手探り
 



 赤茶けた硫化銅の上に引かれた罫書き線にそってダイシンカーのバイトを上からおしあてると、鈍い振動音がして高速で回転するバイトのまわりに紫に輝く金屑が飛び散りはじめた。深く掘り過ぎないように注意しながら、善治郎はバイトを動かして溝を一本掘った。回転するバイトが特殊鋼を削る時、ハンドルには小気味よい手ごたえが伝わって来た。掘られたばかりの溝は銀色にきらきらと輝いていた。バイトの位置をずらして、善治郎はすぐ隣にもう一本の溝を掘った。溝と溝がつながって、溝がひろがった。図面をみながら、善治郎は溝を広げ続けた。やがてクランクシャフトの折れ曲がった形が銀色のペンキで書かれたようにくっきりとあらわれた。
 特殊鋼を削る作業が一通り終わると、善治郎の頭に今朝の異様な雰囲気が浮かんで来た。出勤するとすぐに善治郎は親しみをこめて肩をたたきながら「今年もよろしく」と年始の挨拶をしてまわったのだが、ほとんどの人間が異様な反応を示した。挨拶を返さない者、だまったままわずかに頭を傾ける者、露骨に善治郎の手を振り払う者もいた。正月休みの間に会社と第二組合からの猛烈な働きかけがあったことは予想されたが、それにしてもこんなにも険しい雰囲気になるとは予想していなかった。もうほとんどの人間が第二組合に行ってしまったのではないだろうか、と善治郎は思った。
 昼を知らせるベルがけたたましく工場の建物全体にひびきわたった。善治郎は作業ベンチにむかって慌ただしく弁当を食べると、昼休みのたまり場になっている☆ストーブのところに行ってみた。いつもはストーブを囲んでバカ話をしている連中が、みんな自分の作業ベンチに籠ってひっそりとしている。いつまで待ってもだれも来ないので、善治郎は仕上げの作業ベンチの並びを歩いて一番奥の桐原の所にいってみた。作業ベンチと定盤のおかれた小さな空間には仕事をした痕跡がなかった。桐原は休んでいるようだった。
 昼休みを誰とも話さずにすごすのがもったいなかった。組合事務所にでも行ってみるか、と善治郎は思った。
 組合事務所には元同じ職場にいた浅野の顔が見えた。
「よお、元気か」
「はあ、なんとかやってますが、職場がもうめちゃくちゃですね」
「どこもそうみたいだな」
「もうほとんどの人が第二に行ってる感じなんですが、脱退届けきてますか」
「いや、来てない。第二の組合幹部が握ってるみたいだな」
「そうですか、誰が残っているのかわからないですね、これじゃ」
「俺が職場に入れればもうちょっと何とかできるのにな」
「痛いですね、浅野さんが入れないのは」
 浅野は型製作課の組合の職場長をやっていた男だった。N自動車では昨年の夏、三カ月生産がストップする大争議があり、その争議を理由にした大量処分で浅野は暮れに懲戒解雇になっていた。浅野は組合事務所には入れるが、職場には入れなかった。争議のきっかけは賃金要求だったが、会社は組合つぶしをねらって組合を挑発する戦術をとった。
「裁判の方はどうなんですか」
「うん、今、神奈川地裁に提訴する準備中だ。不当労働行為の方は地方労働委員会に提訴しているけどね」
「長引きそうですか」
「ああ、そうだな」
「職場の方、どうしたらいいんでしょうね」
「とにかく、誰が残っているのかつかむことからはじめなめればな。俺のほうで今つかんでいるのはこれだけだ」
 そう言って、浅野は胸のポケットから手帳を取り出した。これまで組合活動にあまり熱心とは言えなかった数人の名前が並んでいた。善治郎はその人たちの名前を頭の中にきざみこんだ。
「ああ、そうそう、桐原君から脱退届けがきているそうだ。ちょっと意外だったな」
「えっ、桐原からですか。そんなばかな」
 善治郎は頭を丸太で殴られたような気がした。桐原は職場で随分善治郎と親しくしていたし、暮れに話し合った時には今の組合で頑張ろうとお互いに確認しあった。
「職場ではどうなの、同じ係だろう」
「ええ、今日は休んでましたけど」
「しかし、脱退届けが出ているってことは、第二に入ってないかもしれないな。第二に入った人のものは第二の幹部が押さえてるわけだから」
「それにしても、一言ぐらい相談があってもよさそうなものですが」
「何か事情があったんだろうけどな。まあ、とにかく、今第一に残っている連中で集まってみたらどうなのかな、一度」
「そうですね、このままじゃいけないですね」
「頼むよ。僕の方も力になるから」
 ドアが開いて、童顔の愛川が現れた。愛川は善治郎と同じ課だったが、仕事はプレス型の仕上げだった。年は善治郎より三つ下だった。
「いやあ、ひどいひどい。誰も口をきいてくれん」
 愛川はそう言って浅野と善治郎の座っている方に近づいてきた。
「いま、波多野君とも話してたんだけど、とにかく誰が第一に残っているかつかむことからはじめようと思うんだ」
 そう言って浅野はもう一度手帳を取り出して愛川に見せた。愛川は食い入るように手帳を見ていたが、すぐに思案顔になった。
 解雇になった人たちの相談が始まる様子だったので、善治郎と相沢は連れ立って事務所を出た。善治郎は仕事が終わったら桐原の家を訪ねてみようと思った。
 駅の階段を降りて細い道に出ると、あたりはもう暗かった。短い商店街は、裸電球をつけた八百屋で終わって、その先は街灯がぽつり、ぽつりと道をてらしていた。人のいない通りを少し歩き、善治郎は左手の細い道に入った。桐原の家には泊まったことがあったので家はすぐにわかった。桐原の家の門の上にはしめ繩が飾られていた。
 立て付けの悪い硝子戸キシキシといわせてこじ開け、こんばんわ、と声をかけると桐原の母が出て来た。桐原の母は、警戒した目付きで善治郎を見つめてから奥にひっこみ、またすぐに出て来て、お上がりください、と抑揚のない声で言った。
 桐原は二階の部屋で寝転がっていた。善治郎が部屋に入って声をかけると、むっくりと起き上がった。顔が白く、そのぶん無精髭が目立った。
「新年おめでとうございます」
 善治郎が挨拶をすると、桐原はかすれた声で挨拶を返し、火鉢の前に座布団を投げて座るようにいった。善治郎が火鉢の前に座ると、桐原はまた畳の上に寝てしまった。善治郎と目を合わせるのを避けているようだった。
「体の具合が悪いのか、休んでたけど」
「ああ」
「風邪か」
「まあそうだな」
 桐原の声の調子には他人行儀なところがあった。
「おまえ、何しにきたんだ、ここに」
 突然、桐原が大きな声を出した。善治郎はちょっとたじろいだが、これだけは聞いておかねばならないと思った。
「組合抜けたんだってな」
「ああ、抜けたよ。それがどうしたんだ」
 桐原の声には明らかにふてくされた調子があった。
「一言相談があると思ったがな」
「相談してどうにかなるもんでもないしなあ」
「暮れに約束したじゃないか、一緒に第一で頑張ろうって」
「申し訳なかったな。組長が来てな、もうみんな新組合にいくことになったって言うもんだから」
「そういう風に脅すのが彼らの常套手段らしいな」
「正直言って、あんたも行くもんだと思っていたよ」
 善治郎は首を横にふった。桐原の母がひどく遠慮した様子で入ってきて、お盆にのせたお茶を善治郎のそばに置いて出て行った。
「おい、外に出よう」
 桐原は立ち上がった。家族に聞こえるので家の中では話にくいのだろうと善治郎は思った。「風邪だろう、外はさむいぜ」
「いや、いいんだ」
 桐原はそう言って押し入れを開け、黒い上っ張りと襟巻きを取り出した。
 家を出て細い路地を突き当たりまで歩くと大きな川の土手に出た。川から吹きつける風が冷たくてじっとしていられなかった。桐原と善治郎は土手の上の道を急ぎ足で下流に向かった。「職長のやつがなあ、時期を失うともう新組合にいけなくなる。第一に残ってるやつはみんな首になるって言うんだ」
「それも脅しだろう。簡単に首を切られてたまるか」
「すまん」
 桐原の声が急に小さくなった。
「俺、夜学もあと一年だ。学費の点では随分、親や妹たちに迷惑かけてきた。ここで学校やめるわけにいかないんだ。あと一年学校に行ったら、俺あんな会社やめてやらあ」
「そんな短気なこと言うもんじゃないぜ」
 桐原はずんずん足を速めた。善治郎は桐原に追いつこうとなかば駆け足になった。
「あのな、誰が第一にのこってるか、そこからつかまなくっちゃなんらないんだ。第二に行った連中の脱退届けは第二の幹部が押さえているから、だれが第一に残っているかわからないんだ。職場で聞こうと思ってもだめなんだ。なにしろ挨拶さえかえってこないからな。第一の者とは口をきくなって言われてるみたいだしな。もしまだ第一で頑張っている人がいたら励まさなくちゃならないんだ。だれか知っていたら教えてくれないか」
 桐原は急に足を止め、善治郎の方を向き直った。暗くて桐原の表情は読めなかった。
「あんた、なぜこんなんことをやるんだ。特に組合に恩義を感じてるわけでもないだろうに。あんなぼろぼろになった組合のためにこんなことやって何の得があるんだ。会社に睨まれるだけだぜ」
「ああ、俺損得勘定でやってるわけじゃない。まあ、筋を通すというか、道理に従うというか、俺はそういう人間だから」
「それだけじゃないみたいだな」
「ああ、それだけじゃない」
 善治郎は共産党の思想に共鳴し党員と接触があった。第一組合の主流は社会党系の人達だったが、会社の組合つぶしには体をはって闘わねばならないと善治郎は考えていた。
「じゃあ、あんたの熱心さに敬意を表して一つだけ教えてやるよ。職長が三度目に俺の家にきて、俺が組合抜けるって言った時だった。職長のやつ俺の家の前に待たせてあったハイヤーの運転手にK町に回ってくれ、って言った。俺たちの職場でK町に住んでいるのは乙骨のじさまだけだ。乙骨の爺さまも相当ねばってるみたいだな、と俺は思ったね」
「そうか、どうもありがとう」
 善治郎が手を差し出して握手を求めると、桐原は手を引っ込めて川の方に体を向けた。
「一つお願いがある。言いにくいことだが、会社では俺に話しかけないでほしい」
「寂しいな、あんたがそういうこと言うなんて」
「とにかくそうしてくれ」
 桐原は固い声できっぱりと言った。
「ここ、しばらく行くと左に降りる道があってすぐに大通りに出る。それ左に行くと駅に出る。じゃあな」
 そう言って、桐原は土手を駆け降り、河原の薮の中に入っていった。
 善治郎は呆然と桐原の消えて行った薮を見つめていたが、足元からはい上がってくる寒さに耐え切れず歩き始めた。土手を歩きながら善治郎は乙骨のじさまの所に行こうかどうしようか迷っていた。じさまは偏屈なところがあって、善治郎は苦手だった。しかし、もしじさまがまだ組合を抜けてないなら、ぜひとも激励しておかねばならなかった。善治郎は、今朝挨拶したとき、じさまが小さく頷いたことを思い出した。行ってみよう、と善治郎は思った。
 K駅で降りた善治郎は、駅前の本屋に入って、地図を見た。住所はわからなかったが、善治郎はいつかじさまが近くにゴム工場があって臭いがひどいのだと言っていたことを覚えていた。地図で見ると、Tゴムというのが町の端にあった。乙骨という変わった名前だから近所で聞けばわかるだろうと思った。善治郎は道順を覚えると地図を書棚にもどして本屋を出た。
 駅前の商店街を過ぎると道がすぐに二つに別れた。善治郎はさっきの地図を思い出しながら、左に折れる道を選んだ。引き込み線の下をくぐってどぶ川をわたるとコンクリートの塀が続いていた。ゴムの焼けるにおいが鼻をついた。塀沿いの細い道を歩き続けると、門松を飾った工場の正門に出た。そこを過ぎてさらに歩き続けると、橋に出た。橋のたもとに「ホルモン焼き」と書かれた赤い提灯が揺れていた。店の中には手ぬぐいで鉢巻のようにした髭面の男たちが真っ赤な顔をして酒を飲んでいるのが見えた。あたりに住宅のようなものはなかった。善治郎はホルモン焼の店に入って、「オッコツさんの家はこのあたりか」と聞いた。割烹着を着て臓物を焼いていた太ったおかみさんが、土手に沿って行くと五分くらいで長屋の集まった所に出る、その一番奥だと教えてくれた。酒を飲んでいた髭面の男が「正月からオッコツとは縁起でもない」と大きな声で叫んだ。善治郎は男を相手にせず、おかみさんに礼を言って店を出た。
 街灯の明かりでかろうじて表札が読めた。「こんばんわ」と声をかけて引き戸を開けると、「だれだい」とじさまのしゃがれた声がした。
「波多野です」
「おう、善さんか。どうしたんだい」
 どてらをはおった小柄なじさまが出て来てけげんそうに善治郎の顔を見つめた。
「すみません、夜分におじゃまして。ちょっと組合のことで」
「まあ、あがれあがれ」
 そう言って、じさまは手まねきした。正月だというのに居間は汚れていた。布団が敷きっぱなしで、下着があたりに散らかっていた。
「あいつが死んじまってから、何だかなにもする気がおきんでなあ。寒かったろう、まあコタツには入れや」
 そう言って、じさまはコタツに入り背中を丸めた。
「じさま、組合抜けたか?」
「いいや、抜けてない」
「職長が来たろう」
「ああ、来た。でもぬけなかった」
「そうか、そりゃよかった。僕も抜けてない。いま誰が残っているか調べて体勢を立て直そうとしてるんだ」
「わし、どうしてもぬけられん義理があってな。女房が死んだとき浅野さんによくしてもらったから。葬儀の車だって組合のお陰で安くしてもらったし」
「このまま、組合にいると首になるって脅さなかった、職長のやつ」
「ああ、そんなことも言ってたな。でもな、首になったらそれでもいい。食えなくなったら死ねばいい。もう俺は十分に生きて来た。みっともないまねはしたくねえ」
「そのうちに集まりもつからな、第二に行かないでがんばってくれ」
 そう言って、善治郎は立ち上がった。
 工場の塀にそって歩く善治郎の耳に、「食えなくなったら死ねばいい」と言ったじさまのかすれた声がいつまでも響いていた。

 翌日、善治郎が出勤して工具を点検していると、愛川が回りを気にしながらやってきた。「おれきのう、テッチャンと春さんの所によってみたんだ」
 愛川は口を善治郎の耳にくっつけるようにして小声で言った。それから小さく畳んだメモを善治郎の手の中に押し込んで善治郎から離れていった。善治郎はあたりに人がいないのを確かめてメモを開いてみると、
「春さんはまだ第一にいる。テッチャンは第二に行ってしまったが、申し訳無いと言ってこっちの組合費も払うと言っている」
 と書かれていた。 



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