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闇の中で、最初にそれに気が付いたのはやはりテンマだった。 「来る」 二段ベッドの上で彼がつぶやいたとき、それは始まった。 上海亭の表入り口、シャッターと分厚い強化ガラスを突き破って姿を現したのは、闇に溶け込む黒のコートを纏ったサキエルだった。 「サキエルが来ました。ルシファーを出しなさい!」 テーブルとイスが整然と並べられた暗い店内に、サキエルのよく通る声が響く。 警報装置が作動する様子はない。あらかじめここら一帯の回線は遮断されている。サキエルにとってはどうでもいいことではあったが。 「聞こえないのですが、ルシファーを出しなさい!」 声と同時に真紅の瞳から閃光が迸った。両断された高価なテーブルがはじけ飛ぶ。重いテーブルが大理石の床を乱打し、静寂は破られた。 「いるのでしょう、出てきてはいかがです?」 真紅の瞳をゆがめて微笑むサキエル。その視界に、やはり真紅の双眸が浮かぶ。 「……サキエル」 闇の中から姿を現したのは小柄な少年。銀色の髪、白のナイロンジャージの上下、額にはタオル地のヘアバンドが巻かれていた。 「生きていたのね、アラエル(ツバサ)?」 「お前からミズホを取り戻すまで、死ぬわけにはいかないからな」 ツバサは低くそう宣言した。 「無駄なことよ。戦闘型でないあなたに、わたしを止められないのは立証済みでしょう」 「戦闘型じゃない僕だからこそ、お前を押さえ込むことができるんだ」 赤い瞳のままで睨み合う二人。かつてそこにあったはずの様々な想いも、今はない。憎悪と敵意だけが、今の二人をつなぐ全てだ。 「お前を止めて、ミズホを取り戻す」 「あなたにはまだ借りがありましたわね。わたしを閉じこめたのも、あなたでしたし。かかって来るというなら、遠慮するする理由もありませんわね」 サキエルの口元に笑みが浮かんだ。 「あなたを倒して、ルシファーの居場所を聞くことにしましょうか」 「あいつのことは関係ない。あとでゆっくりと教えてやるさ」 ツバサは腰を落とし、右手を突き出す。その表面に浮かぶ微かに蒼い光。 「誰がお前を封印したか、もう一度思い出させてやる」 「その前に、今度こそ殺して差し上げますわ」 サキエルが跳んだ。 「初めよったようやな」 ミヤの隣で、タイジが立ち上がった。 「わたしも……」 ミヤの肩に手を乗せるタイジ。 「ミヤには仕事があるやろ」 「仕事?」 「そうや、あのボンクラを頼むで」 分厚いドアを指さす。そして、それ以上はなにも言わない。 「……うん」 ミヤはタイジの言外の言葉を含めて、小さくだがしっかりと頷いた。 「ミヤ、タイジ」 寝間着姿のサヨコが階段を駆け上がってきた。 「サヨコ、あとを頼む。いざとなったら」 「ええ、わかってるわ。ミヤとシンジ君を連れて、できるだけ遠くに跳ぶ。例えそこで力つきても、ね」 迷いなくサヨコはそう告げた。 「すまん」 「タイジが謝ることじゃないわ」 「ほな行ってくるで」 「気を付けてね、タイジ」 ミヤがたまらず声を掛ける。 「エヴァの力が勝利の絶対的条件やないことを教えたるわ」 笑顔で親指を立ててみせる。頼もしい姿だった。そのまま跳ぶように階下に消える。 チャイナドレス姿のままのミヤと、夏物の薄いパジャマ姿のサヨコ。ミヤの肩をそっと抱いて、サヨコはいつもの口調で励ました。 「大丈夫よ、うちの男たちはみんな頼もしいもの」 「うん、そうだよね」 自分でもそれを信じたいと思う。 「さあ、部屋の中でシンジ君を守らないと」 「……うん」 ドアを開け、二人は部屋に入った。あれほど聞こえていたシンジのうめきは、今は聞こえない。眠ってしまったのだろうか。悪夢は終わったのか。 乱れたタオルケットを直すために、サヨコがベッドに近寄る。 そして、薄闇の中ベッドに横たわるシンジの姿を見て、サヨコは言葉を失った。 「どうしたの、サヨコ」 凍り付くサヨコの脇から覗き込み、ミヤもまたそれに知った 「……い、碇くん、なの?」 |
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「ツバサ、加勢に来たで」 階段を飛び降りてタイジが現れた。音もなく床に着地し、即座に身構える。ツバサとサキエルは広い店内でにらみ合ったまま。 「手を出さないでくれ、タイジ」 「アホ言うな、一人であいつを押さえられるわけないやろ」 ツバサの横に並ぶタイジ。 「これはボクの仕事だ。邪魔しないでくれ」 自分に言い聞かせるようにつぶやく。 「あほんだら、お前の仕事はサキエルからミズホを取り返すことやろ」 何気ない口調ではあったが、ツバサの熱くなった頭は急激に冷やされた。 「そのために、無傷であの女を押さえこまなならんのや。わかるやろ」 「……ああ」 低く答えた。 「どちらにせよ、あなた方ではわたしを倒すことはできませんわ」 サキエルがあでやかな笑みを浮かべた。 「素直にルシファーを出しなさい」 「できるか、できんかは試さんとわからんで!」 意外にも打って出たのはタイジだった。長い金髪が流星のように尾を引いた。サキエルの身体の中心線を射抜く手刀。それを片手で受け止めるサキエル。稲妻の如き閃光が夜の闇を切り裂く。 『壁』と『壁』の接触。 お互いの真紅の瞳が目の前にあった。サキエルのそれがすっと細くゆがむ。両の瞳から光が迸った。タイジの金髪が二本、焼き切れた。身をかがめてかわしたところに、サキエルの鋭い蹴りが放たれる。今度はタイジが受けた。ぶつかり合うサキエルの脚とタイジの腕。骨の軋む音がどちらにも聞こえた。 サキエルの両手に光が集まる。頭上から二本の光の槍が撃ち降ろされる瞬間、タイジが立ち上がった。サキエルの手首を掴み、強引に向きを変えた。タイジの背中で重いテーブルがバラバラに切断される。床のタイルがはがれ、焦げ臭い匂いが店内を満たす。 「あいかわらず手癖の悪いやっちゃで」 すっきりとした唇を舐める。一方でサキエルの顔には軽い驚きがあった。 「サンダルフォン(タイジ)、あなたにも寝る以外に出来ることがあったのですね」 「能ある鷹は爪を隠すんや。ツバサ、合わせるで!」 返事はない、言葉では。空気を裂いて、ツバサの拳が叩き込まれる。両手を封じられたまま、サキエルは巧みに移動し肘でそれを受けた。 「女一人に二人ががり、ですか?」 「これはお前に対する礼儀や。それに、二人がかりやないで」 「いや、二人がかりですんでくれると、俺が楽だ」 「うん、あたしもそう思う」 タイジの背中に現れたのは、テンマとイサナ。 「どうや、これがわしらの礼儀や。おんどれには四人がかりで相手させてもらう」 「結構です。ご自分達の非力さをよくご存じで」 「せやけどな、わしは勝てる喧嘩しか、せーへんのや!」 タイジの声と同時、ツバサ、イサナが動いた。左右からタイジに両手首を掴まれたままのサキエルに襲いかかる。 「甘い、ですわね」 薄ら笑いさえ浮かべ、サキエルが身を引いた。それを予想し、備えていたはずのタイジが止めることができない。バランスを崩したタイジを掴まらせたまま、サキエルは両腕を振り回した。ツバサが激突し、その勢いのままイサナにもぶつかる。タイジとツバサを抱くように受け止めたイサナ。その動きが止まった瞬間に、サキエルの瞳が光を放つ。 タイジが手を離し、イサナが人外の反射速度で床を蹴る。サキエルの視線の先で、店の壁が砕け散った。 「どういう計算をされたかは存じませんが、目論見が甘かったようですわね」 もうもうと巻き上がる埃、大穴の空いた壁はさらにガラガラと崩壊する。着地したイサナはタイジとツバサを下ろし、興味深げに破壊された壁を見つめた。 「すっごーい」 「もっと他に言うことがあるやろ」 タイジの言葉を無視し、ツバサだけはサキエルを睨み付ける。 「さあ、少しは楽しませてくださいな。ルシファーの前に軽く遊んで差し上げますわ」 花のような笑顔をうかべた。 「おんどれ、なんかヤったんか?」 「察しがいいですんわね。その通りですわ」 「あいつらに、何をされたんや」 「望んでやったことです。いくつか薬をいただきました」 その言葉に、ツバサの表情が青ざめた。 「すてきな気分ですわね。まるで世界が違いますもの。わたしが眠っている間に、いろいろといい薬が開発されたのですねぇ」 くすくすと笑う。心底そう思っているのだろう。 「ふ、副作用のことは知っているのか?」 ツバサの声も青ざめていた。 「ええ、十分に」 「それで、なぜ!」 「勝つために必要なら、なんでもヤりますわ。命を削るくらい、なんでもないでしょうに」 ツバサがタイジに目配せした。頷いたタイジが、目を閉じようとする。 「おやめなさい、サンダルフォン(タイジ)。あなたの睡眠波では、事は解決しなくてよ」 なめらかな指が、細い首に固定された金属の首輪を指さす。 「これが、何か教えて上げましょう」 その言葉だけで全員が理解した。 「わたしが意識を失ったり、行動不能状態になれば、爆発するとのことです。もちろん、強引に外そうとすればすぐさま破裂しますわ」 アクセサリーの自慢話をしているような、サキエルの口調。それを聴かされたタイジとツバサの顔に苦渋が浮かぶ。 「ミズホを人質にとるのか」 ツバサの問いに、サキエルはほほえみを返した。 「少ないチャンスを有効に利用する努力ですわ」 純粋な怒りの結晶を瞳に宿し、ツバサが一歩踏み出す。 「どうするつもりや?」 「放せ!」 「あほか、考えなしに突っ込んでどないするんや」 「放せ!」 「しっかりせえ、いうとるんや」 「放せ!!」 タイジの胸を突き飛ばし、ツバサがサキエルに飛びかかる。左右の手のひらに浮かぶ蒼い光の輪。 「遅い、といったはずです」 背後から声がした。背中に押し当てられるサキエルの手のひら。それはぞっとするほど冷たく、ツバサの全神経を凍り付かせた。 「ひとり」 触れられた状態からでは『壁』も展開できない。 「ツバサー!」 タイジの声と同時に衝撃が来た。 「サハクイェル!!」 だがその声はサキエルのものだった。必殺の一撃を放つ寸前、横からサキエルに襲いかかったのはテンマ。空中でツバサを蹴飛ばし、サキエルから離す。同時に右腕を振った。その勢いで飛び散る小さな赤い宝玉。その内三つがサキエルに触れた。 瞬間、三つの衝撃がサキエルを吹き飛ばす。床に叩き付けられる瞬間に体制を立て直し、四つん這いになりながらもどうにか着地する。同じタイミングで蹴られたツバサが受け身もとれずにテーブルの海に突っ込んだ。 「少しは楽しめたか?」 ふわりと着地したテンマの言葉に、サキエルの表情が一変した。コートの袖がぼろぼろに破け、白い腕に三つの痣が浮かんでいる。それぞれの痣の中心に、赤い染みが一つずつ。 テンマの血だ。血液を媒介にして衝撃を叩き付ける能力。だが、御津山で殺戮兵器を殲滅させた時と比べれば、威力が小さすぎた。 「大丈夫なんか、テンマ」 「前座が不甲斐なければ、真打ちが無理をするしかあるまい」 Eツール『ロンギヌスの槍』の影響で、テンマのエヴァは極端に衰弱している。それを心配してのタイジの言葉も、テンマはいつも通りの素っ気なさで受け流す。 「この場での作戦指揮はお前の仕事のはずだ」 テンマに指摘され、タイジもまた冷静さを取り戻す。一方で破壊されたテーブルの破片を払い落としながらツバサも立ち上がった。 「目は覚めたか?」 「どうにかね」 「では、やることはひとつだ」 ゆらりと立ち上がったサキエルの瞳にも、怒りが浮かんでいる。先ほどまでの笑顔は消え、手傷を負わされたことに我を忘れつつある。 「イサナ、すまんけどサキエルの相手をしたってくれ。テンマは少し休め、ツバサもや。バックアップはわしがやる」 「うん」 イサナが答え、ツバサとテンマは無言で頷く。 「そうやな、テンマ。あいつを呼び出しておいてくれるか?」 タイジの小声に、テンマがもう一度頷く。 「この痣の代償は高くつきますわよ!」 サキエルが吼えた。 その瞬間、階上でガラスの割れる音が響いた。無理に能力を行使したテンマはもちろん、サキエルに集中していた全員がそれまで気がつかなかった。 襲撃者が一人ではないことに。 |
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不意に景色がかすんだ。 泣き続ける子供も、それを取り囲んでいたより多くの子供達もいない。 泣き声も消え、気配すら消えた。 目の前にあるのは白い壁と、白い床。天井も白い。清潔に保たれた、だが薬品の匂いがする廊下。 その建物には大小さまざまな部屋があって、その一つに連れてこられた。 そこが自分が暮らす部屋になった。 だがそこは楽園ではなかった。 自分を誘ったあの男は、神の使徒ではなかった。 そこに救いはなかった。 だれも助けてはくれなかった。 子供だけが集められた施設だった。白い部屋の中で、十数人の子供と一緒に暮らした。 部屋は幾つもあり、全ての部屋を合わせれば、百人か、それ以上子供が居ることになる。 言葉も通じない、肌も髪も瞳の色も違う、ただここ以外に行く場所がない、それだけが共通の子供たち。 いろいろな理由があるのだろう、そしてそれをわざわざ語ろうとする者はいない。それでも、仲間だと思えた。 言葉が通じる者がいれば、なんとか意志の疎通もできた。少しずつコミュニケーションの幅を広げていく。輪に入ってくれない者も多かったが、それでも諦めなかった。 ここにいる大人達は、今までに出会ったどんな大人達とも違っていた。 白衣を着て、医者のように見えた。決定的に違ったのは、表情が乏しいことだろうか。趣味で暴力を振るう者はいなかった。酔って接する者もいなかった。身体を差し出させられることもなかったし、弄ばれることもなかった。 ただ愛情は欠片も感じなかった。機械か、小動物に接するような、そんな冷たさを感じた。だから、白衣を着た大人に懐く子供もいなかった。 大人に傷つけられない。 それだけでも、ここに来たことを幸福だと思う子供も確かにいたが。 大きな食堂では、三度の食事をとることが出来た。 朝食を食べた後、必ず健康診断をされた。それが日課だった。他の部屋の子供とは違うモノを食べることが多かった。 その後、広い施設の中で運動をさせられた。走るときもあったし、泳ぐときもあった。単純な作業、たとえば穴掘りとか、砂袋の運搬などをやらされることもあった。寒いときも暑いときもあった。目的はさっぱりだったが、苦痛だと思ったことはなかった。 昼食を食べ、しばらくは自由に遊ぶことができた。室内だが、広い空間に子供用の遊具施設が揃っていた。ただいつも遊ぶスペースを決められていた。今日はここ、明日はここ。いろんなおもちゃや、遊具があったが、試行錯誤して遊んでいた。その時間が一番楽しかった。ただ時々遊具から落ちたり、おもちゃが壊れてケガをする子供もいた。すると直ぐに大人がやって来て、彼らをどこかに連れていった。連れて行かれた子は、戻ってこないことが多かった。 週に何度かは、一人ずつ大人がたくさんいる部屋に呼ばれ、ベッドに寝かされた。頭や首、腕や脚にペタペタと線をつながれたり、ナイロンのカバーを張り付けられたりして、いろんな質問に答えた。ちょっとだけ痛いときもあるし、つらいと思うこともあった。だから、その時間は嫌だった。でも我慢することにした。ご飯が食べられることの方が重要だった。 夕食を済ませると、シャワーを浴びた。男も女もない、まだ子供ばかりだから気にはしなかった。着ていた服を脱ぎ、自分の分を洗って干した。下着はなかったし、服の素材はみんな一緒だった。丈夫だったが、着心地はよくなかった。 そして、就寝時間が来ると寝た。 ベッドは堅かったが、鉄やコンクリートの床とは比べモノにならなかった。 夢を見ることは、あまりなかった。 そんな生活を送っていた。それでも幸福だった。最初の頃は。 飢えることも、寒さに震えることも、熱さに灼かれることも、売られることも、夜の闇に怯えることも、殴られることも、罵倒されることさえなかった。 ただ気が付くと同室の仲間の誰かがいなくっていた。そして何日かすると、いなくなった誰かのベッドに、見知らぬ新たな仲間がやってきた。 三ヶ月の間に、最初の仲間は一人もいなくなった。 いや、自分を残して、他のメンバーはどんどん入れ替わった。 どんどん、いなくなった。 自分のそばを仲間が流れていくようだった。 半年も経つと、誰とも会話しなくなった。 仲良くなっても、友達になっても無駄だから。 だって、いなくなってしまうのだ。 また残るのは自分だけだ。 次第に自分が歪んでいくことが理解できた。 無気力になっていく。初めて生きることに疑問を感じ始めた。食欲も落ち始め、そのことを注意された。 でも同じ部屋、同じベッド寝ていて、誰かの寝息を聴いているとたまらなく胸が詰まった。みんないなくなる。この部屋にいる全員。そう遠くない内に、みんな、みんないなくなってしまう。 ある夜、寝付けずふらりと起きあがった。気分が悪い。浅い眠りを幾度か繰り返しただけ。冷たい水が欲しいと思った。 そして、気がついた。 ベッドの一つが空っぽになっていた。自分の次に長く、この部屋の住人だった男の子がいない。 また、消えた。 もう、帰っては来ない。 もう、会うことはない。 また、いなくなった。 ふらふらと立ち上がり、部屋のドアに手をかけた。鍵はかかっていない。大人の誰かが忘れたのだろうか。 深くは考えず、考えられず、しんと静まった廊下を裸足で歩いた。足下を照らす非常灯だけが延々と続いていた。この光に沿って歩けば、いなくなったみんなのところに行けそうな気がした。 天井の高いホールに出た。見慣れたはずのその場所も、薄闇の中では見え方もまるで違っていた。大きな窓からは、青白い光が投げかけられている。見上げると銀色の満月が空を照らしていた。 なんてキレイなんだろう。 月を見て、そんなことを感じたのは初めてだった。空に月があることさえ、忘れていた。心の底まで染み込んでくるような蒼い光。その光に包まれているのが、今はなぜかうれしかった。 きっとみんなはあそこに行ったのだ。 そう思った。 あのきれいな場所に、みんなは旅だったのだ。 そう思うと、少しだけ心が軽くなった。 自分も行きたい、と思った。 もう置いて行かれるのはいやだった。 唄が聞こえた。 聴いたことのない旋律で、歌詞はよく聞こえない。廊下の向こう、闇の中から近づいてくる。 聞き覚えのある声、低い靴音も聞こえてる。大人だ。だが逃げようとも、隠れようとも思わなかった。 きっと迎えに来てくれたのだ。 あそこに連れていってくれるのだ。 だが現れたのは、あの男だった。 右目だけが赤い痩せたあの男。 自分をここに連れてきた、あの男。 白い手術着を来て、唄を口ずさむ。 それまでに感じた薄気味悪さはそこにはなく、なぜか無理に笑っているような、そんな違和感があった。 頭を上げた男と目があった。 興味深げに自分を見つめる男。何を言われるか、身体が強ばった。 「こんばんわ」 だが男の第一声はそれだった。 「君もよい月夜に誘われたのかね」 そして男も空を見上げた。 「こんな満月の夜だ。寝ているのはもったいないな」 なんと答えていいのか、わからなかった。 「どうしたのかね?」 男はそう言ってそばによってきた。そして気がついた。男の着ている手術着に黒い斑点が幾つもちらばっていることに。 「月は、嫌いかね?」 ふるふると頭を振った。それだけは違うと思った。 「わたしも月が好きだよ」 真横に立って男も月を見上げた。 無言のまま、静かな夜だけが過ぎていった。 「なにか、あったんですか?」 しばらくして、ようやく口が利けた。 「ん?」 「なんだか、変、だから」 「いや、ただ月を見ていたい気分になっただけ、さ」 男はそれだけを答えた。 「一緒に見てくれるかね」 その言葉の意味が分からず、しばらく考え込んだ。 「いやかね」 「嫌じゃ、ないです」 「そうか」 静かに夜だけが過ぎていく。 月の光の中で、青白く染まる二人の姿。 なにも起きず、なにも始まらない夜。 ただ静かな月の夜だった。 「甲斐さん」 ぽつりとシンジがつぶやいた。 すっと一雫、涙が流れた。 だがミヤもサヨコもそれに気が付かなかった。 なぜなら部屋のガラス窓を突き破り、夜の中から侵入者が現れたから。 人数は三人、不思議なことに皆同じ顔をしていた。 侵入者のひとり、赤毛の少年の赤い瞳が、ミヤとサヨコを捉えた。 事務的な口調で、はっきりと彼は言った。 「見つけた。女だ」 |
nary
2000/08/10 |