昼ごはんに来ないかい?



 玄関の方でクラクションの音が聞こえた。僕は台所に行って、ブラインドのヒモをちょっとひっぱってブレードの角度を変えて外を見た。家の前に小さな乗用車がとまっていて、中に野球帽をかぶった中年の男がいるのが見えた。ボブだった。
 それで僕は、ボブと沼地に行く約束をしていたのを思いだした。正確にいうと、沼地に行く約束をしていた日が今日だったということを思いだした。約束といっても、きちんとしたものじゃなくって、天気がよければ沼地にでも行って釣りでもしてみようという程度のものだった。悪いけど今日は行けないな、と思いながら、僕は玄関を出て車に近づいていった。体中にアルコールが残っていて全く気分がよくなかったのだ。
「やあ、アレックス、元気かね」
 車の窓をスルスルと下げながら、ボブは人なつっこい笑顔を見せた。
「おはよう、ボブ。忘れてたよ、今日だってことを」
 僕は、せいいっぱい申し訳なさそうな顔をつくって言った。
「じゃあ、行けないのかい」
 ボブは少しがっかりしたような表情になって、半分白くなった不精髭をなでた。もしボブの乗っていた車が普通の車だったら、僕は間違いなく断わっていただろう。でもボブの乗っていた日本製の車が、あんまりボロだったから、僕は断わりづらくなった。こんな車に乗るのを僕がいやがっているんじゃないかと思われるのが辛かったのと、こんな車を駆って僕をさそいに来てくれたボブの好意をふみにじってはいけないような気がしたのだ。
「いま支度するから待ってて」
 そう言って僕はあわてて家の中に駆け込んだ。

 アスファルトの道路をはずれて道が細くなり、林の間に川が見え始めると僕は何だか気分がよくなってきた。車のラジオからはのんびりしたカントリーソングが聞こえていてボブはそれにあわせてハミングしていた。僕はボブとはじめて出会った日のことを思い浮かべていた。
 その日、僕はいつものように、本をよんでパソコンにさわって、それに飽きてテレビを見ながらジンを飲んでいた。大きな物音がして、すぐに救急車のサイレンの音がした。僕が家を出て、住宅街の交差点のところまでくると、人が集まっていて、頭から血を流した女の人が救急車に乗せられるところだった。パトカーが二台きていた。警官は、もう騒ぎは終ったから家に帰るように人々に頼んでいた。集まった人の中に男の人、しかも中年の男が多いのが、ちょっと僕には不思議だった。一時を過ぎたくらいの時刻だったので、普通の男は勤めにいっているはずだったから。
 僕が帰りかけた時、僕の隣で腕組していた男が呼び止めた。
「在宅勤務かね、あんた」
 僕は「まあね、好きな時に家にいられる仕事だから」と曖昧に答えた。その男は、「俺は失業中でね」と言って苦笑いした。それがボブだった。五十をちょっとすぎたくらいに見えた。背はあんまり高くないがよくふとっていた。もし腕に入墨でもあれば、海兵隊あがりだと言っても通用しそうな体格だった。ボブは尋ねもしないのに、元は電気器具の設計の仕事をやっていたとか、自分のかわりに女房がパートで働いてくれているのだとか、安い下着はどの店で売っているとかそういうことを、僕にむかってあけっぴろげな調子で話した。僕は面食らったが、悪い気持ちはしなかった。僕はほとんど家にこもりっきりなので人と話すのは久しぶりだった。もちろん買物なんかでは店の人と話すことはあるんだけど、それはまあ本当に事務的な会話だから。僕は何だかボブと話すのが楽しかった。
 広い草地のはずれのちょっとした岩場まできて、ボブは車を止めた。車の窓からは薄緑色の水面が見渡せた。ボブは、大きな体をゆすって車から降り、トランクから二人分の釣りの道具をとりだして僕に見せた。借り物なのだ、とボブは言った。ロッドは何だか古めかしい代物であちこちに緑色のカビが生えていた。
 ボブは釣りの仕掛をロッドにとりつける方法を知らなかった。先に準備がととのった僕が、手伝ってやると、恥ずかしそうな顔をした。僕は、ボブが特に釣りがやりたいわけじゃなくって、家にこもっている僕を引っ張り出すために釣りに行こうと言ったんじゃないかと思った。
 ボブはポケットからビニール袋にいれたスパゲッテイをとりだした。
「おれがつくったんだ。これは」
「昼ご飯?」
「いやいや、餌だよ」
「こんなもので釣れるの」
「そう聞いたけどな、これを小さくちぎるのだそうだ」
 ボブはそう言って、ビニールの口をひろげて見せた。長いスパゲッテイには茶色い粉のようなものがまぶしてあった。
「家族はいないようだな」
 僕の横に並んで釣り糸をたれたボッブが最初に言った言葉はそれだった。ボブは一度僕の家にちょっと立ち寄ったことがあり、僕に家族がいないことに気がついたのだろう。でもその時は、ボブは何も言わなかった。
「ああ、女房がいたんだけどね、出ていったんだ」
 僕が答えるとボブは
「そりゃあつらいなあ」
と言ってこっくりうなずいた。
 ウィークデーの午前中なので、あたりには人の気配がなかった。人がいない方が僕にはありがたかった。こういう時に子どもなんかに会うと、自分が失業中であることがひどくうしろめたくなって胸に圧迫感を覚えるのだ。
「奥さん、なぜ出てったんだ」
 ボブはタバコを口にくわえ、マッチを足元の岩にこすりつけながら言った。岩には白っぽい筋がつき、マッチはシュッと音をたてて燃え上がった。
「僕が失業したからね。それからいろんな事がおかしくなりはじめたんだ」
 僕の勤めていた通信関係の会社が大量にレイオフをやって、僕も解雇されてしまった。生活に困ってケイトが働きはじめたが、運のわるいことに仕事先で怪我をした。怪我自体はたいしたことなかったんだけど、ケイトの両親がそのことで僕をなじってから、僕の心に両親への憎しみが宿りはじめた。その憎しみは次第ににケイトにも向けられていったのだ。仕事をなくしてから、僕はちょっとしたことにも腹をたてるようになっていた。
 失業という言葉を聞いても、ボブは特に反応を見せなかった。
「知ってた? 僕が失業していること」
「ああ」
「はっきり言わなくって悪かったね」
「いいや」
「いつから知ってた?」
「最初から。だから声かけたんだ」
「カンがいいんだね」
「あんたのとなりにいたら、プンと酒のにおいがしたからな。それになんだか顔つきが気になってさあ」
 僕のウキがコツンと動いた。
「あの住宅街にもあんたやおれみたいな人たくさんいるんだぜ」
 僕は、救急車騒ぎの時、ボブと僕の間くらいの年齢の男がたくさんいたことを思いだした。みんな以前は会社の管理職をやっていたような感じがする人たちだった。
「なぜ、僕のこと気にかけてくれるんだ。赤の他人だろう」
「まあ、苦しい時はお互い様だ」
 糸を引き上げると餌がなくなっていた。
「みんなじっと家にとじこもって酒にひたったりしてるんだ。特にエリート社員だった人ほどそうさ」
 僕はボブに心の中を見透かされているような気がした。
「昼ごはんに来ないかい?俺のうちに。月に一度、昼食会をやってるんだ。連中みんなストレスがたまってるからね。俺の家は昼間は女房も働きにいってるし、子どもはハイスクールだから、静かだしね。酒はひかえてみんなで持ち寄ったもの食べるんだ。グチを言いながらね。食事のあとは、求人の情報を交換しあったり、うまい履歴書の書き方教えあったりさ。まあ気分転換になるぜ」
「ああ、考えとくよ」
 僕はなんだか気がすすまなくて曖昧な返事をした。人が集まるところに出るのはひどくおっくうだった。
「おお、引いた引いた」
 ボブのウキが水中に強くひきこまれて見えなくなった。力まかせにロッドを引き上げると、水面から大きな魚が踊りあがってきた。ボブはその魚をうまく捕まえることができずに草地に放り投げてしまった。僕は自分のロッドを放り出し、地面の上をはね回る魚を取り押さえた。
「なんて言う魚、これ」
 僕が聞くと、ボブは太い首をひねった。
「さあ、なんだろう」
「たべられるの?」
「多分な。いつかここに家族で遊びにきた時、この魚を焼いて食べてるのを見たことがある」
 そう言って、ボブは草の葉と砂が表面にいっぱいついた魚をビクに放り込んだ。
 結局その日は、同じ魚が5匹つれた。僕が二匹、ボブが三匹だ。僕は家族がいないし、料理のやりかたもわからなかったので、魚をボブにあげようとしたが、ボブはうけとらなかった。  

 家に帰ってから、僕はその魚の料理にとりかかった。はらわたを抜いて、鱗を包丁でとって、塩とスパイスをふりかけてオリーブ油で炒めた。やりかたを知ってたわけじゃないけど、昔ケイトがやっていたのを何となく思いだしながらやってみたんだ。
 魚と野菜を皿にもりつけると、何だか一人で食べてしまうのがもたいなくなった。ケイトに電話してみようかと思った。ケイトはここからずっと東の町に歳下の男と住んでいて、誕生日なんかに電話すると一応話だけは聞いてくれる。僕はいつかまたケイトがここに帰ってきてくれるんじゃないかとかすかな期待を持っていた。電話してももちろんケイトがここに来るわけじゃないけど、彼女の声を聞いたあとで食事すると一人で食べている気がしなくて少し幸せなのだ。
「何かようなの?」
 ケイトの声はいらだっていた。
「特に用事があるわけじゃないけど」
「そんなら切るわよ、いま忙しいの」
 赤ん坊が泣く声がして電話がガチャンと切れた。子どもがうまれたんだ。と僕は思った。僕とケイトの間に子どもはなかった。ケイトにとって初めての子どもだ。
「もうケイトに電話しちゃあいけないんだ。ケイトも自分の生活があるからな」
 と僕は思った。僕の心にまた黒い紗布のようなものがかかりはじめた。
「昼ごはんに来ないかい?」
 とさそってくれたボブの親しげな声の調子が、ぼんやりと胸にうかんできた。行ってみようかな、と僕は思った。  


1997.6 NOVELS WORLD 投稿


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