(一) 祐輔は食堂の窓際の席から、中庭を眺めていた。大きな四角い池の底に数匹の錦鯉が固まってじっとしていた。池の表面にまばらに雪が降っていた。目を上げるとさっきまでうっすらと見えていたH連峰はもう見えなくなっていた。祐輔をこの場所に案内してくれた支配人は帰り支度をしているのか、なかなかあらわれなかった。そうやって放っておかれることが、今の自分の弱い立場を表しているのだ、と祐輔は思った。ふと、このホテルで一冬を過ごす事に新たな不安を覚えた。しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。もう行くところはないのだ。しだいに激しくなる雪を眺めながら、祐輔はかわるがわる左右の腕を擦った。筋肉が腫れて熱をもっていた。ここ数日、本や家財道具を処分するため、重いものをたくさん持ったのと、東京からここまで重いバッグを二つさげてきたせいだ。一階のロビーのあたりから聞こえていた騒がしい挨拶の声がしだいに静かになっていった。もうこのホテルに残っている人は少ないのだろう。痩せた背の高い支配人が、灰色の作業衣を着た老人を連れてあらわれたのは祐輔が食堂に来てから三十分ほど過ぎたころだった。支配人は、普段着に着替えていたので、さっきより威圧感が少なかった。この老人と二人で、長い冬を雪に閉じ込められて暮らすことになるようだった。中澤と名乗った老人は、背は祐輔より低かったが、体つきはしっかりとしていた。禿げた頭を取り囲む白髪は短く刈り込まれ、頭全体が見事に丸かった。髭はしっかりと剃られ、剃り跡が青々としていた。支配人は、じゃあ、あとよろしく、と二人のどちらにともなく声をかけ、入り口の方に歩き出した。中澤老人は、支配人が食堂の入り口に消えるのを見定めてから、「何か食べるか」と訊いてきた。祐輔が頷くと「ちょっと待ってな」と言って中澤はカウンターの中に入っていった。すぐに中澤はトレイを持って、カウンターから出てきた。トレイに載せたコップの氷がカラカラと音をたてた。「カレーしか残ってないんだ」そう言って、中澤はトレイを祐輔の前に置き、向かいの席に座った。白い陶製の深皿は真中に仕切りがあり、飯とカレーが分れていた。「タバコ、吸ってもいいか」中澤は胸のポケットに手をやった。「ええ、どうぞ」祐輔が答えると、中澤はポケットのボタンをはずして、タバコの箱を取り出した。祐輔はスプーンに巻きつけてある紙ナプキンをはずし、いただきます、と小さな声で言って、カレーを掬って飯にかけた。「こういう仕事、はじめてか」中澤は黄緑色の百円ライターでタバコに火をつけながら訊いた。中澤の目は細かったが、瞳は美しく澄んでいた。「ええ、ホテルが営業している時のアルバイトはしたことがありますが、休業中の居残りはやったことがありません」中澤は、そうか、と答えて視線を宙に漂わせ、タバコを勢いよく吸いこんだ。「以前はどんな仕事やってたんだ」「いろいろです」祐輔は言葉を濁した。大手のソフト開発会社でプログラマーをしている時に根を詰めてキーボードを打ちすぎて頸肩腕症候群になった。整形外科にも通ったが、いっこうによくならなかった。キーボードが打てなければプログラマーはつとまらない。祐輔は会社をやめてからアルバイトをして食いつないできた。量販店の売り子、食堂のウェイター、工事現場の誘導、何でもやった。病気が悪化すると仕事を休むのでどこも長続きしなかった。三十五を過ぎたころから仕事を見つけるのがだんだん難しくなった。経験があるというので小さなソフト会社に採用されたが、一週間で強い症状がでた。そこはすぐにやめて、それからは軽作業のアルバイトをさがした。祐輔の返事が重かったせいだろう、中澤はそのことについてはそれ以上訊いてこなかった。「あんた、いくつだ」中澤は話題を変えたつもりなのだろうが、これもいやな質問だった。四十を過ぎてアルバイトで食いつないでいることをことさらに思い知らされるからだった。「四十一」祐輔が小さな声で答えると、中澤は「若く見えるのう」と真顔で言って、テーブルの真中に置かれた重そうなガラスの灰皿で短くなったタバコをにじり消し、吸殻をタバコの箱にさし込んだ。カレーを食べ終えて、祐輔はコップの水を飲み干した。「これ、どうしましょう」祐輔がトレイに手を添えて訊いた。中澤は、あとで自分がまとめて洗うから、そのままにしておいてくれ、と言った。「部屋に案内する」中澤は立ち上がり、テーブルを回って祐輔の足元にある大きな二つのバッグを持ち上げた。「あっ、いいんです」祐輔もたちあがりバッグに手をかけようとしたが、中澤はバッグを離さなかった。「こんな重いものもってはるばる来たんじゃ、さぞ腕がいたくなったろう」そう言って、中澤は先に立って歩き始めた。祐輔が案内された部屋は、ふだんは従業員が寝泊りする部屋らしく、木製の二段ベッドが部屋の左右の壁に造り付けられていた。左右のベッドの間は通路のようになって奥に続いていた。入り口近くに五つのダンボールが二段に積み重ねられていた。祐輔がアパートから送ったものだった。「どこでも好きなところ使ってたらいい、どうせ一人で使うんだ」そう言って、中澤は手にした二つのバッグを床に下ろした。中澤は、夕食ができたら知らせるから、と言って出ていった。一人になると祐輔は心底ほっとした。祐輔はジャンバーを脱ぎながら通路を進み、右側の一番奥のベッドの上にジャンバーを放り投げ、その上に尻を載せた。小さな窓から、半分雪に埋もれた倉庫やゴミ置き場が見えた。祐輔は中澤老人の穏やかな顔つきを思い浮かべていた。あの人とならうまくやれそうだった。小康状態を保っている頸肩腕症候群がどうか悪化しませんように、と祐輔は祈るような気持になった。(二) 翌日朝食が終ると、中澤は見まわりの練習をやるからついてくるようにと言った。エレベーターの中で、見まわりは仕事の中で一番大切なものだ、と中澤は言った。エレベーターを出ると、中澤は左手の廊下を突き当たりまですすんだ。中沢はポケットからマスターキーを取り出して、601と書かれたドアの鍵穴に差し込んだ。コトリと音がして重々しくドアが開いた。中澤が壁のスイッチを押すと、凝ったデザインの照明がいっせいに灯った。絨毯のしかれた大きな部屋だった。寝室と十畳くらいのダイニングルームがついていた。大きな窓が正面と左手にあった。窓は厚いカーテンで覆われていた。「ここは、このホテルで一番いい部屋なんじゃ」そう言って、中澤は窓に近寄り、カーテンをひいた。H連峰からY岳に連なる稜線が青空の中に見事に見えた。「きれいですね」ああ、と言って、中澤は右手の壁に近づき、手招きをした。何だろうと思って祐輔が近づくと、中澤は目の高さの壁を指差した。「ちょっと色が変わってるじゃろ」「そうですね」「ここに有名な日本画家のリトグラフがかざってあったんじゃ」「盗られたんですか」「そう、オーナーの話では百万したっていってたな。絵だけじゃない、調度品もたくさん盗られた、部屋のなかも荒らされた」「いつもそんなことがあるんですか」「いや、去年初めてだ、もっとも、数年前までは居残り組がいたんじゃが、オーナーが金を惜しんで、全く無人にしたもんでな」「それで今年は居残りが復活したんですか」「そうじゃ」中澤は壁を手の甲で軽く叩いてから窓のところに行ってカーテンを引いた。祐輔はこのアルバイトに応募したとき、電話で身長と体重を聞かれたことを思い出した。何人かの応募者の中で自分が選ばれたのは体格のためであったかと納得がいった。「今年も来るでしょうか」「さあ、どうかな」「来たら格闘になるんですか」「いや、多分来ないな。このあたりにはいくつかホテルがあるが、今年居残りがいるのはここともうひとつだけだ。人の気配を示しておけば、わざわざここには来んじゃろ」中澤は顎をなでながらそう言って、部屋の出口にむかった。次の部屋も同じ間取りだったが、窓は正面にあるだけだった。人のいない静かなホテルというのは不気味だった。新しい部屋に入るたびに、どこかに強盗が潜んで今にも襲いかかってくるような気がした。五十近くの客室を点検するのにたっぷり二時間かかった。インスタントラーメンと紅茶だけの簡単な昼食が終ると、昼からは雪かき作業が待っていた。客が来るわけではないので雪かきをしてもたいして意味がないのだが、人がホテルの中にいる事を示すためにやるのだ、と中澤は言った。昨夜降った雪が五十センチは積もっているだろうか。玄関のまわりはすでに肩の高さまで雪が積み上げられていた。雪かきをするには、雪をその高さまで投げ上げなければならなかった。ひざを少し曲げた姿勢からスコップ一杯に盛った雪を、中澤は軽々と投げ上げていた。足の開き具合といい、腕の振りといい、それはいかにも雪国に育った者の慣れた調子があった。表面が日に解けた雪は湿気を含んで重かった。祐輔は、スコップに半分ほど掬った雪を投げ上げた。最初の数回はうまくいったが、それからは腕があがらず、投げた雪が雪壁にあたって、道に落ちてしまった。「難しいもんですね」祐輔は、媚びるように言って、動作を止めた。「慣れりゃなんでもない、みてな」中澤は、スコップを四回雪に突き刺し、豆腐のように四角く雪を切り出した。「投げ上げる時に、膝と腰を伸ばすんだ。腕で投げると長持ちしないんだ」中澤はゆっくりと雪を投げて見せた。「わしが大まかにやっていくから、その後の残ったところをやればいい」そう言って、中澤はどんどん先に進んでいった。中澤の頭からも肩からも湯気が立ちのぼっていた。それは中澤の旺盛な新陳代謝を示しているように思われた。日が翳ると急に気温が下がった。中澤は時計を見て、今日はこれぐらいにしておこう、と言った。夕食が終ると、中澤はもしよければ自分の部屋に来ないか、と言った。中澤について一階に下りると、中澤は受付のカウンターの裏のドアを開けて中に入った。そこは受けつけ係の控え室のようになっていたが、その奥にもう一つ部屋があった。中澤が振りかえり、こっちだと言った。そこは造り付けの書だなや食器棚、厚い板のテーブルがある立派な部屋だった。「普段は支配人が使ってる部屋なんだ」中澤は、食器棚からグラスを取り出しながら言った。「ウイスキー、飲むか?」「ええ、少しなら」「ツララのロックといこう」中澤は二重になった窓を開けた。軒に下がったツララは、手首ほどの太さになっていた。それを一本とって中澤は手でボキボキと折った。窓の外は雪明りの中に、庭の木立が揺れていた。中澤は窓を閉めた。「真下君はいい体をしているが、何かスポーツやったのか」中澤は祐輔にグラスを差し出しながら言った。「ええ、学生時代にカヌーをやりました。大したことなかったです。中澤さんは?」「ああ、若いころは、登山とかスキーとかやったな。相撲もやった」「相撲なんて珍しいですね」「いや、戦前は田舎じゃ相撲は盛んだった。わしはけっこう強かったんだ。軍隊でもよく相撲をとった」そう言って、中澤は腕を撫でた。「中澤さん、軍隊に行った世代なんですね」「行きたくなかったんだ。それで師範学校に行ったんだけど、途中で制度が変わって師範学校卒業しても兵隊に行かなくちゃならなくなってな」「外国?」「ああ、スマトラというところだ」「よく生きて帰れましたね。死んだ人も多かったんじゃないんですか」「ああ、たくさん死んだな。わしは工兵というのになった。主に橋をかける仕事をするんだ。兵隊や物資を運ぶ時に、橋というのはとても大事なんだ。相手は撤退するときは橋を壊していくし、こっちのかけた橋も空爆で壊しに来る。わしは、当時としては体格がよかったんで工兵に選ばれた。一番きつい仕事をする兵隊だ。荒くれ者が多かったな」そう言って、中澤はグラスをウイスキーを飲み干した。「師範学校に行ったのなら、先生もやったことあるんですか」「ああ、ある。青年学校というところで教えてた」「ああ、それで教え方が上手なんですね」「いや、教えるのが上手ってわけでもない。先生をしてたのは短い期間だから」「何で止めんですか」「ああ、戦争が終って少したって青年学校という制度がなくなったからな。それを機会に友達がやっていた機械工場に移ったんだ。もともと機械いじりがすきでね」中澤は工場で機械の設計をしていた時の話や、その工場がつぶれて、いろんな会社を渡り歩いたこと、勉強して資格を取るのが好きでいろんな資格を取ったことを話し始めた。話の中で、中澤は六年前に夫人をガンで亡くし、いまは一人で暮らしていることがわかった。(三) 翌朝、祐輔はいつもの時刻に起きることができなかった。肩から腕にかけて感覚がなくなっていた。枕に接している頭の部分はまるで髪が針になって頭皮を刺しているように思えた。強い頸肩腕症候群の症状が出ていた。祐輔はベッドから降りて体をふらつかせながら着替えた。体調が悪いことを中澤に知らせなければならないと思ったのだ。中澤は地下のボイラー室にいた。中澤は祐輔に気がつくと大きな声で「大丈夫か」と言った。「ええ、ちょっと腕が痛くて」「雪かきなんかしたからいけなかったのかな」「いえ、すぐに直ります」祐輔は病気のことを知らせた方がいいのかどうか判断がつかなかった。「顔色がよくないな」そう言って、中澤は心配そうな顔をした。「寝てたらどうだ、先は長いんだ」「ええ、ありがとうございます」中澤は頷いて、またボイラーの前面についたパネルの計器をチェックしはじめた。祐輔は部屋に戻ってベッドに横になった。心配したことが起きてしまった。髪の毛が針のように頭皮を刺す状態になると、すぐには直らない。ここでは医者に行くこともできない。まだここに来てから三日目だ。冬ごもりの間に体がメチャメチャになってしまわないだろうか。祐輔は暗い気持で雪の降る裏庭を眺めているうちに眠りに落ちた。部屋のドアが開いた。中澤が入ってきたようだ。祐輔は掛け布団をはねて上半身を起こした。中澤はアルミの盆を手に持ってベッドに近づいてきた。「すみません、今、何時ですか」「一時だ。もっと寝てなさい」「でも」「起しに来たんじゃないんだよ。朝ごはんも食べてないようだったから、昼ごはんにちょっといいもの作ってきたんだ」中沢は、そう言ってアルミのトレーをベッドの上に置いた。「ほれ、牛乳はあったかい方がいいと思ってな」中沢は牛乳瓶を手にとって裕輔の手に触れさせた。どことなく遠慮がちな初々しい仕草だった。祐輔は、中澤には子どもがなかったのではないか、と思った。いろんな仕事をしてきた祐輔はたくさんの人と接してきた。男でも女でも特別に親切にしてくれる年輩の人は、子どもがいない場合が多かった。その人たちが見せる輝くばかりの愛情のようなものを、今、中澤も発散しているような気がした。祐輔は病気のことを中澤に話しておこう、と思った。「中澤さん、ちょっと聞いてもらいたいことがあるんです」「なんだ」中澤はかがみ込むようにして祐輔の顔に耳を近づけた。「実は、私、頸肩腕症候群という病気をもってるんです」「なんだ、そりゃ」「ええ、ようするに、腕とか肩とかが痛くなって動かなくなるんです」「腱鞘炎みたいなもんか」「ええ、まあ。精神的なものもあるようなんですが」「力仕事がよくないんだな」はあ、と言って祐輔は下を向いた。「そうとしっていりゃ、雪かきなんかやってもらわなかったのに」中澤はひどく悪いことをした、という顔つきになった。「いや、真下君、いい体つきしてるから、室内の仕事ばかりじゃ物足りないんじゃないかと思って」「すみません、本当に。ご迷惑かけて」「いやいや、ホテルには誰もおらん、ゆっくり2、3日休んでりゃいい」「中澤さんの仕事が増えますね」いいや、と中澤は首を振った。「もともと冬季休業中のホテルは仕事は少ないんじゃ。二人でやるほどのこともない。ホテルが二人雇うのは、一人でこんなところにいたら気がおかしくなるからなんじゃ。だから、真下君が私の気のあった相棒で居てくれれば、何もしなくてもそれで十分なんじゃよ」中澤はそう言って祐輔の肩を軽く叩いた。そんなことはないはずだった。自分を安心させるために中澤はそう言ってくれたのだ。(四) その日、昼過ぎに水源を見に行くと言って出た中澤が日暮れ近くなっても帰ってこなかった。祐輔は胸騒ぎがした。中澤が水源を見に行くと言ったのは、水道の水の出が悪くなったためであった。ホテルの水は裏山を一キロほど登った沢から引いていた。途中でプラスチック製の水道管が壊れたか水の取水口に何かあったのだろう。どうすればいいのだろう。とにかく水源のあたりまで行ってみようか。祐輔は迷っていた。雪が降り始めていた。自分の方が迷子になるのではないだろうか、と思った。しかしあたりはだんだん暗くなっていた。「行こう」と祐輔は決心した。祐輔は部屋にもどり、防寒着に着替え、ドアの近くに掛けてある懐中電灯を手にして部屋を出た。ホテルの外は寒かった。雪は小降りだったが、風が強かった。祐輔は裏庭から林に続く道をたどった。雪の上に中澤の足跡がかろうじて続いていた。これをたどっていけばいいのだろう。林の中は薄暗かったが足跡はまだ見分けられた。懐中電灯を点けるのはもったいなかった。シラビソの枝や葉に積もった細かい雪が風に舞って祐輔の顔に吹きつけてきた。林の中の雪は柔らかく、祐輔の足は時々雪の中に深くめり込んだ。林を抜けると、道は斜めに山肌を上っていた。風の通り道にあたるのか、息もできないくらいの突風が吹きつけてきた。昼間解けた雪の表面が再び凍りかけていた。気をつけないと滑って転びそうだった。ツヅラ折りの道を二度折り返したところで、祐輔は道の先に動くものを認めた。祐輔の胸がドキリと鳴った。熊だろうか。いや、熊は冬眠中のはずだ。このあたりに熊がでるという注意をうけたことはなかった。「中澤さーん」祐輔は大声を出した。自分を励ますためであった。黒い物体が手を上げたような気がした。「中澤さーん」祐輔はもう一度呼んでみた。祐輔は手にした懐中電灯のスイッチをスライドさせた。光が伸びて黒い物体をとらえた。中澤が足を引きずってこちらにやってくるところだった。祐輔は手を振ってから足を速めた。「水に落ちたんだ」祐輔が数歩のところまで近づいた時、中澤が声なく言った。「すまんが、祐輔君、ホテルにもどって風呂を沸かしておいてくれないか」「ええ、いいですが、中澤さん、大丈夫ですか」「ああ、大丈夫だ」「私が抱えるか背負うかしましょうか」「いや、わしを背負ったのでは、雪に足をとられて身動きできなくなる。速くホテルにもどってくれ」中澤の声は悲痛な響きをもっていた。祐輔は、中澤に懐中電灯を持たせて、今きた道を引き返した。雪は止んでいた。林の中でも何とか道が見分けられた。人気のない林の中では遠くの風の音と祐輔の荒い息だけが聞こえた。ホテルにもどった祐輔は、支配人室のバスルームに駆込んだ。赤いハンドルをいっぱいに開き、青いハンドルを半開きにした。蛇口から流れ落ちる湯に手を浸すと少し熱めの湯が力強く祐輔の手を押し下げた。細長い浴槽にはみるみる湯がたまりはじめた。浴槽に入った湯はプールの水ように薄青色だった。裏庭に続く入り口の方で物音がした。中澤が帰ってきたのだろう。祐輔は支配人室を出て、走って入り口に向かった。中澤が上がり口に腰をかけて登山靴を脱ごうとしていた。祐輔は中澤の前にしゃがんで、靴紐を解き、中澤の右靴を引っ張った。ズズッと音がして、靴から足がぬけた。靴下から汚れた水が滴り落ちた。祐輔が靴下を脱がせると、真っ白いふやけた足が現れた。慣れてきたので、左の足は右の足より速く靴を脱がせることができた。中沢を抱えるようにして、祐輔は支配人室のバスルームに中澤を運んだ。浴槽は湯があふれ、もうもうと湯気がたっていた。祐輔は剥ぎ取るように中沢の衣服を脱がせた。脱いだ着物は祐輔が次々と脱衣所の方に放り投げた。下着を脱いだ中澤の体は血の気が引いて異常に白かった。中澤の体は肩幅はそれほど広くなかったが、下に行くに従って逞しくなり、腰はまるで臼のようだった。中澤の脇の下に肩を差し込むと、首筋にひやりとした感触がつたわってきた。「ほら中澤さん、片足あげてください」祐輔がそう言うと、中澤はうめきながら浴槽の縁がやっと跨げるくらいに右足をあげた。「そうそう、足をお湯に足を入れてください」中澤の右足が浴槽の底に着いたので、祐輔は肩に担いだ中澤の腕をほどいた。「さあ、私の腕につかまって今度は左の足を湯船に入れてください」中澤は右足と祐輔につかまった両腕で体をささえ、左足は伸ばしたまま後ろに回し浴槽の縁を乗り越えた。中澤が両手で浴槽の縁をつかみ体を横たえると、湯が縁から大量にあふれた。中澤は目を閉じた。祐輔は蛇口のハンドルを捻って湯を止めた。。中澤が気を失ったりして湯の中で溺れては大変なので、祐輔は浴槽を離れないでおくことにした。あふれた湯で靴下が濡れて気持が悪かったので、祐輔は中澤から目を離さずに靴下を脱いだしばらくして中澤が「ああ、いい気持だ」と言った。「膝を痛めた。そこはあったかくしないほうがいいんだ」そう言って、中澤は左足の膝を浴槽の端に引っ掛けた。「もう大丈夫だ。真下君ありがとう」中澤が目を閉じたまま言った。(五) 中澤の膝の打撲はたいしたことなかったが、動き回れないので一日中ボイラー室にいるようになった。祐輔は、三度の食事を作り、ボイラー室と管理人室を行き来する中澤の手助けをした。部屋の見まわりと雪かきは全部祐輔の仕事になった。祐輔は断然忙しくなったが、かえって生き生きとしている自分を発見して驚いた。祐輔は中澤の世話をするのが苦痛ではなかった。食事を作って持って行くたびに「おいしい」と言って感謝する中澤老人に、祐輔はふと家族のような親しみを覚えた。ただ雪かきは、ひどくこたえた。中澤は「やるな」と言ったが、積もるにまかせていくわけにはいかなかった。その日、中澤の夕食の食器を引き取りに支配人室行くと、中澤が、ここにうつぶせになれ、とベッドを指差した。「どうしたんですか」「真下君、相変わらず雪かきやってるだろう」「ええ」「ひどい事になるんじゃないのか、肩とか腕とか」「大丈夫ですよ」「いや、そんなことはないだろう。この前だって二時間くらいであんなになったんだから」「でもやらないわけにいかないから」「それで、罪滅ぼしに、肩と腕を押してあげようと思ってな、わしは、少し指圧ができるんだ」「何でもできるんですね、中澤さん」「芸は身を助けるというからな、いろんなこと覚えたんだ。指圧してやるから、ここに寝なさい」はあ、と言って祐輔は靴を脱いでベッドに上がりうつぶせになった。シーツは取り替えたばかりなのか、糊が利いていて清潔な感じがした。「見た目は立派な腕に見えるがのう」そう言って中澤は後ろから祐輔の左右の二の腕に指をかけた。「このあたりにツボがあるんだ」中澤は指に力を入れた。ズキン、と一度痛み走って、それがだんだん心地よい痛さに変わっていった。中澤は力を緩めたり強めたりした。「どうだ、効くか」「ええ、効いてますね」「ここにもツボがあるんだ」そう言って、中澤は今度は首の付け根を中指で押さえた。祐輔はあっと叫んだ。首筋から頭のてっぺんまで電気が突き抜けたような気がした。「あっ、ちょっときつかったか、すまんすまん」中澤は祐輔の首筋をマッサージした。それから、さっきと同じところを今度はゆっくりと押さえた。鈍い痛みはずっと続いたが、その痛みが広がって、肩と首が少しずつ癒されていくような気がした。中澤の指が祐輔の背中を押し始めた。「親子というのは、子どものころからこんな風に体が触れ合うことできっと情が深まるんだろうな」中澤が独り言のように言った。「中澤さん、子どもいなかったの」「ああ、いなかった。結婚も遅かったからな」「そうじゃないかと思った」「真下君には子どもがいるのか」「いえ、いません。結婚もしてませんから」「一度も結婚しなかったのか」「ええ、まあ」結婚したいと、思った事はあった。同じ年代の友人たちが次々と結婚する中で、祐輔も結婚しなければならない、と思っていた時期があった。しかし、アルバイトで生活するようになってから、結婚を意識しなくなった。定職がないということが結婚の条件を悪くもしていたのだが、だれもが結婚しなければならない、という考えが間違っているようにも思えた。「真下君、冬ごもりが終ったら、どうするんだ」中澤は手を休めずに言った。「特に決まってないんです。できればここに置いてもらえるとありがたいんですが」そうか、と中澤は大きく息をついた。「客が来はじめると、ここはひどく忙しくてなあ」「そうでしょうね、昔、普通のホテルで働いたことがあります」「男はやっぱり力仕事が中心だ。祐輔君の腕や肩が心配だな」「事務なんかの、仕事ないでしょうか」「いまは、このホテルも人員整理が進んで、あの支配人ともう一人で事務関係は全部こなしているんだ」「そうですか、困りましたね。実は、私帰るところがないんです。アパートを引き払って来ましたし。どこか住みこみで働けるところがあるといいんですが」「やっぱりそうか。どうりで荷物が多いと思った」中澤の手が止まった。中澤の息が荒くなった。何かを言おうかどうしようかとためらっている様子だった。「それなら、どうだわしの家に来ないか、麓の町の中にあるんだ。案外便利なところだ」「でも」「いや、わしも今は一人住まいじゃ。寂しくてたまらん。冬ごもりが終れば、わしはその家からビルのボイラーの運転に通う。いや、もう仕事なんてしなくてもいいんだがな。真下君は、わしの家からしばらく病気の治療に通って、その間に資格でもなんでも取ったらいいじゃないか。ボイラーの資格とるならわしも手伝える。せめて、病気が良くなって一人で生きていけるようになるまでわしの家にいたらどうだ」祐輔は首を捻って中澤を見た。中澤の目は慈愛に満ち、懇願の色さえあった。「ありがとう」と祐輔はかすれた声で言った。嬉しかった。この人といっしょに暮らす時間を大事にしよう、と祐輔は思った。祐輔は、それから中澤と十一年暮らし、中澤が心筋梗塞で亡くなるのを看取った。生涯の中で祐輔が一番楽しい思い出を作った時期だった。