父の休日  

 智彦が旅行先で友人とわかれて、単身赴任をしている父の芳太郎の小さな家を訪れた時、上半身裸になった芳太郎は、ばたばたとウチワでからだをあおぎながら大声で電話をしていた。
 居間の入り口に座った芳太郎は、電話でしゃべり続けながら、ウチワで寿司とビールがのせてあるテーブルの方を指さした。智彦がテーブルにつくと、芳太郎は手振りで早く食べろと合図したが、智彦は電話が終わるのを待った。
 父と会うのは四カ月ぶりであろうか。相変わらず血色が良く太っていたが、はげあがった額の両脇の髪がやや白さを増しているような気がした。汗っかきの芳太郎の首や胸から汗がしたたり落ち、それがせりだした腹の上に筋を引いて光っていた。芳太郎の表情は真剣だった。いかにも利口そうな細い目が素早く左右に動くと、つぎの瞬間には確信に満ちた言葉が芳太郎の口から勢いよく飛び出した。
「わかった、会社に出向くのはおれがやる。お立ち台に立つぐらいなんでもない。それより、こんど不良が出たらあそこは取引停止になるかもしれんからな。そしたらうちはピンチだ。そうそう、萩原君には気の毒だが月曜までに報告書つくってもらうしかない。それから検査の方はこの期間だけでも少し人をふやしてな・・・」
 長い電話が終わると、芳太郎はやれやれという顔をして智彦の向いにあぐらをかいた。
「よくきたな、暑かったろう」
 芳太郎はうれしそうに智彦を見つめ、よく来た、よく来たと口のなかでつぶやきながら、ビールの栓をぬいてコップにビールを注いだ。
「何かあったの、長い電話だったけど」
「いいや、いつものことだ。一つでも不良品がでると、その時納入した部品全部が返却になるんだ。下請けの会社はつらいもんだよ」
 芳太郎は、ビールにちょっと口をつけると、手元にあったリモコンを押してテレビのスイッチをいれた。少しぼやけた画面に、サインにうなづくピッチャーの真剣な表情が大きく映しうだされた。
「お立ち台ってなあに」
「その台の上に立っていろいろ言い訳をするんだよ、なぜ不良品がでたかとか、これからどんな対策をとるかとか、大勢の人の前でな」
「どこにあるの、それ」
「発注もとの部品メーカーだ」
「父さんがその上にたつの」
 まあな、と言って芳太郎はまずい顔をした。父がさらしもののようにになっているところを想像すると、智彦のなかに生々しいつらい気持がわきおこった。
「朝顔の花がたくさん咲いてるんだって?きのう電話したら母さんがそういってたが」
 芳太郎はテレビに目をむけたままガツガツと寿司を食べ始めた。会社のことは余り話題にしたくないようだった。
「ああ、大きくてりっぱな花だよ」
 芳太郎はうなずき、それからぽつりぽつりと家族の様子を尋ねた。
 智彦は言葉少なく返事をした。家のことは話しにくかった。旅費が高いのと忙しいのとで、芳太郎の帰京の回数はこの二、三年、極端に減っていた。智彦の東京の家では、父のいない生活がもうすっかり定着していた。家族一人一人の生活態度や買い物にもけっこう気を配る芳太郎が電話で細かく指示してきても、母も、まだ家にいる二番目の姉と三番目の姉も自分の都合にあわせて適当に聞き流していた。芳太郎のほうは、自分の言ったことが実行されていると思ってるので、智彦がうっかりしたことを言うと、つじつまがあわなくなるのだ。智彦は、義理堅く真っ正直なこの父が好きで、父に嘘をつくことは耐えられない気がしたが、ありのままを話せば、母や姉たちのことを告げ口するようで、それも面白くなかった。
「釣りにいくか、あした」
 寿司を食べ終わった芳太郎が突然言った。
「ああいいよ」
「そうか」
 芳太郎はうれしそうな顔をしてごろりと横になり頭の後で手をくんだ。
「どこ」
「やっぱり、『白はと』だなあ」
 芳太郎の目が輝いた。『白はと』というのは白燈台のある防波堤のことだった。
「さあ、風呂が涌いてるぞ」
 そう言って芳太郎はリモコンをいじってテレビのチャンネルを変えた。ひいきのチームが大きく負け始めたのだ。
 居間のとなりの部屋に入り、布団の中で横になっても、智彦は暑苦しくて寝つかれなかった。衣類や雑誌がちらかり、なんとなくうすよごれた部屋のなかにかび臭いにおいがただよっているのが気になった。明日の朝食の準備であろうか、台所の方で芳太郎がせわしなく食器をいじる音がいつまでも聞こえていた。

 次の朝、二人は自転車をならべて港にでかけた。川に沿った土手の上を走ると、左手に川をはさんで工場のコンクリート塀が続いていた。土手が坂になったところを上り詰めると芳太郎は自転車を止めた。そこからは芳太郎が以前勤めていた大きなアルミ工場が見渡せた。芳太郎は腰にさげた手ぬぐいで顔の汗をふくと、まぶしそうに手をかざしてその工場を見つめた。いつか、母にたのまれて父に届け物をした時、はるかむこうまでアルミ精錬用の巨大な電解炉が並び立つ工場の中を案内しながら、芳太郎が「これは全部俺が設計したんだ」と自慢気に言ったことを智彦は思い出した。
「もう精錬はやってないんだってね」
「ああ。精錬はみんな海外に移って、いまはここはアルミ加工の工場になってるんだ」
「あの電解炉ももうないの」
 芳太郎は返事をせずに「さあ、行くぞ」とぶっきらぼうに言って、自転車をこぎ始めた。すぐに土手の右手にコンクリートの社宅があらわれた。智彦たちが住んでいたころには木造の一戸建や長屋風のものが多かったのだが、今は、幹部用の数軒を残して、あとは高層の団地風になっていた。
「随分かわったね、ここも」
 自転車を走らせながら、智彦は芳太郎の背中にむかってさけんだ。

 智彦は小学校の中ごろから中学の一年までをこの社宅で過ごしたが、その間に二回社宅をかわった。当時は職位によって家の広さがちがっていて、智彦の一家は芳太郎の地位があがるにつれて少しづつ大きな社宅に移ったのだった。ここの工場で設計課の課長をしていた芳太郎は、智彦が中学一年の時、東京の本社に転勤になり、二年たって開発部長としてまたこの工場に戻ることになった。芳太郎の張り切りようは大変なものだった。戦前の専門学校出身者としては異例に早い昇進だったのだ。技術者としての抜群の腕と、部下のめんどうみがよく責任感の強いところが買われたようだった。その時は智彦と姉たちの学校のことがあって、結局家族は東京に残り、芳太郎は単身赴任になった。それから数年たって石油ショックが起こって、石油一辺倒の日本の電力が値上がりした。多大な電力を消費するアルミ精錬のコストが上がり、国内産のアルミ地金は輸入品におされはじめた。芳太郎のいた総合電気化学会社はアルミ部門を切り離して別会社にし、生産の拠点を海外に移しながら国内のアルミ関係の工場で大々的な人員削減をおこなった。芳太郎も、同じ町にある自動車のアルミ部品を作る小さな会社に、技術関係の責任者として移ったのだった。出張で東京の家に立ち寄った芳太郎は、激しい口調で、大学出のキャリア組ばかりが好待遇であちこちに迎えられたといきまいた。

 社宅を過ぎると、一面の田圃が目の下にひろがった。舗装してない土手の道は白く乾いていて、前を行く芳太郎の自転車の車輪が砂ぼこりを舞いあげた。道が狭くなると、両側に生い茂る夏草の匂いがいきなり鼻をついた。川が合流しているところで右に折れ、軒の低い漁師町を通りぬけると目の前に倉庫がずらりと並んでいた。もう港は近かった。
 『白はと』は釣人でいっぱいだった。芳太郎と智彦は釣り具やえさ箱を踏み付けぬように注意しながら、空いている場所をさがした。
「村田さん、今日はよう引きよるで」
「村田さん、息子さんかいな。おおきなったな」
 釣り糸を垂れている人々の中から、芳太郎に声がかかった。芳太郎は愛想よく挨拶を返しながら、あちこちのびくをのぞいてまわると、智彦に「今日は釣れそうだな」とささやいた。   芳太郎と智彦は防波堤のさきっぽ近くまで来ると、竿袋から釣竿をとりだ、仕掛けを竿にとりつけ始めた。手先の器用な芳太郎が少し早く準備をすませて釣り始めた。智彦はゴカイを餌箱から取り出し、おそるおそる半分に切って針が隠れるように丁寧に刺し、振り子のように釣り糸を振って海に落とした。水面に落ちて横たわったウキが、すっと動いてからむっくりと起き上がり、静止した。智彦は芳太郎の隣に座ってあたりがくるのを待った。
 二つの防波堤で仕切られた釣り場は波もなく、かすかに水面が上下するだけだった。水は青々とすみ、防波堤のコンクリートの壁に沿ってずっと底まで見渡せた。小さな魚が群れて壁の藻をつついていた。
 こつんとウキが動いた。きたきた、と智彦は全身の神経を竿を握っている右手に集中した。白いウキが見る見る青さを増して水の中にひきずりこまれた。智彦はひっぱられた分だけゆっくりと引き戻すようにして竿を上げた。小さな鯵が腹をみせながら水面をはねあがってきた。「ほう、ぼうず釣れたな」
 芳太郎が落ちついた声でうれしそうに言った。大学生にむかってぼうずはないだろうと苦笑しながら智彦は左手で魚を押さえ、針を口から外し、魚を竹で編んだびくにほうりこんだ。びくの中で鯵がさかんに跳ね回る音が聞こえていたがだんだん静かになった。
 それから芳太郎の方に急にあたりがきて、たて続けに四匹釣り上げた。智彦の方は、あたりはあるが、餌を取られてばかりだった。
 釣りはじめてからに二時間程たったころ「飯にするか」と芳太郎が声をかけてきた。智彦が同意すると芳太郎は、松林の中で食事をしようと言って道具をしまいはじめた。

 自転車を連ねて、二人は海沿いの狭い通りを浜の方にむかった。海浜公園の入口につくと、芳太郎はびくから魚をかき出し、水道の水で洗った。そこからは砂の道だったので、自転車を引きずって二人は松林の中を進んだ。
 砂浜と松林の境目の木陰に芳太郎はビニールのシートを敷いた。荷物を下ろすと、芳太郎は辺りにある石を運んで炉を作りはじめた。智彦は松葉や小さな流木をはこんできた。芳太郎はリュックから新聞紙を取り出し、火をつけた。その上に枯れた松葉や木っ端をのせると、火がだんだんに燃え移って広がっていった。芳太郎は火の上に小さな四角い網をわたし、その上につったばかりの魚と家からもって来た肉をのせ、塩をふりかけた。それはいかにも慣れた手つきだった。
「こういうこと、よくやるの?」
 智彦が聞くと、芳太郎は苦笑いした。
「ときどきな。まあ、父さんはほかに趣味もないから」
 芳太郎は、負けるのがきらいで、勝負事はいっさいやらなかった。酒はほんの少ししかのめなかったし、ゴルフもほかのスポーツもやらなかった。日曜に自転車で港に釣に行ってその魚を料理して食べるのが唯一の趣味になっているのだろう。自分のことに金をかけない父らしい暮らし方だと智彦は思った。
 芳太郎に催促されたので、智彦はリュックの中から弁当箱を取り出し、蓋を開けて中から握り飯を二つ取って弁当箱を芳太郎にまわした。握り飯は、今朝二人でつくったものだった。芳太郎は鯵のしっぽをもってさかんにひっくり返した。
「ほれ、食べろ」 そう言って、芳太郎は魚を手でつかみ、智彦のほうに投げてよこした
 食事がおわると、芳太郎は魔法瓶の栓をあけ、二重になっている蓋をはずしてそれぞれに紅茶をそそいで小さい方を智彦に渡した。
「おまえ、どうするんだ、就職は」
「夏休みが明けたらまた幾つかメーカー受けてみようと思うけど。大手でなくてもいいから」 智彦は六月に受けた通信機会社の入社試験に落ちたのだった。原因はよくわからなかったが、就職担当の教授の話によると面接での印象がよくなかったようだった。元気がなさそうに見えたらしかった。
「大学院は受けないのか」
「そうね、受かればいいんだけど」
「大学に残るとか研究所とかそういうところがいいんじゃないか、おまえには」
 うん、と智彦は曖昧に返事をした。智彦の体があまり強くないことを芳太郎は案じているようだった。
「いっしょにいれば、相談にものれるんだがな。父さんの同級生なんかのいる会社や研究所にも行って、見学させてもらってもいいし」
「もう自分できめるよ、そういうことは」
「ああ、そうだな。それがいい」
 芳太郎はちょっとむっとした顔付きになって言った。
「どんな仕事でも大変だぞ。真剣になって自分がやっていけそうな仕事を見つけるんだな」  そう言って、芳太郎は残っていた紅茶を火に注いだ。ジュッと音がして灰が舞い上がった。 「父さんちょっとレポート書くから、おまえ釣りに行きたければ行ったらどうだ」
 芳太郎はリュックの中から書類をとりだしシートの上に窮屈そうに腹ばいになった。通信教育のレポートらしかった。智彦は母から、父が自動車会社からの命令で品質管理の通信教育を受けさせられていると聞いたのを思い出した。
「ぼくは、散歩してくるから」
 そう言って智彦は立ち上がった。

 松林の中にはいりこむと松の香りに満ちた空気がひんやりと肌に心地よかった。足の下で、枯れた松葉がぽきぽきと音をたてた。智彦は、父の機嫌が悪くなった原因を考えていた。「自分で決める」といったことがそんなに気にさわったのだろうか。あれこれ考えたがよくわからなかった。多分、人一倍子供思いの父が、自分が何もしてやれないまま子供が育って行くことにいらだっているのかもしれないと智彦は思った。
 松の幹の間から眩しく輝く海が切れぎれに見えた。まだ時期が少し早いのか海水浴をしている人は少なかった。松林の中の細い道を歩きながら、智彦は昔、父がこのあたりに自分を連れて来てくれた時のことを思いだしていた。夏は海水浴、春と秋は釣りとハイキングだった。姉たちはもう父親と出歩くのをいやがる年頃になっていたこともあり、芳太郎は智彦だけをあちこちに連れて行った。この浜から貸ボートを漕いで半島の先まで行ったこともあった。その時は、帰りは波が強くなって、浜に着いたときは日がくれかけていた。心配をかけたと言って、芳太郎は翌日ボート小屋のおじさんに菓子折りを届けた。
 松林のはずれに来ると、大きなグランドのむこうに高校の校舎が見えた。この町でたった一つの高校で智彦の一番上の姉と二番目の姉がここに通った。智彦の東京の高校にくらべてひどくゆったりとした造りだった。グランドでは野球部員がオレー、オレーと奇妙な掛け声をだして練習していた。父と一緒に家族がこの町にもどることになったら、自分はこの高校にくることになったのだろうな、と智彦は思った。

 智彦が散歩から戻って来た時、芳太郎はまだレポートを書いていた。芳太郎は智彦に気づくと書類をしまい、シートをたたんだ。
「H橋のほうに行くか」 そう言って、芳太郎は先に立って歩き出した。その時、芳太郎の胸のあたりでピピ、ピピと小さな音がした。芳太郎は胸からポケットベルを取り出し、無造作にボタンを押して音をとめ、それをポケットにしまった。橋のたもとにある雑貨屋の前までくると、芳太郎は自転車をとめ「電話をかけてくる」、と言って店にはいっていった。
 店から出て来た芳太郎の顔が緊張していた。
「会社で事故があったんだ、これからすぐいかねばならん。帰りはおそくなると思う。今日は、うまいもの作ってやろうと思ったんだが」
 芳太郎はいかにも申し訳なさそうに言って、釣りの道具と家の鍵と夕食代を智彦に預け、あわてて自転車に飛び乗って橋を渡っていった。父が去った後、智彦はちょっと考えたがもう少し釣を続けることにした。
 H橋の下は、大きな川が海に流れ込んでいるところだった。昔、学校の理科で習った三角州のようなものが川の中にできていた。水の表面を魚がはねていたが、竿をいれてみるとさっぱり釣れなかった。帰ろうかと思ったが、雑然とした誰もいない部屋にかえるのはつまらない気がした。
 ゆっくりと流れるウキきをみつめながら、智彦はふと父がもう八年もあんなところに一人で暮らしていることを思いおこした。