夜釣り





 
 
 芳太郎は道から外れ、懐中電灯を点けて藪の中に入りこんだ。芳太郎の後について、小さな木の密生した急な斜面を枝につかまりながら下りきると、斜めに傾いた地層が平らに広がっていた。懐中電灯の光と月明かりをたよりにでこぼこした岩の上を歩いて、正彦と芳太郎は波打ち際に達した。岩場に深い亀裂があって、海がそこに入り込んでいた。
「ここが釣れるんだ」
「こんなところでいいの。もっと岩が海に張り出したようなところがいいんじゃないの」
「いいや、ここは山からの水が地下水になって流れこんでいるらしいんだ。それで小さな魚が集まっている。栄養分が多いんだろうな、たぶん。岸から近いところで十分釣れる」
 芳太郎は岩の上にリュックと釣り竿を置いた。暗い海が足下でゆっくりと上下していた。波の音がザワザワと絶え間なく聞こえていた。対岸の明かりであろうか、低い位置に光が点々と連なっていた。
「釣り、やったことあるんだったな」
「子どものころにね。だから釣り竿の使い方とか餌の付け方なんかも知ってる」
「そうか、そりゃ、世話がなくていい」
 芳太郎は長細い布の袋から釣り竿を取り出して正彦に手渡した。正彦は懐中電灯の明かりを頼りに、岩の上に置かれたケースの中から仕掛けを巻き付けた竹製の糸枠を取り出した。
「ウキのあるやつを使うなら、二、三分ウキを懐中電灯でてらすといいぞ。海の中で光るから。俺のつくった特製のウキだ」
 暗がりの中から芳太郎の自慢げな声が聞こえてきた。プラスチックのウキは頭の部分が透明になっていて、その内側に夜光塗料が塗ってあった。芳太郎は工場に居るので何でも自分で作ってしまうようだった。芳太郎はランタンをつけたり、料理用の鍋をリュックから出したりしていたので、正彦が先に釣り糸を垂れた。
 ウキは海面に落ちると横たわり、やがて緩やかに回り込んでスクッと身を起こした。暗い海面に蛍が浮いているような不思議な感じだった。
 すぐにコツン、とウキが揺れた。淡い緑色のウキが水中に引き込まれて、水の中で光った。正彦は糸の先で魚があばれる感触を確かめながら引っ張られた分を引き戻す感じで竿をあげた。
 いつの間にかそばに来ていた芳太郎が、懐中電灯で水面を照らした。大ぶりのアジが白い腹をみせて水面すれすれに跳ね上がってきた。 
「おお、釣れた釣れた。うまいもんだ」
 芳太郎は自分のことのように喜んだ。芳太郎は正彦より三十近く年上で、正彦の父親と言ってもいい歳だった。小さな工場に勤めていたがもう定年が近かった。芳太郎は正彦の住む独身寮の近くに住んでいた。正彦が自転車に乗っていて車と接触事故をおこしたのだが、その時たまたま家の前に出ていた芳太郎に世話になったことがきっかけで、付き合いがはじまった。芳太郎は子どもがいないということもあってか、実に親切にしてくれた。正彦も芳太郎という人物が気にいっていた。
芳太郎はアジを針からはずし、氷の入ったボックスの中に放り込んで蓋をしめた。中でアジが跳ね回る音がかすかに聞こえた。
「よし、俺はこっちでやってみる」
 芳太郎はランタンに近づき、仕掛けを竿に取り付け始めた。一番下に、親指ほどの餌用の籠がぶらさがった奇妙な仕掛けだった。籠の上の方には、枝のように分かれた糸の先に針がついていた。針は、透き通った小さな昆虫の羽根のようなものに挟まれていた。ウキはついていなかった。
「ねえ、餌の上の方に針があるように見えるけど、それで釣れるの。餌のところに魚がきても針にひっからないんじゃないの」
「これで釣れるんだ。まあ見てろ」
 芳太郎が、ビニールの袋の中のピンク色をした固まりをスプーンで崩して籠につめはじめると、生臭い匂いが正彦のところまで漂ってきた。
「何、それ」
「アミって言ってるけどな。小さなエビみたいなもんだ」
 芳太郎が糸を海面に垂らし、竿を大きく二、三回上下させてから引き上げると、どの針にも魚が引っかかって激しく体を震わせていた。手品を見ているようだった。
「ちょっと小さいな」
 魚を順に針からはずしボックスに放り込みながら芳太郎は言った。
「どうだ、今日はこの方がたくさん釣れそうだが、これでやってみるか。簡単だぞ」
 芳太郎は手にした竿を揺すってみせた。
「ありがとう、でも、僕はこっちでいい。この方が一対一の真剣勝負のような気がするから。それにウキの先に蛍がとまっているみたいで、とてもきれいなんだ」
「そうか。じゃあ、俺がこれでやるぞ」
 そう言って芳太郎はまた小さな籠にアミを詰めはじめた。
 正彦が十五匹つり上げる間に芳太郎は百をこえるアジを釣った。ボックスが一杯になったところで、芳太郎は釣るのをやめ、アジの料理にとりかかった。
 芳太郎の作ったカラ揚げを食べ、ビールを二缶飲むと、正彦はすっかりいい気持になった。沖を通る船の数はめっきり減って、その明りも対岸の光と区別がつきにくくなっていた。海は暗かったが、真っ暗ではなく、むしろ陸地にくらべて白っぽく、ほの明るかった。
「正彦君、ちょっと横になるか」
 うつらうつらしている正彦にむかって芳太郎は言った。
「山の道具が全部役に立つな」
 そう言って、芳太郎は岩の上に薄い小さなマットを敷きその上に寝袋を広げた。
「芳太郎さんは」
「俺はこれから大物を釣るんだ」 
 芳太郎は岩の上に腰をおろし、残り物のイワシをハリガネで釣り針にくくりつけ始めた。大きな釣り針の少し上には、緑色に光るチューブ状のものが糸に沿って取り付けられていたが、それはウキについていた夜光塗料よりずっと鮮やかに光を放っていた。
「何が釣れるの」
「タチウオがつれるといいな。あれは、見かけによらず、とびきりうまいんだ」
「その光でおびきよせるの」
「ああ、そうだ。タチウオは夜行性で、夜になると海の表面に出てきて小さな魚を食べるんだ。光る物が好きで近くに寄ってくるみたいだ。なかなか釣れないけどな」
「じゃあ、僕は一休みする」
 正彦は封筒状になった寝袋の中に足を入れ、身をくねらせて中に入り込んだ。
 芳太郎が立ち上がり、おっ、と声を出すと竿と糸が唸った。餌と錘は遠くに飛んだようだった。キリキリとリールを巻き取る音が聞こえた。芳太郎はリュックを畳んで正彦の枕元に置き、竿を抱えてその上に座った。
「長期戦なんだ、大物は」
芳太郎は足下をさぐり、缶ビールを口に運んだ。
 正彦はうつらうつらしながら芳太郎の姿を見ていた。 
「おお、かかった、かかった。正彦君、タモ、タモ」
 芳太郎の大声で正彦は飛び起き、寝袋から抜け出した。立ち上がった芳太郎は竿をいっぱいに引き上げ、それを降ろす瞬間にリールを巻き上げる動作を繰り返した。懐中電灯で海面を照らすと、銀色に光る長細い魚が右に左にくねくねと泳ぎながらだんだん近づいてきた。正彦は芳太郎の足下にあったタモを手にして、岩につかまって不気味な白い魚をすくい上げた。
「タチウオだ。歯が鋭いから、正彦君さわるなよ」
 芳太郎は慣れた手つきでタチウオの頭をつかみ針をはずした。正彦がクーラーの蓋をあけると、芳太郎が魚を慎重に投げ入れた。
                                


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