孝史の後ろを歩いていた誠一郎の足音が聞こえなくなった。孝史は慌てて道を引き返した。もう夕暮れが近かった。誠一郎は砂地と雑草が入り混じった平らなところに腰をおろし、煙草を吸いながら自分の手を見つめていた。
「誠一郎さん、休んでる場合じゃないでしょ、日が暮れたら帰れなくなりますよ」
孝史は苛立ちを覚えながら言った。
「見てくれ、マムシに噛まれた」
そう言って誠一郎は手を差し出した。孝史は驚いて誠一郎の手を握り自分の顔に近づけた。親指と人差し指の間に、1センチほどの間隔で二つの小さな傷があった。
「さっき、斜面で手をついたとき、ちくっとしたんだ。変だなと思ってたんだが、今見たら血が出ている」
誠一郎は消え入りそうな声で言った。孝史は一目でそれがマムシの噛み痕でないことがわかった。孝史は子どものころマムシに噛まれた友人を助けたことがあったのだ。
「これ、棘のある枝かなんかで刺したんだとだと思うけど」
「いや、たしかにマムシだ。手に痛みを感じた直後に草むらがうごいた。なにかが逃げて行った」
誠一郎はマムシが噛んだと信じているようだった。
「じゃあ大変だ。血清うたなくちゃいけない。その前に応急処置しないと。腕をしばったり、毒を吸い出したり」
「そうだ、そうだ。急がなきゃならんな」
誠一郎は煙草を石にこすりつけ、それを耳にはさんだ。誠一郎は右手でリュックを開き、中から手ぬぐいを取り出した。孝史は、マムシでない事がわかっているので、余裕があった。しかし万一ということがあるので応急処置はしておこうと思った。誠一郎は六十五歳だ。もしマムシだったら命に関わることもありうるのだ。
「しばりますよ」
そう言って孝史は手ぬぐいを縦に折って、誠一郎の腕に巻きつけた。孝史が手ぬぐいを縛ると、誠一郎が顔をしかめた。
「ちょっときつすぎる。それじゃあ、血が通わなくなって手が腐ってしまう」
「わかりました」
孝史はそう言って、結び目を弛めた。
「あんまり緩くても毒が心臓に向かうでしょからね」
孝史はいったん弛めた手ぬぐいを少しずつ絞めていった。
「このくらいでどうですか」
誠一郎が頷いたので孝史は手ぬぐいを交差して引っ張り結び目を重ねた。
「次は、毒だ。毒を吸い出さなくちゃな」
そう言って、誠一郎はしげしげと傷跡を眺めた。
「わしは、口の中に切り傷があるんだ」
誠一郎は昨日、夕食の時、自分の歯で頬の内側を噛んだと言って大声を出した。その傷がまだ治っていないのだろう。
「じゃあ、やりますよ、痛いかもしれないですよ」
孝史は、リュックから水筒を取り出して一口飲み、うがいをするように口の中を移動させてから吐き出した。
誠一郎の手を口に持っていくとほのかにシナモンの香りがした。傷口を吸うと生臭い匂いが口の中に広がっていった。孝史は、血を吐き出すと、水筒からまた一口飲み、うがいをした。それを三度繰り返す間、誠一郎は体を堅くして動かなかった。
「マムシなら、すぐに腫れてきます。病院に行って血清打たなくちゃいけないですね。誠一郎さん、あんまり動かない方がいいから、僕が一人で山を降りて人を呼んできましょうか」
孝史は、本当は一人で山を降りる気はなかったがそう言ってみた。誠一郎はウムと唸った。
「もう暗い、孝史君が無事に山を降りられるかどうかわからんな」
「でも、このままじゃ心配だから」
「わし、一人で死ぬのはいやだ。どうせ死ぬならそばに人がいるほうがいい」
誠一郎はそう言って、目をあげて視線を宙に漂わせた。
「誠一郎さん、マムシじゃないですよ。僕はマムシに噛まれた人を見たことがあります。大丈夫ですよ」
「そうかもしれんな。とにかく、もう歩き回るのは危険だ、今夜は野営しよう」
「野営って何ですか」
「野宿みたいなもんだ。昔の言葉だな。」
「あっ、野宿ですか」
孝史は気がすすまなかったが、確かに動き回るのは危険だった。この先には崖があって、足元が切れ落ちているところがあるはずだった。
「じゃあ、すっかり暗くなる前に、薪を集めてきます。誠一郎さん、ここに居てくださいね」
「わかった」
誠一郎はそう言って、リュックの中から紙包みを取り出し始めた。
林の中はもう薄暗かったが、目をこらすと枯れ枝を見つける事ができた。
枯れ枝を腕いっぱいに抱えて戻ると、誠一郎は木の枝にテントのようなものを括り付けていた。リュックの傍には、飯盒やシートが並べられていた。バカに用意がいい。
「用意がいいんですね」
「いや、偶然リュックの中に入ってたんだ。ツェルトって言って、ごく簡単なテントなんだ。こんなもんでもないよりましだ」
誠一郎はテントを釣り終わると、石を集めて竈を作り始めた。誠一郎は急に元気が出たようだ。
「誠一郎さん、動かない方がいいですよ、もしマムシなら毒が回りますから」
「ああ、そうだったな」
誠一郎はそう言ったが、石を積む作業を止めなかった。
誠一郎は石造りの竈の下に新聞紙を入れ、その上に小枝を重ねた。ライターで新聞紙に火をつけると、火はだんだん広がって小枝を燃やし始めた。それを見定めて、誠一郎は大きな枝を重ねていった。
誠一郎は、水筒を取り出し、飯盒に水を注いだ。それからか紙包みを開いた。誠一郎の手元が暗くて、何を入れているのか孝史にはわからなかった。
誠一郎は孝史が集めてきた枯れ枝の中から丈夫で長い物を一本取り出した。それを飯盒の手を通し、誠一郎は石を重ねて作った竈の上に渡した。
「誠一郎さん、こういうことうまいんだね」
「ハイキングが好きで、よく野山を歩き回ったからな」
誠一郎はそう言って目を細め火を見つめた。
「どうですか、腫れてきませんか」
孝史が聞くと、誠一郎は手を差し出した。
「腫れてこないな。どうやらマムシじゃなかったようだ」
誠一郎は笑って頭の後ろに手をやった。
食事が終ると、孝史は急に眠くなった。あたりはもうすっかり暗くなっていた。
「孝史君、もう寝たらどうだ」
飯盒を紙に包みながら誠一郎が言った。
「誠一郎さんは」
「うん、わしはもう少したってから寝る。横になるとすぐに鼾をかくんで、孝史君が寝られんといかんからな」
「誠一郎さんこそ横になったほうがいいんじゃないの」
「いや、いいんだ、いいんだ」
そう言って、誠一郎はリュックの中から毛布を取り出して孝史に手渡した。孝史は誠一郎が始めから山の中で泊まることを意図していたのではないか、と思った。そういえば、今日は、誠一郎はやけにゆっくり歩いていた。
手探りでビニールのテントの中に入ると案外中は広くて、二人が寝ることはできそうだった。床はでこぼこしていたが、砂地に草が生えているようで、堅くはなかった。孝史は火を足で消す誠一郎の気配を感じながら、孝史は誠一郎との一年あまりの生活を思い出していた。
草取りのアルバイトに来たことが縁で、孝史は誠一郎の屋敷の離れに下宿するようになった。誠一郎は、孝史の通う大学で教授をしていたが定年になって化学会社の顧問をしている男だった。夫人をなくし、一人で屋敷に住んでいた。誠一郎はよほど孝史のことが気に入ったようで、散歩や食事に頻繁にさそった。孝史には父親がいなかったので珍しいものをみる思いで誠一郎と付き合ってきたが、半年ほどたったころから、孝史はこれまで誰にも感じた事のない親しみを誠一郎に感じるようになっていた。孝史は就職で東京に出ることになったが、誠一郎はそのことをひどく残念がった。
夜中に目がさめた。暗くて見えなかったが、誠一郎の体がすぐそばにあるのを感じた。誠一郎は背中を向けているようだった。テントの中にウイスキーの香りが満ちていた。誠一郎が飲んだのだろう。ウイスキーの香りの奥に、誠一郎の上品な体臭がかすかに感じられた。
「おきているのか」
誠一郎がヒソヒソ声で訊いてきた。
「ええ」
「悪かったな、こんなところに泊まることになって」
「いえ、いい思い出です」
「そうか、ありがとう」
誠一郎がこちらに向き直る気配がした。誠一郎は毛布を掛けていないようだった。
「もう数日で孝史君が去っていくと思うと、わしは寂しくてならん」
別れを惜しむためにこんな風にテントで泊まりたかったのだろう。マムシに咬まれたと言ったのは、そのためだったのだろう。
「東京ぐらい近いじゃないですか」
「まさか、このまま、わしのこと忘れたりせんだろうな」
「そんなことありませんよ」
「約束だぞ」
「ええ、わかりました」
孝史は誠一郎に近寄り、自分に掛かっていた毛布をひぱって誠一郎にもかけた。
やがて誠一郎の体温が静かに孝史に伝わってきた。