脳死・臓器移植問題についての提言

― 宗教者はどの立場に立つべきか? ―


【特集・コラム】平成11年4月15日


 脳死・臓器移植問題については、医学、宗教関係者のみならず、様々な分野で、また一般の人も巻き込んで論議がされている。移植法案可決後、初めて行われた脳死患者からの移植であるため、感情論に流れがちな問題だが、ここで、しっかりと宗教者としての立場を明確にしておきたい。

◆ 宗教者の立場は?

 我が宗門(浄土真宗本願寺派)においての動向も様々で、基幹運動本部事務局編集の冊子『共にあゆむ42号―脳死と臓器移植』においての施行前の表明(詳細はHP『祐専寺のページ』の脳死と念仏者の生命観・身体観に掲載)や、移植施行後、『本願寺新報1999年(平成11年)3月20日号・赤光白光』においての掲載は、宗門内でも微妙に「賛成」「反対」「推進論」「慎重論」のニュアンスが異なって出ていることをうかがわせる。

 実は私たち仏教青年会においても、1995年5月に討論会があったが、その際にも賛否両論があった。(参考――討論会・座談会の記録 脳死や臓器移植問題にみる いのちの捉え方

 当時はまだ法案も可決されていない時点だったので、本来ならもう一度討論会を行って意見をまとめるべきかも知れないが、その機会を待たず、今回は「私論」という形で提言を行うことをお許し願いたい。

● 個々の人、人の立場に立つ

 まず宗教者として、してほしくない、してはならない事がある。それは経典や聖書、論釋等から賛否の結論を取り出し皆に押し付けるなということだ。
 これは案外やりたがる人が多いが、慎んでほしい。古い経典や聖書が書かれた時点では、脳死問題や臓器移植の問題は無かったはずである。もちろん参考になる箇所はあるだろうが、あくまで参考である。そしてその参考とする部分は、個々の人の立場に立ち、決して生命を形而上の問題にしないところである。「生命とは何か?」という問題は重要だが、そこに結論を用意し、人々を納得させて従わせていく、という動きが一番人々を困らせる。多くの宗教がこれによっていかに人々に害を与え傷つけてきたか、歴史をひも解けば枚挙にいとまが無い。

 個々の人の立場に立つ、とはどういうことか。それは――

  1. 移植を受けないと自分もしくは身内(例えば子供)が、あと数ヶ月の命であると宣言された人の立場に立つ。
  2. 移植を既に受けた人の立場に立つ。
  3. 身内に脳死患者が出て、その人がドナー登録をしていた、という家族の立場に立つ。
  4. 移植手術を任された医師の立場に立つ。
  5. 脳死患者の立場に立つ
ということである。

 あらゆる人の立場に立って考えられる、ということこそ、宗教者の宗教者たるゆえんではないだろうか。そうした意味で「俺は絶対こう思うゾ」と変な自信をつけて言う前に、一度は言われた相手の立場で言葉を聞いてみることをしてほしい。

● 人格を踏みにじらない

「いのちの尊厳」という言葉は、美しい響きをもち、言葉を使用するには便利だが、今一つ抽象的で、何の事かわかりにくい。これをひとつ「人格を踏みにじらない」という意味で使用して、上記の立場で、実際に解決しなくてはならない問題を挙げてみよう。

  1. 脳死患者から臓器移植までしてもらって命を長らえさせることが、本当にいいことなのかどうか。許されるのだろうか? という悩み、迷いに応え、相手の気持ちを冷静に保たせ、移植手術におもむかせる。もしくは心穏やかで完全燃焼の死をむかえられるよう相談にのる。
  2. 移植を受けたことによる身体的精神的負担を理解し、感謝の心が自ずから湧くように向ける。また、心ない罵詈雑言から本人を守る。
  3. 臓器提供する人の意思を尊重し、互いに確認させる。もしくは翻意させる。そのため、日頃からの話し合いを深めておくようにすすめる。また、これを機会に家族のあり方を考える。
  4. 移植手術を受ける側とドナー担当の医師双方の心のケアーを引き受ける。
  5. 脳死状態の患者に臨終の言葉をかける。脳死状態であればこそ、できれば最期に感謝の気持ちで臨終を迎えていただきたい。そのため早急に定型の文章を作成し、状況に応じて臨機応変に使う。

 ちなみに以上は「臓器移植にもろ手をあげて賛成」という立場で言っているのではない。法的にも技術的にも、まだまだ問題は山積しているし、その中にはかなり深刻な問題点もある。
 しかし「だから何が何でも反対」という意見は、余りにも当事者の気持ちを無視している。彼らのぎりぎりの迷い悩みにこそ宗教者は耳を傾けるべきであろう。そして、現場の声の積み重ねの中に教えが生かされてこそ、「生命とは何か」、「脳死患者からの臓器移植は是か非か」という問題にも答が出せるのではないだろうか。

◆ 本当の巨悪は?

 実はこの臓器移植に関連して、ひとつの巨悪に発展しかねない問題が存在する。それはクローン人間である。

 他人の臓器を移植すると、必ず起こるのが拒否反応。これは免疫という本来生命維持にかかせない作用によるもので、この作用を抑えるため、移植後は「免疫抑制剤」を投与し続けなくてはならない。ところが投与すれば当然、免疫力は低下し、体をむしばむという副作用が発生する。
 ただし、この免疫作用は、一卵性双生児の間では拒否反応は起こらず、ほぼ完全な移植となる。そしてこの一卵性双生児を人工的に誕生させる技術が「クローン技術」である。

 クローン技術の人間への応用が、各界猛反発の中でも進められようとしている背景には、拒否反応問題のクリアがあることは、医学界では衆知の事実なのだ。クローン人間を作ること自体は、現在は「技術的問題」と「作り出すことの倫理的問題」等が取りざたされているが、本当の問題はクローン人間自体への差別、つまり人格(もしくは生命)の無視が一番大きい。

 闇の中で育ったクローン人間の臓器が、ある日、もとの細胞を持つ人間の移植に使われる――まるでSFに出てきそうな話だが、現実に起こる可能性が無いとは言えない。何しろクローン猿までは既に誕生している。人間への一線を越えるのは、技術的にはほとんど障害はない。

 しかし、これこそ宗教者が声を大にして反対せねばならない巨悪であろう。そして、もしクローン人間が誕生してしまったとしたら――全力をあげて誕生した人間を守り、人としての人格を尊重し、間違っても移植の材料にされないよう、はたらきかけなければならない。

[小笠原 信]


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浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)