軒の低い民家が並ぶ通りをすぎると、運河があらわれた。紡績会社の原料や製品を運ぶために作られたのだが、鉄道の引込み線ができてからは使われていないようだった。裕造は長く運河沿いの長屋に住んでいたが、この運河に船が通るのを見た事がなかった。運河はいつも淀み、かすかに臭気がただよっていた。
「狭いだろう、この通りは」
「そうだね」
「バスが通るんだけど、すれ違えなくて、バックするんだ」
和彦は珍しそうに左右に視線を動かし、家並みを眺めながら歩いていた。
急にあたりが明るくなった。河口にかかる橋に出たのだ。
「大きな川だね」
「小学校の時に、いかだを作って、この川を下ったことがある」
「ふーん」
「最後はこの河口に来て、いかだをバラバラにして砂浜で焚き火をしたんだ」
「たのしそうだね」
目の前にあたり一面の松林があらわれた。
松林の縁に沿った道をすすむと、左手に学校が現われた。グランウンドでは薄いランニングパンツを履いた生徒がトラックを走っていた。トラックの中ではサッカーの練習をしていた。裕造は立ち止まって金網越しにグラウンドを眺めた。
「ここが、父さんが通った高校だ」
「ふーん、大きな学校だね」
「お前の学校にくらべるとゆったりしてるだろう。トラックは四百メートルある」
「テニスコートは?」
「校舎の裏手に六面ある」
「すごい」
「部員もそれだけ多いいんだけどな」
「野球部が練習してないみたいだけど、練習場は別にあるの?」
「ああ、近くに市民球場があるんで、いつもそこで練習してるんだ」
「市民球場を高校が使えるなんていいなあ」
「この町に一つしかない高校だからな、特別なんだ」
「えっ、一つしかないの。本当に」
「ああ、この町の人は特別な事情がないかぎり、みんなこの高校にはいるんだよ」
「東京じゃ考えられないね」
和彦は、妻の実家に寄宿して都心の高校に通っていた。
「だから、この町で育った人は、みんな先輩・後輩なんだ」
「でも、お父さんよく大学に入れたね。受験勉強なんかしないんだろうし」
「いや、町に一つしかない高校だから、いろんな科やコースがあったんだ。商業科もあったし、普通科もあった。普通科の中には進学クラスもあったんだ」
「よく勉強したの、お父さん」
「そうだな。まあまあ、よく勉強したな。ほかにやることもなかったから」
すれ違った初老の男に見覚えがあったので、裕造は頭を下げた。高校で数学を教えてもらった教師だと思った。確信がなかったので、そのまま通りすぎたが、相手の方がひき返してきた。
「失礼ですが、真下さんじゃありませんか」
「はあ、真下です。数学を教えていただいた先生でしょうか」
裕造は男の名前が思い出せずに曖昧な言い方をした。キザという渾名は覚えていたのだが、それを言うわけにはいかなかった。男は背広の内ポケットを探り名詞を差し出した。服部敬四郎の名前の右にこの高校の教頭の肩書きがあった。
「学校ではお世話になりました」
「いえ、とんでもない。それで、今はどちらですか」
「はあ、東京の近郊におります」
「そうですか」
服部の表情から、裕造は勤め先を聞かれているのだと思った。
「名刺を持ってきませんでした。すみません。D通信社の研究所におります」
そう言って、裕造は頭を下げた。札入れの奥に名刺の一枚や二枚はあるような気がしたが、裕造は敢えて名刺を探さなかった。主任の肩書きに服部が示す反応が見たくなかったのだ。
「息子さんですか?」
「はあ、一度私の高校を見せたいと思いました」
「そうですか」
服部は和彦の顔を見て微笑んだ。
「お父さんは、大変な秀才だったんだよ。模擬試験では県でトップの成績を取りつづけて、もうこの町の希望の星のように言われてたんだよ」
「そんなことはありあませんよ」
裕造は苦笑した。
「ゆっくりお話を伺いたいのですが、これから会合がありますので」
そう言って服部は丁寧に頭を下げ去って行った。
服部が視界から消えるのを待って、裕造は和彦を促してフェンスに沿って歩きだした。「父さん、希望の星だったんだ、知らなかったよ」
「町の人の希望に沿えなくて悪かったかな」
和彦は困ったような顔をした。
「希望の星ってのは、多分、父さんの家がひどく貧乏だったことを意味してるんだと思う。この町には大きな工場もあって、そこの幹部の子弟とか医者の息子たちは、家庭教師をつけたり、休みになると泊まりこみで東京や大阪の予備校に通ったりしていたから。父さんの家にはそんな金はないから、一人で勉強するしかなかった。それでも割合成績がよかったから、まあ、家が金持ちじゃない生徒には励ましになったのかもしれないな」
道が自然に松林に入った。赤松の大木の幹が、斜めに差し込む夕日をあびて赤々と輝いていた。
「まあ、偉くならなかったけど、父さんは満足しているよ」
「お母さんも満足しているの」
「お母さんって、私のか、それともおまえのか」
「僕のだよ」
「さあ、どうだろう」
「お母さんは、本当はお父さんに偉くなって欲しかったんじゃないの」
「そうかもしれんな」
「こういうこと聞いちゃいけないかもしれないけど、お母さんとお父さんの物の考え方って、微妙に違わない?」
「そうだろうか、いろんなことよく話し合うようにしてきたつもりだけど」
「ええと、そういうことじゃなくてさあ」
裕造は和彦の言いたいことを理解した。奈津は共産党員ではなかった。国政選挙の時などは奈津は手伝ってくれたが、日常的にそれ以上積極的に関わろうとはしなかった。奈津に最後に党に入って欲しいといったのはいつだったろうか。もう十年以上も前のことであるような気がした。
奈津が党員でないことは和彦にもわかったのだろう。
「ああ、少し違うだろうな」
どう話せはいいのだろうか、と裕造は考えこんだ。会話が途切れてしまった。ヒグラシの声がすぐ近くで聞こえた。
「ねえ、お父さんたちの高校でも、理系とか文系とかのクラス分けはあったの?」
和彦は話題を変えた。裕造の声が重かったのだろう。
「いいや、そういうものはなかった。進学をめざすクラスは二つしかなかったから細かくコースを分けることはできなかったんだ。一応、どこでも受けられるように、理系の科目をみんなが履修してたな」
「ふーん、じゃあ大変だったろうね、数学や物理の嫌いな人は」
「和彦の学校ではコース分けがあるのか」
「あるよ、二年から。二学期の終りに調査表配るって」
「どうするつもりだ」
「文系に行きたいんだ」
「そうか」
「うん、テレビの仕事がしたい」
「おじいちゃんの影響だな」
「まあ、そう」
「テレビ局には技術者も必要だろう」
「でも、僕は番組を作りたいんだ」
「そうか、それも面白いだろうな」
細い道を覆う枯れた松葉が足のしたでポキポキと折れた。
「おじいちゃんのところにはしょっちゅういろんな人が来るんだよ」
「おじいちゃんは顔が広いからな」
「お客さんが来ると、時々僕も呼ばれるけど、とっても面白い人が多いね。昔、一緒に仕事をしたテレビ局の人とか、テレビ局の人じゃないけど、一緒に仕事した人とか」
そういう交際の広さは自分には欠けている、と裕造は思った。
裕造は、和彦が変わったと思った。しっかりしたというのか、素直になったというのか、とにかく大人っぽくなった。芳太郎の家で人生の目標のようなものを見つけつつあるのだろう。
松林を抜けると、砂浜に出た。海は、砂浜をずっと下ったところにあった。波打ち際を散歩する人の影が遠くに見えた。二人は砂の斜面を駆け下りた。
「緑色なんだね、海が」
「ああ、そうだ、家の近くの海と違うね。日本海だからな」
心に屈託がある時にはこの浜辺に来ると慰められた。生まれてから、この町を離れるまで、自分は何度この海岸に来たことだろうか、と裕造は感慨にふけった。
(了)
( 本作品は長編「海蝕台地」の一部を切り出し短編にしたものです)