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自分の名前を呼ぶ誰かの声が聞こえた。 同時に、自分の身体が揺さぶられているのを感じる。 どこか現実感のない感覚。 だが次第に引き上げられるように意識が覚醒していく。 自分が目覚めていくことを知覚したときには、はっきりと声が聞こえた。 「ミズホ、ミズホ、ミズホ」 誰の声だろうか。 もしかしたら、あの人の声かも。 だが、あの人とは誰だろう。 「ミズホ、ミズホ、起きなさい、ミズホ」 聞き覚えがある。よく知っている声。 「ミズホ、ちょっと、起きなさいよ、あんたの当番でしょ」 ああそうだった、早く起きなければ、当番なのだから。 当番? 当番って・・・。 「はうあー、ですぅ!!!」 復活するミイラの様に、予備動作もなく突然身体を起こしたミズホ。 「「うわー」」 まるで反応のなかったミズホの突然の行動にレイとアスカが驚く。 「今は何時ですか?」 「え、ええぇ?」 「今は何時ですかぁ!」 「ええっと、六時四十五分、よ」 「ミズホ、いきまぁーっすぅ!」 起きあがると云うよりは飛び立つような勢いで、ミズホはキッチンに駆け込んだ。そう、今日のシンジの弁当は彼女の当番だった。昨晩からしっかりと下ごしらえは出来ている。寝る前にちゃんと確認しておいたのだ。 昨晩、寝る前? 何かが胸に引っかかった。 自分が何か重要なことを忘れているような気がした。 空虚な損失感がじわりと胸全体を包む。 「も、もしかして」 動揺が口にでた。 「どうかしたの?」 キッチンを覗き込むアスカ。 「あああぁ、炊飯ジャーのタイマーが入ってないですぅー!」 シンジの弁当、朝っぱらから大ピンチ。 |
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学校はいつもと変わらなかった。 大量の転校生と美人の教育実習生がもたらした非日常は、すでに日常の中に埋没しつつあった。 今日も霧雨が舞う。 どこかうんざりとした面もちで授業を受けている多くの学生たち。 雨は静かに、雑多な音を掻き消し、吸い込むように街そのものを包み込んでいる。 教師の声だけが、イヤにはっきりと聞こえる。だがそれもどこか遠くで、自分とは関係のない内容が意味もなく続いているような、そんな虚脱感が伴う。 窓を見ると雨。 もしかしたら、このままずっと時が止まってしまうのではないか。 なにもない日常。 あたりまえの事実を、どう受け入れたらいいのだろう。 『レイ』 突然名前を呼ばれた。 久しく聴くことがなかった『声』。頭の中に直接届くメッセージ。 『レイ』 もう一度、今度はもっとはっきりと聞こえる。 『だれ?』 注意しながらも聞き返す。 『あ、ちゃんと届いたね。よかった』 『マイ?』 『うん、マイだよ。びっくりした?』 『びっくりしたわよ、どうしたの突然』 かすかに笑いの波動が伝わってくる。 『だって〜、この授業つまんないんだもん』 心の中だけでずっこけるレイ。 『そ、そんな理由で』 『だって〜、他に話し相手いないし』 『みんなもいるでしょ』 『さいきん『声』使うの禁止されてるの。緊急時だけだって』 『どうして?』 不吉な気配がじわりと感じられる。 『なんかね、内緒事を相談してるといけないからって』 『だれが決めたの?』 『え〜っとね、甲斐さんがそう云ってた。他からの見た目もあるから、あまり『声』だけに頼るなって。そしたらカスミが、全面禁止にしちゃったの』 『・・・そう』 『だからね、レイに話しかけてるの』 『あのね』 頭を抱えたくなったが、云いようのない郷愁が胸を満たすのも確かだ。こうして『声』で誰かと話すのはいつぶりくらいだろうか。ごくたまにカヲルと会話するのが精々だ。それも最近は億劫になってきている。 ふと、なぜだろう、と不思議に思った。 きっと互いのプライベートを尊重しているからだ、あえて理由をつけるならそんなところか。 でも、以前はそんなことを考えたこともなかった。 仲間に隠さなければならないようなプライベートなど存在しなかったのだから。 今の状況は前進なのだろうか、後退なのだろうか。 にわかに答えは出そうにない。 『ねえ、レイってば』 『え、なになに』 『もう、どーしたの、ぼーっとしてたの』 『うん、ちょっとね、なつかしくって』 『そっかー、そうだよね、なつかしいよね』 マイの楽しげな意識が流れ込む。それは確かに心地がよいものだ。 『でさ、シンジくんとはどこまで行ってるの?』 ぶーーーー! 静かな教室にレイが発する雑音が響く。 「どうかしたかね、綾波くん」 初老の古文教師に睨まれて、即座に表情を立て直し。愛想笑いを浮かべながら、何事もなかったかのように教科書を見つめる。 『へ、へんなこと云わないでよ』 『えー、なんでー、ずーっと一緒に住んでるんでしょ。だったら、そろそろ事故の一つや二つ』 『・・・誰がそんなこと云ってたの?』 『サヨコとカスミとミヤとメイが云ってたよ』 『まったく、ろくなこと考えてないんだから』 『なんだ、なにもないのか』 『そんなこと期待しないの!』 『だって一緒に暮らしてもう一年なんでしょ』 『いつも、お父様もお母様もいるのよ。そんな間違い起きません』 『そっか、つまんないの』 マイは心底そう思っているのがわかる口調でつぶやいた。 『外の世界ってもっといろいろあると思ったんだけどな』 『・・・え?』 『もっといろんなことが、レイにもあったんじゃないかと思ったのに。カヲルもあんまり変わってないし』 『そんなことにないよ』 『え?』 『いろんなことがあったよ、いろんな、そういろんなことがあったよ』 思い出すだけで胸を満たすほどの数々の出来事。この街で得た出会い。苦痛も痛みもあった。でも、それらに勝る何かが、ここにはある。 『いろんなことがあったよ。あたしにもカヲルにも、ね』 『そうなの?』 『うん、いつか、話してあげるよ。マイにも』 『うん、たのしみにしてるね』 にっこりと微笑む顔まで浮かんできそうだ。 『あ、そうだ。こっちでもいろんなことがあったんだよ』 『そ、そう』 どう答えていいものか、レイは戸惑った。 『うん、最近はね、ちょっとびっくりするようなことがあったの。それでね、この街に来ることになったんだ』 『え?』 レイは待った。だがマイの『声』はそこから先を語らない。 『なに、何があったの?』 『ううう、これは云っちゃいけないって云われてたの』 いたずらを見つかった子供のように言いよどむマイ。 『おねがい、教えてマイ。みんなには黙ってるから』 『でも、やっぱりだめだよ』 『わかった、マイの大好きなチョコレートケーキおごってあげるから』 『ええ、ホント!』 『うん、ホントホント』 『え、ううん。だめ、やっぱりだめ』 『えーい、それなら、モンブランにミルフィーユも付けちゃうから』 『うん、わかったわかったわかった。なんでも話すー!』 『うん、いい子ね。で、何があったの』 『あのね、それはね』 マイの『声』が伝えた事実。 レイは衝撃のあまり言葉を失う。 氷の掌に心臓を鷲掴みにされる感触。 小さく、だが止まることのない震えがレイを包む。 休み時間になってもレイは呆然とイスに座り続けた。 |
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「あ、そうか」 恒例になった用務員室での昼食中、シンジは壁のカレンダーを見ていて思い出した。 「どうかしたのかい?」 茶をすする加持の言葉に曖昧な表情を作る。 「え、ええ、ちょっとしたことなんですけどね」 ミズホが作ってくれた弁当を食べ終わって、一息ついたところだ。 「ほほう」 意味ありげに笑いを作る加持。だがそれ以上は何も云わない。 「ええ、なになになになになになになに!」 だが一緒にいたマイはそれでは納得してくれない。 「教えて、教えて、教えて、教えて、教えて、教えて、教えてぇー!」 左右で色の違う瞳が眼前まで迫ってくる。 「マイ、知りたがりは嫌われるぞ」 「ええぇ〜なんでぇ〜」 リキの言葉に、明らかに不平の声を上げる。 「ははは、そんなたいしたことじゃないんだけどね」 なぜか照れたように笑う。 「ふぅ〜ん、なにかいいことなんだ」 鋭く突っ込むマイ。 「なんでそう思うんだ?」 不思議そうにリキが訊くと、マイは平らな胸を張って応えた。 「だってシンジくん笑ってるもん」 「そんなの見りゃわかるよ」 「しかも、ちょっと赤くなってるもん」 「ああ、たしかにそうだな」 「そして」 「そして?」 「いつもより鼻の下伸びてるから、きっと女の子が絡んでるのよ」 その指摘に、リキと加持が同時にシンジの鼻の下に注目する。 「うーむ、そう云われると、そんな気も」 「な、なんでもないですったら」 とっさに口元を手で隠すシンジ。 「ね、隠すところがますますアヤシイでしょ」 得意げにマイが指さす。 「きっとロクデモナイことを考えてるのね」 なぜか、その言葉には妙な説得力があった。 そしてシンジがあわてて反論しようとすると同時にチャイムがなる。 「さって、シンジくんがどんなロクデナシかも気になるが、仕事に行くか」 「そうですね」 立ち上がる二人。 「あ、ちょっと待ってくださいよ」 「初犯は罪が軽いから、どーんとやってこい」 「マイには手を出すなよ」 それぞれ勝手なことを残して去っていく。 「うう、そんなんじゃないのに」 「認めたくないモノね、若さ故の過ちって」 ぽむ、と肩に手を置くマイ。 きっと意味なんて分からずにいってるんだろうな、というシンジの推測は、百パーセント正しかった。 |
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「どうだった?」 何気なしに話を振ってみる。 「はいぃ、おいしかったって云ってくださいましたぁ!」 満面の笑みを浮かべるミズホ。やっぱりね、と苦笑するアスカ。二人は傘をさして帰路の途中だった。手には晩ご飯の材料が握られている。 「ああ、シンジさまがわたしのお弁当をおいしいなんて、もうお嫁に行くしかないですぅ!」 グッとガッツポーズの相棒を無視して歩き続ける。レイとカヲル、そしてシンジは用事があるとかで一緒ではない。 「夕飯には遅れないでよね!」 それだけ言い残して先に帰ることにした。 心配がないわけではなかったが、それほど深刻にもならない。ここ数日の平穏に、緊張も空回りを続けていたのだろう。深く考えることもなくなっていた。 「そういえば、レイさんちょっと変でしたね」 思い出したようにミズホがつぶやく。 「そうね、なんか元気なかったわ」 あのやたらと元気なレイが口数も少なく、何かを我慢しているかのように口を噤んでいた。自分で訳を話さないのなら、そっとしておこうとアスカは思う。ただそれもいつまで保つだろうか。 「ミズホ、あんたも最近変わったこととかない?」 「へぇ、なにがですか?」 「うーん、これっていうほどじゃないんだけど、なんか変だなって思うようなこと、ない?」 「はぁ、そうですねぇ」 「ああ、無ければ別に構わないのよ、うん」 「へんな、夢をみましたぁ」 「へんな夢?」 「ええ、よく憶えていないんですけど、なんだか胸が苦しくなるような、そんな夢だったみたいで」 アスカは何も云えなくなった。 自分にも憶えがあったから。 「あとは、雨が続いて髪が重いくらいですかね」 さほど気にしていないのか、気楽に話を締めくくるミズホ。一方でアスカは、納得できない漠然とした不安を感じ始めていた。 この街を包む霧雨のように、それはぼんやりとだが確実にアスカの心を曇らせていた。 放課後の用務員室、後かたづけの手を休めた加持の前にシンジが現れた。 「おう、シンジくんか、どうしたんだ?」 「あの、もうお仕事おわりました?」 「ん、ああ終わったようなモノだよ。気にせず云ってくれ」 加持は手を休めてシンジを見る。だが、シンジは躊躇したように話を切り出さない。 「ああ、俺は先に失礼します」 その奥にいたリキが、大きな身体を起こした。泥に汚れた作業着を脱ぐとビニール袋に押し込む。 「ああ、それは追いとけばクリーニング屋が持っていってくれる」 「いや、いいんです。うちで暇を持て余しているのがいるんで」 多少照れたように頭を掻く。 「ほほう、リキくんも隅に置けないね」 「え、そ、そんなんじゃないですよ」 あわてて否定しながら、私服に着替える。真っ白のTシャツに色の落ちたブルージーンズ、靴はありふれたデッキシューズだ。 「じゃあ、お先に失礼します」 「ああ、お疲れ」 リキはそのまま用務員室を出ていった。 「彼がいちゃ、まずかったのかい?」 とは訊かない。ただ、視線で話を促す。 「その、訊きたいことがあるんですけど」 「ああ、どんなことだい?」 「ええっと、その、なんていうか」 もじもじと煮え切らないシンジ。だが加持はせかさずじっと待つ。 「その、記念日に女の子が喜ぶことって、どんなのがありますか?」 顔を赤らめながらも、努力してシンジはそう云った。 「記念日? 誕生日じゃなくてかい?」 「ええ、はい」 無精ひげのある顎をなでながら、加持は少しだけ考える。 「たとえば、女の子と初めて会った日、とかかい?」 「うっ」 たじろぐシンジ。加持にしてみれば当てずっぽうなのが、シンジはまるで心を読まれているような気がする。 「なるほど、いいんじゃないか。青春だもんな」 うんうん、と勝手に頷いている。 「あ、あの、それで、」 話がそれていきそうな気がしたのでシンジは修正を試みる。 「ま、そんなのは簡単だよ」 「へ?」 「デートだ、デート。女の子誘って、デートしてこい」 「デートですか?」 「ただし、二人っきりでだ」 シンジの瞳に食い込むような加持の視線。 「ま、それが最低限のルールだと思うがね。そうだな、記念の日ぐらいは、その子ひとりの男になってやれ」 あいかわらずの男臭い笑顔を浮かべる。 「は、はい」 自分に言い聞かせるように、シンジは頷いた。 その頃、細かな霧雨の舞う校舎の屋上に二つの人影があった。 雨に濡れるのも構わず手すりに寄りかかり、灰色に染まる街を見つめる渚カヲル。 その背中を見つめる、綾波レイ。 二人は長い間、お互いに無言だった。 雨だけが二人の隙間を埋め、沈黙が彼らを包み込む。 「カヲル、教えて」 先に沈黙に耐えられなくなったのはレイだった。だが、カヲルは背中を向けたまま応えない。 「ねえ、カヲルは知ってたんじゃないの」 レイの声が大きくなった。それでもカヲルは動かない。 「今日、マイに聴いたの」 構わずに続けるレイ。自分一人で抱え込むことに耐えられない。 「教えて、甲斐さんが死んじゃうって、本当なの?」 「で、誰の、なんの記念日なんだ?」 加持の質問に、赤面しながらもどこか誇らしげに応えるシンジ。 「今度の日曜日で、レイがこの街に来て一年なんです」 その言葉を用務員室のドアの影で聞くことになったリキ。完璧に消された気配を維持しながら、彼は大きな右手で顔を覆った。 「なんてこった」 誰にも聞こえないように、彼はつぶやく。その下の表情は、誰にも見えない。 そのとき、リキは気が付いた。 視線を感じる。 うなじの辺りがわずかに熱を持つこの感覚。 焼き付くような敵意。 「何かが、いやがるのか?」 だがリキがそれ以上のことを知る前に、気配は消え去っていた。 「気のせいって訳じゃなさそうだな」 全身の毛が逆立っている。 「面倒なことに、なってきやがったぜ」 そのまま廊下を抜け、雨の中に踏み出す。傘も差さず、全身を濡らしながら。 その姿は霧雨のベールに包まれて、すぐに見えなくなった。 残されたのは、静寂だけ。 迷宮が静かに回りはじめた。 雨の街に築かれた、複雑で酷薄、冷酷で辛辣な迷宮。 誰も気が付かない。 自分がすでに、その中にいることに。 すべてを巻き込んで、そして迷宮は回る。 [Back][Index][Next]
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