脳死や臓器移植問題にみる

いのちの捉え方

『討論会・座談会の記録』
1995年5月 名古屋西別院仏青勉強会

【注:この座談会は1995年5月に行われたもので、当時は脳死からの臓器移植は勿論、法制化もされていない段階でした。
脳死問題については脳死・臓器移植問題についての提言(1999年4月)でも触れています】


脳死や臓器移植の問題をどのように捉えたらよいか

 かつて『死』は自宅の中に自然なかたちでありました。近親者の見守る中、誰もがその人の最期を確認することが出来たのです。しかし現在の日本では、病院で医師が判定する事がほとんどで、死に方も含めて本人や家族の意向は反映されないケースが増えています。そんな中、医療の発達により臓器移植が可能となり、死の判定をめぐる問題が浮上してきました。

移植イメージ

◆問題提起

 臓器移植を効果的に行うためには、少しでも新鮮な臓器を用いたい。そのためには『完全な死』を迎えた体からより『脳死状態』で臓器を取り出したいと、医師や患者側から要望が出されています。法制化される可能性もありますが、(注:現在は法制化されている)何か問題は無いのでしょうか。

 政治や医学の見地からでなく『いのちのありかた』を通してこの問題を捉え、話し合ってみたいと思います。

◆臓器移植の現状

 1979年、角膜と腎臓が移植可能になりました。ただし、これは完全な死を確認してからの移植です。臓器の新鮮さが要求されるもの、特に心臓などは死体からでは技術的に困難が伴います。そのため、移植を希望する人は、海外に出かける事になります。

◆仏教の立場から

 浄土真宗の僧侶の中でも、臓器移植には賛成、反対を取り混ぜて様々な意見があります。「無我の立場からみれば問題無い」との把握や「臓器の提供は布施の行につながる」と、積極的に推進する人がいる一方、「人間の体を機械の部品のように取り扱うな」とか「他人の体を借りても生きたいというのは、煩悩を満足させる行為でしかない」等、強硬な反対意見も聞かれます。

◆あなたはどう思うか

 ここで大切なのは、教団の意見を無理に統一しない事です。このような微妙な問題には、それぞれ自分の意見があるはずですから、それを大切にして話し合いましょう。もし教団として「こうあらねばならぬ」と強制があったら、ちがう意見の人は排除されてしまいます。その時は浄土真宗が浄土真宗でなくなった時でしょう。

◎問題提起の後、45分間の話し合いが持たれました。

◆脳死を死とするか

:脳死といっても体は暖かいし息もしている訳ですから、家族は納得しにくいですよね。そんな状態で臓器を摘出すると言われたら、正直、頭が混乱するかもしれません。

:家族と本人の意向が優先されないと恐ろしい事態になりそうです。法律で許されると強制力を持ちかねない。

:自分が脳死状態だったら死んだでいいけども、家族だったら「摘出はやめてくれ」と叫びそうですよ。この叫びは聞き入れてくれるのか、そこが心配です。

:脳死を死とするかなんて医者に決めて欲しくないです。まして政治家なんかに何が分かるもんか。まず本人の意思が尊重されなきゃ。

:常日頃から家族で話合わなければならない、という事でしょう。自分はどうしてほしいのか、家族だったらどうするか。意見は日によって変わってもいいし、むしろそれを尊重したいですね。

[死の判定──医師が三徴候死(呼吸停止・心臓停止・瞳孔散大)を確認して死と判定します。現在では、脳死状態は死ではありません。ただし、脳死になると平均17時間で死にいたり、意識を取り戻す可能性はないとされています]

◆生死は一つ

:生と死を別に考えるのではなく、生死は一つと捉えてみましょう。そうすると大きな視点が得られると思います。

:こんな話があります。子供さんの死に際し、母親は大抵「死なないで!」と叫び続けられるんだそうです。ただ、ある母親は、今死なんとする八才のわが子に向かって、こう言われたそうです「今までよう頑張ったね。もう頑張らんでもいいからね」と。そこには生死を越えた大きな安心があります。

:脳死が死か否かという線引きも、私たちの執着がさせているのでしょうか。

◆仏様は裁かない

:移植は海外では頻繁に行われてるし、国によっては臓器が売買されてもいます。その点、日本は慎重といいますか、ある意味では利己的です。国内の法制化を待てない患者は外国に行き、移植を受けてくるわけですから。

:極端な話、無脳児をわざわざ育てて移植に使うなんて例もあります。自分の長生きのために他人の臓器を欲しがるというのは、やっぱり恐ろしい行為に思えます。

:確かに批判はあるでしょうが、それを宗教的に裁いてはいけないと思います。「どんな立場の人も救う」とおっしゃる如来様の願いをもとに考えたいですね。

:客観的に是非を決めるなんて、やはり出来ないですよね。

:是も非も、両方に意味があると思います。「助かる命をみすみす見逃す手はない」と考える一方、「長生きために他人の臓器をもらうのは行き過ぎだ」とも思います。

:人や立場によって意見が分かれるのは当然でしょう。僧侶や学者の意見が様々なのは自然で、むしろ素晴らしい事ですよ。

◆基幹運動との関連

:ただ現実問題、どちらかに決めなければならない場合があります。仏教徒として公の場で発言するためには、「あれも善しこれも善し」では意見になりません。実際、仏教徒が社会問題に対して発言が消極的なのは、決断が弱いからではないでしょうか。

:僧侶も現代医学をよく知って行動するといいでしょう。そうすれば問題がもっと具体的に絞れるし、別の解決法が提示できるかも知れません。本来、仏教はビハーラの活動をするのですから。

:基幹運動というのは、そうした本来の当たり前の活動をする、言わば『本願寺派が浄土真宗になる運動』とでもいうのでしょうか。わざわざ運動なんて、威張って言うもんでないんですよ。

:移植ではありませんが、献体をする率は、浄土真宗門徒が多いと統計に出ています。これは親鸞聖人の遺言にならった例でしょう。

:自分を持ち出すのではなく如来様を基準に考える、法にたずねていく姿勢が大切だと思います。

:健康が良くて病気が悪いのか。長生きが良くて短命が悪いのか。法にたずねれば、皆が長命と書かれています。短くても、充実した人生は本当は長い。完全燃焼できればいいんです。年月の長い短いは関係ありません。



 話し合いは予定を超えて1時間に及びました。休憩の後まとめの話を講師さんよりしていただき、「医療の問題も互いの信頼関係が重要」ということと、「いつも於汝意云何(あなたはどう思うか)と問われている」等、聞かせていただきました。

終了後、全員に感想や疑問点を書いてもらいましたので、一部を掲載します。

──どういう道でも──
 今の段階だと私は「臓器移植してまでも生きたいとは思わない」という気持ちです。しかしそれは今、自分も家族も健康であり、周囲にも移植を待ちわびている人を知らないからだと思います。ただ、そうなった時、どういう道を選んだとしても、如来様はそのまま見守り、受け入れて下さるのだと聞くことが出来て、うれしく思いました。

──No problem──
 個人的には、臓器移植賛成です。脳死を人の死として認定して、その臓器を取り出して移植することの、一体何が問題なのか。そのことのほうが今の私には理解しがたいです。病気で苦しんで死にそうな人がいて、その人を助ける手段もあるときに、そうしないことの根拠がどこにあるのか。もし私が医者なら、患者や家族、自分自身も納得させることはできません。

──偏らない教え──
 「生死は表裏一体である」という大きな視点、立場で考えることが肝心であると改めて感じた。移植に対して龍大の中でも是非が分かれているということは、一見まとまりのない教団と思われるが「どちらかに偏らないところに浄土真宗の良さ、らしさがある」という内田先生の意見には私も同感です。決して逃げの言葉ではないと思います。

──死を論ずること──
 人間が死ぬことは簡単でありますが、それを論ずることは非常に難しい。例えば、死ぬことを心臓停止や脳死ということで区別する難しさ。判定するのは医者だと思いますが、浄土真宗においても、死の世界についてもっと話し合いをしてほしいと思いました。

──二つの考え方──
 『死』の判定については、二つの論が出されているぐらい難しいテーマになる。「浄土真宗としては、二つの考え方があっても良いのではないかと思う」と、講師が述べられたが、私もそのように思う。臓器移植については、私には何ともいえない。それは、ドナーと患者の関係です。

──家族や職場、学校で──
 常日頃から意志を周囲に明らかにしておく事は、たいへん良い事だと思います。朝食、夕食時には家族に、朝礼時など職場や学校で話してみても良いかも知れません。いのち、健康は、いついかなる時、場合も等しいと思います。そういう意味では、いつ死んでも人生の価値や重さは同じでしょう。でも、偽らずに申せば、「元気で長生きしたい!」
 言うとる事と思とる事が違うということでしょうか?

──仏教に聞く──
 『いのち』をどうとらえているか・・・・。『いのち』がわからない。だから仏教に聞いてみる。『いのち』の尊さがわからない。だから仏教に聞いてみる。『社会問題』に対して私がどうあるべきか。わからない。だから仏教に聞いてみる。「聖典」を聞きましょうよ。そこには「人間の生活」が書いてあるそうですから。
 (追記)「何か人生で問題にぶつかる。大きな問題に・・・・。そんな時『お正信偈』を開く。そしてきいてみる。そこに書いて無いことは、うっちゃっておけばいい。そこに書いてあったら、その問題を大切にして下さい」そんな言葉が好きです。

──解決出来ぬ問題──
 臓器移植の法制化にしても一人一人の思いが反映されるように進んで欲しいのですが、私自身、また私の家族が提供者になった場合、相当に複雑な思いを引きずるでしょう。「人生は長い短いではありません」というのは本当だと思います。しかし『今』私は死にたくない。多分明日も一年後も、その後でも同じような気がします。これは『いつか解決出来る問題』なのかどうか、『解決しなくてはいけない問題』なのかも判りません。

──話し合う場を──
 結局のところ、何が是で何が否かということは分からないし、言えないと思う。「こういう事について家でも話せるような時間をもつ」という指摘はまったくだと思い、また少しは話しているのだけれども、互いの思いを話し合う場をもっと作っていきたい。

──無分別の智慧──
 生きとるんか、死んどるんかという二元的な問題に執着するのは仏教的でない。しかし、現実に死にたくない。でも死んでいかんならん。やはり生死いずべき道、二元的な分別を超え、無分別の智慧に会うことでしか、私自身、救われていかんのだろうと思う。
 思えば、お釈迦様のように無明を理解し超越していくだけの智慧があるなら問題は無いが、脳死を考えても私の虚妄分別でしか理解しえないのだから、自分自身にしか答えはなく、浄土真宗はこうといわれても、納得しえない。ともに念仏を称え、阿弥陀様とともに生きていくという理解でしか、私自身生きていけないし、死んでいけない。

──自分の考え──
 客観的に見るのと、自分や自分の家族の問題として見るのでは、雲泥の差があると思います。『命』という問題にしても多くの先生方が論じられておりますが、やはり自分の考えということは大事であります。本日の勉強会でも様々な考えを聞けて、参考になりました。今一度、自分自身を見つめて『いのち』について考えてみたいと思います。

──見抜かれた救い──
 内田先生のお話はとても有り難かった。健康な人も、病気の人も、長生きな人も、八歳で死んでいく子供も、同じように大切な値打ちあるものとして見て下さる。
 「健康が良い」「長生きしたい」と、思うのが人間の自性だと思いますが、それを見抜いてのお救いでございます。生き方を決められたら、そのように生きられない人はお救いから漏れていくしかない。
 どのような生き方をしても救うというのが如来さまのお慈悲だと頂いております。アミダさまに似た慈悲をもてと、アミダさまが私に期待しておられる。アミダさまの真似事をする。そのことがお救いに対する御恩報謝だと思います。

「於汝意云何」の心を常にもってご法義を聞いて下さい。人生、世間すべてがご法義です。それを気づく耳と目が養われるのが「聴聞」です。共に学びましょう。

[講師/内田正祥師]


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浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)