読売新聞社『THIS IS 読売』96年5月号

台湾海峡 渦巻く中台の虚実

一触即発に見える台湾海峡の状況は一種のゲームである。 ゲームのルールと実相を見きわめないと、大局の判断を誤る。

「四十余年来、中国統一の追求は、われわれの一貫した不変の目標である。その間、主観的、客観的条件の変化によって、用語や戦略に若干の相違が出てきたとしても、中国統一の目標にいささかも改変はない」「台湾の将来の発展の基盤は大陸にある。台湾独立は行き止まりの道である」。これは誰の発言であろうか。統一を求める大陸側の見解と受け取られるかもしれないが、実は台湾の李登輝総統の一九九三年一〇月二八日の発言である(『李登輝総統の言論選集』行政院新聞局、九五年四月、一二三頁)。「中国の分裂、分治は中国人の不幸である。中国の統一を求めることもまた、われわれの変わらざる目標である。われわれが四十数年来努力してきたのは、将来の中国統一のためであり、その範を示すためであった」「国際社会はすでに対立を放棄し、合作を求める時代に入っている。誤った苦難の古い時代を捨て去り、新たな局面を開拓するため、無駄な対抗意識を捨て去り、海峡両岸に平和競争の時代をもたらし、共に時間を惜しみ、各種資源を活用し、将来の中国の自由、民主、均富、統一のために、共同で努力するよう呼びかけるものである」(同上、一五九頁)。この発言もまた李登輝のものだが、同じ内容を江沢民総書記が語ったとしても少しも不自然ではない。海峡両岸の指導者たちは、ともに統一を追求しながら激しく敵対してきた。緊張は昨年の李登輝訪米以後、急速に強まり、三月二三日の総統選前後にピークに達した。

台湾経験とケ小平路線

大陸側の李鵬総理は今春の講話(『人民日報』一月三一日付)で、「台湾問題を解決する最も根本的条件は中国自身の事柄をりっぱに処理することである」と述べた。「中国自身の事柄をりっぱに処理する」とはいかなる意味か。なによりもまず経済発展であろう。一人当たりGNPはいま、大陸と台湾では一桁違うほどの差がある。また民主化を急速に進めつつある台湾と、先送りし権威主義的体制のもとで「開発独裁」を進める大陸では政治体制上の垣根も高い。李鵬はこのあたりの事情を示唆しているはずだ。つまり「香港問題は来年片づくから次は台湾統一だ」とか、「台湾問題をいつまでも先送りするわけにはいかない」といったスケジュール論など、さまざまな議論を意識しつつ、条件を欠いた統一論議の前に、大陸の経済発展を成功させること、政治的民主化の条件(たとえば識字率の向上)を作ることが先決だと李鵬は明確に指摘しているわけであり、これはきわめて穏当な見解である。

李登輝自身は海峡両岸の四十余年をこう概括している。五〇年代は「台湾建設、大陸反攻」期であった。「一方で台湾を建設しながら、他方で武力をもって中共を打倒しようとした」。六〇、七〇年代は「台湾建設、大陸光復」期であった。中共に対して「軍事三分、政治七分」の戦略を採用した。七〇年代後期に「台湾建設、中国統一」に改めた。「民主自由を武器とし、平和競争を手段」とした。平和統一の目標達成のために、九一年には「動員戡乱(ルビ・かんらん、戡乱とは反乱を平定するの意)期」の終結を宣言し、武力対抗を放棄した。国家統一委員会を設立し「国家統一綱領」を制定し、「交流互恵・互信合作・協商統一」の三段階に区分した。民間交流から始める漸進策である(同上、一二三〜一二四頁)。台湾の大陸政策の変化はむろん大陸の改革開放路線と深くかかわっている。ケ小平がいわゆる「台湾経験」を強く意識して「改革開放」路線に転じたとみるのは、ほとんど常識であろう。むろん大陸の改革開放路線の定着は容易なものではなく、しばしば危機に直面した。最大の危機は九一年暮、旧ソ連解体に伴う動揺であった。かつては兄弟国であったこの国を襲った激震を横目でにらみながら、九二年春節前夜、ケ小平は最後の闘争に乗り出した。改革開放の先兵の役割を果たしてきた深経済特区を訪問し、有名な檄(南巡講話)を飛ばした(本誌九二年七月号の拙稿を参照)。ケ小平の檄は神通力を発揮した。天安門事件以後の引締めのなかで低迷していた中国経済は一〇%台の成長率を回復した。近隣諸国からの直接投資も激増し、「中国経済の奇跡」が語られるようになった。

李登輝の幸運とすご腕

冒頭の李登輝発言にもかかわらず、大陸側が李登輝路線に神経をとがらせているのはなぜか。過去一〇年、台湾は「静かな革命」(原文=寧静革命)を進めてきたが、発端は八六年一〇月、蒋経国総統(当時)が「党禁」を解除し、野党の活動を認める措置をとったことである。一一月民進党が第一回大会を開いた。翌八七年七月には三八年間続いた戒厳令が解除された。八八年元旦から「報禁」も解かれ、報道が自由化された。八七年一一月には大陸に親族をもつ台湾住民の里帰りも許された。政策転換の先鞭をつけた蒋経国は、八八年一月一三日死去し、李登輝副総統が総統に昇格した。九〇年三月、李登輝総統は記者会見で初めて「中華人民共和国」と呼ぶとともに北京が台北を「地方政府」と呼ばず、「平起平坐」(地位や権力が対等なこと)に扱うよう求めた。これは大陸側の「一国両制」(社会主義と資本主義の共存)に対して「一国両府」(北京政府と台北政府の共存)を対置したものであった。九〇年一〇月、総統府国家統一委員会が発足し、九一年二月国家統一綱領を採択した。この綱領の核心は北京と台北が互いに相手を「政治実体」と認め、「対等の原則」で排斥しあわないよう呼びかけたものである。九一年一月には行政院に大陸委員会が設けられ、二月には財団法人「海峡交流基金会」(辜振甫理事長)が設立された。李登輝のもとで国民党の「台湾化」は急速に進んだ。彼自身が台湾生まれであり、台湾出身者はいまや国民党の主流派になった。執政党たる国民党の変身に対応して、台湾における中華民国政権の「本省化」も進んだ。台湾政権は蒋介石時代はもとより蒋経国時代においても、建前としては大陸をも含む全中国の政権が一時的に台湾に移ったものとするフィクションに基づいていた。中国大陸で選出され四〇余年も改選なしに在職した「終身議員」制度の存在はそのシンボルであった。これらのフィクションを現実に合わせて軌道修正することが李登輝の課題となった。台湾経済の高度成長および脱冷戦の潮流のもとで台湾の政治、経済、社会が多元化する状況下で、李登輝は巧みに時代の潮流をとらえ、国民党の主導権すなわち台湾政治の主導権を掌握していった。蒋経国の死去とともにストロングマンによる政治は終わり、「権力の多元化、相互牽制」の新しい局面が形成されつつあったが、そのような時期の指導者に求められる資質と李登輝の個性が合致したものであろう。八八年七月、国民党第一三回大会で総統に選ばれて以後の李登輝の党内操縦術は端倪すべからざるものがあった。大会では李登輝総統と李煥行政院長に郝柏村参謀総長を加えた「両李一郝」体制が成立したが、九〇年春林洋港を総統に、蒋緯国を副総統に推す動きを挫折させ、李登輝総統、李元簇副総統のもとで郝柏村が行政院長になった。しかし、九二年蒋仲苓国防部長人事をめぐって対立した郝柏村を九三年一月辞任させ、連戦行政院長に代えるなど一連の過程を経て、たかが学者出身の「過渡的人物」に見えた李登輝が名実ともに台湾のナンバーワンの地位を固めるに至った。

民主化か、独立化か

李登輝のもとでの「台湾化、本省化、民主化」を大陸側は「事実上の台湾独立化」とみなし危惧してきた。その疑惑を決定的に深めたのは、李登輝・司馬遼太郎対談であった(『週刊朝日』九四年五月六日号)。李登輝はこう語った。「いままで台湾の権力を握ってきたのは、全部外来政権でした。国民党にしても外来政権だよ。台湾人を治めにやってきただけの党だった。これを台湾人の国民党にしなければならない」。李登輝は外来政権のもとでの「台湾人に生まれた悲哀」を嘆き、旧約聖書の「出エジプト記」に言及し、こう結んだ。「多くの台湾の人々が犠牲になった二・二八事件〔一九四七年二月二八日の国民党による武力鎮圧事件〕を考えるとき、”出エジプト記”は一つの結論ですね。そう、出発した。モーゼも人民もこれからが大変です」。この発言は台湾海峡両岸に大きな波紋を巻き起こしたが、日本ではその波紋が逆流して話題になったものの、一部の関係者に限られていた。日本の世論が両岸問題についていかに鈍感であるかをよく示している。ほとんどこの問題に対する理解能力を欠いているのではないかと思われるほどだ。

李登輝はよくぞホンネを語ってくれたというのが台湾民衆の印象であったと推測できる。同時に大陸側は、李登輝は口先では統一問題を語るがホンネは独立志向だと警戒を強めた。その警戒感が爆発したのが李登輝の訪米であった。かつて留学し農業経済学の博士号を取得したコーネル大学を私人の資格で訪問することにはなんら問題はないとするのがアメリカ議会の要求を容れたホワイトハウスの見解であったが、北京は私人ではなく事実上総統の訪問とみなして猛反発した。訪米に対する『人民日報』評論員、新華社評論員の連名による一連のキャンペーンは、文化大革命時代の中国にタイムスリップしたかのごとき人身攻撃であった。このキャンペーンに呼応して、七月二一〜二六日および八月一五〜二五日にミサイル演習を行った。核実験も五月と八月と二回続けた。実験の成功は「国家の主権と領土の保全」「祖国の統一を擁護する能力」を示すものと説明された。一〇月中旬および一一月下旬にも福建省で大規模な演習による示威を行った。

二つのキーワード

ここで中国が強調している二つのキーワードが「主権」と「統一」であることに留意しておく必要がある。中国にとって安易な妥協はありえないことを意味するからだ。九五年七月二四日付評論では、「李登輝は昔、中国共産党に入党し、その後、裏切った」「中華民族の千古の罪人」と断罪している。ムキ出しの近親憎悪であり、冷静な対応からはほど遠い。江沢民は強硬な路線を貫くことでポストケ小平の指導者としての地位を固めるのであろうか。西側はこの中国ナショナリズムを軽視してはなるまい。アヘン戦争以後一五〇年、いわばナショナリズムの「最後の輝き」であろう。一月三一日付『解放軍報』は社説を掲げて、「平和統一の日程を無限に引き延ばすことはできない」と書いた。他方、前述の李鵬講話は「九五計画期に香港、マカオに対して主権を回復するので、台湾問題の解決は全中国人民の面前の突出した課題となる」と述べた。両者から統一問題に「積極的な解放軍、慎重な国務院」といった構図を説く向きがあるが、これは疑わしい。というのは『解放軍報』の社説は結びで李鵬講話と同じ趣旨を述べているからだ。台湾問題は中国人の琴線に触れる。戦略戦術の硬軟はありえても、政策対立には結びつきにくいテーマなのだ。これに異を唱えることは政治的墓穴を掘ることになる。私がナショナリズムの最後の輝きと呼ぶのはこの意味である。政治局常務委員レベルでも江沢民・李鵬・朱鎔基の主流派に対して喬石、李瑞環を反主流派と見て、硬軟の差異を見る向きがあるが、喬石および李瑞環が台湾問題ではともに強硬な発言を行った事実が確認されている。

李登輝攻撃は筋違い

では李登輝の真意はなにか。九五年一〇月中旬、台湾大学で「文明史上における台湾」と題したシンポジウムが開かれ、私も招かれて出席し、「ポストケ小平期における海峡両岸の経済関係の展望」について報告した。会議の翌日(一〇月一六日)、シンポジウムの出席者は全員総統府に李登輝を訪問し、懇談する機会を得た。当初は一時間の約束であったが、李登輝はだいぶ機嫌がよかったらしく、「皆さんと話していると楽しい」などと語りながら、秘書の示唆を押さえて二時間座談を続けた。談論風発、その雰囲気は政治家の接見というよりは、大学における李登輝ゼミナールの雰囲気であった。話題は、風水の話から教育問題、カオス理論からファジー理論まで、そして海峡両岸の政治問題に及ぶ広範なものであった。この会見できわめて興味深かったのは、李登輝が司馬遼太郎に語った「台湾人の悲哀」「モーゼの出エジプト」についてのエピソードの新解釈であった。李登輝は自らをモーゼになぞらえたもの、「蜂蜜とミルクの流れる約束の土地」とは「台湾」の暗喩にほかならないと多くの人々が理解したが、李登輝は明確にこれを否定した。「ある日本の学者がモーゼはあなたかと聞いてきたが、私は自らをモーゼになぞらえるほど思い上がってはいない。モーゼとは台湾の民衆ですよ」。では約束の土地はどこか。李登輝は客家出身だから福建省永定県の父祖の地を忘れていないし、「新中原の建設」というスローガンも客家の故地が中原であったことを考えると、意味深長なのだ。大陸側が李登輝を独立派として攻撃しているのは、攻撃対象を誤認している可能性が強い。

首脳会談への展望

大陸側の武力行使はありうるのか。台湾が独立に動かない限り、大陸側の武力行使はないことは、大陸側がしばしば示唆している事実である。では台湾は独立に動くのか。李登輝がいかに「統一」路線を堅持しているかはすでに指摘した。李登輝の立場を「独立派」として攻撃するのは、大陸側の作戦である。李登輝自身は二月二三日の内外記者会見で「台湾の民主化」を批判することができないので「私を独立主義者として批判している」とコメントしている。李登輝が「民主化派」「台湾化派」であり、「独立派」かどうか疑わしい以上、大陸側に軍事的攻撃能力があったとしても武力行使はありえまい。大陸は選挙自体を無効だとしているのではなく、たとえ直接選挙で選ばれたとしても、中国からの独立は認められないとしているのである。再選後の李登輝はおそらく緊張緩和を呼びかけるであろう。時期はともかく李登輝訪中もありえないことではあるまい。海峡交流基金会の辜振甫理事長は筆者らとの九五年三月の会見において、夏(九五年夏の意)には北京で汪道涵海峡両岸関係協会会長に会うつもりだと訪中の意向を明確に語っていた。「九三年にはシンガポールのお世話になりましたが、海峡両岸関係は第三者の手を煩わすような段階ではありませんよ」と。李登輝訪米のあおりで九五年訪中は流れたが、九六年中には辜振甫が北京へ行き、念願の京劇を見る機会があるものと私は予想している。これに応えて、汪道涵の台湾訪問が行われるならば、首脳会談の展望も開けるであろう。

中国脅威論と新冷戦

旧ソ連解体と中国経済の躍進を契機として、いわゆる中国脅威論が語られるようになった。これに対する中国側の反論には「”中国威脅論”を反駁する」(『中国国防報』九六年一月七日)と観察家署名の「冷戦思考の台頭を防げ」(『人民日報』九六年一月二六日)がある。後者は「”中国遏制”論を駁す」というサブタイトルがついている。この「遏制論」(ルビ・あっせい)とは、アメリカの外交官ジョージ・ケナンがXの筆名で書いた封じ込め論Containment Policyに対応する中国語の訳語にほかならない。ケナンの封じ込めの対象は当初は旧ソ連であったが、朝鮮戦争以後、中国もまた封じ込めの対象となったことはよく知られた事実である。米国の封じ込め政策のもとで新生中国がいかに苦悩したかは、大量の餓死者を出した大躍進政策や中国の経済発展を大いに遅らせた文化大革命を想起するだけでもその一端は理解できよう。毛沢東によって主導された二つの大きな失敗は、封じ込めを外因とする鎖国政策のもとで起こった悲劇なのであった。一九七九年の米中国交回復まで米中対決が三〇年続いたのは、むろん双方の政策によることはいうまでもない。問題は旧ソ連が解体し、冷戦体制が終焉したはずの今日、中国が「冷戦思考の台頭」を認識する事態がなぜ生まれているのかであろう。王緝思(中国社会科学院米国研究所所長)によれば、米国の中国脅威論は次の五カ条からなる。第一は中国の全体主義国としての性格は不変であり、これを諸悪の根源とみる反共主義の立場である。第二は中国が政治大国になり、その地域覇権要求が国際秩序への挑戦だとみるものである。第三は経済的挑戦論である。低賃金労働を利用したダンピング輸出で米国経済を混乱させているとみる。第四は「文明の衝突」論である。儒教文明とイスラム文明が西側のキリスト教文明を攻撃しているとみる。第五は隣国の脅威論である。中国の軍事力が強大化し隣国(たとえば台湾)に脅威を与えているとする(『解放日報』九六年一月六日)。要するに、米国の中国脅威論者は現状を「新たな冷戦の始まり」とみると王緝思は説いている。

演習が狙ったもの

この種の中国脅威論を前にして、大陸の強硬な台湾政策は脅威論を裏書きする結果になると私は恐れるが、北京の指導者たちはこわもての心理作戦を上策とみているようだ。朝鮮戦争以後の国際環境と今日の国際環境には大きな違いがある。中国はすでに国連安全保障会議の常任理事国であるし、また世界貿易における中国貿易のシェアは第一〇位になっている。大きな差異にもかかわらず、中国がかつての封じ込めの悪夢を想起するのはおそらく「痛みが静まってから痛みを感ずる」(原文=痛定思痛)類の後遺症であろう。

中国はなぜ台湾および国際世論の反発を敢えて無視して、ミサイルによる牽制を強行したのか。その狙いは、一石三鳥であろう。まず第一に、台湾独立を許さない態度を示すこと。これは台湾の人々に対する警告であるとともに、外国勢力すなわち米国(そして日本)に向けたものである。第二に事実上の台湾独立派と中国が認識する李登輝への得票を減少させること。当初は当選阻止をも意図したが、それは無理な相談であった。第三は、中国の内部統一のためである。これは三つの系に分けられる。一つはチベット自治区など少数民族地区の分離傾向への警告である。二つは広東省など各省の自主権拡大要求への警告である。三つは江沢民指導部の体制固めのためである。

第一は台湾の主権が中国にあるとするこれまでに国際的に認められてきた原則の確認である。この原則の確認のために、これだけの手段が必要であったか否かの議論はさておき、この原則を主張する中国の立場は理解できる。第二は、選挙結果が示したように、まるで逆効果であった。台湾の選挙民がミサイル恫喝に対して、投票で応えたことの意味を北京当局はよく理解しなければなるまい。第三は、結果的にはこれが最大の目的ではなかったのかと推測したい要素である。台湾問題は中国にとって主権問題であり、ナショナリズムの琴線に触れる問題である。ここから台湾問題=主権問題=最大限の手段使用可能という原則論が導かれ、中華意識で支えられる。強硬な原則論が世論となるとき、いかなる政治指導者も妥協や宥和政策をとりにくい。党の立場も軍の立場も基本的に同じである。今回のミサイル演習、上陸演習によって江沢民と軍部との相互依存関係はより強化されたとみられる(『読売新聞』三月六日付、杉山電)。すなわち軍は台湾問題を理由として政治的発言力を増し、近代化を進め、江沢民を全面支持するという構図である。党と軍の関係、距離のとり方には微妙なところがある。天安門事件以後とりわけ「軍に対する党の絶対的指導」が強調されてきた。軍の支持によって立場を強化した江沢民は次の段階ではよりいっそう文民統制、すなわち「軍に対する党の絶対的指導」を強化する課題に迫られよう。

世界中が騙された?

海峡両岸の緊張は卑近な例えで申し訳ないが、あたかも夫婦喧嘩である。両岸流は「溌婦罵街」である。「溌婦」とは、元気溌剌たるご婦人だが、彼女が通りに出て大声で町内世論工作、心理作戦を行う。世論工作の勝者が喧嘩の勝者になるから、夫も対抗せざるをえない。言葉は激しいし、説得力競争になる。日本流の夫婦喧嘩が外聞を恐れ、室内で二人だけでやるスタイルとは大違いである。日本はかつて台湾を植民地統治した歴史をもつ。その功罪評価は別として、両岸問題に対する日本の介入は、誤解曲解の口実を与えるおそれがあり、極力避けるべきである。すなわち一部では李登輝を「日本皇民」と揶揄し、「独立を使嗾するのは日本自身のため」とする反日宣伝が行われている事実を直視しなければならない。日本はこれを刺激する愚行を避けるべきだと私は信じている。台湾海峡の緊張をめぐって世界中が危惧したが、その緊張は李登輝の当選を助け、ポストケ小平への過渡期にある江沢民体制の強化を助けることで終わったとみてよい。世界中が両岸流の夫婦喧嘩スタイルに騙された形ではないか。再選された李登輝は五月二〇日に総統就任式を行う。選挙戦がスタートする前日の記者会見で「初代民選総統の任務は、両岸和平協定の締結だ」と語った李登輝は、「三通解禁」やみずからの北京訪問をも含む首脳会談など関係改善に取り組むであろう。その露払い役の一人は辜振甫海峡交流基金会理事長であろう。もう一人の主役米国が決定的な役割を演じるであろう。米国からみると、米中関係には三つの大きな問題がある。第一は人権問題である。ハリー・ウー事件が片づいたと思ったら、いま「政治犯」魏京生にノーベル賞を与えようとする動きが持ち上がり、北京の神経を逆撫でしている。中国の一人っ子政策そのものを人権侵害とみる向きもあり、この価値観上の両者のギャップは大きい。第二は貿易摩擦である。米国は九四年の対中貿易赤字を二九五億ドルと主張したが、香港経由の輸出入を控除して計算すると赤字はその三分の一、約一〇〇億ドルに減少する。中国に香港と台湾を加えた中華経済圏と米国の貿易赤字を見ると、八七年の二五八億ドルから九二年の二八三億ドルへと五年間で一割の増加にすぎない(『FEER』誌二月二二日号)。米国では水増し数字に基づいて中国のダンピングを非難していることになる。第三は中国の軍備拡張や武器輸出入問題である。米国からみて台湾問題はこれら三つの論点が結合した形をとる。米国好みの民主化を進め、米台貿易摩擦も減少させた台湾が共産主義的軍事大国の圧力に悩まされているとみる構図である。加えて米国議会向けの台湾ロビーの活動も成功しており、大陸は影が薄い。

新たな米中対話へ

とはいえ、中国の軍事的脅威なるものは二〇〜三〇年後の可能性の話であろうし、やがてアメリカに対抗しうる可能性をもつ唯一の核大国とは、対決よりはむしろ結託に向かう可能性が強い。総統選後に新たな中台対話が始まるのと連動した形で、大統領選後には新たな米中対話が始まろう。台湾海峡の平和を守りつつ、経済交流を続けていけば、大陸の人々の生活水準は急速に台湾のそれに近づくであろう。大陸の経済発展が政治の民主化を促すのは、台湾の経験に照らして疑いない。大陸側にその条件が生まれてこそ、統一の展望(実は連邦構想)が開けよう。二一世紀前半にその姿を予想できるはずである。