源次郎さんのこと

−涸沢にて−









 まわりが明るくなって水の音が急に大きく聞こえてきた。
 さっきから木の間に見え隠れしていた穂高の山々が目の前に堂々と現れた。水は、積み重なった岩の間を網目のように広がって流れていた。
 僕の心に源次郎さんがやってきた。
「水の音がすぐ近くに聞こえたらもう涸沢はちかいのだ」
そう教えてくれた源次郎さんの言葉が僕の耳に響いた。
 源次郎さんは昔、僕の父だったことがあった。源次郎さんは僕の母と再婚し、そして別れたのだった。血のつながった父は僕が生まれて間もなく結核で亡くなった。だから源次郎さんは僕の生涯の中で実質的にただ一人の父であった。
 源次郎さんは医者で、軍医としてスマトラに行っている間に神戸の空襲で奥さんと二人の女の子をなくした。
 母の実家は商家であり、戦争で家財を失ったが、神戸市内に少し土地を持っていたので、母はそこに食堂をつくってほそぼそと生計をたてていた。
 母の親戚の紹介で源次郎さんと母が結婚した時、僕は母を取られたようで面白くなかった。僕は家の中でなるべく源次郎さんと顔をあわせないようにしていた。しかし源次郎さんは僕に遠慮せず、僕のことをタカちゃん、タカちゃんと呼んで学校の様子を聞きたがった。源次郎さんは誠実な人で約束を破るということがなく、忙しい中で僕の勉強をよくみてくれた。勉強のあいまには、東京に出て苦学した時のことや東京の町の様子などを話してくれた。源次郎さんが来てから、僕の家では小鳥を飼うようになった。源次郎さんは優しく声をかけながら小鳥の世話をした。学校の先生にも、親戚の伯父さんさんたちにも感じたことのない親しさを、僕は源次郎さんにふと感じた。源次郎さんは僕に教訓的な話をすることもあり、「慈悲の心」とか「度量」といった言葉をしばしば口にした。
 源次郎さんは背はそれほど高くなかったが、体格が良く太っていた。スポーツが好きで若いころは相撲などもやった。頭を丸めていたので医者というよりお坊さんのような雰囲気があった。たっぷりとした頬は血色がよく、唇はうすく形がよかった。顔の下半分がよく発達していて、笑うと、丈夫そうな大きな歯が並んでいるのが見えた。髭が濃くて、いつも剃りあとが青々としていたが、目は涼し気で細く、眉毛は一直線になっていて、それが源次郎さんの顔に親しみやすさを与えていた。
 源次郎さんは月に一度くらい僕を山に連れていってくれた。最初は六甲山や京都の山だったが、やがてもっと高い山にも登るようになった。源次郎さんは母を誘ったが、母は疲れると言って一緒に行かなかった。

 涸沢につくと、もうキャンプ場はテントでいっぱいだった。僕は大きなリュックを岩の上に投げ出し、一休みしてからテントを張り始めた。白っぽい厚い布地のテントを、僕はひどく丁寧に扱った。それが源次郎さんの遺品だったからである。
 林の中に入って薪をあつめ、テントにもどると夕暮れがせまっていた。正面に屏風のように聳え立つ岩壁はもう薄墨色の空気の中に消えようとしていた。僕は、石で小さなカマドをつくりその中で火をおこした。新聞紙が燃え、それがしだいに薪に燃えうつっていった。僕は水をいれたコッフェルを火の上にかけた。ぱちぱちとはぜながら勢いよく燃える火を見つめていると、僕の心にまた源次郎さんがやってきた。
「よし、俺にまかせろ。うまいものをつくってやるぞ」
 源次郎さんの陽気なガサガサした声が僕の耳に聞こえてきた。
「山にきたからには、何でも分担してやらねばな」
 と口では言いながら、源次郎さんはたいていの事を自分でやってしまった。
 食事中、源次郎さんは僕の顔をじっと見つめ、それからふと遠くを見つめるような目付きをすることがあった。

 お湯が沸騰する音が聞こえはじめたので、僕はリュックの中から昼の残りの握り飯とコンビーフと固形のコンソメを取り出し、沸騰したお湯の中にいっしょにいれた。ぐつぐつと音をたてていたコッフェルが急に黙りこんでしまった。明りのともりはじめたあちこちのテントから陽気な笑い声が聞こえて来た。
 源次郎さんが僕を穂高に連れて来てくれたのは、源次郎さんと母が離婚する直前だった。僕は中学生だった。離婚の理由は聞かされていなかった。山に行く前に、源次郎さんは、僕の足にぴったりとあった革の登山靴とアイゼンと、とびきり上等なピッケルを買ってくれた。そしてまだ雪のたっぷり残る涸沢で、雪の上の歩き方や滑り落ちた時の体の止め方を教えてくれた。それから僕たちはザイテンングラードを経て奥穂高に登った。太った体をもてあましながら岩山を登る源次郎さんの後ろ姿を見ながら、僕は源次郎さんが別れのしるしに一番好きなこの山に連れて来てくれたのだと思った。血がつながっていないのだから別れれば全くの赤の他人になるのだ、と母から聞かされていた。僕は源次郎さんと別れるのが切なかった。
 山小屋に泊まって枕を並べて横になった時、暗闇の中で僕はどうして母と別れるのかと恐る恐るたずねた。源次郎さんはしばらく黙っていたが、「父さんがほかの女の人を好きになったり、母さんがほかの男の人を好きになったり、そういう不道徳なことではないのだよ」と変にあらたまった口調で言った。それから源次郎さんは眠らなかったようだ。いつもの高鼾がいつまでたっても聞こえてこなかった。僕も朝まで眠れなかった。
 山から帰ってから僕は母に「別れないわけにはいかないのか」と聞いてみた。母はそれには答えず、きつい目になって「また二人で暮らそう」と言って立ち上がり、流しで米をとぎはじめた。
 源次郎さんが家を出て行ってから、僕たちは源次郎さんのことを話題にしなくなった。僕が源次郎さんの話をすると母はひどく機嫌がわるくなるからだった。母と二人だけの生活がまた始まったが、母と僕の間はまったく元と同じになったわけではなかった。何かが失われ、以前の親密さがなかなかもどってこなかった。

 コッフェルが再び音をたてはじめた。のぞきこむと、泡が米粒の間から沸き出し、それがだんだんはげしくなった。僕はコッフェルを火からおろして石の上に置き、スプーンを取り出して、雑炊を食べた。粗末な食べ物だったが、重い荷物を背負って上高地から涸沢までを歩き続けた僕にはおいしく感じられた。
 食事を終えて食器を片付けるころにはあたりはすっかり暗くなっていた。僕は懐中電灯をつけてテントの中に入ると、荷物を整理し、簡単な記録をつけてから寝袋の中に入った。目を閉じるとなつかしい匂いが僕の体をつつんだ。源次郎さんの匂いだろうか。そういえばこの匂いは勉強を教えてもらっている時にも源次郎さんから発散していた。酒も煙草もやらない源次郎さんはコーヒーが大変好きだった。この匂いは源次郎さんの体にしみついたコーヒーの匂いであるような気がした。
 源次郎さんと母が別れたわけを、僕はこの十年の間、おりにふれて考えることがあった。いろいろなことがからみ合っているように思われた。考えるたびに以前には気がつかなかったことが、少しずつ分かるように思えた。
 母は人に負けることの嫌いなプライドの高い性格だった。母は商家の長女であり、たくさんの使用人に取り囲まれて育ったためか、自分が話題の中心にいないと承知できないようなところがあった。
 源次郎さんは小さな診療所に勤めていて金儲けに関心がなかった。そして「よそじゃ診てもらえんかもしれんから」と言って、支払いの滞るような人ほど丁寧に診療した。母は医者と結婚したのに生活が思ったほど豊かにならないのにいらだっていたようだ。
 どちらが別れようと言い出したのか僕は知らなかった。しかし、母が別れたいと言って、源次郎さんがしぶしぶ従ったということでもないような気がした。源次郎さんは案外ロマンチストで、自分の理想を追求する心が強かった。こんな家庭を作りたいというイメージがあって、そういう家庭を母と一緒に作っていくことに見通しが立たなかったのではないだろうか。源次郎さんは人に物を強制しない性格だったが、その反面、粘り強く人と話し合うことが苦手だったのではないだろうか。
 源次郎さんと僕との心の繋がりが源次郎さんを家にとどめるのに少しも役に立たなかったのが、僕には寂しかった。しかしよく考えると、源次郎さんと僕が仲良くなったことが源次郎さんと母が別れる原因の一つになっていたのかもしれなかった。
 母と二人で暮らしていたころは、僕は母を頼りきり、母に全幅の信頼をおいていた。源次郎さんが来てから、僕は母の持つ弱点に少しずつ気がつきはじめた。今考えれば、源次郎さんにも欠点がないわけではなかったが、長く父のいない生活を送ってきた僕には、父の存在自体がうれしくて、源次郎さんの嫌なところが見えなかったのだろう。源次郎さんは優しくて誠実であるばかりでなく、世の中のいろんなことをよく知っているように僕には思えた。僕はだんだん源次郎さんの方を尊敬するようになった。そのことが母には面白くなかったのだろうか。母一人、子一人の苦しい生活の中で、母にとって僕は唯一つの希望だったのだろう。母が源次郎さんと結婚したのは、母が源次郎さんを好きになったからであるとはかぎらない。生活のため、いやもっと直接的には僕をもうすこしましな環境で育てるために源次郎さんと結婚したのではないだろうか。ともかく源次郎さんと結婚した後も、母の愛情は源次郎さんによりもはるかに多く僕にそそがれていたことは確かだった。その僕の関心が自分から離れ、源次郎さんの方に移っていくのが母には耐えがたかったのではないだろうか。もしそうだとすれば僕は母に申し訳ないことをしたことになる。
 源次郎さんと別れてから母はまた食堂を始めたがあまりうまくいかなかった。それでも源次郎さんが毎月金を送ってきたので母と僕は何とか生活できた。金のことは前もって話がついていたらしく、母は特に感謝する風でもなかった。母は僕の血のつながった父親の写真をタンスの上にかざるようになった。その写真には品(ひん)のあるほっそりとした非常にハンサムな男の人が写っていた。大学の構内かどこかで撮ったものらしく、バックには古いレンガづくりの建物が見えていた。
 母は無理をして僕を神戸の有名な私立高校に入れた。そしてそのことを母は親戚や友人に何度も自慢した。その学校には神戸や芦屋の山の手の大きな家から通ってくる生徒が多かった。学校は受験勉強ばかりで面白くなかったが、友達とは仲良くなった。家に遊びにいくと、恰幅のよいお父さんが出て来て「息子と仲良くしてやってください」と僕に声をかけることがあった。そういう時、僕は源次郎さんのことを思い出し、源次郎さんの姿がなかなか心から去らなかった。
 母と別れてから四年余りたって、源次郎さんは郷里である丹波篠山に転居した。僕が高校を卒業するころ、源次郎さんから地元の人と結婚したと挨拶の葉書がきたが、それ以後も源次郎さんは金を送ってきた。
 源次郎さんが心筋梗塞でなくなったのは一月ほど前だった。五十七歳の若さだった。源次郎さんは遺言に公の葬儀をしないよう書き残していたらしく、夫人と源次郎さんの兄弟だけが集まるひっそりとした葬式だった。子どもはいないようだった。夫人は地元の言葉を使う優しそうな人だった。その人が、源次郎さんが僕のことを時々話していたと言ったので、僕は胸が熱くなった。骨揚の時、僕はふと源次郎さんが穂高で「わしの骨はいっそこの岩壁にでも撒き散らしてほしいな」と言ったことを思い出した。僕は人に見られぬように細かな骨の屑をくすねてポケットにしまいこんだ。

 風が出て来た。テントの端が風でバタバタと鳴った。僕は寝返りをうって身を縮め、源次郎さんとたどった山道を頭の中に描きながら、どのあたりで散骨しようかと考えこんだ。

                     (1997年4月「散骨」改稿 )                              



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