誠一郎の故郷


 
 
(1)
 
「孝史君、いるのか」
 母屋の方から誠一郎の声がした。
「はーい、います」
 孝史はそう返事をしてドアをあけた。母屋の窓から誠一郎が笑顔でこちらを見ていた。
「珍しいものがあるんだ、食べに来ないか」
「ありがとうございます、今行きます」
「まってるぞ」
 そう言って、誠一郎は顔をひっこめた。誠一郎は五年前に妻の美沙子を亡くし、それ以来母屋で一人暮しをしていた。誠一郎には娘が一人いるが、留学中に知り合ったアメリカ人と結婚し、今はデンバーに住んでいる。年に一度か二度、その家族が訪ねてきて、母屋は英語と日本語が混じってにぎやかになるが、それ以外の時はひっそりとしていた。
 つっかけを履いて庭に出ると、池に夕陽が差し込んでいて、芦の茎のつくる影が水面の長く伸びていた。誠一郎の屋敷は四角い池をコの字型の日本家屋が取り囲むような形でつくられていた。もともと美沙子の父の屋敷であったものを、遺産として誠一郎たちが譲り受けたのであった。趣味人であった美沙子の父が自分で設計し、建設業者に細かい注文をつけながら作った建物のようであった。
 池の水は常に循環させて酸素を吹き込むようになっていたので、薄青い済んだ水が底まで見渡せた。日が陰った部分はその青さが黒みを帯びていた。小さな魚が群をつくって光の中を出たり入ったりしていたが、やがてそろって池の真ん中にある巨石の影に消えていった。芦の茎のすぐ脇を、体が透けて見える小さなエビが、体を伸ばしたり縮めたりしながら、巧みに泳いでいた。
 孝史の気配に気づいたのか、大きな黒い鯉が数匹足下に寄ってきて水面で大きな口を開けた。悪いね、餌はないんだよ、そう口にして、孝史は母屋の玄関に向かった。植え込みの向こうにスペイン風の大きな建物が夕陽をあびて赤く輝いていた。大学の付属研究所の建物である。
 居間に入ると、部屋の真ん中に置かれたテーブルについて孝史を待っていた誠一郎が、「さあ、さあ、こっちに座って」と声をかけた。
 誠一郎は涼しげな絣の浴衣を着ていた。居間は美沙子の父の書斎だった部屋で、ガラス扉がついた本棚が壁面を埋め、見上げるほどに高い天井まで達していた。
 テーブルには、小さな木の樽が置かれ、そのまわりに野菜の煮付け、サラダ、鶏の空揚げなどの皿が所狭しと並んでいた。賄いとしてこの家に通っているお春さんが用意していったものだ。夕食時に孝史が離れにいると、必ずと言っていいほど誠一郎は孝史を食事に呼んだ。
 誠一郎はテーブルの上に並べた二つのコップにビールを注ぎ、一つを孝史に差し出した。
孝史がグラスを受け取ると、誠一郎は自分のコップの底を孝史のコップの腹に軽く当てた。
 口をつけると香ばしい香りが口の中にひろがった。
「いつから学校だ」
「十日から」
「じゃあ、まだ少しゆっくりできるな」
 誠一郎は机の上に置いてあった団扇を静かに動かした。
 孝史がコップを空けると、すぐに誠一郎はビール瓶を手に取り、孝史のコップにビールを注いだ。
「さあ食べなさい。これは小鯛の笹漬けと言って、私の郷里の名物なんだ。知り合いが送ってくれてね」
 そう言って誠一郎は樽から箸で切り身を取り出し、小皿に盛って孝史の前に置いた。
「T市でしたっけ、誠一郎さんの郷里」
「そうだ。もっとも今は親戚がいるわけじゃない。みんな名古屋や東京に出てきてしまってるからな」
 T市は北陸の入り口にある古い町だ。
「これ、鯛の子ども? それともこういう小さい種類なの」
「鯛の子どもだよ、確かレンコダイという種類だと思った。真鯛じゃないな」
 孝史は小鯛の切り身を口に含んだ。酢と塩が適度効いていて、ほんのりと杉の香りがした。樽が杉の木でできてるのだろう。孝史が、おいしいと言うと、誠一郎は嬉しそうな顔をした。
「それで、結局、どこに決まったのだ、就職は」
「D通信社」
 そりゃおめでとう、と言ったが、誠一郎の顔に一瞬影が走ったように見えた。
「本社は東京だな。勤務地は決まったのか」
 誠一郎が自分のコップにビールを注ぎながら聞いてきた。
「いや、まだだけど、研究所にいきたいんです。東京か横須賀か茨城か」
「関西にはないのか」
「研究所はみんな関東なんです」
「そうか、そうなのか」
 誠一郎は大きなため息をついた。
「この歳になって息子を授かったような気がしていたのだが。短い出会いだったことになるな」
 誠一郎は寂しそうに言って、樽から自分の皿に小鯛を移した。
「孝史君が離れに来てから、何だか君のことが気になってな。金はあるか、健康状態はどうか、楽しく学んでいるか、そういうことがいつも気にかかった。こういうのを父性愛というんだろうか。違うかもしれん。世間ではこういう感情をどう呼ぶのか、わしは知らん。そんなことはどうだっていい。とにかくわしは君のために何かしてあげるのが嬉しいんだ。君のおかげで、もう一度自分が青春時代を味わっているような気もした。ずっとこのままこの家に居てくれたら、どんなによいか、と思ってたんだ」
 誠一郎がそういう気持をもっていることには気がつかなかった。就職のことは誠一郎に相談すべきだったのだろうか、と孝史は思った。
 孝史が誠一郎と知り合ったのは、一年余り前だった。アルバイトの求人票を繰っていると「ロシア語教えていただける方、短期」という求人が目についた。アルバイト料が破格に高かった。第二外国語としてロシア語を勉強しただけの孝史は、特に自信があったわけではないが、ダメで元々という気持で申し込んだ。弟が私立大学に通うことになって、父親のいない孝史の家の家計は火の車になったのだ。ロシア語を習いたいと求人票を出したのが誠一郎だった。その時、誠一郎は化学会社の顧問をしていて、ソビエトに化学プラントを建設する仕事に関わっていたのでロシア語を勉強したかったのだ。誠一郎は学生が来たので驚いたようだったが、丁寧に応対してくれた。誠一郎はロシア語に関するいくつかの質問をした。すぐに孝史は自分が誠一郎に教えることができないことを悟った。
 誠一郎はロシア語に関する話題を打ち切って、孝史の大学の様子をたずねた。誠一郎は、孝史の通う大学に長く勤め、定年後に請われて化学会社に入ったのだ。孝史が教養時代、瀬田川でカヌーを漕いでいたことを話すと、誠一郎はひどく興味を示した。誠一郎は旧制の高校でボートを漕いでいたのだ。誠一郎は孝史が二時間以上かけて神戸から通学しているのを知ると、離れが空いているから下宿してはどうか、下宿代はいらない、と言った。夫人を失った一人暮らしで寂しかったのだろうが、それだけではないように思えた。孝史はありがたく申し出を受けた。一日四時間以上の通学時間が省けることになれば、アルバイトをする時間がかせげた。離れに下宿してしばらくして、誠一郎は自分の事を名前で呼ぶように、と言った。丁寧な言葉を使わないでくれ、とも言った。 
 父が早くに亡くなってしまったので、父親の存在が身近でなかったせいなのだろうか。孝史は誠一郎を珍しいものを見るような気持で観察した。孝史は誠一郎に不思議な親しみを覚えた。磊落だが、細やかな気配りをする誠一郎を、孝史はだんだん好きになっていった。
 夕陽が部屋の端を明るく照らす分、部屋が暗く感じられた。誠一郎はテーブルの上に置いてあった手ぬぐいで額をぬぐった。誠一郎の頭は見事にはげ上がり、それを取り囲む白い頭髪は短く刈り込まれていた。口の上を覆う髭はよく手入れされていたが、その髭も白かった。誠一郎の浴衣の胸と脇がすでに黒ずんでいた。誠一郎はひどく汗っかきなのだ。
「ひとつ頼みがあるんだ」
 誠一郎は哀願するような目つきになった。
「孝史君、車の免許取るって言ってたな」
「ええ」
 夏休みに、孝史は一月ほど帰省した。その間に、神戸のはずれにある自動車学校に通って免許を取った。就職してからでは自動車学校に通うのが大変だろうと思ったからだ。
「とれたか」
「一応」  
「じゃあ、わしを車でT市に連れていってくれんか」
「いいですが、免許取り立てだから危ないかもしれない」
「いや、大丈夫、免許取りたての時は案外事故はないもんだ」
「車、どうします。僕、持ってないけど」
「ああ、レンタカーにしよう。孝史君の好きなのを借りてくれ。もちろん金は出す」
「いつ」
「明日から二週間、祭がある」
「長いんですね」
「ああ、おそらく日本で一番長い祭だろうな。最後になると思うので、その祭をぜひ見ておきたいんだ。むこうで一泊したい」
 最後という意味がわからなくて、孝史は首を傾げた。
「実はなあ、あんまり心臓の調子がよくないんだ」
 そう言って、誠一郎は浴衣の上から胸を押さえた。
「ソ連に行った時に、寒気がひどくて、心臓をいためたんだ。それから調子が悪い。会社やめてから体動かさなくなって、体重が増えた。それも心臓に負担をかけてるんだ」
 誠一郎が会社を辞めたのは半年前だったが、それから誠一郎が太ったようには見えなかった。もっとも誠一郎はもともと丸顔で太っていたので、多少体重が増えても孝史にはわからないのかもしれなかった。
「心臓の何の病気なの」
「心筋梗塞」
 誠一郎はそう言い放って、ビールを一気に飲み干した。
「でも、それなら、遠出するのは危険じゃないの。発作が起きると大変だよ。僕の父は心筋梗塞でなくなったんだけど、突然発作が来てあっという間だったみたい」
 誠一郎はしまった、という顔つきをした。
「だから、孝史君にいっしょに行ってほしいのだ」
「車の中で発作が起きたらどうするの」
「発作が起きたらどうせ車で病院に行かなきゃならんのだ。手間がはぶけていいじゃないか」
 誠一郎にしては珍しく理屈の通らないことを言う。でも、と言いかけると、誠一郎は箸を置いて孝史を見据えた。
「どうしても行きたいんだ。孝史君が連れていってくれんのなら、わしは一人で電車でいく。駅には階段もあるし、上り下りで倒れるかもしれん。まわりの人はみんな知らん顔だろう。助かるところも助からなくなるだろうな」
 これは脅迫ではないか、と孝史は思った。
「まあ、それなら僕がずっとそばにいた方がいいんだろうね」
「そうか、行ってくれるか」
 誠一郎は急に嬉しそうな顔をして孝史のコップにビールを注いだ。
 
 
 
(2)
 
 孝史はレンタカーの営業所でマツダのルーチェを借りた。教習所の車がこの車種だったからだ。
 孝史がおっかなびっくりで車を運転して家に着くと、玄関の前で誠一郎が荷物を地面に置いて待っていた。誠一郎は白いズボンに白いシャツ着て、籐で編んだ帽子をかぶっていた。禿げた頭が帽子で隠れて、十ほど若く見えた。孝史はあらためて誠一郎の顔立ちがひどく立派であることに気がついた。
 比叡山へのドライブウェイを走って、途中から琵琶湖に向かった。山道を下りると古い街並みが広がり、町を抜けて湖岸に出ると、波打ち際を国道が走っていた。この道を真っ直ぐどこまでも北に行くのだ、と誠一郎は言った。
 ケバケバしい感じのホテルが連なる温泉街をぬけてしばらくすると、右手に大きな町があらわれた。
「ここの紡績工場に行ったことがある」
「いつですか」
「助教授のころだったかな。研究室で作った合成繊維を工業化するという話があったのだ。結局、特許の件が折り合わず、やめになったが」
 誠一郎が眠そうな声で言った。
 町をすぎると、大きな橋が見えた。琵琶湖の東岸と西岸を繋ぐ橋だ。
 橋をすぎてしばらく行くと、湖岸に砂浜が広がっていた。
「少しゆっくり走ってくれないか」
 誠一郎は、体を前後に揺らし、孝史の体を避けて視線を海岸の方に投げていた。
「どうしたの」
「ああ、このあたりは、昔、ボートで来た事がある」
「あっ、誠一郎さんはボート部だったですね」
「正確には水上部、あるいは水上運動部と言っておったな、当時は」
「例の琵琶湖周航?」
「ああ、周航でも来た。周航は年に一回だが、遠漕というのがあって、このあたりまではよく来たんだ」
「瀬田川から、ここまで」
「そうだ」
「そんなことやったの、すごいね」
「いや、遠漕というのは、いわばレクレーションなんだ。楽しいもんだよ」
 誠一郎は、自慢げに太い腕をさすった。
 道は海岸を離れて街中に入り、やがて回りに家がまばらになって山が両側にせまってきた。川に沿った細い谷あいを、道は北に続いていた。
 鉄道の線路が突然右手に現れた。駅を過ぎガードをくぐると、左手に続く線路は、いつまでも道路と離れなかった。線路を下に見てもう一度クロスすると、線路はしだいにそれていった。大きな工場が左手にあらわれた。
「あっ、もう近いぞ」
 誠一郎が叫んだ。
「旅館は、駅前だ。そこに車置いて、歩いて祭見に行こう」
 誠一郎は、元気な声を出して、ひざの上に載せていた帽子をかぶり直した。
 
(3)
 
             
 土産物屋の並ぶ駅前の大通りを五分歩くと大きな交差点に出た。そこから右側の道路は車道をはさんで両側の歩道に見渡す限り露店が並んでいた。
「どうだ、壮観だろ」
「すごいね、こんな大きな祭り見たことないよ」
「これが神社のところまで続いているんだ」
 誠一郎はそう言って歩道に並んだ店を覗きはじめた。金魚すくいやヨーヨー釣りの店が目立ったが、輪投げ、コルク銃で景品を落とす店、スッポンの粉末を売る店、ガラス切り、さまざまな食べ物を売る店がびっしりと隙間なく並んでいた。
 皿や茶碗を店の前にまで溢れさせた瀬戸物の店で、誠一郎は立ち止まった。
「時々掘り出し物があるんだ、こういう店に」
 誠一郎はそう言って積み上げられた洋皿に目をやった。有名なメーカーのものだろうか、軽妙なタッチで描かれた縁絵には何となく品があった。
 店の主人は百キロを超えると思われる巨体の持ち主だった。誠一郎の様子を見て立ち上がり、愛想笑いを浮かべて近寄ってきた。
「お安くしときますよ」
「送ってくれるのかね、品物は」
「ええ、もちろん」
「じゃあ、いくつかもらおうか」
 誠一郎は皿を何枚か選んで主人に渡した。
「ちょっとした傷があるんですよ、いいですね」
「わかってるよ。でなきゃこんな値段で買えるわけがない。裏にちょっと傷があっても、十分に楽しんで使えるからね」
 誠一郎はそう言って胸のポケットから財布をとりだして紙幣を抜き出した。主人は押し頂くように金を受け取り、前掛けのポケットから釣りを出して誠一郎に手渡した。
「どうだ、せっかくだから神社によってみるか」
「ええ」
 露店の切れたところにはちょっとした空間があり右手に渋い朱塗りの大きな鳥居が聳えていた。
 石でできた橋をわたるとすぐに砂利のしきつめられた境内にはいった。広いせいか、人は多いのだが込み合ってはいなかった。
「この境内のはずれには毎年いろんなものがくるんだ」
「サーカスなんかなの」
「サーカスなんかだといいんだがな」
「見せ物なの」
「そうだ」
「行ってみたいな」
「そうか」
 誠一郎は気のない返事をして、こっちだと言って歩き出した。境内のはずれに張られた大きなテントの前では、白い布を巻いたマイクを握って小柄な赤ら顔の老人が客の呼び込みをやっていた。毒々しい絵の看板に書かれた字を棒で指しながら「字の読める人はお読みください」と言った言葉が、その老人の生きてきた境遇を感じさせた。
「今年は蛇女だな」
 と誠一郎が苦々しい調子で言った。テントの近くで、母親が七輪にかざした小魚を小さな子どもに食べさせていた。頭に手ぬぐいを巻いた母親は、あぶった小魚の頭を自分が食べ、身の部分に息を吹きかけて子どもの口に入れてやった。
 呼び込みの男は、テントにつけられた小さな窓を棒でつついた。舞台の裏から中を見るような感じになって、日本髪を結った女の頭だけが見えた。
「ほうれごらんなさい、右にゆらり、左にゆらり、蛇女の哀れな姿、親の因果が子に報い首から下が蛇になった、ほれもう一度、右にゆらら、左にゆらり・・・」
「本当に首から下が蛇なの」
 孝史は声を殺して誠一郎に尋ねた。 
「まさか」
「じゃあ普通の人」
「鮫肌というのかな、まあ皮膚が少しあれてるんだろうな」
「それじゃあ、とても蛇女にならないね」
「本物の大蛇を着物の中に入れて、尻尾を着物から外にだすんだよ」
「ああ、そういうことなの」
「どうもこういうものはねえ」
 そう言って、誠一郎は眉をひそめた。
「見なくていいだろう、ほかに案内したいところがある」
 誠一郎は今来た方に向かって歩きだした。
 神社の鳥居を背にして、まばらに露店のある通りを抜けると、軒の低い漁師町風のところに出た。
 軒の低い民家が並ぶ通りをすぎると、運河があらわれた。紡績会社の原料や製品を運ぶために作られたのだが、鉄道の引込み線ができてからは使われていないのだ、と誠一郎は言った。誠一郎の父はその紡績会社の技師だったのだ。
「狭いだろう、この通りは」
「そうですね」
「バスが通るんだけど、すれ違えなくて、バックするんだ」
 やがて二人は広々とした河口にかかる橋のところに来た。
「小学校の時に、いかだを作って、この川を下ったことがある」
 橋の途中まで来た時、誠一郎はそう言って欄干から身を乗り出した。
 橋を渡ってなお狭い通りを歩き続けると、突然目の前に松林が広がった。
 道が自然に松林に入った。赤松の大木の幹が、斜めに差し込む夕日をあびて赤々と輝いていた。
「こんな立派な松林は見たことないだろう」
「ええ、須磨や舞子も及びませんねえ」
 そうだろう、と誠一郎は言って、手を後ろに組んで先に歩いた。足の下で松葉がポキポキト鳴った。
 松林は浜に沿って長く続いていた。左側は海岸なのかだろう。木々の向こうが明るかった。松林の中には人気がなかった。ここで発作がおきたらどうすればいいのだろうと、孝史は気が気でなかった。
「こんなに歩いて大丈夫? 発作が起こったら、困るよ」
「ああ、そうだな、そろそろ海にでようか」
 そう言って誠一郎は林の中を縦横に走る小道を右に折れた。
 海は、砂浜をずっと下ったところにあった。波打ち際を散歩する人の影が遠くに見えた。
二人は砂の斜面を下りていった。
「緑色なんですね、海が」
「ああ、そうだ、神戸とはちがうだろうな、海の色が。日本海だから」
「ここで泳いだの」
「そうだ、夏は毎日のようにな」
 そう言って誠一郎は涼しげな眼差しで海を見つめた。
 
 
(4)
         
 宿での食事を終えてから、二人は部屋のベランダに出された籐椅子に寝転んでビールを飲んだ。
「あそこに、空き地が見えるだろう」
「ええ」 
 暮れかかって一様に灰色になった家並みの向こうに、大きな空き地が見えた。学校のグラウンドのようであった。
「あそこがわしの通ってた小学校だ」
「ずいぶん大きなグランドですね」
「ああ、田舎だから土地はふんだんにあるからな」
「ずいぶん変わったんでしょう、誠一郎さんが通っていたころと」
「変わったなあ。あのころは粗末な木造の二階建てだったんだ」
「戦前ですね」
「もう六十年も前の事だが、数日前のことのように思い出せる」
「どんな小学生だったの、誠一郎さん」
「本の好きなおとなしい子どもだったな」
「田舎だと、そういう子はいじめられるんじゃないの」
「ずっと級長だったからいじめられはしなかったよ」
 誠一郎の声にだんだん力がなくなっていった。
「誠一郎さん、疲れたんじゃない」
「ああ、疲れた」
「やすんだらどう」
「そうする」
 誠一郎は椅子から身を起こし、よろめくよう部屋の中に入っていった。すぐに大きな鼾が聞こえてきた。よほど疲れたのだろう。
 孝史は、残ったビールをコップに注ぎ、ちびちびと飲みながら、誠一郎の小学校時代の姿を思い浮かべていた。遠くから祭囃子が聞こえてきた。
 急に鼾が聞こえなくなった。何かあったのだろうか。孝史は椅子から起きあがり、慌てて部屋に入った。
 小さな橙色の電球に照らされて、誠一郎の顔は青ざめて見えた。孝史の心臓がドキリと鳴った。
「誠一郎さん、大丈夫?」
 孝史は恐る恐る声をかけたが返事がなかった。孝史は布団から出ている誠一郎の太い手首に触れてみた。手首は冷たかった。孝史は声をあげそうになったが、指先にゆっくりとした脈が力強く伝わってきた。
 突然誠一郎が跳ね起きた。
「すまん、孝史君。心臓病は嘘だ。君が東京に行ってしまうまでに、どうしてもわしの郷里を案内したかった。誘って、君に断られるのが恐かった。許せ」
 誠一郎は白髪の乱れた頭を垂れた。
「なんだ、そうだったの。仮病なんか使わなくてもよかったのに。誠一郎さんと旅行ができて嬉しかった。僕も、こういう機会を待っていたのかもしれない。この町に来て、誠一郎さんをいっそう身近に感じました。父親に郷里を案内してもらっているような思いでした」
「そうか、ありがとう。本当にありがとう」
 そう言って誠一郎は震える手で孝史の手を強く握った。
 
                                                 



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