ワンダフル・イヤーズ
 

              
 
 その日、芳彦がダウンタウンでの買い物を終えて、レンガ造りの古風な家の並ぶ通りを歩いていると、三々五々連れ立って歩いてくる男たちとすれ違った。楽しそうに談笑し、曲をハミングする者もいた。年配者が多く、中には杖をついている人もいる。白人が多かったが、黒人やアジア系の人もいる。男たちの列は切れぎれになりながら古びた建物まで続いていた。その建物には見覚えがあった。時々中から美しい合唱の歌声が聞こえてくることがあったのだ。どんな人たちが歌っているのか、と芳彦は興味を抱いていた。芳彦は建物の前で立ち止まった。ドアの前で、小太りの老紳士がポケットから鍵を取り出していた。最後の一人なのだろう。上品な人のよさそうな顔つきをしていた。
「Hello,Mr.」
 老人がドアに鍵を掛け終るのを待って、芳彦は声をかけた。
「 Have you sung in this house?(この家の中で歌っていたのですか?)」
 突然声をかけられて驚いたような顔をしたが、老人は「ああ、ここは練習会場なんだ」
と流暢な日本語で答えた。芳彦が日本人であることがわかったのだろう。
「日本語がお上手ですね」
「ありがとう。昔、日本人と付き合いがあったんでね」
「私、日本で合唱をやっていたことがあるんです。この家から歌が聞こえてきたから、なんだか懐かしくて」
「そうですか、どんな曲を歌っていたの」
「主に日本の作曲家の作った男声合唱曲です。あとはクラシックですね、シューベルトとか」
「そうか、日本の曲は歌ったことがないな」
「オーディションみたいなものがあるんですか、合唱団に入るには」
「興味があるんだね、この合唱団に」
「ええ、なんだか皆さん、とても楽しそうですし、よさそうな方が多いようにお見受けしました」
「そうねえ」
 老人は思案顔になった。
「歩きながら話そう」
 そう言って老人は先にたって歩きはじめた。芳彦は後を追い、老人と肩を並べた。老人は芳彦よりも少し背が低かった。
「ちょっと特殊な合唱団なんでね」
 老人は慎重な口調でそう言った。
「特殊と言いますと」
「だれでも入れるわけじゃないんだ」
「高度な技術や才能が必要なんですか」
「いや、そうじゃない」
 老人は芳彦に顔を向け、胸の前で手を振った。
「今、時間があるかね」
 老人は通りの向こうにあるカフェに目を向けた。
「ええ、いいですよ」
 芳彦がそう答えると、老人は歩みをゆるめ、交差点で立ち止まって信号が変わるのを待った。
 

 

 芳彦たちが入ったカフェは空いていた。老人は窓際の席に芳彦を誘導した。ウェイターが注文をとりにきたので、老人はコーヒーを頼んだ。芳彦も同じものを注文した。老人がフランクと名乗ったので、芳彦はポケットから名刺を取りだして手渡した。老人はそれを受け取り、眼鏡を外して眺めながら、自分はあなたと同じ大学でヨーロッパの歴史を研究していたが、リタイヤーしているので名刺はないのだ、と言った。
 コーヒーを持ってきたウェイターが立ち去ると、老人は胸のポケットからスマートフォンを取り出した。
「あなた結婚は」
 うつむいてスマートフォンを操作しながら、老人は芳彦に訊いた。
「いえ、まだ」
「そうか」
「結婚していることが、条件なんですか。入団の」
「いや、そうじゃないんだ」
 老人はスマートフォンの画面を芳彦に向けた。そこには、幸せそうに肩を組んだ二人の老人が写っていた。一人は目の前に座っている老人であった。もう一人は丸い立派な鼻と形の良い唇を持ったハンサムな老人だった。目の前の老人より少し年上だろうか。
「右側はあなたですね。左側はお友達ですか」
「そうだね、友達といえば友達だが、もっと大事な人だ。パートナーだよ。ハズバンドと言ってもいいかもしれない。お互いにハズバンドなんだが」
「一緒に住んでみえるんですか」
「一緒に住んでいたが、彼は私を置いて天国に旅立ってしまったんだ、3年前に」
「そうですか、それは残念ですね。長く一緒に暮しておられたんですか」
「そう、三十年近かったな。ワンダフル・イヤーズだったよ」
「そうですか」
「それでね、合唱団のことだけど、そういう人たちが集う合唱団なんだ」
「ああ、そうだったんですね」
「あなた、そういう人たちに嫌悪感を覚えないかね」
 コーヒーを一口飲んで、老人は穏やかな口調で訊いてきた。
「いえ、嫌悪感なんかありませんよ。いろんな生活スタイルがあっていいのだと思っています」
「そうか、それはよかった」
 老人は頷き、素敵な笑顔を見せた。
「私は自分がゲイであることに気がつくのが遅かった。世間の男並みに何人かの女性と付き合って、彼女たちの言葉でやっと気がついた。皆同じように『あんたは女を愛せない人だ』っていうんだ。私はひどく傷つき落ち込んだ。自分は生涯家庭を持つことはできないと思った。でもビルに出会って、私も心から人を愛することができること、そして私なりの家庭がつくれることを知ったんだ。うれしかった、とても嬉しかった」
老人は遠くを見つめるような目つきになった。ビルというパートナーのことを思い出しているのだろう。
「演奏会に来てみないかね」
 老人はそう言って、上着の内ポケットから演奏会のチケットを取り出した。簡素だがセンスのあるチケットには演目が書かれ、一番下に「Gay Men's Chorus of ×××××」と合唱団の名前が書かれていた。
「ずいぶん、直接的な名前のついた合唱団なんですね」
 老人から受け取ったチケットを眺めながら芳彦は言った。
「うん、もともとは、ゲイの人たちの権利を守る運動もやっていた団体なので旗幟鮮明にしたいみたいだな。こういう名前の合唱団がアメリカの各地にあるよ。うちの団は、今も運動に参加している人たちが多いけど、それは必ずしも入団の条件じゃないんだ」
「そうですか」
 芳彦は半ば感心しながらズボンのポケットから札入れを取り出した。行ってみたいと思ったのだ。
「チケットの代金はいらない。これは私からあなたへのプレゼントだ。合唱を聴いて、あなたが何か感ずるところがあれば、それで私はうれしいんだ」
 そう言って老人はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
 

                   
 
 男ばかりが来るのだろうと思ったが、会場の三分の一は女性だった。年配の人が多い。出演者の姉や妹、あるいは母親なのだろうか。夫婦で来ている人もいる。
 幕が上がると、六列に並んだ出演たちの顔にライトが当たった。百人くらいだろうか。男声合唱団としては大規模なものだ。皆、白いシャツに蝶ネクタイを付け、黒い背広を着ている。五十代、六十代と思われる立派な紳士が多い。中にはもっと上の年代の人もいる。髭をはやした人、眼鏡をかけた人が目立つ。合唱団は左右に分かれ、その間にギター、キーボード、ドラムのバンドが収まっていた。
 最初の曲は「One Moment in Time」だった。聞いたことのない曲だったが、高音が伸び伸びとしていて聞きほれた。芳彦にチケットを贈ってくれた老人は右手の上段で、情感たっぷりに歌っていた。
 指揮者は六十台だろうか、両手を激しく振り回す情熱的な指揮ぶりだった。舞台の右手に立った手話の通訳者がせわしなく手と口を動かしている。出演者は、顔を隠すこともなく、恥ずかしがることもなく、堂々と観客に顔を向けて楽し気に歌っている。社会的な地位がある人もいるのだろう。アメリカ社会といえども、この人たちはどんなに迷い苦しみながらここまでたどり着いたのだろう。そう思うと、芳彦は胸が熱くなった。
 演奏が終わってロビーに出ると、一列に並んだ出演者たちが来客と抱き合ったり握手をしたりしていた。杖をついた老婆が、出演者の中年男性に抱きついている。母親なのだろう。その老婆は、隣にいた男と握手し、言葉を交わした後、その男にも抱きついた。息子のパートナーなのだろうか。
 芳彦は老人を探した。老人はロビーの外で同年輩の数人の男に囲まれていた。芳彦が近寄って「とてもよい演奏会でした」と言うと、老人は嬉しそうに笑って頷いた。老人の隣にいた大学教授然とした眼鏡をかけた男が、芳彦と老人を見比べ、老人に「New lover?」と冗談っぽく尋ねた。老人は「No,no」と言って強く首を振った。老人を取り囲んでいた人々が順々に芳彦に握手をもとめた。最後にさっきの教授然とした男が両手で芳彦の手を包み、「Welcome!」と言って、慈しみに満ちた眼差しで芳彦を見つめた。 (了)