急な下りが終わって、石の多いつづら折の道に入ったところで源蔵が遅れがちになった。芳太郎が後ろを振り返って立ち止まると、源蔵は笑顔を見せて足を早めた。芳太郎に追いついてきた源蔵の顔色がよくなかった。「少し休みましょうか」芳太郎が言うと、源蔵は首を振った。「もうすぐ日が暮れる」源蔵はそう言ったが、その場にうずくまってしまった。「源蔵さん、大丈夫ですか」「ああ、少しだけ待ってくれ、すぐよくなる」そう言って源蔵は目を閉じた。「源蔵さん、おんぶしよう」源蔵は力無く首を振った。「さあ、お父さん、遠慮しないで」芳太郎はリュックを降ろしてそれを胸に抱え直し、源蔵に向かって背中を向けた。そうか、と源蔵は言って芳太郎の肩につかまってきた。芳太郎は学生時代にボートを漕いだことがあり体力には自信があった。八十に近い源蔵を軽々と背負うことができた。源蔵の大腿に回した芳太郎の手に、老人らしくたるんだ筋肉のやわらかい感触がつたわってきた。源蔵の髭が首の後ろにあたってチクチクと痛かった。源蔵の胸のあたりから、ふと懐かしいシナモン系の香水が芳ってきた。源蔵の体温を背中に感じながら、芳太郎は源蔵が自分の父であった頃のことを思い出していた。源蔵は芳太郎が小学校の二年生の時、母と再婚し、五年後に母と別れたのだ。もう四十年以上も前のことだった。源蔵は医者だった。小さな診療所で患者のために懸命に働いていた。母と別れたのは母との諍いに耐えられなかったのだろう。母は大阪の商家の長女で非常に美しかったが、わがままなところがあった。源蔵といっしょに暮らした五年間は、芳太郎にとって想い出深いものだった。源蔵はよく勉強を見てくれたし、音楽会や絵画展にも連れていってくれた。あのころ源蔵に近づくとかすかにシナモンの香りがした。源蔵は陽気でユーモアがあり、誠実な男だった。芳太郎は源蔵のことが好きだったので、源蔵と母が別れることになった時には非常に落胆した。源蔵は、芳太郎の母と別れてしばらくたってから郷里に帰って再婚した。三度目の結婚だった。平穏な家庭生活だったようだが子どもはできなかった。二年前に夫人を亡くしてから源蔵は体調を崩しがちだった。林道に出ると、道はなだらかになった。日は沈んでいたが、もう大丈夫だ。だらだら下って行けば、一キロ足らずで車を置いてきたところに着けるはずだった。源蔵の別荘に着いたときは、あたりはもうすっかり暗くなっていた。車の音を聞きつけたのか、ウメさんが玄関から飛び出してきた。「ご無事でしたか」ウメさんがそう言うのが、窓ガラスを通して聞こえた。ウメさんに手伝ってもらって源蔵を車から降ろし、両側から支えてベッドに運んだ。源蔵は目を閉じたままだった。「お医者さん、呼びましょうか、それとも救急車がいいでしょうか」ウメさんがひそひそ声で芳太郎に訊いた。「誰も呼ばんでいい、少し休んでいればおさまる」源蔵がしっかりした声で言った。「ウメさん、心配かけたな、もう帰ってくれ」ウメさんは迷ったように芳太郎の方を向いた。芳太郎が頷くと、ウメさんは丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。「すまん、芳太郎君、迷惑かけた。休んでくれ」「食事はどうしますか、ウメさんが用意してくれたみたいですが」源蔵は首を振った。「食べたくない、すまんが先に食べてくれないか。風呂もわいてるだろう。遠慮はいらない。ここにあるものは何でも使ってくれ」そう言って源蔵は目を閉じた。芳太郎は心配なのでしばらくベッドの脇に立っていたが、かすかな寝息が聞こえてきたので居間に引きあげた。芳太郎は冷蔵庫を開けてビールを出し、テーブルの上に置かれたコップに注いで一息に飲んだ。芳ばしい香りが喉の奧に広がった。テーブルには刺身や肉料理の皿が並んでいた。食事を終えて、あらためて芳太郎は居間を見回した。夕べは遅くこの家に着き、すぐにベッドのある部屋に案内されたし、今朝は慌ただしく朝食をすませて出発したので、居間の様子はよく見ていなかった。全部の壁に作りつけられた書棚が高い天井まで届いていた。絵と音楽の分厚い洋書が多かった。医学書はほとんどないようだった。源蔵はここでは専門と違うことをやりたかったのだろう。医者なのでドイツ語が読めるのは当然だったが、源蔵はフランス語やイタリア語も読めた。もし、源蔵が自分の父親であり続けたら、自分の人生もずいぶん変わっていたのではないか、と思った。芳太郎は絵がやりたかったのだが、母は猛反対し、結局当時もてはやされていた電子工学科に進むことになった。「芳太郎君」源蔵の声が聞こえた。ハーイと返事をして、芳太郎は源蔵の寝ている部屋に急いだ。源蔵は着替えの最中だった。芳太郎に痩せた背中をむけて、源蔵は尻に垂れた長い布を素早く股の間から前に回した。源蔵の足元にある籐で編んだ籠には、登山着や下着が脱ぎ捨てられていた。一番上には細い紐に布を縫いつけただけの下帯が置かれていた。下帯は汗に濡れ汚れていた。源蔵は糊のきいた浴衣をはおりながら、「水をもらえないか」と言った。「お茶とか、ジュースとかの方がいいんじゃないですか」「いや、水にしてくれ、薬が飲みたいんだ」わかりました、と言って芳太郎は部屋を出た。流しでコップに水を受けながら、芳太郎は源蔵が重篤な病気に罹っているのではないかと思った。顔色がよくなかった。それにここ十年ばかりは会うこともなく、つき合いが途絶えていたのだが、いっしょに山に行ってくれという手紙が突然来たのも変だった。不安な気持ちで芳太郎がコップを手に部屋に入ると、源蔵はベッドの上で上半身を起こしていた。顔色は幾分よくなっていた。源蔵は手に二種類のカプセルを握っていた。芳太郎がコップを渡すと源蔵はカプセルを口に放りこみ、水を飲んでから顔を天井にむけた。喉仏が一度大きく上がってもとにもどった。いっしょに暮らしていた時も源蔵はそういう薬の飲み方をしていた。「すまんが、カーテンを開けてくれんか」源蔵は顎を窓の方に動かした。網戸の張られた窓は開け放たれていたがレースのカーテンがかかっていた。芳太郎は窓のところに歩いてレースのカーテンを左右に引いた。「明かりが見えるだろう。あれはさっきの山小屋だ。二つの光の間があの長い尾根だったんだ」源蔵が見ている方向に芳太郎は視線を向けた。中空に二つの光があわく浮かんでいた。その光に照らされて、山の稜線がうっすらと見えた。あんなところを歩いたのだと思うと、誇らしい気持ちになった。「芳太郎君、本当にありがとう。おかげでいっしょにあの山に登ることができた」「いえ、こちらこそお世話になりました」「昔、関西の山に行ったことがあったな」「ええ」「最後に伊吹山に登ったな」「ええ、覚えています」あの時は夜間登山で、足元に琵琶湖がほの白く見えていたことを芳太郎ははっきり覚えていた。「あのとき、芳太郎君に信州の山に連れていってやる、とわしは約束した」「そうでしたか」芳太郎にもかすかに記憶があった。しかし、その約束が実行されるべきだとは思っていなかった。母と源蔵が別れてしまえばご破算になって当然と思っていた。「なんだかそれが気になってな。約束が実行できなくて」そうだったのか、と芳太郎は納得がいった。相変わらず義理堅い人だと芳太郎は思った。「康子が生きている時は、なかなか誘いにくかったんだ、私たちには子どもがなかったからな。康子は自分以外の人間に私の関心が注がれるのを好まなかったんだ」源蔵は辛そうに言った。康子は源蔵の三人目の夫人だった。「これで思い残すことはない」そう言って、源蔵は視線を窓の外に漂わせた。「いやだなあ、思い残すことはないなんて、えんぎでもない」芳太郎が言うと源蔵は寂しそうに笑った。「癌が肝臓に転移していた。私は医者だ。あとどれくらい自分の体が持つのか、けんとうがつく。急がなければならなかった」やはりそうだったのか、と芳太郎は頭を殴られたような思いがした。「いい家族を持って幸せだな」源蔵は芳太郎の目をのぞき込むように言った。山に登っている時に源蔵は芳太郎の家族のことを訊いた。その時の話から、源蔵は芳太郎の家庭が幸せであると判断したのだろう。はあ、と芳太郎はあいまいな返事をした。必ずしも幸福な家庭を築けなかったように見える源蔵に遠慮があった。「さっき、お父さんと呼んでくれたな」「ええ」「うれしかった、ありがとうよ」「すみません、初めてだったですね」ああ、と源蔵は慈しむような目つきになって芳太郎を見つめた。源蔵が芳太郎の父であったとき、芳太郎はどうしても源蔵のことを「おとうさん」と呼ぶことができなかった。「明日帰るのか」「いえ、まだ夏休みが二日あります」東京で友人たちと会う約束があったが、キャンセルしようと思った。あと二日の間、 源蔵と一生分の心のふれあいをしたいと思った。「お父さん、私、明日も、あさってもここにいますよ」源蔵は嬉しそうに頷いた。「わしには、こんなにいい息子があったのになあ」そう言って、源蔵はため息をつき、芳太郎に向かって手を差し出した。