし、何という危険なことをしているのだろう、この男は。昭彦の体のなかを何か得たいの知れない感動がさーっと通り過ぎて行った。もし、麻生たちへの支持を訴えたことが研究所にわかったら、生涯にわたる差別と孤立が待ち受けているのではないだろうか。そういうことが起こらない人間として自分を信頼してくれたのだろうか。そうだとすれば、菅の信頼に自分は答えなくてはならないような気がした。「来週から職場で選挙のビラなんか配られるけど、よく読んでほしい。主流派のビラは多分反共宣伝一本や。どちらが正しいこというてるか、君の目でしっかりみてほしい」「わかってる。僕も麻生さんたちの言っていることは間違ってないと思うんだ。彼らに投票しようと思ってるんだ」林を抜けて桑畑に出たとき、昭彦は思い切って言った。声がひどくかすれて自分の声でないようだった。「ありがとう。君ならそう言ってくれるような気がしてたんや」菅の顔にやっと笑顔が浮かんだ。白かった菅の顔に少しずつ赤みがもどってきた。畑が尽きて大きな農家の庭に出た。「そろそろ、引き返そうか」菅が言った。二人が並んでまた林の中に入ったとき、脇道から自転車が飛び出して来た。「おう、ご苦労様」と菅が声を出した。自転車に乗っていたのは尾関だった。尾関はトレーナー姿で、ナップザックを背負っていた。尾関は軽くうなづいただけで、そのまま寮のほうに自転車を走らせ、すぐに昭彦の視界から消えてしまった。昭彦はふと、あのナップザックの中に例の「赤旗」新聞が入っていて、菅や尾関が協力して新聞を寮の人達に配っているのではないだろうか、と思った。麻生からの連絡をうけて菅たちがあの新聞を自分のところにとどけ、そのことがあって、菅が自分に選挙のことを話しにきたのではないか、という気がした。十二 約束の時間に昭彦が少し遅れていくと翠は涼しな眼差しで昭彦をむかえた。「待った?」「いいえ」入場券を買って翠に渡し、二人でゲートをくぐると、すぐ正面に見上げるばかりのプラタナスの巨木が聳えていた。「どこに行こうか」案内板を見ながら、昭彦が言った。「どこでもいいわ。とにかく日蔭にしましょうよ」翠は、しきりにハンカチを額や頬に押し付けていた。砂利道を右に曲がると、道は池を渡る橋につながっていた。小さなこどもが、橋の上からポップコーンを投げ入れていた。水面には大きな鯉がポップコーンを求めて集まっていた。広々とした芝生の広場を見渡せる木陰に来ると、翠はここにしましょうと言って、籐であんだ大きなバスケットの中からビニールのシートを取り出してひろげた。昭彦がシートに腰をおろすと、翠はバスケットの中からお握りや、サンドイッチの入ったプラスチックの容器を取り出しはじめた。「これ、君がつくったの。全部」「そう、私、けっこう料理は好きなのよ」翠は少し得意げに次々と容器の蓋をあけた。二人の間に食べ物や飲み物が並べられると、昭彦は急に自分が翠の本当の恋人になったような気がした。芝生では、子どもとボールあそびをする若い父親や母親の姿がまぶしく輝いていた。翠とやがて結婚して、子どもができて、自分は父親になってこんなふうに子どもと遊ぶのだろうか。翠がピアノを弾いて、自分が歌う。家族で合唱や合奏ができればどんなに楽しいだろうか。昭彦はそんなことをぼんやりと考えていた。「ねえ、もしよかったら一度僕の家に遊びにきてもらえないか。八月にでも。多分お盆には、母もゆっくり休みがとれると思うから」昭彦の言葉に翠はうなづいた。「お母様ってどんな方」「どんなって言われても、どう言えばいいんだろう。あまり細かいことに気を使わない性格の人だよ。特に家のことには」「きっと、恐い方なんでしょう。お医者様だから」「そんなことないよ」翠はふうんと考えこんだ。「八月の中旬から、私、ヨーロッパに行きます。私の大学の教授が案内役になる『音楽ツァー』なんです。八月に入ると準備があるから、うかがうのは九月になるわねえ」それから、翠は案内役をつとめる教授のことを話しはじめた。翠の明るい横顔を眺めながら、昭彦はすっきりしないものが胸のなかに漂うのをふと感じた。この前翠に手紙を出してから、共産党と自分の関係が微妙に変化しているような気がしていた。あの手紙が事実を正確に伝えていないことがやはり気になった。もう少し、会社の様子と自分の気持を伝えておく必要があるのではないかと思った。「この前の手紙だけどね」「あら、もういいんです、あのことは。私の誤解だったから」「ああ、そうなんだけど」「どうしたの」「あれは、あれで間違いないんだけどね。ちょっと話しておかなくちゃいけないと思ってね」ええ、と翠はうなずいた。「今、うちの研究所では、組合の選挙がはじまってるんだ。会社と結び付いた人たちと、そうじゃない人たちが、激しくあらそっていて、僕も両方から働きかけをうけてるんだ」「どうなさるの、昭彦さん」「ああ、多分、会社に応援されてない人たちに投票すると思う」「大丈夫なんでしょうか」「何が」「あなたが、そういう人たちに投票したこと会社にわかってしまわないでしょうか?」「大丈夫だと思うけど」「私、心配です」翠はちょっと考え込むような顔付きをした。「会社に逆らうと、恐いことになるんじゃないですか」「選挙でだれに投票したって会社に逆らったことにはならないよ」「でも」「大丈夫、投票ぐらい自分の意志で自由にできなくては困ると思うんだ。一度聞きたいと思ってたんだけど、君の家は言わば自由業だろ。会社の弾圧とかそういうこと、家の人がうるさくいうのかい」翠は黙って目の前にあるプラスチックの容器をバスケットにしまい始めた。片付けが済むと、翠はひろくなったシートに足を伸ばした。「私の父は争議を経験してるの」「ソウギって?」「労働争議っていうのかしら。ストライキなんかで会社と組合が争うようなこと」「なんだか古めかしい言葉だね」「父は、共産党とか、社会党とかそういうんじゃなくて、まあ、順番みたいにして組合の役員をしてたの。偶然というか、まあ父がたまたま組合の末端の役員をしていた時にそういうことがおこったのよ。私は小さかったから全然記憶にないけど、母の話では、毎晩のように会社の上司なんかがおしかけてきて、恐かったって。争議中に新しく組合ができて、そちらに入るようにってすごかったみたい」「ふうん、お父さんそんなこと経験してたの」「父は不器用というか、変に義理堅いというのか、うまくたちまわることのできないひとなの。みんな新しくできた組合にどんどんいくのに、いかなかったの」「それで会社やめたの」「やめたんじゃなくって、やめさせられたみたい」「ひどいね。そんなことできるの。それ、戦後のことだろ」「そう。それでね、父は職がなくったわ。有名な争議だったみたいで、それにかかわって首になった人のリストがどこの会社にもまわっていて、応募しても採用してもらえなかったんですって。母はもともと体が弱かったんだけど、争議の時の心労から、心臓を悪くしたの」昭彦は、翠の母の白い顔を思い出した。「父は技術者だったの。腕はよかったらしいわ。だけど会社に採用されなければ腕の発揮のしようがないでしょう」「そうだろうね」「それで、とにかく会社に逆らうと恐い、って気持は、ずっとあるの、私も母も」翠の視線はシートの一点に固定されたまま動かなくなった。小さなプラスチック製のボールが飛び込んで来て、翠の足にあたった。翠はその赤いボールを手にとって笑顔になって、たどたどしい足取りで近よってきた幼児にやさしく手渡した。十三 その週は毎日のように昼休みに選挙のビラが何枚も配られた。昭彦はなるべく多くのビラに目を通すように心掛けた。麻生たちのビラは会社の組合への介入を批判し、要求に基づく組合の団結を呼びかけていた。民主主義がいかに研究所の運営に大切であるかをこんこんと説いたビラもあった。大形プロジェクトの人員問題、長時間労働をはじめ、何十項目も具体的要求をつらねたものもあった。主流派のビラは個人の似顔絵や人物紹介が中心で、あとは中央とのパイプの重要性を語っていた。麻生たちの政策的な優位ははっきりしているように思われた。その日、昼食を終えて昭彦が席にもどると、ビラの上に大判の封筒がのっていた。赤いマジックでカンパとかかれ、その下に主流派の人たちを激励する文書が張り付けられ、一番下にカンパした人の署名の欄があった。そこには郷田の名前だけが書かれていた。昭彦は封筒を手に取った。百円玉であろうか、硬貨が一個封筒の底に感じられた。菅に約束した以上、ここに名前を書くのは背信行為だと思った。昭彦は封筒を千田の机に置いて、部屋をでた。部屋に残っていると、カンパのことで何かトラブルに巻き込まれるような気がしたのである。自分が部屋を明けているあいだにすんなりと事がおさまってくれればいいな、と昭彦は思った。昭彦は階段を降りて非常口から外に出た。このところ打ち合わせや作業が昼休みまで食い込んで部屋にとじこもりがちなので、ひさしぶりで戸外にでたくなったのだ。グランドでは正式の野球部やソフトボール部のほかに、数人のグループがあちこちでバッティングの練習をしていた。昭彦は足早にグランドを突っ切って、テニスコートの方に歩いていった。学生の全国的な大会に出たことのある選手が今年の新入社員のなかにいると聞いたので、ひょっとしたらその練習ぶりが見られるかもしれないと思ったからだった。テニスコートにつくと、いつもは人であふれているコートが空いていて、一番奥のコートだけをたくさんの人が取り囲んでいた。人垣の間からのぞくとこの研究所でナンバーワンと言われる広田と、背の高い色黒の男が激しく玉を打ちあっていた。広田と対等に打ち合っているところを見ると、相手の男が全日本に出た梅木という新入社員らしかった。広田はベースラインにそって歩きながら白い球をラケットで軽くコートに打ち付けた。サーブする位置が決まると、広田は球を空中に放りあげると体をそらし、 うっとうめくような声を出してラケットをふりおろし、そのままネットに向かって走りこんだ。梅木の返球が広田の足元にきた。広田はうまく体を沈めてこのボールを打ちながらさらに前にでた。広田の打ったボールがバックラインいっぱいに入ったので、梅木は体勢をややくずしながら、広田の頭を越える高い球を返した。広田は全力疾走で後退してその球を追い、球がワンバウンドする間にかろうじて球のうしろに回りこんだ。広田が球を打とうとしたときには、全力ではしりこんできた梅木がネットにぴったりとついていた。広田はラケットを強く鋭く振った。ネットすれすれに飛んでいった球は、梅木のラケットの先端をわずかにかすめてサイドラインぎりぎりのところに突きささった。どっと歓声があがった。広田は再びベースラインの上を歩き、コートの右端で止まると、ラケットを振りかざして球を打った。「フォールト」と審判の抑揚のない声が聞こえた。広田はショートパンツのポケットから球を取り出すと、再びサーブの姿勢にはいった。広田は今度は頭の後ろから前にラケットをこすりあげた。ズッという音がして、前向きのスピンのかかった球が弧を描いて梅木のコートに入り、大きく跳ね上がった。梅木は少し下がりながらこの球を広田のコートのベースラインぎりぎりにかえしてきた。体重ののった速い球が十回ばかりネットの上を行ったりきたりしたが、梅木がコートサイドぎりぎりに打った速い球に広田が追いつけず、広田は苦しまぎれに勢いのない球を高くあげた。梅木のコートの真ん中に落下した球を、梅木はいったん地面に落とし、大きくバウンドして落ちてくるところを、梅木はねらいすましたようにスマッシュした。その球があまりに速かったので、広田は一歩も足を動かさずにあきらめた。 ジュースが繰り返され、やや広田が押し気味にゲームをすすめていたが、最後は、広田の打った球がネットに引っ掛かりながら梅木のコートに落ち、それを梅木がひろいきれずにゲームセットになった。部屋に帰ると、昭彦の机の上にまた封筒が置いてあった。今度は署名の欄が埋まっていた。八木と千田の名前もあった。このお金は一体何に使われるのだろう。そう思いながら、署名をながめていると、郷田が近寄って来た。「これさっき置いといたはずだけどなあ、花岡君のところに」そう言って郷田は封筒を指で軽くたたいた。袋の中の硬貨が鈍い音をたてた。何と答えるべきか、昭彦は迷っていた。「まさか、しないってことはないんだろう。さあ、署名して」郷田は、昭彦の後ろを行ったり来りした。向いにすわっていた八木が積み重ねた書類の間から心配そうに顔をのぞかせた。「花岡君、ちょっと向かいの実験室へ」たまりかねたように、八木が声をかけた。昭彦が八木の後から実験室に入ると、八木は困惑した表情でささやくように言った。「あのね、あのカンパと署名だけど、不本意かもしれないけど、ここは目をつぶってやっておいてはどうかな」「あれは、主流派のひとたちを積極的に応援する人がお金をだすんでしょう」「まあ、そういう面もある」「私は、お金を出して応援したいってほどではありませんし」「でもね、花岡君。あの署名にはからくりがあるんだ」「からくりって、どんな」「だれが署名したか見たか」「ええ、八木さんも、千田君も署名してましたね。あっちのグループの人たちも」「僕の質問がわるかった。こう聞けばいいのだろうね。誰が署名していなかったか見たかね」「いえ、そういうふうには見ませんでした。多分少なくとも麻生さんはやってないと思いますが」「そう、麻生さんはやってない。麻生さんだけやってないんだ。それから、花岡君、君だ。つまり、やってないのがこの研究室では君と麻生さんだけってことなんだ。もし君が署名しないと君と麻生さんが同じグループ分けになるんだよ。そういうの、君もこまるだろう」「まあ、そうですが」昭彦の不服気な口調に八木は気がついたようだった。「実際の選挙の前にこんな踏み絵みたいなことやるの、僕もどうかとおもうんだ。それに私だって郷田君たちのやりかたがいいと思ってるわけじゃない」「それならどうして署名なんかしたんですか。自分の意志の表明ってもっと重みのあるものじゃないんですか」八木の顔に寂しげな影が走った。「ああ、そうだね。君にそう言われれば返す言葉はない。君が自分の意志に基づいて署名しないというなら、僕は何も言うことはない。ただ、さっき言ったように署名しないのは麻生さんと君だけってことは伝えておくからね」そう言って八木は部屋を出て行った。どうしようか、と昭彦は迷っていた。カンパも出したくないし、署名もしたくなかった。まして郷田に強制されてそんなことをするのは屈辱的だった。それでも、麻生と同じグループわけになるというのはやっぱり困る気がした。 結論の出ないまま部屋に戻ると、郷田はまだ昭彦の席のそばに立っていた。昭彦は机の上にあったボールペンで自分の名前を書きなぐると、小銭入れから百円玉を取り出し、勢いよく封筒のなかに放りこんだ。「どうせやるなら、早くやればいいのに」郷田は勝ち誇ったように言った。何かが昭彦の頭の中で破裂した。その日の午後、昭彦は八木と二人で設計要項を決める作業を続けたが、八木は終始昭彦にひどく気を使っていた。十四 投票日の昼休みになると、郷田は昭彦に一緒に投票にいこうと声をかけてきた。そばについていて無言の圧力をかけるつもりだろうと昭彦は思った。「今、混んでるんじゃないですか。僕はもう少し後でいきます」昭彦はおだやかだがしっかりとした口調で言った。郷田はちぇっと舌打ちした。郷田が千田をさそって出掛けたてから五分ほどたって、昭彦は一階にある投票所にむかった。投票所に割り当てられた部屋の近くにくると、廊下に人があふれ部屋の中から言い争う声が聞こえて来た。「ですから、これでは投票の秘密が保証されないと言ってるんです」「いえ、これで十分だと思いますが」「よその投票所では、段ボール箱を用意しているはずです」「そんなことは聞いてません」「選管委員長に問いあわせてくださいよ」「今つかまりません」「こんなことやっているのここだけですよ」片方の声がだんだん低くなり、人垣をかき分けて、選管の大石が出て来て、廊下を走り去った。組合員のみなさん、並んで待っててくださいと、部屋のなかから声がかかった。すぐに大石が大きな段ボール箱を二つ抱えて息をはずませてもどってきた。また何か言い争う声が中から聞こえて来た。やがて列が少しずつ進み始めた。順番がきて、昭彦が部屋の中に入ると、入り口付近に座った郷田がニヤリとわらいかけた。郷田の横には、麻生たちと一緒に選挙ビラをくばっていた人がすわっていた。その人の名前は知らなかった。選管に抗議したのはこの人らしかった。郷田とこの人が投票の立会人であるらしかった。投票所は四角く並べられた机の一番奥に、二つの段ボールが距離を置いて向こうむきに立ててあった。その中に頭を突っ込んで投票用紙に記入するようであった。昭彦は投票用紙を受け取ると、にわかに胸に圧迫感を覚えた。四角く並べられた机を回りこんで段ボール箱のところまで歩いていくのに、体がふわふわ浮き上がるようだった。段ボール箱の中に投票用紙を置き、昭彦は深呼吸をした。段ボールの中に置かれたちびた鉛筆をとり、一番先頭に書かれた麻生の上に丸印をつけようとした瞬間、鉛筆の芯がピンと音をたてて折れた。隣で投票用紙に記入していた人がこちらを向いたような気がした。まごまごしていては疑われる。早く、早くしなければ。そう焦ればあせるほど腕がこわばったまま動かなかった。立ち会い人の郷田も、列をつくって待っているひとも、自分の動作を見守っているような錯覚におそわれた。隣の人が記入し終えて、段ボール箱の記入所を離れて行った。早く、早くしなければ。昭彦は狂ったように鉛筆を走らせて主流派の候補者に丸をつけていった。丸をつけ終わると、昭彦は素早く投票用紙を小さく折り畳んだ。 部屋にもどった昭彦は自分の席に座って、いましがた自分におこったことが何だったのかを考え込んだ。ただ、何か恐怖にかられて、自分の身を護るための本能のようなものがとっさに働いたとしか言いようがなかった。そのことを昭彦は恥じた。開票の日の夜、菅が昭彦の部屋をたずねて来た。隣の部屋の遊佐はまだ、部屋に帰っていないようだった。「悪いが、ちょっとの間窓をしめてくれないか」菅が小さな声で言った。窓をしめると、部屋の中はたちまち蒸し暑くなってきた。「せっかく応援してもらったのに、また票がへってしもた。やっぱり研究所の干渉がえろうきいてるな」菅は得票数を書きなぐった小さな紙片を見せて言った。主流派の得票は千二百から千三百、麻生たちの得票は七百から八百の間にばらついていた。ああ、残念だったな、と低い声で言ったが、明彦はむしろこんな会社の干渉の中で四割近くの票が入っているのに驚いた。「これからも頑張ろうと思ってるから、また応援してくれよ」そう言って、菅はドアに手をかけた。「ちょっと待ってくれ」昭彦は迷いながら、言った。「ちょっとそこに座ってくれないか」菅はけげんそうな顔をして、ベッドの上に腰をおろした。「実はなあ、僕、投票所に行くまで、絶対に麻生さんたちに入れようって思ってた。それがねえ、いざ、丸をつけようと思ったら、なんて言ったらいいんだろう。やっぱり怖くなったんだろうな。どうしても腕がうごかなくなって・・・」「ああ」「それで、君との約束が果たせなかった。本当に申し訳無い。菅が僕を信用して、敢えて危険をおかして僕に呼びかけてくれた。そのことにこたえられなくて悪かったと思ってる」「有り難う。その気持ちで十分や、今の状況ではなあ。善意が今一歩攻撃に勝てなかった。百票もそうやって減ったんやと思うてる」菅の表情には怒りも驚きもなかった。そのことが昭彦の心をかえって重くした。菅は昭彦が麻生たちに投票しなかったことをある程度予測していたのではないか。それを承知で、しかしそんなことはお首にもださず、自分のところにお礼にきたのではないだろうか。昭彦は同じ年でありながら、自分の及ばない懐の深さを菅に感じた。「それで、どんなんだろう、選挙でお金がかかったんじゃないか、あちらの方はカンパでお金を集めてたけど、そっちもお金かかったんじゃないのか。僕は不本意だったけど、主流派の方にカンパを出した。だから、麻生さんたちにもカンパしてもいいよ」「そうか、カンパはいつでも受け付ける」昭彦は机の引き出しから千円札をとりだした。菅は事もなげにそれをうけとって胸のポケットにしまった。その日をさかいに菅はちょくちょく昭彦の部屋を訪れるようになった。研究の話もするようになったが、昭彦は菅が並外れた数学の才能の持ち主であることを知った。十五 翠がヨーロッパに出発する日、昭彦は空港に見送りに行った。翠の父が車で来ていて、見送りがすんだあと、乗って行けと昭彦をさそった。空港からの道は、運河に沿って伸びていた。対岸には夾竹桃の並木が見渡す限ぎり真っすぐに続いていた。昭彦が黙っていると、高吉もいつまでも口をきかなかった。「争議を経験されたんですってね」昭彦はふと頭にうかんだことを口にした。「翠が言ってたのか」「ええ」「随分昔の話だな」「いつ頃ですか」「1953年だ。君たちが生まれてまもなくだろうな」「ええ、そうですね」「大きな争議だったそうですね」「ああ、見方によってはね。なにしろ三カ月も生産がストップしたんだから。組合幹部は警察に逮捕されたしね。当時はマスコミでも随分さわがれたけどな。興味があるのかな」「ええ、まあ」高吉は、思案顔になったが、無言でハンドルを大きく左に切った。小さな工場のひしめく町をすぎると、道は運河に囲まれた埋め立て地に続いていた。広い敷地の工場地帯に入り、引き込み線に沿って交差点を左に曲がったところで、高吉はスピードをゆるめた。強い夏の日差しが、真っすぐに伸びた道路にカゲロウをつくっていた。日曜のためかあたりはガランとしていた。工場の門にN自動車Y工場とかかれた看板がかかっていた。「降りてみるか」「ええ」高吉は正門の少し先に車をとめた。車をおりた高吉は懐かしそうに塀に近寄った。「この塀にそって、会社は鉄条網をはったバリケードをつくったんだ。当時の金で二百五十万かけてな」「会社がですか」「ああ、会社が労働者を追いだして生産をストップしたんだ」「会社は損をするじゃないですか、生産をとめたら」「一時的に生産がストップしても、組合をつぶす方が得だと判断したんだな、会社は。労働者は働かなければ給料がもらえないから、動揺がひろがる。それをねらったんだな」高吉と昭彦は工場の塀に沿って歩き始めた。「当時、この会社の組合は日本で最も先鋭的と言われた組合だったんだ」「そんな時期があったんですか、N自動車にも。いまじゃ右翼組合の代表みたいに言われていますけど」「ああ、あの争議の中で第二組合が生まれ、急速に勢力を拡張していった」「自動車総連の会長の塩地さんなんかもいたんですか、その時」「第二組合の中心は三宅って男だったな。塩地は争議の始まる年に入社してきた。あいつは海軍機関学校の卒業生で、戦争が終ってから夜間の私立大学に通っている。当時はN自動車に採用される大学卒の人間はばりばりの国立の人が多かったから、異例の採用だったな。会社が組合つぶしを計画して雇い入れたともいわれている。塩地は、組合分裂の拠点となっていた全民労連の幹部連中と親交があったからな。三宅を全民労連の幹部連中に紹介して分裂の戦術を授けさせたのが塩地だともいわれている」工場の塀がつきて道は少し上り坂になり、運河の橋へと続いていた。「やあ、変わってないな」橋の上からは工場の西の端全体が見渡せた。高吉はこっちが鍛造工場、こっちがメッキ工場と指さして説明しはじめた。「争議で首になったそうですね」ああ、と高吉は言って手をかざし、目を細めた。高吉の目が鋭く光った。「私の場合は争議自体で首になったんじゃないんだ。第二組合が圧倒的多数になって、会社と第二組合が一体にになって第一組合員の首をきりはじめたんだ。会社じゃ『待命』って呼んでたけどね、その『待命』でやられたんだ。争議の三年後だった。職場で圧倒的多数をしめる第二の組合員が職場で決議をあげるんだ。第一の誰々とは一緒に仕事ができないって。会社はそれを口実に第一組合員をその職場から追放して自宅待機させる。六カ月たっても復職の命令がないと自動的に退職に追い込まれるんだ、どこでも受け入れるところがないってね」「なぜ、第一組合に残ったんですか」「なぜだろうね。まあ若かったのかな」高吉はあっさりそう言って、歩きはじめた。車にもどった高吉は、「時間があるか」と昭彦に尋ねた。昭彦があると答えると、高吉は無言でうなづいた。車は広い道路をゆっくりと進み、踏み切りを二つ越えて右に曲がって、狭い路地に入り込んだ。右手がちょっとした崖になっているところに高吉は車を止めた。「ここに、組合事務所があったんだ。その崖の下にね。会社の中から追放されて、事務所もこんなところに移転したんだ。廃材を打ち付けたような惨めな長細い小屋だったな。まあそれでも、仕事が終わってからその事務所に集まると少しは元気がでた」高吉はゆっくりと車を発進させて、路地を抜け、大きな通りに出た。「あの崖の上には見晴しのいいところがあってね、埋め立て地帯の工場が一望できる。N自動車の工場も見える。たまにそこに登って工場を見ながら、いつかきっとあの中に事務所を取り戻してやるぞって思ったけどな」高吉の声はかすれていた。十六 八月の初めから、翠は大学の教授と一緒にヨーロッパの音楽ツアーに行ってしまった。昭彦は休みの期間をどうしようかと迷っていた。菅は郷里に帰る予定をたてていたが、昭彦が暇なのを知ると、海水浴もできるので、一度自分の家に来ないかとさそった。菅の郷里は関西と北陸の境に位置する古い港町だった。海水浴客相手の土産物屋がにぎやかに店をひろげる駅前の通りをすぎ、まわりに小さな家の密集する掘り割りをわたると、青々とした稲の香りが鼻をつく一面の田だった。それを真っすぐにつきって、二人は土手の上に立った。大きな川が浅い瀬となってきらきらと輝いていた。強烈な日差しが、溶けた鉛の輝かしさを思い起こさせた。左手には、川を越えた国道がゆるやかに曲がりながら、はるかな山裾に消えていた。土手に沿って歩くと、両側に茂ったススキの間から、さかんに虫の声が聞こえてきた。すぐに古い大きな木の橋が表れた。二人が橋を渡ろうとすると、ギシギシと木のこすれる音がした。橋の真ん中にさしかかると、涼しい風が吹いて来た。「ああ、いい気持ちだ」昭彦は手にしたバッグを下におろして、欄干に手をかけた。少し先を歩いていた菅が引き返して来た。橋の上から川の中をのぞき込むと、ゆったりとした流れの中に大きな魚が何匹か見えた。魚は鼻先を流れの方にむけてじっとしていた。魚は時々素早く動き、すぐにまた動かなくなった。魚の動きは魚そのものよりも白い砂地の川床に映る影によってよくわかった。「なんて言う魚なの」「ハヤだろ」「釣れるかな」「どうかな、案外警戒心が強いから」橋のむこうは日蔭になっていてすずしいのだ、と言って、菅は歩き始めた。道はそのまま大きな寺の境内に入っていた。「あの橋はもともと参拝の人たちのために作られたもんなんや」菅が橋を振り返りながら言った。境内を抜け、細い道をはさんでもう一つの寺の境内を抜けると古い民家があらわれた。古い民家の外れに小さな新しい家が並んで建っていた。一番奥の家が菅の家だった。菅の両親はそろって体が小さかった。まだ日が高かったが、早めの夕食がはじまった。父親は菅と昭彦をかわるがわる見比べながらうれしそうに酒を飲み続けた。酔っ払うと、母親と菅の制止も聞かず、生活苦の中で子どもたちを育てた自慢話を始めた。「あんなボロを着てまで、こどもに勉強させんでもええのに、って近所の人にも、親戚にも言われましたわ」菅の父の目がすわってきた。「わしら、なんぼ苦しいても、この子が大学卒業するまで、思うて頑張りましたんや」菅は横になって鼾をかきはじめたので、昭彦は一人で父親の話を聞くことになった。「どうぞ仲良うしてやってください」長い長い息子の自慢話の後で、菅の父親はそう言って深く頭を下げた。父親が足をふらつかせて居間をひきあげると、入れ替わるようにして菅の弟が帰ってきた。菅ににたがっしりとした男だった。弟はこの町の市役所に勤めていると言って、昭彦に名刺を渡した。名刺の肩には観光開発課とかかれていた。「兄貴とちがって、私は勉強は嫌いでした」弟は、はにかんだようにそう言った。周二と同じぐらいの年だろうが、随分大人びているように思えた。昭彦はこの土地の言葉で自分の仕事を話し始めた青年に好感を持った。翌朝、菅は、岬の海水浴場に行こうと言った。近くに海水浴場もあるのだが、混んでいるのと、地元では菅はいまだに「優等生」なので、いろんな人が注目していて窮屈なのだそうだ。時間が早いせいか、遊覧船はすいていた。擦り切れたテープ特有のキンキンする女の人の声が、右左に現れる名所の由来を解説していた。水の色は、沖に出ても紺色にならず深い緑色のままだった。湾の右と左に見える山は、遥かかなたで近づき、その間にわずかに開いた空間から外海の水平線がぼんやりと見えた。船に乗っている間、菅は懐かしそうに山を見つめて、口数が少なかった。菅の案内してくれたところは、砂浜と岩場のまじったこぢんまりした海水浴場だった。浅いところにつくられた囲いの中で、近くの小学校であろうか、赤い帽子をかぶった生徒たちが水泳訓練をうけていた。松林の中に大きなお堂のような建物があった。夏は、海水浴客のために開放されているのだ、と菅は言った。着替えをすませた二人は、波打ち際に近づいていった。菅は、膝までつかるところにくると、いきなり頭から水の中に飛び込み、そのまま激しい水しぶきをあげながら泳いで行った。昭彦はそろそろと水に入り、腹から胸にだんだん水がってくるのを、こそばく感じながらゆっくりと歩いた。背伸びをしてもなお水が口のところまでくるところまできて、昭彦は、つま先で砂を蹴り、ふわりと水の中に浮かんだ。菅は、もう上半身を水面に出して飛び込み台にはいあがろうとしていた。透明な水を通して海底が見えた。白っぽい砂の中に、ところどころ黒い岩が頭を出していてそれが大きな生き物のようで不気味だった。波に散乱された日光が、網目のようになって海底をはいまわっていた。一泳ぎしたあと、菅と昭彦は、浜辺に面した松の陰で足を投げ出して休んだ。「昨日の、夜は悪かったな。あんな話し聞かせてしもて。親父は、自分の生活に何も自慢するものがないから、子どもの自慢ばっかりしてな」「なんだか、菅の育った環境がよくわかったって感じがしたなあ」「昔は社宅にすんでたんや。この町の南のはずれに大きな紡績工場があって、親父はそこに勤めてたから。会社が面白くなかったんだろうな。家に帰ると、酒ばかり飲んでたわあ。あんな若造にこきつかわれてたまるか、なんてぶつぶつ言いながら」笛がいっせいに鳴って、泳いでいた生徒が水をしたたらせながら浜に引き上げて来るのが見えた。「酔うと、俺の成績表を持ち出して、社宅のお偉方の家にあがりこんで、それを見せるんや。いややったなあ。学校でクラスメートが笑いながら『ゆんべオヤジさんがうちに来やったぞ』っていうんや。中学になってから、俺のほうが腕力が強くなったから、そういうことはやめてもらったけどなあ」「花岡のところは、どうだった。やっぱり家族の期待が大きかったか」「さあ、そうでもなかったみたいだな。母親は自分の仕事に夢中だったから。あんまり僕に関心なかったんじゃないかな。それに父はいないから」「亡くなったの」「離婚したんだ。僕が小学校の時に」「そうなんか」菅は悪いことを聞いてしまったというような顔付きをした。「苦労知らずのお坊っちゃんだとばかりおもってたよ」「祖母と、伯父さんが僕を可愛がってくれたんだ。とても」ふうんとうなずいて、菅は考え込んだ。水泳訓練の遠泳がはじまったようで、沖にむかって間隔をおいて黒い頭が一線にならびはじめた。会話がとぎれてしまった。昭彦は昨夜から気になっていたことを菅に聞いてみようと思った。「こんなこときいたら、菅は怒るかもしれないけどね。菅が会社に逆らうような行動やってると、家族の期待にこたえられないってことはないの」菅の顔に苦しげな表情が浮かんだ。こんな菅の顔を見るのははじめてだった。「表だったことやらなきゃ、関係ないのかもしれないけど」昭彦はとりなすように言った。「いや、僕は今度の分会の執行委員選挙に立候補するつもりや」菅の声は堅かったがしっかりしていた。「いつまでも麻生さんばかりに負担かけるわけにもいかないしな。若手の候補者も必要やからな」やっぱりそうなのか、菅は正面きって闘っていくつもりなんだ。菅があの圧倒的な会社の攻撃の真ん中に身をさらすのかと思うと、人ごとでないような生々しい同情の気持が昭彦の中にわきおこった。恐くはないのだろうか、研究を妨害されたり、昇格の道が断たれることに不安はないのだろうか。思想というものは、そういう不安や恐怖を越えて人間をつき動かすものなのだろうか。迷いはないのだろうか。昭彦はそういった疑問を菅に聞いてみるのがはばかられた。菅ほど数学ができれば、会社が研究を妨害してきても、紙と鉛筆で研究を続け、研究者として大成する自信があるのかもしれないな、と昭彦は思った。「今度は、入れる。必ず」昭彦ははっきり言った。それが、自分が菅にしてやれるただ一つのことであるような気がした。ありがとう、と菅は言った。「おれ、結婚するんや、九月の始めに。大阪で」「おお、そうか、それはおめでとう」「それで、今月の末に寮を出る」「そうか、せっかく仲良くなれたのに、残念だな」寮を出ることになって、次の新しい活動として、菅は職場で公然と活動することに決めたのだろうか、と昭彦は思った。「結婚の相手は何をしてる人なの」「学校の先生。東京の学校に移る準備してるんや、今」菅はすこしはにかみながら、うれしそうな顔をした。「さあ、もうひと泳ぎやろ」菅はそう言って、砂浜を一気に走り抜け、その勢いで水の中に飛び込んでいった。十七 夏休みの後半を昭彦は源造と過ごすことになった。源造が泊まりがけで釣りに行く計画をたてていたのだが、峰と時子が源造一人で釣りに行くのを心配して昭彦について行くよう頼んだのだった。出発の日、源造は同僚に借りたという車を運転して昭彦を迎えにきた。源造はあちこちにポケットのついた釣り用のエンジ色のチョッキを着込み、野球帽をかぶっていた。禿げた頭がかくれると、源造は少し若く見えた。大きな湖を半周してトンネルをくぐると、あたりの様子が一変した。湖の対岸には褐色の熔岩がつらなり、その向こうに樹木が同じ高さで広がっていた。「あれが、樹海だよ」源造はハンドルに手をかけたまま顔だけ横に向けて言った。同じ高さで水平に広がっている森を眺めながら、昭彦は不思議な感慨にとらわれた。「行ったことなかったかなあ、アキさんは」「いえ、ありません」「紅葉台ってところに展望台があるんだけど、そこから見るとそりゃ見事なもんだ。見渡す限り原始林が広がっていてな」「いつごろできたんでしょう」「富士山の中腹にある火山から熔岩が流れ出て、それが大きな湖を西湖と精進湖にわけたんだけど、平安時代のはじめだったと思うな、それは。あたり一体はやけただれて、木も草もなくなった筈だけど、あちこちから木の種子が飛んで来たのだろうね。熔岩の上にだんだん樹木が茂って、森になったんだ。それ以来この森は人の手が入ってないということだな」濃い緑が富士の山裾までを埋め尽くしていた。その広大さが、昭彦に人を寄せ付けぬ厳しさと寂しさのようなものを感じさせた。武蔵野の雑木林の親しみ深さと対照的な森林だなと昭彦は思った。宿につくと、荷物だけを預けて、二人は早速湖岸へと急いだ。ちょっとした林を抜けると、すぐに目の前が明るくなって濃い青色の湖面があらわれた。岸はごつごつした熔岩でできているので、足場のよい所をみつけるのが大変だったが、湖にそった細い道をたどるうちに平たい熔岩でできた格好の釣り場を見つけることができた。短い釣り糸の残りや、餌の残りが岩の上にわずかに残っていて、そこで釣りをした人がいたことがわかった。二人はさっそく釣りの準備にかかった。「アキさんは仕掛けの取り付け方、おぼえとるかなあ」「どうかな、随分まえだから、この前来たのは」源造が昭彦をさかんに釣りにさそったのは中学のときだった。最初は源造の家の近くの海だったが、そのうちに遠出もするようになった。三浦半島も行ったし、伊豆にも行った。最後に行ったのは大学時代の奥多摩湖であるような気がした。「伯父さんはよく来るの、最近は」「いや、一年ぶりかなあ。もう今度が釣りおさめかもしれんなあ」源造は寂しそうにそう言って、針の先に練り餌を巻き付けた。昭彦も準備が整ったので餌をつけて釣り糸を水辺に投げた。水平に横たわったウキがすっと横に動いて、それからむっくりと起き上がった。源造のウキは昭彦のウキよりずっと岸に近かった。熔岩でできた岸はまっすぐに切り立っていて、湖底は見えなかった。じっとウキを見つめていると、ふと菅の顔が目に浮かんできた。公然と活動をはじめて、猛烈な弾圧がきて、それでもあいつ元気でやっていけるのだろうか。村八分のようなことになっても耐えられるだろうか。あの親父さんがそれを知ったらどんなに悲しむだろうか。そんな思いが、次々と昭彦の頭をかすめていった。「おい、引いてるぞ」源造が低い声でいって、昭彦の肩をつついた。昭彦が竿を上げると、餌のないハリが寂しげに水からあがってきた。昭彦は再び餌をつけて、釣り糸を投げた。ウキを見つめているとまた菅の顔が浮かんできた。昭彦は何か自分が責められているような気がした。なぜだろう、なぜ責められているような気がするのだろう。やはり、菅たちのやろうとしていることが正しいと自分が感じはじめたせいではないだろうか。自分がそう思っているにもかかわらず、自分には勇気がなくて、そういう人たちにほんの小さな手伝いさえできない。そこからくるのだろうか、このうしろめたさのようなものは。昭彦は考え込んだ。頭の中に浮かんだ菅の顔が苦しげに歪んだような気がした。コツンのウキが揺れた。昭彦の思考は中断された。白いウキが水中に引き込まれて、サーッと青くなった。昭彦は糸の先で魚があばれる感触を確かめながら引っ張られた分を引き戻す感じで竿をあげた。大ぶりのヤマベが白い腹をみせて水面すれすれに跳ね上がってきた。「つれた、つれた」源造は大きな声を出して自分のことのように喜んだ。源造が二十匹、昭彦がその半分くらいを釣ったころ、源造はちょっと休もうと言って竿をあげた。源造はリュックの中から魔法瓶を取り出し、紙コップに注いで昭彦に渡した。「伯父さん、ちょっと聞いていいですか」昭彦はコップの麦茶を飲み干してから言った。「どうしたんだ、急に真面目な顔をして。何でも聞いていいけど」「思想の力というのは、どんな辛いことも忘れさせるほど強力なんでしょうか」「なんだ、いきなり。何のことだ」「伯父さんも思想をもっていることによって、いろんな不利益をうけましたか」「ああ、そういう話か」源造は昭彦から紙コップをうけとりながら言った。「わしも教授の中に反対する人がいて、なかなか教授になれなかった。助手の時、職員組合の書記長なんかやってたからな。一生助教授で終わるかと思ったこともあったな。給料もだんだん上がり方が少なくなったしな」「そんなことがあっても、思想をもっていれば平気なんですか」「そりゃあ平気じゃないさ、だから、自分を教授にさせないのは不当だって何度教授会にもうしいれたことか。ただなあ、教授になることが、自分の人生で唯一の目的だ、とは思ってなかったから、心に余裕はあった。同僚で、ただ運が悪くて教授になりそこねた男がいたけど、そういう人の絶望感とは無縁だったよ」「伯母さんはそのことをどんな風に思ってたの」「淑子は淑子で学校で教えることに熱中してたから、おれの昇進にはあんまり関心がなかったな」昭彦が聞きたかったことがなんとなく伝わっていない感じだった。「でも、いきなりなんでそんなこと聞くんだ」源造は腕に止まろうとするアブを払いのけながら尋ねた。「実はねえ、寮の友人に多分伯父さんと同じ思想、まあそういう考えをもっている人がいるんだけどね、これから公然と活動を開始するつもりみたいなんだ、もの凄い差別や弾圧が予想される中でね。それでねえ、その男の気持ちがわからない、というよりも、その男をささえるものの凄さに驚いているというのか、自分だったらそんなことできるだろうかって考えたりして」「そういうことか」そう言って源造はだまった。風が出てきたようで、波が湖岸に打ち付けてざぶざぶと音をたてた。「若いのに感心だな、その人も。アキさんの疑問もわかるがな。わしの経験からいうとな、辛くて辛くてたまらん、しかしみんなのためだから自分を犠牲にしてやってる、そういうもんじゃないな。この活動は。もっと楽しいものだぞ。その人も、これから襲いかかってくる攻撃の中でもただ辛い思いをするばかりじゃない。世の中をいい方向にかえていこうとする運動に自分が参加しているという誇りや喜びはいつも心にあるはずだ」「研究ができなくなったり、昇格が遅れたり、まわりの人が口をきいてくれないとか、そういうことにも笑ってたえていけるんですか。思想や組織の力で」「そういうことじゃない。ちがうんだ。笑って耐えてしまってはいかん。思想による差別は許さないという立場で闘わないといけないんだ。」「今の研究所では、容易にそれが功を奏するようには、思えませんが」「不当なことが行われていても、弾圧をおそれてそれに目をつぶる卑屈さにくらべれば、正当に自分の考えを主張して、そのためにおこってくる弾圧と正々堂々と渡り合うほうがよほどまっとうな生き方なのだよ。良心の問いかけに敏感な人にとっては、そういう風に生きるほうが、ある意味ではよほど楽なのだ」「ああ、そうでしょうね」昭彦は小さくうなづいた。少しわかったような気がした。「その友達のこと、平気でいられないんだろう、アキさんは」「ええ」「そこが、いいところだな、アキさんの」そう言って源造は立ちあがり、地面に横たえてあった竿をつかんだ。釣った魚を宿で料理してもらったので、夕食のメニューは豪華なものになった。源造はビールを半ダース頼んだ。源造にあまり飲ませると体に良くないと思って、余分に飲んだので昭彦はすっかり酔っ払ってしまった。源造の飲んだビールはわずかのはずだったが、源造は上機嫌だった。「どうだい、アキさん、少し社会科学の勉強もしてみては」源造は日にやけて赤くなった顔をほころばせて言った。「アキさん、わしの家には、そういう本もたくさんある。マルクスもエンゲルスも何でもある。日本語版だけでなく英語版やドイツ語版もある。もし気にいったものがあれば、どれでも持っていってくれ」源造はそう言って、ビール瓶の底にわずかにのこったビールを自分のコップに注いだ。十八 九月に入るとすぐに分会の役員選挙がはじまった。分会は研究部ごとにつくられていて、昭彦の属する情報機器分会は、組合員数が百人足らずだった。分会の組合選挙は全国大会や支部の役員選挙ほどはなばなしくないが、それでも部という単位で選挙結果が出るので、会社による選挙干渉は引き続き執拗におこなわれていた。特に、今回は菅がはじめて選挙に出るためか、けわしい表情の管理者が額を寄せあってひそひそと話している光景があちこちで見られた。同じ部の若い人が立候補しているのだから菅のことが職場で話題になりそうなものだが、意識的に話題にさせないことが申し合わされているようだった。菅は麻生や、永井といっしょに研究室をまわり、ビラをくばりながら演説したが、緊張のためかいつもの菅らしくないしどろもどろの話しぶりだった。その日、比較的早く寮に帰った昭彦は、机に向かってIBM社の出した記録方式にかんする特許を読んでいたが、目が字面を追うだけで、少しも内容が頭の中に入ってこなかった。昭彦は迷っていた。菅の郷里で、菅が選挙に出ると聞いたときから、昭彦の中に少しずつ固まりかけ、そしてまたふと時に消えかかるある考えが、昭彦を悩ませてた。何か、ほんの小さなことでいいから、菅のために役にたてないだろうか、と昭彦は思いはじめたのだった。それが、自分が菅に対して感じているある種の負い目のようなものを晴らす方法であるような気がしていた。菅に投票する約束をしたが、もしこの前みたいにその場になって投票できなくなることはないのだろうか。あれ以来、土壇場になって自分の心の中でおこることに、昭彦は自信がもてなくなっていた。たった一人でもいい。自分が本心で話せる人に、菅に投票してもらえるように頼んでみることはできないだろうか、いや投票の依頼までできなくても菅が立候補したことを話題にして、菅のことをほめてやりたい。そういう気持が、少しずつ昭彦の中に育っていた。そういう風に自分が行動することによって、あの不思議な心の暴動のようなものも防げるのではないか、と昭彦は思った。ノックの音がして明け放したドアからスルリと遊佐がすべりこむように入ってきた。「おっ、また勉強。あんた、えらいねえ」遊佐は手にしたコミック雑誌を丸めて、それで自分の膝を軽くたたいた。「いや、勉強なんてもんじゃない。まあ座ってくれ」そうだ、遊佐に話してみよう、と昭彦は思った。「どうだ、この前のシュミレーションは。うまくいったか」「ああ、ありがとう。あんたに教えてもらった数式、具合がいいみたいだな」「ああいうのは比較的得意だから、いつでも相談にのるよ」「ああ、あんまりうちは数学の得意な人がいなくてね。助かるよ」「ところで菅の立候補、知ってるだろう」「ああ、よくやるな、あいつも。うすうす気がついてたけど、あんなに本気だと思わなかった」「どう、部屋で話題になってるか」「いや、ぜんぜん。とにかく研究室には異様な緊張感があるな」「うちもそうだな」昭彦の胸は激しい圧迫感を覚えた。投票のことを言ってみようと思ったが、喉がからからにかわいて、言葉が出てこなかった。廊下に人の気配がした。「ところで、花岡、音楽詳しいだろ」遊佐が突然話題を変えた。「まあね。どうしたの」「うん、今度のレクレーションの打ち上げの出し物を何にしようかと思ってね。何か景気のいい歌はないかな。係になっちゃてね」「合唱になってるのがいいのかな」「まあ、あんまり難しいのはだめだけどな。しかし斉唱ってのも芸がないからな」「女の人はいないから男声合唱だよな」「そうなると思う。花岡は男声合唱はだめか?」「いや、高校時代は男ばかりの学校で合唱やってたから、男声合唱もやったことあるよ」「パンチがきいてて、しかも品があって、そういうのないかな」「ミッチ・ミラーのシング・アロンなんか簡単だけど、絶対受けると思うよ」「楽譜あるかい」「いや、実家においてある」「じゃあ、近いうちに見せてくれないか」「ああ」昭彦は何とか話題を菅のことにもどさなければ、と思った。「ところで、菅のやつ部屋にまわってきたけど、全然演説がへただな」「そうだな」「もっと元気よくやれって背中をたたいてやりたくなるよな」「まあな」遊佐は菅のことに触れたくないようだった。「俺、部屋にもどるよ、人がくるかもしれないんだ。アンプの設計図見たがってるやつがいるから」遊佐の落ち着かないようすが、かえって昭彦の決心をかためさせた。「僕は、前から菅が立候補することをきいてた。それで、何とか応援してやりたいと思ってたんだ。僕はもちろんあいつに投票するつもりだけど、遊佐もいれてくれないだろうか」 最初の言葉を口にすれば、あとは案外すらすらと話せた。遊佐の表情が堅くなった。「ああ、どうするかな」遊佐は声を低めた。「入れてやりたいけど、ばれるといやだな」「菅の票があんまり少ないとそれこそだれが入れたか詮索の対象になるような気がするから」そうだな、と言って遊佐は腕を組んで考えこんだ。「まあ、はじめての立候補だ。御祝儀相場で、ここはひとつあいつに入れてやろうか。言ってることも、主流派の連中よりはよっぽどまともだと思うしな」「そうだよ、あんたも随分世話になったろ、あいつには」遊佐はうなずいた。昭彦は自分の体がふわりと軽くなったような気がした。遊佐が出ていった部屋の中で、昭彦は有頂天になっていた。ほかにも誰かに投票を依頼できないだろうか、と昭彦は思いをめぐらせたが、すぐには思いつかなかった。遊佐の部屋には人が訪ねてくる気配はなかった。遊佐はやはり菅の話題を打ち切りたくてああいったのだろうな、と昭彦は思った。翌朝、室長室で出勤簿に判を押していると、机についた室長補佐の守屋がメガネを外し、レンズをハンカチでふきながら「花岡君、室長がお呼びだ。会議室にすぐに行ってくれ」と言った。守屋はそれだけを言うと、机の上の蛍光灯にメガネをかざし、またレンズをふきはじめた。守屋は一度も昭彦の方を見なかった。何かよくない話のようだな、と昭彦は思った。会議室では、室長の壱岐が額に皺をよせ、タバコをすっていた。よほどイライラしているのか灰皿は吸い殻でいっぱいになっていた。「花岡君、君は寮で妙なことをしてるそうじゃないか」壱岐は昭彦に椅子をすすめもせず、いきなりそう言った。壱岐は年に似合わず、色白で赤い唇をもっていた。おとなしそうな風貌をしていたが口をひらくと、遠慮のない男だった。即断を好み、自分が間違っていることがわかっても平然としていた。「何のことでしょうか」「君、菅君と仲がいいだろう」壱岐は昭彦の言葉を無視して言った。「まあ、仲がいいというか、同じ寮にいますから」「君、菅君の選挙の応援をしているそうだね、寮で」そんな、と昭彦は声をあげた。「君から働きかけをうけたと言う人がいるんだよ」「そんなバカな」「ほう、そうかね」壱岐はタバコの箱を揺すって一本抜きだし、昭彦から目をそらさずに火をつけた。「しかし、働きかけをうけたと言ってきた人がいる以上、こちらとしてもほっとくわけにはいかない」壱岐はじっと昭彦の顔を見つめていた。遊佐が、話したのだろうか、あの遊佐が。昭彦の頭の中はその思いだけがかけ巡った「もし、君がやってないというなら、なにか身の証しが必要だな。君からの働きかけのことは、もう部長や労務担当にも伝わっているからね」壱岐の声が猫なで声にかわった。怒鳴りつけておいて、あとで少しやさしい声を出すのが、壱岐のやりかただった。「つまり、郷田君についてカンパを集めてまわるとか、選挙ビラをくばるとか、そういうことだ。具体的な指示は郷田君に聞きなさい」昭彦がだまってしまったので、壱岐は困ったようだった。「即答できないようなら、少し時間をあげよう。もしその気になったら私でも補佐でも郷田君でもだれでもいいから、連絡をくれたまえ」壱岐はそう言うと、胸を張り、きゅっきゅっと革靴の音を響かせて部屋を出て行った。 やらなくてはならないことがいっぱいあったが、その日の午前中、昭彦は仕事に身が入らなかった。磁気テープ装置の電力容量や発熱量、床荷重といったことを全部決めていかなければならなかったが、ふと気がつくと頭の中は昨日の遊佐との話し合いと今朝の壱岐の言葉の間をつなぐ出来事を考えていた。向かいの席にすわった八木が受話器を首にはさみ設計書をめくりながらはげしくやりとりしている声が、いつになく神経をいらだたせた。仕事がほとんどすすまないまま昼休みになってしまった。食堂から帰ると、八木が、声をかけてきた。「花岡君、そこらへんぶらぶらしないか」はあ、と返事をしたが、昭彦は乗り気でなかった。今朝の室長の話の続きが八木の口からでてきそうな気がしたからだった。八木と昭彦は研究所のはずれにあるグランドにむかった。「室長から、僕も話をきいたんだ」と八木は小さな声で言った。「本当に応援したの、菅君のこと」それきた、と昭彦は思った。「ノーコメントです」そう、と言いながら八木はベンチに腰をおろした。昭彦も八木のとなりに座った。「やったとしたら褒めてあげたい、いや感謝したいとおもってたんだ」八木はグランドの方を向いたまま言った。昭彦は黙っていた。八木の言葉も信用できなかった。「何といえばいいのかな、菅君のことは僕は自分の弟のように思っていた時期があったんだ。学生時代だけどね。一緒にセツルメント活動なんかやってね。彼がこの研究所に入ってきたのも、僕がいるからってことだったんだけど。でも彼がこの研究所にやってきた時、僕はもう彼が尊敬する人物ではなくなってたんだ」昭彦は以前、八木がサークルのようなものでちょっと菅を知っていると言ったのはこういう意味だったのか、と納得がいった。しかし菅からは八木のことを聞いたことがなかった。うかつに口にしてはいけない問題なのだろう、と昭彦は思った。「あのね、僕は今でも基本的にはあの人たちの言ってること間違ってないと思ってる。ただ自分にはできない、ああいう形ではできない。けれども研究の面では、何かできる。自分もまわりの人もいい研究ができるようにしていきたい、自分の力でそれができる、と思ってきた。でも、今度の仕事で、自分の無力さがわかった。というよりも、こういうファシズムみたいな雰囲気の中では、個人的努力には限界があることを思い知ったんだ。なんだかもう自信がなくなっちゃってね」グランドでは、みごとなウィンドミルのフォームで早いボールをなげるピッチャーが次々と打者を三振させていた。「もちろん、今度のことで、君にどうこうしろ、という気はないんだ。ただ、会社がいったんレッテルをはると、私の力ではそれをはがしてあげることができない。君をまもってあげることができない、申し訳ないけどそれだけは断っておくよ」八木はそう言うと、立ち上がった。風が吹いて来て、八木のちぢれた頭髪が額にかかった。その髪を手でかきあげながら、八木は悲しそうな顔をした。この人も苦しんでいるのだな、と昭彦は思った。十九 午前中の遅れをとりもどすためピッチをあげて作業をすすめたので、その日の予定分を八時ごろに終えることができた。夢中で仕事をしていた時はわすれていたが、仕事が終わると、また昭彦の心に遊佐のことが浮かんできた。八木が車で途中まで送ろうかといったが、昭彦は断った。一人になりたかったのだ。根拠のない脅しなのだろうか。菅と自分が親しく付き合っているので、そのことに対する一般的な牽制なのだろうか。それなら、どれほど気が楽になるだろうか。しかし、それにしてはあまりにもタイミングが合いすぎている。やはり遊佐が密告のようなことをしたのだろうか。菅をのぞけば、遊佐は寮生の中で一番親しい人物である。一緒に食事にでかけたり、部屋を行き来したり、本を貸しあったり、研究のことを相談をしたり、そういう仲だった。だからこそ昭彦は菅のことが話せたのだった。そういう友を疑わねばならないことが、昭彦にはなさけなかった。研究所から駅に続く坂を下る昭彦の頭の中には、寮を抜け出して公衆電話で上司と連絡をとる遊佐の姿とが浮かんで来てしょうがなかった。タイヤを軋らせて坂をおりてきた車が昭彦の体をかすめて通り過ぎて行った。アブネエゾと吠えるような声が、跳ね返って来た。寮の入り口から見上げると、遊佐の部屋には明かりがついていた。昭彦はなぜかドキリとした。すぐにも遊佐の部屋に飛んでいって真相を確かめたい気がしたが、昭彦の心の中にはそれを強くおしとどめるものがあった。恐かったのだ、遊佐がそういうことをしたという事実を確定してしまうことがこわかった。遊佐との友情が壊れ、人間関係がめちゃめちゃになるのが恐かったのだ。食事をして、風呂に入って、本を読んで、決心を一瞬延ばしにして、さんざん迷ったあげく昭彦が遊佐の部屋に行ったのは十一時半だった。遊佐は机に向かって書き物をしていた。自慢のステレオ装置のスピーカーから、静かな音楽が流れていた。おう、花岡か、と言った声の調子から、遊佐が不機嫌であることが感じられた。昭彦は弱気になりかかる自分を励ましながら口をひらいた。「じつはな、きょう僕は室長の壱岐さんに呼ばれたんだ」昭彦はベッドの上に腰を下ろしながら言った。「それで」遊佐は、書き物の手を止めて、昭彦の方を向いた。「ああ、僕が寮で菅君の選挙の応援をしてるんじゃないかっていわれた」慎重に、慎重に言葉を選べ、と昭彦の心が叫んでいた。「それでなあ、僕はもちろん否定したけど、室長は、証拠があるって言うんだ」「ほう、どんな証拠」遊佐はじっと昭彦の顔を見つめた。目の光が異様に増していた。「証拠というより証人といえばいいんだろうか。僕から働きかけを受けたという人がいると言うんだ、室長は」「だれ?」「それは、言わなかった」「ようするに、俺を疑ってるわけか、俺が密告したと言いたいんだな、花岡は」低いが凄みのある声だった。遊佐の組んだ細い足が、ぶるぶると震えていた。「なにもそんなこと言ってない。そんな証人は本当はいないのかもしれない。僕が菅と仲がよかったから、ただ脅してるだけかもしれない。でも昨日の今日だったからああまりにもタイミングがよすぎる。僕としてはなんとしても納得いかない。君が何か事情を知ってるかもしれないとおもってさ。このままじゃ、それこそ疑心暗鬼になるような気がして」「いっとくけどなあ、俺はそんなことしてないぜ」遊佐はそう言って鉛筆を投げつけるように机の上に放りだした。「そうか、そうだと思った。そうであってほしいと願ってたんだ」嘘でもいい、とにかく自分はやっていない、それが聞きたかった。昭彦はほっとした。「まあ、信じなくてもいいけど、おれも今日はへんなこと言われたぜ。補佐に。寮で菅君を応援している人たちがいるらしいけど、あんたもそのメンバーじゃないかって」何だろう、これは。一体どうなっているのだろう。遊佐もそんなこと言われるなんて。「一体、誰が」昭彦がつぶやくように言った時時、突然、遊佐が唇に人差し指をあて、無言でドアの方を指さした。ドアと床の僅かなすきまから、廊下の蛍光灯の光が差し込んでいたが、それが中央の部分だけ陰になっていた。止まっていたその陰が、すっと右に動き始めた。「誰だ」そう叫んで、遊佐は立ち上がってドアの方に向かった。パタパタと廊下を走る音がした。だれだあ、そう叫んで、遊佐はドアを開け、廊下に飛び出して行った。すぐに遊佐は帰ってきたが、顔が真っ白だった。「誰だったんだ」「いや、わからなかった」「何処かの部屋に入ったのか」「わからなかったということにしていおてくれ、頼む」遊佐は立ったまま壁を見つめてそう言った。その晩、昭彦は眠れなかった。遊佐が裏切ったのでないことがわかり、それだけは本当に救われる思いだったが、そのことは直ぐに意識から去って、今度は自分が選択を迫られていることがひしひしと胸にせまってきた。昭彦は壱岐の言った言葉を一つひとつ頭の中でくりかえした。君のやったことはもう部長にも労務にもつたわっている。とたしかに壱岐は言った。昨日の遊佐との話しあいを立ち聞きして報告した人がいる以上、壱岐の言葉は、根拠のない一般的な脅しとは違うようだった。身の証しをたてろと言っていた。郷田といっしょにカンパを集めるとか、主流派のビラを配るとか。昭彦は郷田のあとについてうつむいて恥ずかしそうにカンパを集める自分の姿を想像してみた。菅が見つけたらどういうだろうか。やっぱり、あんたもなあ、そう言いたげな菅の哀れむような眼差しを想像すると、昭彦はたまらない気がした。やっぱりそれは出来ないと思った。このまま身の証しを立てないとどうなるのだろう。菅や麻生たちと同じ仲間だと見られるのだろうか。いつか遊佐から聞いた共産党の人みたいに、研究設備もつかえなくなってしまうのだろうか。いつまでも昇格できずに、生活も苦しくなっていくのだろうか。そういうのは困るなあ、と昭彦は思った。共産党の人達は、それぞれ強い信念があって差別にも耐えていけるのだろう。でも、自分には、そんな信念はまだなかった。研究生活を失い、差別されたら、自分がおかしくなってしまいそうな気がした。翠はどう言うだろう。自分の能力を発揮するためには仕方がないというだろうか。そんなことは人生のほんの一時期のことだから、目をツブって身の証しをたてたら、と言うだろうか。枕元の時計を見ると、二時だった。隣の部屋から、布団の擦れる音や寝返りをうつ音がしきりに聞こえていた。遊佐も眠っていないようだった。二十 眠らないつもりだったが、明け方にふと意識がなくなって、目覚めた時は、寮の中が変にシンとしていた。昭彦が布団の中から手を伸ばし時計をひきよせてみると八時をすぎていた。これは大変だ、と思ってベッドから降りると足元がふらついた。熱があるようだった。机の引き出しから体温計をとりだしてはかると、八度あった。どうしようか、と昭彦は思った。小さいころから、昭彦は風邪で熱が出ても、学校を休んだ記憶がなかった。母が、朝、注射をしたり、解熱剤を飲ませてくれたりして、ちょっとつらくても学校へでかけて行くと、午後にはよくなった。だから、昭彦も弟の周二も、小学校も中学校も皆勤だった。母からもらった解熱剤はよく効くので、今飲めば、研究所についてから仕事ができないわけではないだろうと思った。しかし、無理をしてでかけようという気力が、どうしても今日はわいてこなかった。休もうかな。と昭彦は思った。食堂から電話すると、八木が心配そうな声をだした。「どんな具合なの」「今朝起きたら、熱があるんです」[何度ぐらい」「八度です」「かぜなのかな」「どうでしょうか」「きのうは風邪には見えなかったけど」八木は、うたぐっているようだった。「病気以外の原因で休むわけじゃないよな、花岡君」八木は、きのうの事で、昭彦が抗議のつもりで休むのではないかと気にしているようだった。そううけとってもらうなら、それでもいいと、昭彦は思った。「とにかく、今日はそちらに行きません」なにか言いかかる八木の声を無視して、昭彦は電話を切った。片付けをしていた賄いのおばさんが、食事しますかと遠慮がちにたずねて来た。食欲がないので昭彦はていねいに断った。部屋に戻って薬を飲み、布団の中でうとうととしているうちに、だんだん体が楽になってきた。熱が下がってきたようだった。昼近くになって昭彦はでかける支度をした。研究所に行く気はなかったが、寮の狭い部屋に閉じこもっていると気がふさいでしょうがなかったのだ。どこにも行くあてはなかった。都心に出た昭彦の足は、大学に向いていた。工学部のコンクリートの建物の一角に、古い木造の実験室は残っていた。ノックをして中に入ると、よごれた白衣を着た助教授の青井が、学生に装置の使い方を教えていた。この研究室にいた時、昭彦の研究テーマは、強磁性体の中に入ったマイクロ波が、さまざまな過程をへて、弾性波に変換される様子を、磁性体内部の磁場の強さとの関係で解析するものだった。実験装置は、パルス発生器、小規模な磁場発生器、センサーとレコーダーという簡単なものだったが、レコーダーのペンがゆっくりと描き出す波形は、磁性体の中で起こっている原子レベルの現象を伝えていて興味がつきなかった。その時使った、実験装置をここではまだ大事に使っているようだった。「やあ、珍しいな、花岡くん」青井は昭彦の研究の指導者だった人で、なかなか力のある人だった。「今日は、どうしたの」「ええ、久しぶりに近くにきたものですから」「人買いじゃないのか」「いえ、そういうことじゃないんです。ちょっと、寄ってみただけです」企業に就職した先輩が、学生を勧誘することを、この研究室では「人買い」と呼んでいた。「そうか、まあ、かけなさい。もう終わるから」青井は部屋の隅にあるちいさな机を指さした。昭彦は、雑然と実験のデータが積み重ねられた机から椅子を引き抜いて、座った。この研究室にいた時には、昭彦もこの机にむかってデータの整理をやったのだった。たった一年半ほど前のことだったが、随分昔のことのようなに思われた。すぐに青井は腰にぶら下げた手ぬぐいで手を拭きながら、昭彦のところにやってきた。「ここは変わりませんねえ」「金がないからねえ、大学は」「でも自由な雰囲気でいいですね」「いや、君のところなんか、うらやましいな。金はうなるほどあるし、人手も討論の相手もいっぱいいて」「なんだか、その中の歯車って気がしてますけどね」「そう言えば、最近、ちょっと気になるうわさを耳にするね。そちらの研究所の」「どんなうわさですか」「自由に物が言えない雰囲気がある、とか上意下達が徹底してるとか。辞める人も多いように聞いたけど」「ええ、抑圧的な空気はありますね」「そうか」青井はちょっと心配そうな顔をした。「あっ、そうそう、うちの若いのが、あんたの研究所に行きたいと言ってるけど、何かアドバイスしてやってよ」青井はそう言って堀井くーんと呼んだ。実験装置を囲んでいた学生の一人が顔をあげて、緊張した表情で近づいてきた。黒いメガネをかけた、いかにもすなおそうな学生を前に、昭彦はどう言えばいいか一瞬迷った。アドバイスなどおこがましかった。自分自身がこんなに悩み、迷っているのだ。あんなくだらない研究所に行くのはやめなさい。あんな研究所は最低だ、人間をだめにしてしまうところだ、本当はそう叫びたかった。しかし、その言葉を昭彦は飲み込んだ。昭彦は定期入れの中から名刺を出してその学生にわたした。「来年受けるの、D通信社は」「ええ、そうなると思います」「D通信社の奨学金、もらってる?」「いいえ、もらってません」「今からだと遅いかもしれないけど、希望出しといたらどうかな。もらってると有利だから。それから、来年の春に実習生を募集するから、見学をかねてきてみたらいいと思う。春休みがつぶれちゃうけど、まあアルバイトにもなるから」「入社試験で落ちるってことないですか」「学校の推薦があれば大丈夫だよ」「もし推薦にもれたら一般公募でも入れますか」「まあ、無理だろうね、百倍近い競争率だから。学校の推薦枠の中に入ることを真剣に考えたほうがいいね」「希望したところに配属されるでしょうか、例えばマイクロ波とか」「今は、データ通信と交換機に関係する大きなプロジェクトが走っていて、そこに配置される人が多いと思う。黙ってるとそっちへもって行かれるから、もしそういうことがやりたくないのなら、自分の希望する研究分野をはっきり述べて譲らないようにした方がいいだろうね」「わかりました。これからもよろしくお願いします」堀井は丁寧にお辞儀をして、実験装置の方にもどって行った。青井との話が、研究室の近況のことになったので、昭彦は教授の退官のことをほのめかした。「ああ、来年の春、桜井先生は定年だ。後は、中川先生が教授になることになってる。僕はそれを機に名古屋に移る予定だ」青井は淡々とした口調で言った。青井はこの大学の出身者ではなかったので、やはり教授になるのが難かしかったのだろうか、と昭彦は思った。青井は、自分は授業があるがよければゆっくりしていってくれ言って、去っていった。昭彦は学生たちが、実験するのをしばらくながめていたが、今日は学生達とも話す気になれなかったので、そうそうに退散することにした。どこかからブラスバンドの応援が聞こえてくるキャンパスを歩きながら、昭彦は自分がなぜここに来たのか、考え続けていた。意識のすみにやはりあの研究所をやめることを考えていたのだと思った。そのことを青井に相談するほど自分の意見がはっきりしていたわけでもなかった。ただぼんやりした気持ちで、下見にきたとでもいえばいいのだろうか。桜井教授の後に、青井さんが教授になれば、自分をひぱってもらえるかもしれないという淡い期待がたしかに自分の中にはあった。しかし、今はその望みも消えていた。キャンパスには学生があふれていた。どの顔も明るく、輝いて見えた。君たちも会社に入ればこんなに悩むようになる。今のうちに、せいぜい楽しく過ごすがいい。いや、君たちは、悩まないのかもしれない。企業の中にはいれば、その場にあわせて「踊って」いくのが普通の姿と考えて割り切るのかもしれない。それができれば、どんなにか楽だろう。昭彦は大きな笑い声をあげながら自分を追い抜いて行く学生たちの中で、違和感を感じながら歩き続けた。「おい、花岡じゃないのか」すれちがった髭面の大男が振り向いて、よく響く声を出した。見ると、コールアカデミーで同じパートを歌っていた川端だった。「おお、川端か。髭なんかはやしてるからわからなかった」「今日はなんだ」「やぼ用だよ」「じゃあ、ひまだな。おれの研究室にこいよ。お茶でも飲んでいけよ」「ああ、いいよ」「なにやってるんだったけ、川端は」「労働運動史」川端は大通をはずれて人気のない細い道に昭彦を案内した。川端の研究室はレンガ作りのおちついた建物の最上階だった。窓際の川端の机には労働争議や、解雇撤回闘争の資料が無造作に積み重ねられていた。昭彦はふと翠の父の経験した争議を思い出した。「ねえ、N自動車の労働争議に関するものがあるかな。僕みたいな素人でもわかるようなものが」「どうしてN自動車の争議なんかに興味があるんだい」「知りあいが関係者なんだ」「あの争議は資料がすくなくてね。レッドパージ直後の闘争で、戦術的にもまずい点が、あったんだろうね。結局、最後は第二組合に第一組合が吸収される形で終わったんだけど、その時、第二組合が争議にかんするすべての資料の引き渡しをもとめたんだ。自分たちに都合の悪いものを処分するためにね。でも、少しはあったと思うな。ちょっと資料室見てくるよ」そう言って川端は出て行った。昭彦は窓際に立って外をながめた。建物に囲まれたグランドの中でサッカーの練習試合をしているのが見えた。レフリーの吹くホイッスルの音が鋭く聞こえてきた。「あった、あった」川端は黄色く変色した小冊子や分厚い本を胸にかかえてきた。川端は自分の椅子に腰をかけ、昭彦に隣の席の椅子に座るように言った。「この本は大学の先生と当事者の共著で経済的な側面からの分析もあるな。巻末に当事者たちの座談会もついてる。こっちは手記とか日記、出版されたものと個人のものとあるけどな。労働者の生々しい声だよ。労働委員会への提訴の文書もあるよ」昭彦は小冊子を手にとってページをくった。これまでの組合が獲得してきた既得権がまたたくまに奪われていく様子や、会社と第二組合が一体となって第一組合をきりくずしていく様子をが訥々とした文章で綴られていた。読み飛ばしながら中程までページを繰った時、「高崎光吉君の手記」とかかれた記事を見つけた。高崎光吉・・・どこかできいたことのある名前だと思った。翠の父は中崎高吉だ。似たような名前があるものだ、と思った。会社の攻撃をさけるために名前を少し変えてあるのではないかと思った。「ねえ、これペンネームかな」「さあ、どうかな」川端は小冊子を手にとって丁寧な手つきでページをくった。「発行が一九五四年になってるから、攻撃の激しい時だと思う。ペンネームもありうるな」 川端は小冊子のページをもとにもどしながら言った。「これが、その知り合いの人の書いたものなのかい」「さあ、どうだろう」昭彦は「高崎光吉」の書いた手記を読み始めた。「十二月五日会社攻撃を待っていたかのように、第二組合と通じていたらしい職制と課長補佐の事務技術員、それから棒心などがいっせいに動き出しました。毎日毎日何かしら動きがありました。Oという元組合の執行部をやった人は、緊急職場委員会と称して元執行部をやった人や、職場長、職場委員をやった人を全部集めて組合脱退の相談をしたのです。・・・・こういう準備工作をしておいて、職場の主なボスのような連中がさっと脱退しました。職制はこれを大事件のようにして職場に宣伝しました。世の中がかわりつつあるみたいな大げさな話をして脱退の機会を失うと取り返しがつかないという口振りでした」読みすすむうちに昭彦は「高崎光吉」が翠の父だろうと思う気持ちが強くなった。「正月休みがすんで出て来た時の職場は、じゅうたん爆撃をくらったあとの廃墟へ帰ったような感じを私はもちました。職場は完全に死んでいました。労働者は昼休みの話題すらうばわれ、お互いに疑うことだけが残っていました・・・」若い高吉が、茫然と職場をながめている姿が昭彦の胸に浮かんで来た。「第一組合にいて降職された組長が、『どこの組でも第二組合に行くことに決まったようだ。このままでは最後は丸共のレッテルをはられて締め出されるだけだから、やはり考えなければ。私は君たちに第二に行けとはいわないが、こういう情勢だということだけは警告しておく。考えておいてくれ』と言った」昭彦の頭に、ふと上司の八木の苦しげな表情が浮かんで来た。言い方がひどく似ていると思った。「・・・・・首をきられた職場長の人からの働きかけもあり、二、三の人が職場を再建しようという漠然とした考えで動き始めました。さて人を集めるととなると、実際問題として大変でした。誰が第一に残っているやらわからんのです。組合事務所にも一月以来脱退届けが来ていない。加入届と一緒に第二組合の手に握られていたのです。確実な人にめぼしをつけてその人をつかまえ、その人に周囲の様子をききました。・・・・その間にはとんだ誤解やら笑い話もありました。もと青年部をやっていて、勿論問題がないはずの人にあたってみるとこう言うのです。『お前(第二組合へ)いきたけりゃ、いっていいよ』ととても冷たくいうのです。私もびっくりするやら、腹が立つやらでしたが、怒らず、わけをくわしく話すとすぐ賛成してくれました。彼は、私が第二組合へ行く相談に来たと誤解したらしいのです」コーヒーのカップを二つ机の上の狭い空間においてから、川端は、資本の側がこの争議に勝利することによって日本の自動車産業が本格的な「成長」に向かうきっかけとなったことや、その後の日本の労働運動の右傾化の一つの典型を作るきっかけとなったことを話はじめた。それを聞きながら、昭彦は机の上に積まれた資料に次々と目を通していった。・・・・そのころN自動車の松川事件といわれる不思議な事件がつぎつぎとおきました。機械が空転していたとか、スイッチがこわされていたとかネジがゆるめてあったとか、タイヤの中に釘がいれてあったなどという話です。第二組合はこれが第一組合員のしわざだと宣伝し、そういうビラを次々とだしたので、われわれは仕事をするのにも何をするのにも極度に神経を使いました。・・・職場では、第一組合の人間を排除する決議を次々とあげ、それを根拠に仕事がとりあげられていきました。それまでの仕事をとりあげられ、いままで誰も手をつけていなかった工具倉庫の大変な整理をやらされた人もいました。その人のことを課長は課員にむかって「みんな〇〇のざまを見たか。こき使ってやる。みんなもどしどしこき使ってやれ」と言いました。・・・もう第一組合は百名を割り込むほど少数になってしまいましたが、それでも第一組合の会議で話されたことがすぐに会社や新組合に伝わっているようだでした。そういう役割を担った人をわざわざ第一組合の中に残しておく作戦をとっているように思えました。そうしたことをやらせる会社と組合そして平然とスパイのようなことをやってしまう人の心のあさましさを僕は一生忘れないでしょう・・・こうして文字になったものを読むと、会社のなりふりかまわぬ攻撃とそれと必死になって闘う人々の姿が余りにも対照的であり、まっとうに闘った人たちの姿の美しさは昭彦の胸をうった。自分のおかれている立場や、今度のできごとも、こんなふうに記録してみると善悪のはっきりしたものだろうという気がした。苦しくても、後で振り返って恥ずかしくない行いをやっておきたい、と昭彦は思った。翠と今日中に会っておかなければならないような気がした。二十一 その日の夕刻、昭彦は翠を駅に呼び出し、電車を乗り継いで高吉が働いていた工場のある駅に降りた。工場を見渡せる場所で話すことが、翠に自分の気持を理解してもらうのに、何か助けになるような気がしたのだ。「へんなところね、ここ。昭彦さん前にきたことあるんですか?」がらんとした駅に降りた時、翠は不審そうに言った。「君のお父さんに連れて来てもらったんだ。この近くまでね。君がヨーロッパに出発した日に」「でも、なんでこんなところに父が」「ああ、僕が争議のことを聞いたから、実地見学だね。会社が作ったバリケードとか組合事務所のあったところとか」跨線橋をわたって右に折れ住宅地をぬけると、道は線路に近づき、やがて左手に丘にあがる舗装された道があらわれた。「この丘の上から、お父さんの働いてた工場が見えるはずなんだ」翠は納得のいかない顔付きで道端生えたススキの穂を引き抜き、柄をくるくるまわした。穂が傘のように広がった。「ぜひ君に聞いておいてほしいことがあるんだ」「父に関係あることなのかしら」「ああ、すこし。でもほとんどは僕に関することだ」昭彦は会社と寮でこの二日間に起こったことを話した。翠の顔がだんだんこわばっていった。道が階段にかわり、子どもの遊び場のようなところに出た。そこを突っ切ると、また階段が続いていた。「異常な世界ね、全く。天下のD通信の研究所があきれるわね。それでどうなさるの、昭彦さん。これから」「やっぱり僕にはできないと思う。会社に対して身の証しをたてるなんて。そんなみっともないことはどうしてもできない」「ただじゃすまないでしょうね、今度は」「そうだろうね」「やっぱりこんなことになるんじゃないかと思ってました、私」翠は目を伏せて唇をかんだ。「いつかのお手紙の内容と随分ちがうんじゃないですか」翠の声は震えていた。「ああ、そのことは本当に申し訳ないと思ってる。でもあの時はあうい風に言わないと君が去ってしまいそうで、それが恐かったんだ。でも今度はそんなこと言ってられない。これはきちんと話しておかないと、君を騙すことになるから」「その誠意は認めます」「君に会ってから、次々といろんなことがおこってきて、自分の選択がせまられた。これからもいろんな選択を迫られると思うけど、どうも僕は君が望むのと違う方向へ、違う方向へと選択をしてしまいそうなんだ」「首になったりしないのかしら」「まさか。そんなことにはならないよ」「でも、研究所じゃないところにやられてしまうことはあるんじゃない」「ああ、それはあるかもしれないな」「本当に覚悟はできてるんですか」そう聞かれると、昭彦は困った。りーり、りーりと鳴く虫の声が高くなったような気がした。「覚悟なんかできてないさ。先の見通しなんてわからない。あの会社やめるかもしれないし」あたりがだんだん明るくなった。丘の頂は、木の枝がかりこまれ、展望がきいた。崖っぷちの手前ある手摺に手をおいて、二人は目の前に広がる埋め立て地を眺めた。高架になった道路の向こうは、うす緑色の石油タンクが並び、そのむこうに一際大きな長細い建物が横たわっていた。その向こうには、明り取りのぎざぎざした三角屋根が縦に並んでいた。N自動車の工場はまわりの工場にくらべて、いかにも黒々として古めかしかった。「お父さんが働いていた工場はあれだよ。本当はねえ、あの工場は運河に取り囲まれているんだけど、ここからだと建物がじゃまして運河は見えないな」「わからないわ、どれなの」「ほら、あそこに会社のマークが見えるだろう。高い煙突の左だよ」翠は額に手をかざして伸び上がった。「ああ、あれね、わかったわ」「君はあそこに行ったことはないの」「ないの。もの心ついた時には、父はもうあの会社やめていましたから。でも何で父の働いていた工場なんか気にするんですか」「ねえ、僕がここに君を誘ったのは、今日、君のお父さん、多分そうだと思うんだけど、あの争議の時お父さんたちの書いた手記のようなもの見たからなんだ」「どこで」「大学の研究室。労働運動史やってる友人がいてね」「なんだか、父がそんなもの書いたことは聞いたことがあります。内容はしらないけど」「やっぱりそうなのか」「どんなことが書いてあったのかしら」「第二組合に雪崩をうったように人が動いて行く時のことなんか。それから第一組合の中にもスパイのような人がいて、いろんなことが会社に筒抜けになっていたこととか。僕は、今日あんな状況の中で自分の考えを貫いたお父さんをすごく身近な人に感じたな」「何だかにてるわね、あなたの会社と」「そうなんだ」「そういうところはちっとも進んでないのね、日本という国は」「そうだね。でも、あれを読んでふと思ったんだけどね。こんな目にあってるのが僕だけじゃない、日本中の独占企業の中で、あんなことがに昔から長い間やられてきたのかって。そう思ったら、自分のおかれている状況の位置付けみたいなものがわかってね。ちょっと心に余裕ができたんだ」「でも、私、やっぱり恐い」「お父さん、結局、人を裏切らないで通した人生でよかったって思ってみえるんじゃないのかな」「それは、父にしてみればそうだと思います。父は満足してるでしょうね」「君だって、最後は人並み以上の環境で育ったわけだろう。ピアノやったんだから」「それは、どう言えばいいのかしら。父は随分苦労して何とか生活の道をきりひらいてきたわ。会社やめさせられた人たちが集まって小さな会社つくったけどそこもつぶれたの。工務店のようなものもやったし、保険会社の外交とかそういうこともやったわ。仕事かわるたびに大変な思いをしながら」「そうだろうね」「それからね、父は、時々、古い自動車の図面をひっぱり出していました。ほら、青い地に白い線で書いたやつ。青写真ていうのかしら。目を細めてじっとみてるの。自動車の技術者としての仕事にやっぱり愛着があったんでしょうね」「そういうことはよくわかるよ」「私、やっぱり、わざわざ危険なところに飛び込んでほしくないって気がするの」「そうかもしれない。でもねえ、僕は卑屈なことをするのがどうしても耐えられない。そんな卑屈なことをしてまで守らなくてはいけないものが今の僕にも、将来の僕にもあるとはとうてい思えないんだ。今は、どうしても、菅君たちを裏切るわけにはいかない。少なくとも会社に応援された人たちにくみすることは絶対にできないんだ。そんな卑屈な態度で、その先、僕の人生にどんな展開があるんだろう」「プライドの高い人なのね、あなたも」翠はそう言って腰をかがめ、足元の綿毛になったタンポポの花をちぎって手にのせてふっと吹いた。「父もあの工場の中でやっぱり悩んだのかしら」翠は視線を遠くに投げて、からだの動きをとめた。薄暗くなった埋め立て地の工場にはいろんな色のあかりががともりはじめていた。水銀灯の白い光が工場の屋根を扇形に照らしていた。ぐねぐねと曲がった銀色のパイプには黄翠色の明かりが点々とともって、それが蛍の光を思い出させた。工場の窓を通して、灼熱した金属の放つ鋭い光もかすかに見えていた。「私が本当に心配しているのはねえ」そう言って翠は立ち上がった。「あなたがおそらく父ほど強くないってことなの」翠は独り言のように言って手摺りに手をのせた。「父は、軍隊にも行ったし、戦後の混乱も切り抜けたそういう世代の人よ。それに育った環境というのかしら、みかけによらす強靭なところがあるわ。あなたの場合は違う。全然違うのよ。研究という仕事をとられたら、めちゃめちゃになってしまうんじゃないかしら、あなたは」「僕が君のお父さんほど強くないことは認めるよ。だから、君の心配はありがたく思うけど、やっぱり僕としては外の道はどうしてもとれない。多分本当に僕はやるよ。いいね」「それはあなたの意志ですものねえ」翠はそう言って手摺りにそって歩き始めた。「まあ、きれい」翠が西の空を見て言った。富士山があわいシルエットになって長く裾をひいていた。昭彦は翠の後を追って肩をならべた。翠の横顔は案外すがすがしかった。昭彦はほっとした。翠の同意が得られなくてもやっぱりやってはいけないことはやれない、と思っていた。とりあえずそういう形にならなかったことが昭彦にはありがたかった。二十二 家に帰ると、玄関に見慣れぬ靴があった。居間にはいると、時子が源造の胸に聴診器をあてていた。時子は耳から聴診器をはずすと、額に皺をよせ「兄さん、いよいよ無理できないわね。今度発作がおこると大変よ。明日入院手続きとるわ」と言った。源造の隣の椅子にすわっていた峰が、心配そうに源造の厚い胸を見つめた。「おまえ、今日は泊まっていくかい」「そうさせてもらうか」頭からシャツをかぶりながら源造は言った。「伯父さん、どうしたの」昭彦が聞くと、源造は情けなさそうに首を振った。「いや、電車の中で急に目の前が真っ暗になって動けなくなってな。じっとしてたらだんだんよくなってきたんだけど、ちょっと心配になったからこっちの家に来たんだ。わしの家にたどりつくには長い坂があるからな」昭彦がテーブルにつくと、時子が昭彦の顔をみつめた。「おや、お前も具合悪そうだね」時子はそう言って、立ち上がり、昭彦のところにやってきて額に手をあてた。「熱はないね」そう言って、時子は胸のポケットから小さな懐中電灯を取り出し、昭彦の口を開けさせて喉を見た。「この子は大丈夫だ」そう言うと、時子は昭彦の前に皿を並べはじめた。「源造、お前、寝てたほうがよくないか。いまふとん敷いといてやるから」峰はそう言って居間を出ていった。立ち上がった源造は、あとで部屋に来るようにと昭彦に言った。食事を終えて、昭彦が客間に行くと、源造は布団の中で目を閉じていた。昭彦はしばらく枕元にすわって源三の顔を見ていた。人の気配を感じたのか源造が目をあけた。いつものように涼しげな目だった。「ああ、アキさん、来てたか」そう言って、源造は顔だけ昭彦の方に向けた。「何か、心配事がありそうな顔付きだが」源造の声はかすれていた。昭彦は首を振った。源造に話して、源造が興奮して病気が悪くなったら大変だと思ったのだ。「おまえのそんな顔をみると、わしももつらいんだがな。何かわしが力になれることはないのか」「有り難う、伯父さん」「どっちの悩みだ、彼女か、会社か」「両方です。両方がからみあってて」「話してくれないのか」「ええ、でも自分で解決しなければならないから。それにもう決心はついているんです」昭彦ははっきりした声でそう言った。「そうだなあ、アキさんもそういう年になったな」そう言って、源造は目を閉じた。その目の閉じ方が急だったので、源造の具合がわるくなったのかと昭彦は驚いたが、すぐに軽い寝息が聞こえて来た。自分の部屋にもどって机にむかうと、昭彦はふと遊佐のことが気になった。遊佐も管理者やインフォーマル組織から踏み絵のようなことを強制されているにちがいなかった。電話をしてみようかと思ったが、寮の食堂にある電話では遊佐が話づらいだろうと昭彦は思った。とにかく遊佐と連絡をとってみよう。こみいった話になれば遊佐に寮の近くの公衆電話からこちらにかけてもらえばよいのだと思った。昭彦は階段を降り、電話のある玄関のホールに行って居間とのあ境にあるドアをきっちりと閉めた。寮に電話するとすぐに遊佐が出た。食堂で食事をしていたらしかった。「なんだ、あんた実家からか」「そうなんだ」「なんの用だ」「例の菅の件、その後どうした」「どうしたって、成り行きにまかせだよ」遊佐の声はすこし堅かった。「相談したいことがあるんだけど、そこからじゃ話にくいと思うんだ。いったん切って、外からかけ直してくれないか、電話わかるかな」「ああ、わかるよ」遊佐の声が急にささやくような調子になって電話がきれた。昭彦は電話の前で待っていたが、電話はなかなかかかってこなかった。昭彦の頭の中に変な想像が浮かびはじめた。遊佐が寮の中の誰かと相談しているのではないだろうか、それとも会社の管理職あたりに自分のことを報告しているのではないだろうか。そんなことがあるはずがない、と昭彦は妄想に捕らわれる自分を恥じた。遊佐が電話をかけてきたのは、電話が切れてから半時間ほど後だった。「すまん、すまん、待たせたな。公衆電話が混んでいてな」遊佐の電話が遅かった原因がはっきりして昭彦はほっとした。「遊佐は、何かやったのか。身の証しをたてるようなこと」「いや、まだだ。あす、インフォーマル組織の人たちといっしょに選挙ビラを配るように言われている」「どうするんだ」「俺、配るよ」遊佐の声はきっぱりしていた。「それで、いいのか。あんたの気持ちと違うんじゃないのか」「違うけど、いいんだ。俺あんまりそういうことこだわらないから」「そうか、それでもやっぱりおかしいんじゃないか。そういうふうに会社が組合選挙に介入して来て、強引に会社の意見を受け入れる人だけが当選するシステムをつくるってのは」「そうかもしれんけどな、とにかく俺は自分が麻生さんや菅たちの一派だとレッテルを張られるのがいやなんだ。それだけだ。あんたどうするつもりだ」「僕はやっぱりできないだろうな、菅を裏切ること」「別にあいつはあいつの考えでやってることだから、義理立てすることないと思うけどな」「そうだろうか」「とにかく、おれは彼らと一線を画すことを示すことに躊躇はないよ。まあ、あんたはあんたの考えがあるだろうけどな、俺はとにかくレッテル貼られることはやめるよ」そう言って遊佐は電話がきった。昭彦は遊佐の言葉を反芻しながら階段をのぼり、自分の部屋にもどった。昭彦はあらためて会社の巧妙なやり口を感じた。会社の応援する候補への支持を表明しないかぎり共産党に同調するものとみなす、という理屈はよく考えてみればおかしなものだが、それが脅しの文句として使われれば、その理屈の不当性よりも、自分が共産党に同調すると見なされることを恐れる気持ちが先にたつだろう。特に共感もしていない共産党の人たちと自分が同一視されようとしているその「誤解」を解くためなら少々のことには目をつぶろうという気持ちが働くのはある意味では当然だろう。会社はそこをねらってきているのだ、と昭彦は思った。自分の場合はどうなのだろう。なぜ遊佐と違った結論がでたのだろう。どうして自分の場合は共産党と一緒に見られるといわれてもそのことに最終的にはたじろがなかったのだろう。昭彦は自分の心を確認するようなつもりで一つひとつ考えはじめた。大学時代の民青の友人たちの影響、そして麻生や菅の影響もあった。人を裏切らないことの大切さについては、高吉たちの経験した争議のことを知ったことでいっそう確信が深まった。しかし共産党との関係という点ではやはり源造が身近にいたことが決定的であるような気がした。源造という人間の半生をよく見て来た昭彦は、共産党員といわれる人がどんなに真面目にそして広い心で生きているのかを実感できた。それに、源造たちの思想が、何か特異な、とんでもないものではなく、人間が到達した科学的な物の考え方の上に立っているような気がした。それが昭彦に親しみと勇気を与えていた。今夜も眠れそうになかった。ベッドに身を横たえたが、疲れているのに神経が高ぶっていた。隣の客間から源造のいびきが聞こえて来た。どうせ眠れないなら明日のために何か役立つことをしようと昭彦は思った。昭彦は起き上がり机にすわり直すと、一連の出来事を記録しはじめた。最初は補佐の守屋から反主流派に投票するな、といわれたことだった。次は郷田の話・・・。それがいつのことだったか、はじめ正確にはわからなかったが、いろいろな関連から曜日を思いだし、カレンダーを見ながら推測すると、日付けは確定していった。研究所での日常の生活はおよそ時間が決まっているので、それぞれの出来事の時刻のほうは日付けよりうんと簡単に思い出せた。 明日は、壱岐に、はっきりと拒否の返事をしよう、と昭彦は思っていた。その時、この記録が役にたつかもしれないと思った。記録が完成するとあらめて怒りがわきおこってきた。二十三 出社した昭彦は、ロッカーで着替えをすませてから、室長室に向かった。歩きながら、昭彦は胸のポケットにはいったメモをもう一度出して確かめた。「お話しがあります」昭彦がそう声をかけると、壱岐は読んでいた工業新聞から目をあげた。「じゃあ、あっちに行くか」壱岐はタバコをくわえたまま顎をしゃくった。「いえ、簡単なことなので、ここでけっこうです」「そうか、しかしここじゃあな」壱岐はそう言って立ち上がりかけた。「例の、身の証しの件ですけど、僕はそういうことする気がありませんので」「なに、なんだって」壱岐は椅子にすわり直した。色白の顔が紅潮してきた。「身の証しをたてるつもりはありません。そういう恥ずかしいことはやるつもりありません」出勤簿に判を押すために入って来た人たちが驚いた顔つきであわてて部屋を出て行った。「もう一度考えてこい」壱岐はじっと昭彦の目を見据えて言った。☆獲物をねらうタカのような鋭い目だった。「いえ、もう何度も考えました。その上での結論です」「仕事がなくなってもいいのか」「仕方がないと思います」「もう一度考えて来い」壱岐は大きな声を出した。昭彦はその必要はないと言って室長室を出た。部屋をでると膝がガクガクと震えた。自分の席につくと、とたんに電話が鳴った。「もしもし、花岡君か、おれ、菅」菅は至急会いたいといった。どうやら室長とのやりとりがもう伝わっているようだった。渡り廊下の真ん中にあるソファで、菅と麻生が昭彦を待っていた。「室長とやりあったんだってな」菅が目を細め、まぶしいものをみるように昭彦を見た。麻生が頷いた。麻生が菅に知らせたようだった。「ああ、こんなことがあったから」昭彦は胸のポケットからメモを取り出し、菅に渡した。菅と麻生は額をよせあって、そのメモを食い入るように読んだ。「さて、どうするかな。こりゃ、明らかな不当労働行為だ。まず、部長と所長、それから支部の選管と分会の選管、それぞれ抗議と申し入れに行ったらいいと思うけど」麻生が顔を紅潮させて言った。「花岡、いっしょに来るか、抗議に」昭彦は気後れがした。あまり急速に自分が前に押し出されるのは困ると思った。「ちょっと遠慮したいな。いきなりそこまではね。室長とのやりとりでくたびれた」「まあ、そうやろな」菅は麻生と顔を見合わせてうなずいた。「僕は、今はそこまではできない。でも、こんなメモでも役にたつなら持っていってほしい」「それはありがたい、メモがこっちにあるのとないのでは、抗議の迫力がちがう」菅は、メモをもう一度ひっくり返しながら言った。「闘いは冷静にやらんといかん。十分戦術も検討して、花岡君が矢面にたつようなことはしないつもりだよ」麻生が思慮深げな顔つきになって言った。麻生と菅は小声で忙しく話ながら去って行った。自分の席にもどると、斜め向いの席にすわった郷田が、何か奇異なものを見るような目付きで昭彦を盗み見た。八木は昭彦の方を見なかった。昭彦はどちらにともなく小さい声で挨拶し、机の上の書類を処理しはじめた。たった一日休んだだけで、メーカーからの設計書の変更願いや部内からの問い合わせのメモが分厚く積まれていた。二十四 翠と待ち合わせたのは、港の見える公園だった。海のほうからさわやかな秋風が吹きつけていた。二人はどちらからさそうともなくベンチに座った。沖に二等辺三角形の赤い燈台が見えていた。そこまでのひろびろとした水は光って色が定かでなかった。喫水線をたかだかと水面から上げた貨物船が右手の岸壁につらなって、灰色の小型船が白い波をけたてて沖にむかっていた。「それで、あの話どうなったの」翠は昭彦の顔をのぞきこんだ。「ああ、結局室長のところに行って、自分は身の証しをたてるつもりはない、って言ってきたんだ」「室長さん何か言った」「ああ、室長はもう一度考えて来いっていったけど、僕は考える必要ないって言った」「それから、何か起こらなかったの」「室長の仕事を補佐する人、この人は部屋の労務管理みたいなことやるんだけど、その人が一緒に飲まないか、って言ってきた。懐柔作戦だね」「どうしたの」「断った。相手の意図が見えてたから」「気まずくならない?」「なるだろうね、でもしかたがないよ、それは。まだいろんなことが起こってくるかもしれないけど、まあ、ここまできたら腹をくくるしかないね。弱みを見せれば、それにつけこんで、どんな恥ずかしいことやらされるかわからないからね。いったん踏み出すと妙に度胸がすわってね。自由に生きて行くことにくらべれば、少々冷や飯食うぐらいなんでもないように思えてきたんだ」二人の前をアイスクリームを荷台に積んだ自転車がゆっくりと通り過ぎた。すばらしく大きな船が港に入ってくるのが見えた。「私、父に話しました、この前あなたから聞いたこと」「何て言ってた、お父さん」「あなたのこと褒めてたわ。若いのに自分の考えをしっかり持ってるって」「しっかり持ってるわけじゃないんだけどね」「でも、私、あなたが研究ができなくなるとしたら、そのこと、それでいいとは思ってないのよ。あなたの寂しそうな顔見たくないの」「ああ、わかってる」たとえ差別がおそいかかってきても、一人の研究者の知的活動を根こそぎ奪いさることなどできないはずだ。昭彦はそう思いたかった。どこかからかすかにチャイムが聞こえて来た。「ねえ、ちょっと伯父の様子を見にいくのにつきあってくれないか。この近くの病院に入院してるんだ」「ええ、いいわ」二人は立ち上がり、芝生を横切って公園の出口へとむかった。通りには密に植えられた銀杏の大木が日陰をつくっていた。銀杏の葉の間からもれてくる小さな光が、歩道を歩きはじめた翠と昭彦の頭にふりそそいだ。エピローグ 電車の右手に、色を失った夕暮れの海が広がり始めた。私は疲れを感じて目を閉じた。目を閉じても、並列計算機の点滅するランプがまぶたの裏にうかんだ。「花岡さん」そう呼ぶ声で、私は目をあけた。見ると、私の前に、去年入社した吉川が立っていた。「ああ、吉川君か、同じ電車だとは気がつかなかった」吉川はあたりを見まわした。「今日の例の新聞、余分にありませんか。今朝、遅かったものですから」「ああ、あるよ」そう言って、私はカバンの中を探った。この研究所の日本共産党支部が発行する職場向けの新聞を、私は何人かの同志と一緒に配っていたのだ。私は、配り残しを入れた紙袋をカバンの中から取り出した。その中から一枚抜き取って渡すと、吉川はさっと目を通してから自分のカバンの中にしまった。吉川は去年入社した男で、なかなか正義感の強い好青年だった。組合の職場委員をしていたが、時々自分が何をしたらよいかを私の実験室に来て相談していった。吉川と別れて、私は自分の家のある駅で降りた。駅の左手を急な細い坂が続いていた。坂の上の方から、中学生や高校生がわいわいと騒ぎながら降りて来た。私は生徒をよけるようにして急な坂を昇りはじめた。昔、まだ伯父が生きていたころ、この道を何度も昇ったが、そのころの生徒と随分雰囲気が変わっていた。制服がなくなったせいなのだろうか、のびのびとした明るい感じが増していた。家のドアを開けると、地下から女声合唱が聞こえてきた。この近くに住む人たちが中心になって作っている合唱団に、練習場所を提供しているのだった。私は地下への階段の入り口で一声かけると、自分の部屋に入った。机の上に、郵便物が重ねられていた。ダイレクトメールにまじって、大型の封筒に冊子のようなものが入っていた。差出人は菅だった。挟みで封を切ると、博士論文の冊子がでてきた。私は結婚して間もなく海辺の支所に移ったので、菅とは日常的に接することはなくなったが、それでも、菅が研究所の妨害をはねのけ、論文を何度も学会誌に投稿している経過は伝え聞いていた。とうとうやったな、と私は自分のことのように胸が熱くなった。「食事にしましょう。練習終わったから」翠の声が階下から聞こえた。私は菅の博士論文を机の上に置いて部屋を出た。「菅さんから、何だったの」「博士論文だよ」「まあ、偉いわね、菅さん」「ああ、そうだね」「あなたは」「僕はまだだね。楽しみは先へ、だよ」私は、食器を食卓に並べながら言った。私の場合には、まだ博士論文には遠かった。何度も要求してようやく勝ち取った実験装置で、最近、並列計算に関する二つ目の論文がやっと書けたくらいだった。ほぼ十数年におよんだ思想差別による仕事の取上と同僚からの切り離しは、私の研究生活に深い傷痕を残していたが、ここ二、三年ようやく会社に露骨な研究の妨害をやらせない力関係ができてきた。遅かったが、ようなく私にも研究のできる環境が整いつつあった。菅の場合は、紙と鉛筆があればできる理論の分野でも研究ができたので、ずっと以前から論文を書き、その発表をめぐって会社と闘っていた。菅は今は、数理工学関係の学会でかなり有名な人物になっていた。軽い焦りのようなものが、私の胸をかすめていったが、それが、この二十年間共産党員として生きてきたことを誇る気持を動かすことはなかった。「夕方、工務店の人が来て、この家の修理勧めていったけど、どうなのかしら。安くしとくって言ってたけど」「ああ、どうするかな」「あなた、あんまりいじられるのいやなんでしょう」「まあ、そうだ」「じゃあ、台所の修理だけにしましょうか。あそこはあんまり暗いから」「そうしてもらえるとありがたいな」この家は伯父の死後、従兄弟夫婦が住んでいたが、その夫婦が転勤になるのをきっかけに私が買い取った。伯父が仲のいい建築家とよく相談して造っただけあって、なかなか住み心地がよかった。伯父夫婦の息吹が感じられるこの家に、私は深い愛着をもっていた。伯父の膨大な書籍が作り付けの書棚にうまくおさまっていた。私は伯父の所蔵していた本は、ほとんどそのままの形で保存したかった。そうすることで、伯父の生きていた跡をより多く残すことができるように思えたからだ。「もう、二十年たつかしら、伯父様がなくなってから」「そうそんなにたつかなあ。僕たちの結婚したすぐ後だったね」なくなった時の伯父の年齢まで、あと十五年くらいだろうか、と私は考え込んだ。「ねえ、裕子から招待状が来てるのよ。いってみない、リサイタル。思い切り大きな花束持ってってやりましょうよ」裕子は、翠と昭彦が結婚した直後、歌の勉強のためイタリアに留学した。帰って来てから日本でオペラなどにも出演したが、ずっと一人で暮らしていた。「いってみようか」私は胸のポケットから老眼鏡を取り出し、もう一度裕子のリサイタルのリーフレットをながめた。