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   初回   97.01.13.1730JST Last Up Date 2003.10.13 メールはこちらへ ono@big.jp
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○競争社会ではなく協力社会を

いまの社会がこれでよいと思っている人は少ないと思います。  それではどこに間題があるのか、熱心に考えざるを得ません。個人の考え方やあり方には相違 があっても、社会全体としては競争社会であることが根本的な問題であると思います。  人生の目的や価値の基準が競争原理に基づいている場合が多くあります。 競争がなくては進歩はないと考える傾向が強くあります。そして競争社会は当然勝者優先となり、 勝者がすぐれた人であり、勝てない人は駄目な人、役に立たない人と思われ、知らず識らずのうち に差別と不公平の意識が生じます。        これは何でも点数で評価して順位をつけなくては決着がつかなくなっている学校教育にも大き な原因があると思います。     教育基本法に人格、人権の平等が唱えられていても、ものわかりの悪い子供、要領も能率も 悪い子供、勝負に弱い子供、規格に合わない子供、肉体的精神的に先天的疾患あるいは弱点を 持っている子供は、どうしても重んぜられないのが普通になっています。  その上、家庭を失ったり、親が子供を育む力が十分ない場合は、尚更のこと子供の困惑と 不安は増大し、登校拒否や非行にはしるようになることは容易にうなづけます。  まして体が不自由であったり、智恵おくれなどと言われて、本来弱者の立場を余儀なくされて いる人達が、競争のできる人達よりも大切にされるということは、教育の世界にすらありません。  彼らははじめから特殊児童として、同情はされても程度の低い人問として扱われるのが現状です。 日本の社会では体の不自由な人にごく自然に手を貸し、その行動を優先的にすることが、 まだまだ普通のことではありません。     社会全体が余りに能率や効果のみを重んじ、人間そのものを深く見る余裕を失っている 結果だと思います。    教育の目的や体制がこの競争社会で有力に生きる人間を育てることに偏っている以上、白分の 名誉や利益を第一とし、形式的資格や見栄を重んずる人間は多く生れても、他を重んじ、他と協力 して生きようとする人間はなかなか生れてきません。 いわゆる弱者の上に強者が乗って造られているのが、日本の現代社会のように思われます。  多様である故に一致するときにこそ価値がある人間の生命を、可能性を見出しつつ育てるところ に使命をもつべき教育が、そのあるべき姿から離れて全く別の方向に走り続けているいまの社会は、 国の内外でそのうちに取り返しのつかない結果を必ず生ずることを憂います。  共働学舎は今の社会通念となっている点数によって評価される価値観ではなく、人間一人一人 に必ず与えられていると信ずる固有の命の価値を重んじ、互いに協力することによって、 個ではできない更に価値のある社会を造ろうと願うものです。
○手作りの生活を
 この競争社会の一つの大きな特徴は異状な経済力偏重となって表われています。                 消費社会は工場生産によって造られた物を買う生活です。最近は日用の食べ物まで、 そうなっています。その結果、物が豊かになって、お金さえあれば何でも要求が満たされ、 体を労さなくても済む便利な消費生活が普通になってきています。   素朴な勤労生活の舞台は失われ、子供の世界の特権である自由な工夫と創造力を生かし育て る時と場所が無くなっています。    機械文明を発達させるために、人間活動はあらゆる面で管理社会の組織と制度の中に埋没せざる を得ない程になります。      そして気付かぬうちに考え方や人間関係まで打算的、機械的になり、一つの体としての血の流れ は持てなくなってきています。  そしてもっとも憂うべきことは、目に見えない存在を通して悟らされる真理よりも、目に見える 物の価値を尊しとする考え方があまりにも強くなっていることです。    また自然の少なくなってゆく日本の都会生活では、四季の感覚すら人工的なものの中に消えてゆき、 物質的富が子供達の体も精神も弱くするのに加えて、温かい心の通い合う会話と心の豊かさも 奪ってゆきます。  共働学舎は勤労生活を重んじます。生きる為にはどんな人でも食物と住居と衣服が必要です。  これらを自らの力で作り出すことの喜びを味わうことが、生活の豊かさの大切な要素ではないかと  考えます。 その苦労が人間性を高く深く成長させると信じます。  苦労はあっても、生きるものすべての本来の望みである生活の自由がそこにあります。 創意と工夫がもたらしてくれる自主独立の手造りの生活が生じます。  それぞれに与えられている個性と能力が生かされる舞台があります。  この勤労生活は、近代社会の特徴とされる分業制度よりも人間互いの関係が親密になり、 家族のような強い心の絆を必要とします。  共働学舎は近代文明の象徴である科学技術、機械力を否定するものではありませんが、 それによって人間性を乏しくするような用い方は厳しく慎みます。   そして、人間の造り出す物と人間自身の力の限界を深く知って天地の創り主を仰ぎます。 この生産的勤労生活の中で神を愛し、人を愛し、自然を愛し、生けるものすべての生命を愛して 生きたいと願います。
○福祉事業への願い
 こうした日本の社会の中で、福祉の仕事が先を急ぐ物質文明の落穂拾いの役割を果たすだけに 終っているかぎり、科学技術の発達に比例する心身の障害の増加を止めることは出来ません。     医学と薬品が発達するのに比例して病者が益々多くなるのは何故か。  物質と知識が豊かなる世界に障害が増してゆくのは何故か。  教育制度が進む程落ちこぼれと言われる生徒が増えるのは何故か。   これらの中に生命の深い謎が秘められていると思います。  それを立法と行政で解決できるとは思えません。 ところが、日本の現代杜会はあまりにこれに頼りすぎ、社会全体も家庭すらもわが事として考えずに どうせ仕方がないと考える傾向が強い為に、根本的解決を得られないままこの間題は拡大してゆきます。  福祉事業とは、小鳥のために立派な鳥寵を作るようなことではないと考えます。 扉を間け放しておけば小鳥は必ず外へ逃げ出します。   生命あるものは、自由を求めることがごく自然であるためです。  外に出れば必ず、餌を得ること、巣を作ること、外敵から身を守ることが必要になります。  生命の自由には危険と苦労が伴うことは自然のことです。    私達は、安全第一主義の管理社会よりも苦労を承知の上での自由な社会でありたいと願います。  現代社会では、数字の魔力が人の運命まで支配する程になってきています。  知能指数というような非常に限られた基準のみで障害の有無を規定してしまい、学校でも施設でも 分類して収容するという形以外の方法が殆ど考えられない現状を、人間としてのあり方、集団社会の あり方として本当にそれでよいのかと考えざるを得ません。     障害者を安全管理することが福祉であるとは思えません。    社全の中でもっと自然な状態で、それぞれの価性と能力に応じてこれを生かす道がなければならない と思います。  人間の価値を人間が測定できる側面のみで決めずに、それぞれ不完全ではあっても、弱くはあっても、 与えられている力を積極的に生かし、互いに協力して喜んで自分達自身の力で生きる社会をつくる ことは、難しくはあっても出来ない筈はありません。   それが生き甲斐ある生活となり、人間性を高めてゆくことになるならば誰にとっても意味のある 生き方であることに違いありません。   福祉社会という言葉は盛んに語られ、実体なき福祉運動は多くあっても、人々の心の 中にも社会体制の中にも、実際は差別がひどくあるのが日本です。  肉体的、精神的、能力的、或いは境遇上の様々の差異はあっても、一人一人の生命力を出来る限り 素直に伸ばせる新しい社会をつくりたいのです。そういう志をもった若者達や少年少女達の協力社会を、 自らの手でつくりたいのです。それができるならば、この国の将来への一つの救いとなるのではないかと考えるからです。
○真の平和社会を求めて
 物質が造り出す豊かさがかえって人間を減ぼすことになるということは、人類の歴史が証明している 明らかな事実です。  そもそも文明が進む程に、何故に病気や障害が増えてゆくのか。 それが、人類全体を堕落させない為の、見えざる神の経綸であるという逆説を深く理解する時に、 身代わりとなって重荷を負うこの人々を疎外するのではなく、むしろこれを尊び、その個々の中に 秘められた神性を学びつつ、共に生きる社会をつくることが私達の究極の願いであり、 生きる目的ではないかと考えます。  政治体制がどんなに変革されても、心の中に真の価値についての革命が起らぬ限り、社会は 根本的に改善されないと信じます。  力対力、報復に次ぐ報復でどんなにバランスをとろうとしても、競争原理を拾てて、 真理に基ずく新たな原理に立つ人類の生き方を実現しない限り、眞の世界の平和はあり得ません。 人間がこの世に生まれ生きてきゅくのは、自己中心に自分さえよければそれでよいのではなく、 他を愛し共に生きるためであることは間違いありません。競争の結果、物質的豊かさを喜ぶ反面、 愛の乏しくなってゆく悲しさを味わうようになります。  人間一人一人は、調和ある真の平和社会をつくるために、誰もが必要な存在として造られてるいのだと 信じます。  私達は、競争社会よリも愛による協力社会の方が、個人としても社会としても豊かになり得る事を 信じます。  そして、人格と人権とが神の前にすべて平等であることを信ずる時に、はじめてそれが可能と なることを、日常の生活の中にまず実証しなくてはなりません。      人間はすべて神の作品であると信じます。  神の作品には失敗作はありません。 一つとして拾てられてよい不良作品は無いはずです。 創り主は自らの作品を愛します。   その一つ一つに完全者の性質が分け与えられていると信ずるならば、どうしてこれを互いに 傷つけ、或いは無視することが出来るでしょうか。  互いにこれを尊び喜び、その組合わせをよくする為に熱心に工夫し努力することが、  よい社会(神の完全性に近づく)を造る原動力になると信じます。     共働学舎は、この願いと祈りをもって始められた、    独立自活を目指す教育社会、福祉集団、農業家族です。
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