暗闇の応援歌
 
 
 
 六時間目の授業の終了を知らせるベルが鳴り響いた。黒板に書かれた演習問題を解説していた矢口先生は、腕時計に目をやり残念そうな顔をした。
「このごろ厚かましい人がいる。演習問題はちゃんとやってこんといかんよ」
 矢口先生は指し棒を両手で強く握りしめ、生徒を見渡して言った。
「もう帰ってよし」
 問題が解けず最後まで黒板の前で立ち尽くしている森山と栗本に声をかけ、矢口先生は黒板の横にある小さな洗面所のところへ行って、チョークで汚れた手を洗い始めた。
 哲郎の前の席に、森山が膨れっ面をしてもどってきた。
「おかしいな」
 席につくと、森山は胸のポケットから手帳を取り出し首をひねった。
「今日は当たらへんはずやったのに」
 そうつぶやいて、森山は手帳を小さく開き、鉛筆で書き込みをはじめた。矢口先生は毎日の授業で十五人ばかりの生徒を指名して演習問題をやらせる。その順番はあらかじめ決まっているわけではなくランダムに近いので、生徒の方はほとんど毎日演習にそなえなければならないのだが、よく観察すると法則性があるらしい。森山は毎回当たる人の名前をチェックしていて、今日は自分が当たらないと予想したようであった。
 学級委員の高沢が起立、礼の号令をかけた。先生が出て行くと教室の中は帰り支度をする生徒たちのざわめきに満ちた。
「ねえ、波多野君どうだろうか」
 青いビニールの通学バッグに教科書やノートを詰め込みながら、隣の席から木下が声をかけてきた。
「どうしようかな」
 哲郎はあいまいな返事をした。新聞部に入らないかと、哲郎は何度も木下から誘われていた。
「じゃあ、とにかく一度きてみてよ。見学でもいいんだから」
「ああ」
 哲郎の返事の中にかすかに応諾の気配を感じたのか、木下は乗り気になっていた。さっきの数学の時間に哲郎が黒板に書いた解法を矢口先生がほめてくれた。それが哲郎の気持を軽くしていた。
 この学校は旧制の私立中学が戦後、中学と高校にわかれた関係で、高校生の四分の三が同じ市内にある付属中学から来ていた。その連中は、中学時代に高校の課程をなかばこなしていたので、哲郎は相対的に学習の進度が遅れていた。哲郎は隣町の公立中学を卒業しこの高校に編入してきたのであった。一年生の時は遅れをとりもどすのに懸命でクラブ活動どころではなかったが、一年の三学期ごろから急に授業がやさしく感じられるようになった。
「じゃあ、いこうよ」
 木下は哲郎のバッグを取り上げ、それを自分のバッグに重ねて肩にかついだ。木下にしては珍しく強引な行為だった。
「わかったよ、いくよ。バッグかえせよ」
「ほんと」
 木下は形のよい卵型の顔に嬉しそうな笑いを浮かべ、哲郎のバッグを投げてよこした。
「助かるなあ。なにしろ受験で三年生が抜けちゃって人手がたりなくてね」
「わかった、わかった」
 哲郎はそう言って木下のあとに従った。教室の出口付近で哲郎を待っていたC組の黒井が、様子を察して、じゃあなと言って哲郎に向かって手を上げ、一人で帰っていった。哲郎は黒井に悪いことをしたと思った。黒井は、哲郎と同じように高校からの編入であり、一年生の時からお互いに励ましあってきた仲であった。黒井もクラブ活動をする余裕はなく、授業が終わるとすぐに帰宅したが、哲郎と帰る方向が同じなので一緒に帰ることが多かった。哲郎の成績がしだいに上がっていったが、黒井の成績はいつまでたっても上がらなかった。
 新聞部の部室は哲郎たちの教室と同じフロアの北の端近くにあった。大きな戸棚で仕切られた十畳ほどの空間の真ん中にがっしりした木でできた大きなテーブルがおかれ、テーブルを囲んで四人の生徒が談笑していた。木下の後について部屋に入った哲郎を見て、テーブルを囲んでいた生徒たちが顔を見合わせてうなずきあった。
「同じクラスの波多野君、前に話したことあったね」
 木下が哲郎に座れと手で合図しながら言った。太った男が、部長の南だと最初に名乗り、あとの三人が、それぞれ青山、山崎、稲沢と名乗った。南と青山は同じ学年なので顔を見たことがあった。山崎と稲沢は一年生だった。
「そしたら、企画の進捗、確認するで」
 そう言って南は立ち上がり、黒板に学期末に発行する新聞の企画を書き始めた。新生徒会長へのインタビュー、特集「大学受験を考える」、クラブ活動の動向、他校訪問、柔道場完成の報道、・・・南はそれぞれの担当者から話を聞き、簡単なアドバイスをしながら先へ先へとすすんだ。
「波多野にも何かやってもらわなくちゃね」
 一通りの確認が終わったところで木下が南に言った。
「そうやなあ、どんなものがやりたい、波多野君」
 南は黒板に書いたメモを紙に写しながら言った。
「まだようわからへんわ、何でも余ってるもんでええけどな」
 南は鉛筆を止めて、ちょっと考え込んだが、
「先生の回り持ちの『随想』が中途半端になってたな」
 とつぶやいた。
「だれ、今度は」
 木下が聞いたので、南は手帳を繰った。
「矢口先生」
 南は不機嫌そうに言った。
「どう、波多野、矢口先生に随想頼める?ちょっと癖があるけど、あの先生」
 木下が心配そうに聞いてきた。
「ああ、頼んでみるよ。初仕事やな、僕の」
 哲郎が言うと南がほう、という顔をした。
「数学、できるんやな。波多野君」
 南は大袈裟に驚いてみせた。新聞部に入ってくる人は数学が苦手なのが相場らしかった。
「そんなことないよ、ただ矢口先生のことは嫌いじゃないし」
 南はもう一度驚いて見せた。
「じゃあとにかく、やってみて。締め切り、七月二十日やからな」
 南がそう言ってから、打ち合わせの終わりを宣言すると、部屋に残って原稿の整理をする者と取材に出かける者が別れた。哲郎は職員室に行って矢口先生に頼んでみようと思って部屋を出た。
 薄暗い職員室の中にはもう教師の姿も少なかった。矢口先生は窓を背にした机で本を読んでいた。
「先生、お願いがあります」
「何だね」
 矢口先生は哲郎の方に椅子ごと向き直った。
「実は、学校新聞に随想を書いていただきたいのですが」
 矢口先生は、うんと言って困ったような顔をした。
「何を書けばいいのかね」
「ええ、なんでもいいんです。随想だから」
「そりゃ、困るよ。何を書くって言ってもらわなきゃ」
 哲郎は自分のうかつさに気がついた。こういう展開は予想していなかったのだ。
「ほら、授業の合間によく話してくれるでしょう、若いころのこと。東京で学問に打ち込んだ話なんか。ああいうのでいいんですが」
 哲郎が苦し紛れに言うと、うん、そうかね、と矢口先生は嬉しそうな顔をしたが、すぐにもとの顔にもどった。
「まあ、あれは軽い気持ちで話してるんだけど。文字になるとちょっとね」
「ところで、君は何クラスだったかな」
 矢口先生は哲郎をじろじろ見ながら言った。さっきの数学の時間に演習問題を解いて褒められたばかりなのに、哲郎は矢口先生が自分のことを少しも覚えていないのが不思議だった。
「Bクラスです」
「編入生だね」
「ええ」
「新聞部やって、勉強の方は大丈夫かね」
「ええ、何とか。このところ授業にもついていけますから」
「油断しちゃいかんよ」
 そう言って矢口先生は哲郎を見据えた。
「それで、随想の方どうでしょうか」
「そう、どうするかね」
 矢口先生はそう言いながら、本のページの端を折り曲げたり伸ばしたりした。
 何という歯切れの悪い態度だろう、と哲郎は思った。数学の授業を進める時の矢口先生とは別人のように煮え切らなかった。
「なんでもいいんです。とにかく書いて見てくれませんか」
 哲郎は少し強引に言った。
「でもねえ」
 入り口付近にいた小柄な高木先生が立ち上がって近づいてきた。
「先生、どうでしょうか、一つ書いていただけませんでしょうか。先生の書いたもの、いつもなかなか評判がいいですよ」
 高木先生は甲高い声で、そう言って矢口先生を見つめた。哲郎はなぜ高木先生が加勢してくれるのかわからなくてとまどった。
「はあ、それはそうなんですがね。どうも書き物というのは後に残りますしね」
「矢口先生らしくもない、みんなが言いたいこと言い合えなきゃ、職場は明るくなりませんなあ」
「まあ、高木先生にそう言われれば書かざるをえませんな」
 そう言って矢口先生は哲郎に向かって、期限を訪ねた。哲郎が二週間と言うと、もう少しと言って、結局三週間ということになった。
 哲郎は矢口先生と高木先生に一礼すると、職員室の出口に向かった。哲郎の後からついて来た高木先生が職員室の出口で哲郎を呼び止めた。
「君、新聞部に入ったのか」
「ええ、今日。これが初仕事です」
「そうか」
 高木先生はまぶしいものを見るような目付きで哲郎を見つめた。
「頑張ってやりなさい」
 高木先生はそう言って自分の席にもどっていった。
 部室にもどると、青山が一人で机の上に足を投げ出し漫画の本を読んでいた。
「どうだった、矢口先生」
「ああ、何とか引き受けてもらったよ。でも意外にねばったな、あの先生」
「それは、よかったね」
 青山は漫画から顔をあげずに言った。
「途中で高木先生が応援してくれて、それでやっと矢口先生に引き受けてもろたんや」
「ああ、高木先生は新聞部の顧問だから、助けてくれたんだろう」
 ああ、それで、と哲郎は納得した。
「ねえ、あの先生はこの前、南の担当になってたんだよ。でも南は結局やらなかったんだ」
「なんで?」
「さあ、よくわからないけど。南は新聞づくりに懸けてるだろう。学校の勉強はまるで放棄してさ。矢口先生はそういう生徒は嫌いだからね。お互いにあわないんじゃないの」
「でも、新聞記事と関係ないやろ、そんなこと」
「まあね。でも南にしてみたら行きにくかったんじゃないの、矢口先生のところに」
「そんなもんかなあ」
 哲郎はさっきの矢口先生のはっきりしない態度を思い浮かべていた。
「ねえ、何か飲みたくない」
 青山は哲郎を見た。
「いや、別に欲しないけど」
 青山は喉がかわいたなあと言いながら、漫画を部屋の隅に投げつけて立ち上がった。
「何か買ってくるよ」
 そう言い残して、青山は部屋を出て行った。静かになった部屋の天井の向こうから、かすかに合唱団の歌声が聞こえてきた。この部屋の上あたりが合唱団の部室なのであろうか。哲郎は曲の名前をしらなかったが、独立した三つのパートが掛け合いながらゆったりと進んで行く歌声に聞き惚れていた。古い中世のヨーロッパの曲のようであった。曲が終ると、誰かが曲の解説をしている声が小さく聞こえてきた。
 
 哲郎は気を取り直し、隣の文芸部との仕切りに使われている大きな書棚に積まれた学校新聞のバックナンバーをくり始めた。縁が黄色く変色した新聞の中に、写りの悪い古い写真がちりばめられていた。戦前のものらしく、今のものと違う灰色っぽい学生服を着た生徒が小さな川のそばで昼ご飯を食べているものがあった。川岸に植えられた松の林の並び方にどことなく見覚えがあった。校門を出たところに土の盛りあがった低い土手のようなところが続いていて、その上に茂る松林と形がにていた。駅をはさんでむこう側にも同じような土の盛りあがりと松の林がある。昔はあの二つの松並木の間をこんなにきれいな川がながれていたのだろうか、と哲郎は思った。
 この校舎が出来たときの記事もあった。関東大震災と但馬の大震災の教訓もあり、基礎工事から念いりに行われ、地上の建物も特別にがっしりと造られたと書かれていた。新聞を繰ると、広い校庭の真ん中に戦車のようなものが置かれ、その周りを銃をかまえながら生徒が近寄っていく写真があった。軍事教練なのであろうか。
 バックナンバーの日付けが現在に近づくにつれて、写真の中の生徒の服装やようすが見慣れたものになっていった。
 一通りの新聞を見終わると、哲郎は不思議な思いにとらわれた。五十年の間にこの建物の中で、いろんなことが起こってきた。今と全然違う教育が行われていた時期もあった。その一部始終をこの建物は見て来たのだ、と思うとこの空間に親近感のようなものがわきおこった。
 パタパタと廊下を走る音がして、青山が紙袋を手にして部屋の入り口にあらわれた。青山はドアを閉めると、「おごりだよ」と言って紙袋から缶を取り出し、哲郎に投げてよこした。哲郎は受け取って驚いた。缶ビールだった。
「ビールなんてあかんのとちがうか」
「どおってことないよ、だれか見てるわけじゃないし」
「けどなあ」
 哲郎が迷っていると、青山が近づいてきて、哲郎の手から缶ビールを奪い、勢いよく栓を抜いてから哲郎の手にもどした。
「前の学校じゃ平気だったけどな、ビールぐらい」
 青山は袋からもう一つの缶を取り出して栓を抜き、水でも飲むように一気に飲んだ。
「まえの学校って、どこ」
 哲郎が尋ねると、青山は東京の有名な高校の名前を少しはにかみながら言った。哲郎は、この男があの転校生なのか、と思った。Aクラスに東京からの転校生で変わったのがいると、同じクラスの仲間に聞いたことがあった。
「だいぶん、ちがうの、ここと」
「そりゃ、ちがうさ。天国と地獄だよ」
 青山はそういって、元いた高校のことを話しはじめた。青山の話では、その学校では何をしても教師から叱責されるということがない自由な学校だったそうで、青山はこの学校の細かい規則がしゃくにさわるらしかった。
 話を聞きながら、哲郎はビールを一口飲んで、缶を目立たぬように机の下に置いた。苦く芳ばしい香が口いっぱいに広がった。
 廊下側の窓ガラスが急に明るくなった。校舎に隣接する球場に照明がともったのだった。場内アナウンスがピッチャーを発表すると、どっと歓声があがった。青山が立ち上がりの方に目をやった。
「波多野はもちろん阪神ファンなんだろ」
「野球、あんまり興味ないんや」
「こりゃ、驚いたね。甲子園がこんなに近くにあるのに」
「青山は」
「もちろん阪神ファンだよ」
「東京育ちにしては珍しいな」
「そんなことないよ。前の学校にはけっこういたよ、阪神ファンが」
「なんで」
「金権体質のジャイアンツに反発を感じる人がけっこう多かったんだよ。先生も生徒も。そのジャイアンツに勝てるチームが阪神なんだよ」
「そうか、今年も優勝しそうなんか?」
「ああ、今年も優勝すると思うよ。ねえ、これから野球見にいかかない?ピッチャーは村山だよ。いまからでも外野ならあいてると思うけど」
「遅くなると、家のもんが心配するからな」
「電話すれば?事務所の電話借りられるよ」
「悪いなあ、また今度にして。今日はあかんわ」
 哲郎の家には電話がなかった。青山はそんなことにはまるで気がまわらないのだろう。青山はじゃあ今度ね、と言ってバッグに漫画の本をしまった。
学校の正門で青山と別れ、哲郎は一人で駅に向かった。ビールのせいで頬が少しほてっていた。誰かにあわないといいなあ、と思いながら、哲郎はホームにあがる長い階段を上っていった。幸いホームには教師も生徒もいなかった。哲郎はバッグの中からビールの空き缶を取り出し、素早くごみ箱の中に捨てた。ホームは風があって涼しかった。哲郎はベンチに腰をかけて校舎を見下ろした。ナイターの明かりが校舎の上半分だけを照らしだしていた。自分の教室と新聞部の部室のあるあたりを確かめながら、哲郎は今日の放課後はずいぶん楽しかったな、と思った。
 
 
 
 
支線の終点で降りると、もうあたりは薄暗かった。駅前に二軒並んだパチンコ屋がけばけばしいネオンを輝かせ、両方の店から競うように出玉の様子を知らせる男のアナウンスと軍艦マーチが聞こえてきた。時間が遅いせいか商店街は人影がまばらだった。アーケードが切れると、両側に酒蔵の並ぶ古い家並みがあらわれた。半ばひらいた大きな扉のむこうに、人の背丈ほどもある酒樽がいくつもころがっていた。酒の匂いのただよう細い路地を哲郎は足早に通りすぎた。ゆっくり歩いていると酔ったような気分になるからであった。
道がだらだらした下り坂にかかり、煙突とスレート屋根の続く工場地帯が見渡せた。引き込み線を横切って工場の塀に沿って歩くと、ゴムの焼けるような匂いが鼻をついた。塀の割れ目から、煌々とまばゆい光の中で大きな機械を動かしている人たちの姿が見えた。足元に流れる小さな川の中には、ぬらぬらした灰色の物体が揺らめき、水面からは甘酸っぱい匂いが立ち上っていた。
 トラックが激しく行き来する産業道路を横切ると、黒ずんだ粗末な木造の社宅がひしめきあうように広がっていた。そこまでくると、哲郎はいつものように安堵と落胆を同時に感じた。
 立て付けの悪い引き戸をこじ開け、「ただ今」と大きな声を出して哲郎はもう一度苦労して引き戸を閉めた。
 居間の隅に布団をが敷かれ、父の喜助が寝転がって首だけ上げてテレビを見ていた。
「遅かったな」
 喜助はそう言って鋭く目を光らせた。
「ああ、今日はちょっとね。用事があって」
「勉強の方はいいのか」
「大丈夫だよ。これからやるから」
 哲郎の言い方がぶっきらぼうだったので、喜助は黙った。テレビではプロレスの中継をやっていた。外人レスラーが審判に隠れて反則するので、喜助はやきもきしていた。しまいには起き上がって、「審判、ちゃんと見てろ」とどなった。
風通しの悪い台所で食事の支度をしていたキヨがびくりとして振り向いた。
「さあ、さあできたよ」
 キヨは自分がしかられでもしたように喜助の顔色をうかがいながら煮物の皿を運んで来た。
「峰子は遅くなるって言ってたから、たべようよ」
 とキヨが言った。
「どうして遅くなるんだ」
「あのこだってもう大人なんだから遅くなるときくらいあるじゃないか」
 喜助はフンと鼻をならし、口の中でぶつぶつと口汚く峰子を罵った。喜助はすぐに大皿から自分の取り皿に煮物を移し、音をたてて食べ始めた。哲郎は喜助の品のない食べ方が気にいらなかったのでなるべく喜助の方を見ないようにしてテレビを見ながら食べた。プロレスは終って、ニュースが始まっていた。
 哲郎は、食事が終わるとすぐに自分の部屋に引っ込んだ。自分の部屋といっても、四畳半をカーテンで二つに仕切って峰子と共同でつかっている細長い空間だった。二枚の襖は左を開けると峰子の部屋であり、右を開けると哲郎の部屋になっていた。哲郎は椅子に座ると、机の前の小さな本棚から緑色の英語の副読本を取り出した。副読本は、たくさんの作家の文章を部分的に取り出して編集したものであったが、明日の授業ではスチーブンソンの随筆をやることになっていた。哲郎は辞書を引きながら一行一行訳文をノートに書いていった。
 英語をやり終えて、数学の宿題にとりかかった時、襖があいて足音をしのばせて峰子が部屋に入ってきた。カーテンの仕切りを通して、かすかにアルコールの匂いがした。
「お帰り、遅かったね」
「うん」
そう言って、峰子は黙った。衣服の擦れる音がした。峰子は着替えをしているようだった。
「なあ、あんた、もうちょっとええ家にすみとない?」
 着替え終わった峰子がカーテン越しに小さな声で話しかけてきた。
「そら、住みたいけどな。でもなんでいきなりそんなこと」
「今日な、車で送ってもろてん」
「誰に」
「会社の人」
「男の人?」
「まあね」
「それにしては、車の音なんかせえへんかったな」
「橋のとこまでや、そこで降ろしてもろた」
「なんで」
「こんな家見せるの恥ずかしいやんか」
「そうかなあ」
「そうやわ、絶対恥ずかしいわ」
 峰子は「絶対」のところに力をこめて言った。哲郎があいまいな返事をすると、峰子が本を読み始めたのかページをめくる音が聞こえはじめた。
「二人とも風呂にいっといでよ」
 襖のむこうでキヨの声がした。哲郎は数学の問題集にしおりを挟んで、立ち上がった。
 洗面器にセッケン箱と手ぬぐいをいれて家を出ると、後から峰子が追いかけてきた。二人は肩を並べて暗い道を街灯をたよりに歩いていった。どこかから母親のとげとげしい声と激しい子どもの泣き声が聞こえてきた。
「もっとやさしくしてあげればいいのに」
 子どもの泣き声のする方を見ながら、峰子は首をすくめた。
「ああ、ほんとだね」
 と哲郎は低い声で答えた。街灯のない暗い道を歩き続けるとすぐに、売店や集会所のある小さな広場に出た。髪の毛をタオルで拭きながら歩いて来た若い女の人がすれ違いざまに「ああら、峰子」と言った。
「お京じゃないの」
 峰子はそういって、立ち止まった。峰子は哲郎に先に行くように目配せした。哲郎は広場を横切りながら、さっきの女性が誰だったかを思い出そうとしていた。高校の時の峰子の同級生であろうか。いつか哲郎の家にやってきて、峰子と二人でケーキか何かを作っていた人であるような気がした。
 
 
3
 
 その日、哲郎が職員室に原稿を取りに行くと、矢口先生は頬杖をついて不機嫌そうに座っていた。矢口先生は哲郎を見ると、机の中から裏かえした原稿を取り出し、黙って哲郎の方におしやった。
「有り難うございます」
 そういうと、矢口先生はかすかに頷いた。哲郎は枚数を確かめようとしてページを繰ろうとすると、「後で見て」と矢口先生が小さいが鋭い声を出した。哲郎はもう一度礼を言って職員室を出た。一階の廊下を歩きながら、哲郎は「謙虚に生きたい」と題のつけられた原稿を読み始めた。
「どこの学校でも数学のすきな人ばかりでなく、相当数嫌いな人が居るのが普通である。ところが我が校では、私が受け持つ生徒の大多数は数学は好きであると答えて居る。従って平素理論がわからなくて困る人はほとんどいない。好きの程度にも多少の差のあることは当然であるし、油断から時折困難に見舞われることもないとはいえないが、ちょっと努力すればすぐに取り戻せる」
 なぜ実態と違うことが書かれているのだろう。哲朗はそう思いながら次のパラグラフにかかれた数学教育の歴史の部分を読み飛ばした。
「世界は正に宇宙時代となり、産業文化の各分野において数学の必要度が増していることは当然である。こういう時代には数学のできる人が多くしかも層が厚いことが必要であろう。恐らく今後高等学校の数学はさらに質的に向上が計られるであろうと思うのである・・・・・」
 気がつくと、廊下をぐるりと回りこんで人気のない裏庭の前に出ていた。ほとんど木立に隠れたベンチで小さな人の声が聞こえた。木立に隠れている上、二人は向こうを向いているので、しかとはわからなかったが、声の主の一人は高木先生であるように思われた。人に聞かれたくない話なのであるような気がしたので、哲朗は足音を忍ばせ廊下を引き返して二階への階段へと向かった。
 部室では、南と木下が原稿に手を入れていた。
「何やつまらん随想やな」
 哲朗はそう言って原稿を南に手渡した。
「ところで、裏庭で高木先生ともう一人の先生がひそひそ話ししてたけど、なんやろ。せっぱつまった様子やったけど」
 南と木下が目を合わせた。
「組合のことだろうね」
 木下が言うと、南はあんたにまかせたと言う調子で矢口先生の原稿を読みはじめた。
「この学校、組合あるの」
「ああ、ある。去年できたばっかり」
「高木先生、役員なんか」
「ああ、書記長。だから多分もう一人の先生は委員長の中沢先生やと思うわ」
「なんの話やったんやろ、あんな目だたんところで」
「おそらく、学校の弾圧を警戒してるんだろうね。校長が代わったから」
 木下は声をひそめた。
「あのね、前の校長さんは、組合ができた責任をとって辞任したんだ。代わりに来たのが今の校長さん。なかなか手ごわいらしいよ」
「そうか、そういうことか」
 哲郎は合点がいった。この四月に、人気のあった平川校長がやめて、新しく大和校長が県の教育委員会からやってきた。紳士でリベラルな感じの平川校長とちがって、大和校長は目付きの鋭いごつい感じのする人だった。代々校長はこの学校の教諭の中から選ばれることになっているようだったので、哲郎も変な人事だなとは思っていたのだ。
「まあ、しゃあないな、これでも」
 原稿を読んでいた南が、原稿を木下の方に押しやって、校正の仕事にもどった。木下は原稿を手にとってページをめくりはじめたが、表情がだんだん険しくなった。
「矢口先生、もっと歯切れのいい、おもしろいもの書く人だったのになあ」
 木下は残念そうに言った。
「なあ、組合が弾圧されるって、何か悪いことするんか、組合って」
 哲郎の質問に、南と木下はまた顔を見合わせた。
「そんなこと知らんがな。まあ一般的に経営者って組合を敵視するんとちがうか」
 南が面倒くさそうに言うと、木下がそれはちょっと違う、と言った。
「この学校の組合は『戦闘的』なんだそうだ。だから経営者もピリピリしてるんじゃないのだろうか」
「戦闘的って共産党とかそういう関係なんか?たとえば高木先生は共産党員なんか」
 木下は哲郎の質問には答えずに立ち上がり、戸棚のところに行って新聞を一枚持ってもどってきた。
「僕の口からはいえないよ、これ見て自分で判断してよ」
 木下は机の上に新聞を広げ、左肩にある記事を指さした。記事は「『期待される人間像』に思う」とタイトルのつけられた随想であり、文末に「高木」の署名があった。
・・・「期待される人間像」の本論のところでは「現代は機械化、工業化の時代である。機械化はややもすれば人間を機械のドレイとする。しかし、機械を使用し、機械に使用されない人間になることこそ必要であろう」といっている。つまり機械にふりまわされない人間という人間像が期待されているわけであるが、私にとっては、いったい、機械のドレイとならないような人間を教育によって育成することがどの程度までできるのであろうかということが気になってならない。もちろん、ある機械の原理、構造をよく理解させるということはその機械のドレイとならないための必要な条件ではあろうし、これは科学・技術教育の領分にちがいない。しかし、原理、構造をよく知ったうえで工場に就職した工員が、果たして機械のドレイにならずにすむものだろうか・・・・・・だれかが指摘しているようにこの草案には「しかし」「しかし」が非常に多い。百貨店に勤めた店員さんはその見習いの時期に次のような店内教育をうけるという話を聞いたことがある。値段の高い品を客にすすめるとき「この品物は上等ですが、値段はお高いですよ」とは決して言うな、「この品物は値段は高うございますが、しかし品質は非常にすぐれております」といいなさいと。本論の「幸福な人であれ」の項を見ると「幸福な人間であるためには経済的、政治的な条件が整えられる必要があることはもとよりである。しかし、それよりもいっそう大切なのは心構えであり、心の持ち方である」と言っている。この文は「幸福な人間となるためには心構えとか心の持ち方とかが大切であることはもとよりである。しかし、経済的政治的な条件が整えられることがまず必要である」と書き直した方が適切ではなかろうか・・・
 なかなか面白い論理展開だと哲郎は思った。
「高木先生、こんな面白いもの書いてたんやな、知らんかった」
 哲郎は新聞を木下の方に押しやった。
「これ出した時にね、学校の理事会でえらく問題になったんだって」
 木下は新聞を棚に戻しながら言った。
 
 
 
 
 女子高での取材を終えて、青山と哲郎が亜希の後について坂道を下っていくと、見上げるような石垣の前で、亜希は立ち止まった。ちょっと寄っていきませんか、と亜希は迷った様子で言った。石垣の上にそびえたっている邸宅が亜希の家であるようだった。青山は哲郎の意見もきかず「そうしよう」と即答した。学校での取材中から亜希と青山はすっかり意気投合していた。
 哲郎と青山の通された応接間の壁には、日本の山を描いた絵がかかっていた。美術の教科書で見た絵とタッチがそっくりだった。そんな有名な人の絵がここにあるはずもないと思ったが、応接室に置かれた机や椅子の立派さから判断すると、ひょっとすると本物かもしれないな、と哲郎は思った。大きな窓からは、夕日のなかに淡いピンク色にそまった神戸の町並みが見わたせた。その向こうには青黒い海が広がっていた。
 抹茶色の着物を着た亜希の母がコーヒーとメロンを置いて去ると、青山はじっと亜希を見つめながら、東京での学校生活の話をはじめた。
「学園祭なんか、タレント呼んだりして、派手だよ。まあお金の問題だけど」
「ねえ、どんな人が来るの」
「加山雄三とザ・ランチャーズなんか来るよ」
「えっ加山雄三が来るの、すごいわね」
「そうでもないよ」
「父兄会で有名な俳優なんか見ることもあるんでしょ、きっと」
「そうね、OBには有名人が多いからきっと親父が俳優という人もいると思うよ。だけど父母会は大体母親が来るから、あんまり俳優は見かけないなあ。学校主催の講演会ではOBの作家なんかよく来るけど」
 青山はしきりに東京での生活を亜希に聞かせたがった。亜希は哲郎が黙っているのを気にして時々哲郎の方に顔を向けたが、すぐに青山の話に引き込まれ、青山の方に向き直った。亜希は、自分の希望としては大学は東京にしたいのだが、両親が反対するので迷っているのだ、と言った。哲郎は二人の話を聞きながら目は窓の外を見ていた。だんだんと増えてくる光の点が、海岸ですっぽりと途切れ、その先は暗い空間がどこまでも広がっていた。暗い空間の中を、ときおり船の明かりがゆっくりと横切っていった。
 峰子の付き合っている男もこんな家にすんでいるのだろうか、それで峰子はあのとき「家を見せるのが恥ずかしい」と言ったのだろうか、と哲郎はふと思った。
 夕食をしていけという亜希のすすめをさすがに青山も断った。亜希の家を出ると、哲郎はひどく疲れを感じた。
「あんた、亜希さんと付き合う気あるんか、これから」
 玄関で見送る亜希の姿が見えなくなってから哲郎は青山に聞いた。
「いいや、特に個人的には付き合う気ないよ。偶然会ったらお茶くらい飲むかもしれないけどね。あの子は堅くてだめだよ」
 青山はあっさり言った。
「それにしては、話がぴったりあってたんじゃないの」
「そう?あれ普通の会話だよ。そういえば、あんたおとなしかったねえ」
「あんまり女の子と付き合うのうまくないから、僕は」
「話題だよ、話題。女の子はね。僕の場合は東京の高校の話をするんだ。このあたりの女の子たいていのってくるよ、そういう話題。あと映画とか音楽とか、食べ物とかね。まあ、美人の女の子は声かけられて当然ってとこがあるから、かえって付き合いやすいんだ。あんまりかわいくない子は、一般に警戒心がつよくて、OKにもってくまでが大変なのさ」
「OKって」
「オーケーはオーケーだよ」
 そう言って青山はニヤニヤした。
 
                  
 
 貸し切りバスの一番後ろでウトウトしていた哲郎がふと目をさますと、前の席からマイクが差し出されていた。
「歌うかなんかせいや」
 三年生らしい人がおとなしい声で言った。哲郎はマイクを受け取り、自分が新聞部の取材をかねて野球の応援にきたことを述べた。となりの人にマイクを渡そうとすると、「何か歌え」と前の方の席から鋭い声が飛んで来た。この学校の野球部としては珍しく四回戦まですすみ、今日の試合も惜しいところまでいったので、バスの前の席に陣取っている応援団の連中は興奮しているようだった。哲郎がどうしようかと迷っていると、マイクを回したさっきの人が「生徒手帳に歌が載っている」と教えてくれた。哲郎は胸のポケットから生徒手帳を取り出し、アンニー・ローリーの歌詞を見つけて歌い始めた。すると、哲郎の声にあわせてバスの中程から、アンニー・ローリーの合唱が聞こえはじめた。合唱部の人たちが乗り込んでいたようだった。哲郎の見たことのない顔ばかりだったので、三年生なのだろうと思った。歌い終わると、哲郎は「合唱団の人がおられるようなので、一つお聞きしたいことがあります」と言った。「なんや、いうてみい」
 顔の長いリーダー格らしい人が哲郎の方を向いて大声をだした。
「新聞部の部屋によく合唱が聞こえてきますが、最近歌っているのは何という曲ですか。とてもいい曲なので、名前を知っておきたいのですが」
 哲郎がそういうと、リーダー格の男が首をひねった。
「もう僕らOBになっとるさかい、今なにやってるか知らんわ。ちょっと歌ってみてくれ」
 そう言われて哲郎もこまったが、うろおぼえのメロディをハミングすると、バスのまん中あたりから「三声や」「バードや」という声が起こった。
「あんた、なかなかええ音感しとる。それはウィリアム・バードという人が作った三声のミサ曲の中のアニュス・デイというものや。短いからアニュス・デイだけやったろか」
 そう言って、リーダー格の三年生が座ったまま高く手を挙げて振りはじめると、澄んだ声で「アーニュスデエーエーエイー」と三つのパートがバラバラに歌い始めた。その歌はそれぞれのパートが独自性を保ち、かけあいながら進行して、最後の最後で三つのパートが同じ歌詞になった。歌詞はラテン語が何かで意味はわからなかったが、さっきのアンニー・ローリーよりずっと深いところから哲郎の心を揺さぶった。合唱が終わったところで、哲郎は礼を言ってマイクを隣にまわした。隣の男は一年生らしく、ひどくかしこまった様子で、今日の試合がもう一歩で及ばなかったことを残念に思う、と言った。その男は琵琶湖就航の歌を歌ってマイクを次にまわした。
 窓の外はもう暗くなりかけていた。神戸の街を過ぎ、芦屋や西宮の住宅街に入ると、バスは頻繁に停車して生徒が数人ずつ降りはじめた。学校の裏手に到着した時、バスの中はもうガラガラになっていた。
 哲郎がバスを降りると、一号車に乗っていた青山がくたびれた顔をして待っていた。哲郎もくたびれていた。昨夜は遅くまでK新聞社でゲラの校正をしていたのだ。
「おい、波多野。腹減ったな」
「ああ、そやな」
「なんか食いにいこう」
「酒はあかんで、制服やから」
「わかってるよ」
哲郎と青山は学校の塀にそって歩き出した。
「うるさかったなあ、バスの中が」
「さわぐ連中がいたのか」
「野球部のOBというのが乗りこんでてね。この学校が大会で優勝した時のことなんか、マイクのボリューム上げて、えんえんとしゃべるんだよ」
 青山がやれやれ、という顔つきで言った。
「えっ、この学校優勝したことあるんか」
「知らなかったの、甲子園の大会で優勝したんだよ」
「しらんかったな。いつ頃」
「戦前だよ。まだ中等野球大会のころ」
「なんや、そんな昔か」
「まあ、昔と言えば昔だけど。あんたの方にはOBの人、いなかったの」
「ああ、応援団の人はいたけど。あんまり騒がんかったな。それから合唱団の人、乗っててなあ」
「歌、聞いたのか」
「ああ、二曲。いやあ、感心した。ええ曲やったな」
「何歌ったの?」
「アンニー・ローリーとバードの何やったかなあ」
「バードの三声?」
「ああ、それそれ」
「ふうん、それはすごい」
 青山が珍しく褒めた。
「この学校、音楽というか、合唱というか、そういうのはなかなかのもんだね」
 どちらから言い出すでもなく、二人は球場前にならんだ店の中の一番大きなところに入った。
「おでん、二つ。ビールはなし」
 椅子に座ると青山は 慣れた口調で叫んだ。
「ところで、波多野は夏休み、どっか行くのか」
「いや、特に予定ないわ」
「いっぺん俺のところに遊びにこないか」
「ああ、そやな」
 哲郎はあいまいな答えをした。青山の家も立派な家であるような気がした。招かれれば、青山にもいずれ自分の家に来てもらわねばならない。恥ずかしい、というのとちょっと違うのだが、青山が自分の家を見て驚くだろうと思うとわずらわしい気がした。
「まあ、俺の家はどうでもいいけど、ちょっとは勉強以外のこともしたらどうだ。この学校の連中見てると、学校の勉強のし過ぎで、自分の持ってるいいもの殺してるんじゃないかな」
 そう言って、青山は運ばれて来た皿の大根を口にほうばった。青山に言われて、哲郎は夏休みに何の計画もないことにあらためて気がついた。この学校に入ってから休みという休みは全部勉強にあてていた。この夏には一度くらい六甲山に登ってみようか、と哲郎は思った。それが一番金のかからない遊びであった。哲郎はふと黒井をさそってみようか、と思った。
 
 
6
 
 
 登山口の駅に黒井が現われたのは、約束の時間を二十分も過ぎてからだった。黒井の顔はちょっとやせ、目が大きくなったように見えた。黒井は遅れたことを申し訳なさそうにわび、先にたって山道の方に歩きはじめた。鷲林寺を経て、トラピスチヌ修道院をすぎるあたりまではなだらかな道で、哲郎はだんだんせりあがってくる阪神地方の街なみをながめながら歩いた。暑さはそれほどでもなかった。
 しばらく会ってなかったせいか、哲郎は黒井に何を話せばいいのか迷った。
「毎日、なにしてるんや」
 ありきたりの言葉を口にすると、黒井は振り向いて「数学」ときっぱり言ってまた歩きはじめた。観音堂をすぎると、道は急な山道になった。前を行く黒井は岩や枝につかまりながらゆっくり登ったが、それでもひどく荒い息をしてしばしばうつむいて動きをとめた。
 小一時間登ると、背の低い松がさわさわと音をたてる気持ちのよい尾根道にでた。その道がやや急な下りになると、すぐに目の前が明るくなって大きな池のある開放的なところに着いた。
 二人は、池の縁の柵に腰をかけて水筒の水を飲んだ。山を登ったためであろうか、黒井の顔が少し明るくなっているような気がした。
「毎日、二十題くらいはやっとるんやけどな」
 そう言って、黒井はリュックの中からチャート式と呼ばれる数学の参考書をとりだした。分厚いその参考書は手垢で真っ黒になっていた。
「見せろよ」
 哲郎は手を伸ばして黒井からチャートを受け取った。ページを開くと、どの問題にも ○や×の印がついていた。
「一度出来た問題が、二度目には出来んようになることがあってなあ」
 ページを繰ると、○と×が交互に四つついた問題がみつかった。
「普段でもそういうことがあるのか」
「ああ、休みとか日曜日なんかにやっといた問題も全部前の日に解き直す。前にやった問題、前日にノート見るだけではあかんのや。実際もう一度解いてみんと、黒板の前に立ったとき解けへんわ」
「それはつらいな」
 矢口先生の授業では、生徒が演習のために黒板に向かうとき、問題集だけを持っていくように言われていた。黒板の前でノートを書き写すことは禁じられていたのだ。人のノートを写すことを防ぐためであった。哲郎の場合は、一度解けた問題が後で解けなくなる、ということはあまりなかった。もし少し前に解けた問題が解けなくなるということであれば、毎日次の日にそなえて練習問題を十五題くらい解かなくてはならない。それはべらぼうなことだった。それでは家に帰ってからのほとんどの時間を数学の予習に費やすことになるような気がした。
「あんた、もっと得意な分野の勉強した方がええんとちがうか」
「ああ、そうかもしれん」
 黒井は水面に視線を落とした。哲郎も池の中をのぞきこんだ。濁った水底に植物の群れが見えた。それが、かっての陸地の植物の腐ったものなのか、水生植物なのかわからなかったが、水底を被う暗緑色の広がりが不気味に感じられた。
「行こうか」
 哲郎が声をかけたので、黒井はチャートを閉じてリュックにしまった。
 山頂への道は比較的道幅も広く、少し登りが続くとすぐに平坦な道が現われたりして苦しいというほどでもなかった。気温が少し下がっているような気がした。哲郎はさっきから黒井がなぜチャートをここに持ってきたのかを考え続けていた。よく勉強していることを自分にみせたかったのだろうか。ここにくる電車の中でさえ、黒井は時間を惜しんで数学の勉強をしていたのだろうか。黒井の家から登山口の駅までは三十分くらいのものだ。その間勉強するために、あの重い本をわざわざ持ってきたのだろうか。そうだとすれば、かなり追いつめられた心境にある、と言わざるをえなかった。巨大なパラボラアンテナを目の高さに望むところにまで来ると、日が陰った。やがて山道がアスファルトの車道と合流した。山頂への道と自動車道が別れるところに茶屋があった。そこで食事をとることにしようと言い合ったが、昼食にはまだ時間が早かった。
「ちょっとこっちに行ってみようか」
 黒井が車道からそれて東に向かう平坦な道を指さした。黒井のあとに従って十分ほど歩き続けると、足元に深々と暗い谷が広がった。
 
 
 
 
 夏休みの終わりに哲郎は青山の家を訪問した。
 青山の家は松並木のある川沿いの大きな道を海近くまで下り、橋を渡った右手にあった。土塀を巡らした大きな家だった。
 青山の部屋は、哲郎の家全体と同じくらいの大きさがあった。哲郎は最初驚いたが、驚きを顔に出すのをやめた。卑屈になることはない、と自分を励ましながら哲郎は青山の話に合わせた。
「山にいったんだってね」
「黒井君といっしょに六甲にな」
「涼しかったかい」
「まあな、あんまり暑い日やなかったから」
「六甲山って、千メートルないんじゃないか」
「ああ、ちょっと足りんかなあ」
「三千メートル級の山は、夏でも雪があるんだぜ」
 そう言って、青山は書棚からアルバムを取り出した。
「これ穂高」
 右のページには、黒々とした岩の絶壁を背景にして青山たちが両手をあげている写が貼られていた。左のページには雪の上を一列になって歩く人たちの写真があった。
「いつ行ったんや」
「この夏にね、高一の時の連中とね」
「東京の?」
「そう。山岳部に入っているやつが連れてってくれたんだ」
 哲郎はあらためて写真を見た。そう言えば、青山以外は皆普通の髪型をしていた。
「青山のいた学校は髪型なんか、自由やったんか」
「あたりまえだよ。大体坊主頭なんかにしてたら、外国に行ったら囚人とまちがえられるぜ。まあ、休みになると外国にいく連中もいたからね」
 青山はアルバムを閉じ、ガラスのテーブルの上に置いた。
「ねえ、この前、バードの三声のミサ曲のこと言ってたろう」
「ああ、野球の応援行った時な」
「レコード聞いてみる?」
 青山は作りつけの書棚の一番下の段からジャケットを取り出し、中からレコード盤を大切そうに抜き出し、それにスプレーをかけてからプレーヤーに乗せた。すぐに「キイーリエーレイソン」と澄んだ歌声が聞こえてきた。この前バスの中で聞いたのとちがっていた。
「この前聞いたのとちがうみたいやけどな」
 哲郎がひそひそ声で言った。
「これは一番最初のキリエだよ」
 ミサ曲というのは大たいどれもキリエから始まり、この曲はグロリア、クレド、最後にアニュス・デイがあって、バスの中で聞いたのは多分アニュス・デイだろうと青山は言った。青山はアニュス・デイが始まるまでの間、バードがカソリックの信者で、本当はイギリス国教の下では迫害を受けてもしょうがなかったのに、国王がバードの才能のゆえ厚遇したというようなことを説明してくれた。アニュス・デイは、確かに聞き覚えのある曲だったが、バスで聞いたものより全体的に音が高いような気がした。
「これ音が高いんじゃない、一番高いパートは女の人が歌ってるようにも聞こえるけど」
 曲が終わってから哲郎は尋ねた。
「一番上はカウンターテナーだね。裏声で歌っている。男の声だね」
 そう言って、青山はレコードをターンテーブルからはずしてジャケットにいれた。
「青山は音楽のこともよう知っとるな。前の学校でやっとったんか」
「特にやってたわけじゃないよ、何ていうんだろう、前の学校は学校の勉強だけできても尊敬されないし、もっと趣味とか芸術に没頭している人間の方が大きな顔してたから。まあ、音楽は身内に専門家がいるような連中も多かったね、東京だから。そういう連中と話しているうちに自然に知識は身につくんだよ」
 こともなげに青山は言った。
「ねえ、散歩しないか、すぐ前が浜なんだ」
 そう言って青山は立ち上がった。
 裏木戸を出て、細い路地のようなところを抜けると、目の前に土手があらわれた。土手につけられた急な階段を上がると、道をはさんで腰の高さくらいの防潮堤が現われた。防潮堤の前に立つと足元に狭い砂浜があって、海の水は随分低いところにあった。
 はるか沖に貨物船が見えた。眩しい日差しの中を二人は防潮堤にそって肩を並べながら歩いた。普段は何気なくつきあっていたが、自分と青山とはこんなにも違う環境の中で生活していたのだ、と哲郎はあらためて思った。
 
 
 
8
 
 
 二学期が始まると、すぐに哲郎は文化祭の準備を始めなければならなかった。文化祭は九月の下旬で、哲郎は木下と組んで「学校史」のパネル展示を担当することになったのであった。
 木下と組んで作業をするようになってから、哲郎は木下の律義さとねばり強さに驚いた。
 その日、哲郎と木下は職員室に高木先生を尋ねたが、高木先生はいなかった。矢口先生がちょっと緊張した顔で、
「今、高木先生は校長先生とお話だから、後から来なさい」
 と言った。矢口先生は木下にひどく親しげな笑顔を見せた。哲郎と、木下は顔を見合わせ、うなずきあって職員室を出た。
「なんやろ、校長さんと話し合うなんて」
「なんだろうね、組合のことかなあ」
 木下は思案顔になって言った。
「矢口先生はえらいあんたに親しげな笑顔を見せたけど、何か訳があるんか」
 哲郎がそう聞いたのは、木下がそれほど数学を得意としなかったからであった。矢口先生は数学がよく出来る生徒には恵比須顔になったが、数学の苦手な生徒は無視する傾向があったのだ。
「ああ、中学の時、担任だったから」
 木下は恥ずかしそうに言った。
「ああ、そうか。でも意外やな。矢口先生は数学できる生徒以外は無視するのかと思ってた。へんな言い方やけど、木下あんまり数学好きやないやろ」
 木下はこくりとうなずいた。
「本当はあの先生、やさしい、いい先生なんだ。中学のころ、よくしてもらったよ。でもちょっと気が小さいのと、権威にひどく弱いところがあってね。強いものになびくんだよ」
「そうなんか」
 哲郎は、また矢口先生の意外な面を見た気がした。
「待っててもしょうがないから、校内散歩しないか。展示にも関係あるから、歴史的遺物をみておこうよ」
 木下は、そう言って暗い廊下を先にたって歩きはじめた。木下は玄関正面の回り階段をあがり、重々しい扉を開いて講堂に入った。哲郎は不思議に思いながら木下の後を追った。
「でも古めかしい講堂やな、ここは」
 通路を歩きながら哲郎が言った。
「この校舎、関東大震災の教訓から、すごく丈夫につくってあるんだって」
「ああ、それ、新聞で読んだことあるわ」
「この講堂はね、天井桟敷というか、三階にも座席がついてるだろう。こういうの珍しくて、出来た当時はずいぶん遠くから見学にきたみたい」
「そう言えばりっぱやなあ、この講堂は」
 始業式や終業式に使われるだけで、いままであまり意識したことがなかったが、こうして眺めるとひどく立派な建物だった。どっしりした木でできた作り付けの長椅子が床一面にならび、床自体は緩やかに下降してステージまで続いていた。演壇のあたりでは天井ははるかに高く、両側の縦長の窓には渋い色のガラスがはめ込まれていた。ステージの正面には黄色い大きな扉が二枚あった。
 小柄な木下が転がるように通路を駆け抜け勢いをつけてステージに駆け上った。木下はそのままステージを突っ切って黄色い扉にぶつかった。
「これ何かしってるか」 
 木下の後を追ってステージに駆け上った哲郎に、木下は意味ありげに聞いた。
「さあ、わからんな。装飾にしては大袈裟やな」
 木下は取っ手にかけた手に力をこめた。キシキシと音をたてて扉はわずかに開いた。隙間から覗き込んだが何もなかった。
「昔、ここに御真影があったんだよ」
「御真影ってなんや」
「天皇と皇后の写真だよ」
「ああ、そうか。昔そんなもんがあったんか、ここに」
「何か痕跡があるかと思ったけど、何もないね」
 そう言って、木下はまたキシキシと音をさせて扉を閉じた。
「ここに写真があったころは、この椅子に座っていた生徒たちの頭の中に戦争賛美の思想が叩き込まれたんだろうね」
 木下は目を細めて一面の椅子席を見渡した。
「ねえ、今度は別館に行ってみようよ」
 そう言って、木下はステージから飛び降りた。別館は、道に面して立つ二階建ての建物だった。今は運動会の道具などをいれておく倉庫として使われていた。
「昔、あそこにはしゃれた食堂があったんだ。それから二階は兵器庫。軍事教練の。ねえ、今度のパネル展示には軍事教練の写真もいれようよ」
 通路を歩きながら木下は頬を赤くして言った。興奮しているようだった。
「木下は戦争にこだわるんやなあ、えらい」
 哲郎が言うと、木下は足を止め天井を見つめた。
「僕の叔父さんはこの学校の出身だけど、戦争でなくなったんだ」
 木下がぽつりと言った。
 
 二人が職員室にもどると、入り口に近い高木先生の席にだけ蛍光燈がつき、高木先生は腕組みをして考え事をしていた。眼鏡をはずした高木先生の顔は目のあたりが窪み、ふだんと違って見えた。高木先生は二人に気づくと、両手で顔をさすってから眼鏡をかけなおした。
「君たち、まだいたのか。すまなかったねえ。待たせて。矢口先生から聞いたけど、僕に何の相談だろう」
 高木先生は机の上に置かれた書類を本立てに移しながら聞いた。
「文化祭の出し物のことで少し」
 木下は、展示のおおよその計画を話し、資料を持っていそうな先生を教えてほしいと頼んだ。
「そうだね、僕は戦後の採用だから、それ以後のものは全部提供するよ。戦前戦中はだれがいいかなあ。ええと、三島先生、西村先生、浅井先生、矢口先生あたりが頼みやすいかもしれないなあ。もし具体的に決まったら、僕のほうからも声かけとくけど」
「助かります」
 と言って、木下はもう一度先生の名前をくりかえしながら手帳に記入を始めた。
「ところで、君たち、この学校の先生の年齢構成が偏っているのに気がついてるか」
 哲郎は首を振った。木下もわからないようだった。
「さっき言った先生方は浅井先生を除いてみんな七十台の先生だ。私も含め若い先生は四十台だ。このギャップが何を意味してるかわかるかい」
「戦争ですか?」
 木下はピンときたらしかった。
「ああ、そうだ。この学校からは十人の先生が戦争に行かれたけれど、生きてもどってみえたのは浅井先生ただ一人なんだ。その不足を補う意味で戦争直後に私たちが大量に採用されたんだよ。今四十代の先生方だね」
「矢口先生なんかは戦争にいかなかったのですか」
 哲郎がきくと、高木先生は
「戦争がはげしくなったころ、もう四十代後半だったからね。矢口先生は」
 と言いながら本立てからアルバムを抜き出した。
「これ、誰がだれだかわかるかい」
高木先生が開いたページには黄色く変色した大きな写真が貼られていた。この学校の玄関の前で写したものだった。一番前の列には軍刀を持った配属将校が背筋をピンと伸ばし、こちらをじっと睨んでいた。
「これが矢口先生、こっちが三島先生、これが西村先生。みんな若いね」
 哲郎は、他の先生はみんな丸坊主にしているのに矢口先生だけが普通の髪型をしていることに興味をもった。
「先生、ところで校長さんとの話、なんだったんですか」
 木下が心配そうに聞いた。
「まあ、私組合もやってるからね」
「先生、校長さんと、難しい状態になってるんですか、組合の方」
 木下がそう聞くと、高木先生は机の上に目を落とし、ちょっと考える顔つきになったがすぐに、二人の方を向き
「君たちが心配することじゃないよ」
 と言って静かに笑った。
 
 
 土曜の午後、哲朗は矢口先生の家を訪ねた。家は学校のすぐ裏手にあった。二階建ての建物は手入れが行き届き、厳粛な感じを哲郎に与えた。年老いた品のある夫人が哲郎を二階の書斎に案内した。
 矢口先生は紺の着物を着て、座敷の外にある板の間の籐椅子に座っていた。テーブルの上には古びたアルバムが置かれていた。
「何から話せばいいのかね」
 哲郎に向かいの籐椅子に腰掛けるよう手で合図して矢口先生は言った。少し腰の曲った夫人が皿いっぱいに盛った梨とお茶を机の上に置き、「ごゆっくり」と言って部屋を出て行った。
「先生がこの学校に来られたあたりのことからお願いします」
 哲郎は手帳を広げ、メモをとる準備をした。
「私がこの学校に来たのは昭和十年、西暦でいうと一九三五年だね。私、関西の学校をあちことまわってきて、もう四十半ばだったな。この学校、比較的穏やかな先生が多くて、気に入ったんだ。まあ、ここに骨を埋めようとおもったね」
「もう、配属将校なんかもいたんですか」
 哲郎は、高木先生に見せてもらった写真を思い出してそう言った。
「ああ、いた。その配属将校なんかがよく生徒を殴ったりしたな」
 机の上のアルバムを矢口先生は開き、それを哲郎の方に向けた。
「これが、軍事教練だよ。他の学科と同じように、教練の成績が悪いと進級できなかった」
 写真には、銃を担ぎ直立不動の姿勢でならぶ生徒の姿が写っていた。異様な緊張感が漂っていた。背景に写っているバックネットや校舎は今と同じものだった。ページをめくるとグランドの真ん中に置かれたハリコの戦車に向かって地面を這いながら前進する生徒の姿が写っていた。
「だんだん戦争が激しくなって、授業ができなくなってね」
「空襲ですか」
「空襲はもう少し後だけど、生徒が勤労奉仕にかりだされるようになったんだ。働きざかりの男たちはみんな戦争に行ってしまったから、生産に従事する人が極端に少なくなったためだ。私たちは生徒の引率でね、あちこち行ったよ。川西航空とか関西ペイントとか日本発送電なんかにね。そこの球場なんかも、もう野球はやってなくって、観客席の下の広い空間に機械をすえつけて、生徒が旋盤工として働いたりした。食べ物がなくて、みんな痩せてたなあ」
「この前、高木先生に写真見せてもらったんですけど、先生だけ普通の髪型にしておられたですね」
 哲郎がそう言うと、矢口先生の頬がぱっと赤くなった。
「私たちが青年時代を過ごしたのは大正デモクラシーの時代なんだ。そういうものが私の背骨に少し残っていてね。まあ、最後まで普通の髪型でいたわけでもないんだけどね。学校もだんだん殺伐とした雰囲気になったけど、生徒を殴ることだけはしなかったんだ、私はね。そんな小さなことくらいだ、あの時代に何とか私が誇れるものは」
 矢口先生は立ち上がり、開け放ったガラス戸の外に視線を向けた。そこからは学校の裏手にあるテニスコートががよく見渡せた。試合が始まったらしく、ぐるりとコートの回りを人が取り囲んでいた。
「ところで、木下君は今日は来ないのかね」
 テニスコートの方に顔をむけたまま、矢口先生が尋ねた。
「ええ、彼、今日は別の取材です」
 うん、とうなずいて矢口先生は手すりの上に腕をのせた。
「中学のとき先生のクラスだったそうですね」
「ああ、中二の時、病気でお父さんがなくなってね。経済的なこともあって、公立の中学に変わろうという話もあったんだけど、高校にいけば奨学金ももらえるから、ということで、説得したんだ。奨学金のための試験みたいなものもあったから、私も手伝ってね。この家にもよく来たよ、木下君。私、子どもがなかったから、彼来てくれた時は、なんだか嬉しくてね」
 そういう事だったのか、と哲郎は納得した。それにしても、木下はもう矢口先生と以前ほど親しくないのだろうな、と哲郎は思った。取材の割り振りをするとき、木下は矢口先生を避けているように見えた。その時木下は「もう、矢口先生は卒業だよ、僕は」と言ったのだった。
「ところで、授業の方はどうかね。だいぶ追いついてきたみたいだが」
 哲郎の成績は一学期の期末では学年で五十番以内に入ってきていた。
「ええ、まあ大分要領がわかってきました」
「そりゃ、よかったな」
 そう言って、矢口先生は籐椅子にすわり直した。哲郎はふと黒井のことを話題にしてみたいと思った。黒井は矢口先生のクラスだったのだ。
「編入生の中には、随分苦労して予習している人もいるみたいですね」
「数学のことかね」
「ええ、まあ」
「一心に努力すると、道は開けるものなんだがね。十やれる人に十二の課題を与えることで初めてその人が伸びるんだよ」
「あんまり、数学が得意じゃない人が、予習にものすごく時間をとられて、他のことが何もできない、というケースもあるんじゃないでしょうか」
「まあね、将来どんな仕事につくにしても今数学をやることは意味があるだろうな。それに国立大学の場合は経済でも法学部でも入試には数学もあるわけだから。生徒が予習をして授業にのぞむのは、この学校の方針なんだ。私一人がその方針に従わないわけにはいかないんだよ」
 矢口先生は少し悲しそうな顔つきをした。
 階下で柱時計が鳴るのが聞こえた。腕時計を見ると三時だった。哲郎はアルバムを借りて引き上げることにしたが、矢口先生はアルバムを返し忘れないようにと念を押した。
 
                 
10
 
 
 
 文化祭にあわせて開催されるクラス対抗の合唱コンクールで、哲郎たちのクラスは「柳河」という曲をやることになった。哲郎はこの曲を知らなかったが、歌ってみてすっかり気に入ってしまった。合唱部の栗本の話のよれば、北原白秋の「柳川風俗詩」に多田武彦という人が曲をつけたものらしかった。「柳川風俗詩」は全体としては組曲になっているのだがコンクールではその冒頭の曲「柳川」だけを歌うことになったのだった。多田武彦というのは、芸術関係の大学を出た人ではなく、普通の大学の合唱団にいた人で、今は銀行に勤めている人なのだそうだ。
「あかん、あかん、やりなおし。そこはもっとキラキラした感じがでんとあかんがな、タダタケが泣くでえ、ほんまに」
 そう言って、栗本は指揮棒で机を叩いた。タダタケというのは多田武彦を略したもので、男声合唱の愛好者の間ではそういう風に呼ばれているらしかった。もう一時間も立って練習していたので、哲郎はそろそろ足が痛くなってきた。
「そしたら、もういっぺんソロのところからいくで」
 栗本は最初の合図だけして、加藤が歌うにまかせた。
「御者はラッパの音をやめて赤い夕日に手をかざす」
 とトップテナーの加藤が歌い、四つのパートが途中までハミングした。「手をかざすー」のところはハミングはなくなり、全く加藤一人の声になるのだが、何度も練習しているので、いいかげん加藤もくたびれてきたようだった。一人で歌うと声がかすれ音程がふらついているのがことさら目立った。その部分を二回やり直したが、うまくいかなかったので、栗本はあきらめて先にすすむ、と叫んだ。ノスカイヤとかBANKOとかよくわからない言葉が出てくる歌だったが、エキゾチックな白秋の詩の雰囲気を十分に引き出すような作曲だと哲郎は思った。 
 途中、何度もやりなおし、最後にもう一度音程のふらつく加藤の独唱があった。この部分は最初の独唱の部分とほとんど同じなのだが、ほんの少しメロディが違っていて、加藤はその部分をやっぱり間違えてしまった。
「加藤君、一人でよく練習しといてね。今日はこれまで」
 栗本はほとほと疲れた表情になって楽譜を閉じた。哲郎は木下に合図を送った。これから部室で展示の準備があった。
 廊下に出ると、隣のC組の教室からは黒人霊歌が聞こえてきた。哲郎は窓から中を覗き込んだ。黒井がどんな様子で歌っているか見てみたかったのだ。目の高さまですりガラスになっている窓を、背伸びをしながら何度ものぞき込んだが、演壇に並んだ連中の中に黒井の姿はなかった。
 
「おっ、一番乗りだね」
 部屋に入った木下が振り向いて哲郎に言った。
「どのクラスも合唱に熱がはいっとるな」
 哲郎は入り口のスイッチを押して天井の蛍光燈をつけた。普段はこの部室を自分の城のように思っている南がたいてい一番のりなのだが、南のクラスには合唱部の指揮者がいるのでコンクールにむけて特別熱心に練習しているようだった。
「さあさあ、パネル、パネルと」
 木下は棚から金槌と釘の入った袋を取り出し、床に投げ出した。それから床にしゃがんで、おおきく引き伸ばした写真を木で作ったパネルに取り付けはじめた。折り曲げる幅だけ余裕をとって写真をカットし、小さな釘を器用に打ち付けて、木下は次々と写真のパネルを完成させていった。哲郎の方は、模造紙にパネルのところだけ空白にしてそのまわりに解説文をマジックで書き込んでいった。
「なあ、この前、矢口先生のところに行った時、あの先生、今日は木下君こないのか、なんてとても残念がってたけど」
「ああ、わかってるよ。でももう卒業だよ、矢口先生は」
「何か嫌なことがあったんか、矢口先生と」
「いや、そういう訳じゃないよ」
 木下はパネルを壁にあて、取り付け位置を確かめながらながら言った。
「ねえ、矢口先生はいろんな面を持った人なんだね。僕は興味をもったなあ。卒業どころか、入学って感じだったな、あの先生。どんな経歴の人なんやろ。ほかの先生となんかちがうなあ」
「かれはシハン卒業なんだ」
「シハンってなんや」
「師範学校だよ、昔の」
 木下は哲郎の隣に来て模造紙を広げた。木下はよごれた小さな手にマジックをにぎり、几帳面な角張った文字を書き始めた。
「そやけど師範ってのは小学校の先生になる人が行く学校やろ」
「ああ、そうだ。矢口先生は子どもが好きで、小学校の先生してたんだよ、山口県で。でももっと広い世界を見たかったんだろうね。それに数学の才能がすごくあったみたい。先生やめて上京して、物理学校ってとこに入ったそうだ。そこはねえ、入学は簡単だけど卒業が大変なんだって。同級生が七百人いたけど卒業できたのは七十人だっていってたなあ。そこを主席で卒業して専攻科に残っていたんだけど、無理がたたって結核になったんだって。いったん郷里に帰って静養して、それから旧制の中学の先生になったみたいだ」
「苦労したんだね、矢口先生」
「まあ、それは認めるし、いいとこはいっぱいあるんだけどね。でも、人に馬鹿にされちゃいけない、って気持ちの強い人だよ。師範学校卒業ってことを人に知られるのとってもいやがってさあ。僕と親しくなってからもずっと言わなかったんだ、そのことは。それから、この前も言ったけど権威に弱い、強いものに逆らわない。これは師範学校で叩き込まれたのかもしれないな。今度の校長、高等師範卒業で、長く県の教育委員会の仕事してた人だろう。そういう人には極端に弱いんだよ、矢口先生は」
 木下は手を止めた。
「そういうレベルでウジウジしてる人、もう卒業なんだよ」
「卒業して、今度は高木先生に入学なんか、木下は」
「高木先生はすごく尊敬してるけど、別に個人的に惹かれるわけじゃない。ああいう運動を果敢にすすめる人たちに対する共感みたいなものが、だんだんこのごろ心の中にひろがっていくんだ」
ちょっと怒ったように木下は言った。
「けど、この前、高木先生に見せてもろた写真、矢口先生だけ普通の髪型でうつっとたやろ、権威に弱い人ならあんなことするか」
「それは、そうだけど」
 そう言って木下は首をかしげた。
 廊下の方で軽快な行進曲ののようなものをハミングする声が聞こえて、南と青山が部屋に入ってきた。
 
 
 
11
 
 
 その年の文化祭は土曜の午後と日曜に開催されることになった。それまではたった一日だけだったのだが、同じクラスの生徒会長の高沢が夏休みにほとんど全部の先生の家をまわって、文化祭が二日必要だということを説明し、その熱意が通じて一日半という形になったのだった。
 新聞部は土曜の午前中に準備が終わったので、午後からは留守番の者を残し、交代でよその展示を見にいっていいことになった。
 見学者も今日は学内の生徒中心であり、それも時おり入ってきてはさっと通りすぎるくらいなので、受け付けの机に並んだ哲郎と一年の稲沢は暇をもてあました。
「ねえ、稲沢君、来年どうするんや。一人で大変やなあ」
「ええ、何とかなるんでしょう」
 一年生は三人いたのだが、山崎は父親がイギリスに転勤になり家族でロンドンに移住、もう一人がかけもちの英語クラブに熱を入れていて、本格的に新聞部をやれるのは稲沢一人になりそうな気配だった。どのクラブも二年生は学年末に退部し、新しく二年生になる学年がクラブの中心になるのが慣例となっていた。
「成績落ちんとええな」
 稲沢はちょっと心配そうな顔をした。稲沢の成績はいつも学年で一、二位を争っていたのだ。稲沢の田舎っぽい純朴な風貌のせいで、哲郎は最初そういうことには全然気がつかなかった。新聞部では学校の成績を話題にするものもいなかった。ある日、稲沢に連絡をとりに一年のクラスに入った時、教室の後の壁に張ってある実力テストの成績優秀者の一番初めに稲沢の名前があって、哲郎はひどく驚いた。それ以降稲沢の言動を少し注意してみるようになったが、確かに文章も会話も理論立っていてしっかりしていた。
「稲沢はやっぱり工学部みたいなところに行くんか」
 成績のいい生徒はみんな理学部か工学部に行くことが常識になっていた。学校の方針としても国立の工学部に焦点を絞った進路指導が行なわれていた。
「ええ、親父は工学部にいけって言います。でも僕は新聞記者になりたいんです」
「そうか、目標があってええな」
「波多野さんはどうするんですか」
「ああ、まだ決まってない。多分理科系になると思うけど」
「文章力、惜しくないですか。波多野さんの文章って、ちょっと普通の人が書けない切れ味がありますけど」
「さあ、どうかな。今は数学や物理にすごく興味感じるけど」
「そうなんですか」
 稲沢は少し不満そうに言って下を向いた。
「青山さんいます?」
 澄んだ声が聞こえた。見ると学校訪問の時に親切に応対してくれた亜希が青いワンピースの私服姿で廊下に立っていた。
「あっ、この前はお世話になりました」
 哲郎は立ち上がり頭をさげた。
「青山君、多分講堂で演奏会聴いてると思うけど、案内する。ちょっと稲沢君ここ頼むわ」
 そう言って、哲郎は廊下に出て亜希とならんで歩きはじめた。
「この前はありがとうございました。ごちそうになって」
「いえ、何にも用意してなくてすみません。でも楽しかってです。とても」
「あれから、青山君に会ったりしたんですか」
「それは秘密よ」
 亜希は首をすくめた。
「ねえ、この学校初めて来たけど、随分立派な校舎ね。生徒の感じもやっぱり『おっとり』してるわねえ」
「おっとり、ですか」
「おっとり」という表現は、この学校の生徒を形容するときに決まって使われた。同じ県内にある全国的に有名な進学校との比較で生徒の雰囲気の違いをあらわす言葉のようであった。
「波多野さん、おうちはどちらなの」
「伊丹」
「住宅街ね」
「住宅街は伊丹の南の方。僕の家は工場地帯にあります」
「工場地帯ってどんなかしら。一度行ってみたいわ」
 一度自分の家に来てみたら亜希はどんなに驚くだろう、と哲郎はため息のでる思いだった。
 講堂では小さな編成のオーケストラがバッハか何かのゆっくりした曲を演奏していた。お客は少なくリハーサルのような雰囲気があった。青山は一番前の席にいた。
 
 部室にもどってみると、展示の前で矢口先生と稲沢が難しい顔をして話し込んでいた。稲沢は興奮しているらしく、顔が赤かった。矢口先生の方は顔色は普通だったが、目が鋭くなっていた。
「ああ、ちょうどよかった、波多野さん、ちょっと来てくださいよ」
 稲沢が助けを求めるような声をだした。
「どうしたんや」
「この展示、困るっていうんです、矢口先生」
 矢口先生は憮然とした表情になって腕組みをした。
「先生、どれでしょうか」
「これだよ、この写真と説明だよ。波多野君書いたのかね」
「ええ、私が書きました」
「こういう目立つことされてはねえ」
「写真はお借りするときに許可をもらいましたが」
「確かに、いい、って言ったよ。だけどこの説明といっしょになると、いかにも目立つじゃないか」
 矢口先生の声が高くなった。写真は例の矢口先生一人だけが普通の髪型をしているもので、その説明は軍国主義教育の強まりの中で、先生方の中には抵抗の意志を示す人もいた、というものだった。
「ここ、いいんですか」
明るい声がして入り口に制服姿の女子高生が三人現われた。
「どうぞ」
 そう言って稲沢は入り口に走って行った。
「波多野君、ちょっといいかね、ここじゃなんだから」
「ええ、いいですよ」
 哲郎もここは譲れない、と思った。廊下にでると、矢口先生は
「ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだ」
 と声をひそめた。文化祭のパンフレットを手にした女子校生や父母がうろうろする廊下を二人は校舎の出口にむかった。
 グランドの端にあるベンチに座ると矢口先生は
「いや、すまなかったね。ちょっと驚いたものだから」
 と穏やかな声で言った。グランドではサッカーの親善試合が行なわれていた。鋭い笛と拍手が聞こえてきた。相手は市内の強豪らしく一方的に負けているようだった。
「あんな異常な教育を全く無抵抗でこの学校がうけいれたはずがない、と僕は思ったんです。そういう視点からあの時代の学校のことをいろいろ調べたんですが、抵抗というかそういう事例は非常に少ない。ですから矢口先生のあの写真は貴重なんです。僕はあんな時代にもこの学校の中に自由を愛する空気が残っていた、少なくとも残そうとした人がいたことを知らせたかったんです」
 哲郎は矢口先生の表情をうかがいながらそう言った。
「君の意図はよくわかる。しかしね、あれでは、私がいかにも反抗的にみえるじゃないか」
「軍国主義の教育に反抗的なのは、今考えてみれば名誉なことではないでしょうか。このお話をうかがった時にも、先生、大正デモクラシーが背骨に残っているって誇らしげじゃなかったですか」
「ただねえ、あの説明は正しくない。あれだと、私が先頭をきって学校のいや国の方針に反対していたように見える。そういうのは困るんだ。私は自分がそういう極端な人間だと思われるのを好まないんだ」
 こういうところがあるから、木下はこの先生を卒業したのだろうな、と哲郎は思った。
「どうしましょうか、私の一存ではいかないところもありますから、みんなで相談したいと思いますが」
「ああ、少なくともあの説明のところは何とかしてほしいね」
 そう言って矢口先生は哲郎の肩をたたいた。
 
 
 
12
   
 
 矢口先生と別れて部室に帰ると、部長の南と青山が心配そうに哲郎を迎えた。部屋の中には「客」はいなかった。
「稲沢君から聞いたけど、矢口先生から、文句出たんやってなあ」
「本当に、いやんなっちゃうなあ、この学校は。生徒の展示に教師が口出すなんて信じられないよ。僕はもう降りるよ」
 そう言って青山は部屋の隅に置いてある椅子に腰をかけ長い足を組んで漫画を読み始めた。
「それで、どないするかな」
 さすがに南は部長だ。責任を持つ態度だ。それにどこか落ち着いている。
「そやなあ」
 哲郎は問題の展示の部分を指さした。
「ここちょっとかえてみようかとおもてるけどな」
「どんなふうに」
「説明が矢口先生と無関係になるように」
「もともと、文章は矢口先生のことなんか直接書いてない。もし軍国主義教育に対する抵抗いう言葉が入れば、どうしても矢口先生が先頭になって抵抗したように読めるで。あの写真があるかぎり」
「まあそうやなあ」
 言われてみれば、そうなのだ。
「抵抗という言葉やめるか、いっそ」
「それじゃ、この企画は全然面白くなくなるよ」
 部屋の隅から青山が投げやりな口調で言った。
 模造紙の切れ端に修正の文章を書き始めたが、なかなかうまくいかなかった。木下がもどってきて、事情を知ってひどく憤慨した。哲郎は木下が矢口先生のところに掛合いに行く、と言うかと思ったが、木下はそうは言わなかった。
「どんな具合ですか」
 部屋の入り口に高木先生があらわれた。
「あっ、先生。ちょうどよかった。矢口先生からクレームがつきまして」
 南が訴えるような口調で言った。
「ああ、聞いた。職員室で矢口先生から」
「それで、今波多野君と相談してたんですが、いい考えがうかばなくって」
「そうだろうね。多分困ってると思って、ちょっと面白い話を持ってきたよ」
 高木先生は胸のポケットから紙片を取り出して広げた。
「英語教育は軽視され、配属将校は『英語の成績などどうでもよい、教練の点数のほうがよほど大事だ』と生徒を叱咤したが、英語の西村先生は後日、生徒を前にして『権力を背景にした人間の言葉というのは批判にさらされないため、真実から遠ざかる危険を常にはらんでいる』と配属将校を暗に批判した」と書かれていた。
「いいんですか、西村先生の名前がでてますが」
 哲郎は西村先生をよくしらなかったが、また矢口先生のようにクレームがつくのではないかと心配になった。
「ああ、これは西村先生から直接聞いた話だし、西村先生もどこに使ってもらってもいいと言っておられた。この文章があれば、矢口先生の写真とあわせて、いろんな形の抵抗がこの学校にあったことが浮かび上がってくるんじゃないのかね」
「先生ありがとうございます。波多野君、これでいこやないか。ええな」
 南は高木先生からうけとった紙片哲郎の目の前に掲げ、確認するようにそれをゆすった。「それから、波多野君、大丈夫と思っても、一応当事者には目を通してもらうことは大切だからね。これからはそうするように」
 高木先生はそう言って部屋から出ていった。哲郎はさっそく模造紙の切れ端に文章を書き写しはじめた。
「しかし、高木先生も大変な気のつかいようですな、矢口先生に」
 高木先生の足音が聞こえなくなってから青山が皮肉っぽく言った。
「高木先生も大変なんやろ。矢口先生なんか学校から組合の切り崩しがあったら一番ねらわれやすい人やからなあ」
 南は一番のところを「いちばーん」と長くのばした。南もいろんな事情を知っているようだった。木下は少し悲しそうな顔をした。
 
 翌日も「客」はそれほど多くなかった。新聞部の部室が二階の端にあって人の流れからちょっとはずれていたせいかもしれなかった。それでも、この部屋に入ってきた人はだいたい熱心に展示を見てくれた。特に父兄でこの学校のOBの人は懐かしそうに戦前の写真を眺めたりした。勤労奉仕中に怪我をした友人や空襲で亡くなった級友のことを言葉少なに話す人もいた。
 夕方になり客足がぱったりととだえて、南と木下からそろそろ片付けようかという声が出始めたころであった。部室の入り口に、汚れた運動靴を履き粗末なうわっぱりを着た中年の男が現れた。
「高木先生はこちらかな」
 その男はどことなく凄みのある低い声でそうきいた。入り口の机についてアンケートの集計をしていた哲郎は、高木先生はちょっと前に部屋を出たがすぐにもどるはずだと答えた。高木先生は、今日は展示場に何回も現れて、来客に展示物を紹介したり、逆に年をとった人には熱心に質問をしたりしていた。
 男は時計を見た。待とうかどうしようか迷っているようだった。
「お入りになりませんか。展示もそろそろ終わりですから、見ていってください」
 哲郎が僕が声をかけると、「そうするか」と答えて男は部屋に入ってきた。パネルに張られた写真や模造紙にかかれた説明文の前をゆっくりと歩いていた男は、窓際に展示された戦争中の学生生活のコーナーの前で立ち止まり、しげしげと写真を見つめた。哲郎は立ちあがり男のそばに行って説明を始めた。
「ここに展示されているのは、いよいよ戦争がはげしくなってきたころの学校生活の記録です。中学の四年生、五年生は、川西航空、関西ペイント、日本発送電、昭和電機といった会社に勤労奉仕にでかけ、授業が困難になりました。この学校から多くの先生方が出征されましたが、無事帰還されたのは、現在もお勤めの浅井先生だけだということです」
 聞いているのかいないのか、男は頷くこともなく写真に目を向けたままだった。
「こちらは軍事教練の写真です。生徒はゲートルを巻き、鉄砲を持って、このように通常はグランドで訓練されましたが、実地訓練ということでしばしば野外演習がおこなわれたそうです」
 男の顔にうすら笑いが浮かんだような気がした。哲郎は、自分の説明に誤りがあったのではないかと心配になった。
「軍事教練を経験されましたか」
 僕が問うと、男は「一応な」と言って目を細め、写真を見つめた。
「こんなものは、まあお遊びだよ」
 男は独りごとのように言った。
 廊下をはさんだ窓の向こうが騒がしくなった。見ると、暗くなった運動場の真ん中に火がともった。廃材を積み上げて燃やし、それに飾りつけや展示物をくべてさわぐ後夜祭が始まったのだ。男は窓の外に目を向け、じっと焚火を見つめた。その男の厳しい横顔にあらわれた表情がひどく寂しげで、哲郎は思わずその男の顔から目をそむけた。男はもう一度時計を見ると、胸のポケットから紙片を取り出し、小さな字を書き始めた。
「これを高木先生にわたしてくれないか」
 そう言って男は紙片を二つに折って僕にわたした。
「呼んできましょう。きっと運動場にみえるはずですから」
 哲郎はそう言ったが、男はいいんだと強く遮った。哲郎はその紙片を手帳にはさみ、目を上げると男の姿はもう消えていた。哲郎は気味が悪くなって、南と木下に一声かけ、階段をかけおり運動場に急いだ。
 焚火を囲む輪から少しはずれて、高木先生は、教頭先生と話していた。哲郎が事情を話して紙片を渡すと、高木先生は教頭に「失礼」と言って火に近づき、紙片を開いて読み始めた。赤い炎に照らされた先生の顔がさっとこわばった。高木先生は僕に礼を言うと、一目散に学校の門の方に駆け出していった。
 哲郎は何がおこったのかわからなかったが、とにかくたき火を囲んで歌う人たちの輪にはいって高木先生を待つことにした。「武庫の原頭、雲晴れて・・・」戦前の中学の時代にたくさん作られた応援歌のうち、この曲だけが今も歌い継がれていた。
 先生はすぐに荒い息をつきながら帰ってきた。
「見つかりましたか、あの人」
「いいや、だめだった」
 高木先生は背広のポケットから紙片を取り出し、ビリビリと引き裂きはじめた。
「先生、だれですか、あの人」
「ああ、あれは山瀬といってな。学生のころからの親友だ」
 先生はあたりに気を配りながら小さな声で話しはじめた。
 戦争が終って一年くらいたったころ、この学校の先生になったばかりの私のところに山瀬が訪ねてきた。生活に窮していて何とか教員の席がみつからないかと相談にきたのだった。私は校長に懇願したが、戦死した教員を補充するため新卒の教員を大量に採用した直後だったので、この学校には空きがなかった。しかし校長は近隣の女子校に職を見つけてくれた。私も喜んで、時々山瀬を宿舎に呼んだりしていたのだが、マッカーサーの指令による旧軍人の公職追放に山瀬がひっかかった。特務機関に所属していたことが原因だった。校長からその話を聞いた私は驚いた。山瀬は、大阪の連隊にいたと聞いていたので、特務機関に関係していたことなど全く寝耳に水だったからである。私はすぐに山瀬の下宿を訪ねたが、引っ越した後だった。行方をたしかめようとあちこちに連絡をとったが、皆目見当がつかなかった。一月ほどして、手紙が届いた。差し出し人は書いてなかったが、まちがいなくからのものだった。君に黙っていてすまなかったが、自分は諜報部員の訓練機関に入れられていた。訓練を終え、戸籍も消されて大陸に送られる寸前で終戦になった。スパイとしての訓練は、語学、暗号の解読、変装、盗聴、開封などいろいろあったが、一番の中心はさまざまな方法で人を殺す訓練だった・・・。君や校長に大変な迷惑をかけて本当に申し訳なかった。自分を探さないでほしい。という手紙だった。
「それで、山瀬さんの今日の伝言、何だったんですか」
 話が一区切りついたところで、哲郎はおそるおそる尋ねてみた。
「ああ」
 高木先生の声は、生徒が歌う歌声にかき消されるくらい低くなった。
「あいつ、遠いところにいくんだそうだ。二度と会うこともあるまいから、顔だけ見にきたんだけど、二階から、この焚火を見ているうちにふと気が変わったんだそうだ」
「なぜ、この焚火が」
「ああ、あいつのいた訓練機関では、あの戦争が終わった時、すべての書類を焼きつくして即日解散になったのだそうだ。その時のようすが、広いグランドで燃やすこの焚火にひどく似ていたから、いやな思い出がまた蘇ったみたいだな」
 高木先生はそう言って、焚火に近寄り、細かくちぎった紙片を火にくべた。その時、井桁に組まれた木が焼け落ち、天高く火の粉が舞い上がった。
 
13
 
 
 
 文化祭が終わると、哲郎は憑き物が落ちたように気が抜けてしまった。頭がぼんやりして授業に集中できなかったが、英語は新しく副読本の授業が始まって、これだけは不思議に興味が湧いた。副読本はアメリカとイギリスの文学作品のハイライトを集めて一冊にした本であり、講師の杉山先生は、それぞれの作品と作者について簡単に解説をしてくれた。もうろうとした頭の中でブロンテの「嵐が丘」やポーの「アッシャー家の崩壊」の異常な世界が一層精彩を放った。
 昼休みに机にうつぶせになって、ヒースクリフとともに荒涼としたヨークシャーの荒れ地をさまよっていると、肩に手がかかった。
「おい、波多野。森村先生が呼んでるぞ」
 木下の声だった。森村先生はこのクラスの担任の国語の教師だった。
「なんやろなあ、せっかくええ気持ちで寝てるのに」
「さあな、急いで呼んできてくれって」
「ああ、わかった」
 哲郎はのろのろと立ち上がり、教室を出た。
 木村先生は職員室の入り口で哲郎を待ちかまえていた。
「事故だ、お父さんが怪我をされたそうだよ、すぐに帰りなさい」
 と言った。
「えっ、事故ですか。そんな」
 心臓がドキリと音をたてた。
「電話で聞いて病院の地図を書いておいた。駅から近い安田病院というところだそうだ」
「ひどいんでしょうか」
「いや、命に別状はないそうだ。でも、急ぎなさい。病院に担ぎこまれたんだから」
 そう言って森村は哲郎の手にメモを握らせた。
 
 喜助はベッドの上で眠っていた。頭と両腕に巻かれた包帯の白さが痛々しかった。ベッドの横にはキヨが泣きはらした顔で椅子に座っていた。峰子がキヨの肩に手をのせていた。
「どうなの、父さん」
 哲郎がヒソヒソ声で聞くとキヨは黙って頷いただけだった。
「体と頭は大丈夫だけど、指がねえ」
 峰子が声をひそめて言った。
「これは、これはとんだことで」
 そう言いながら、恰幅のよい作業着姿の男がベッドに近よってきた。喜助の上役らしかった。キヨはバネじかけの人形のように椅子からピンと立ち上がり深々と頭をさげた。四、五人の作業着の男が入り口付近に固まって、部屋にはいろうかどうしようか迷っている様子だった。
「外にでようか」
 峰子が哲郎にささやいた。
 病院を出て通りを渡ると細い路地の両側に食料品を売る小さな店が並んでいた。峰子は店の前にならべられた野菜の値段を確かめているようだった。峰子の顔色がひどく悪かった。
「なあ、指がどうなったんや、父さん」
「切断」
 峰子は手刀で指先を切るまねをした。動作はふざけているのに顔は笑っていなかった。峰子は、喜助の右手は人指指と中指の第二関節から、左手は中指の第一関節から切断したと自分の手を広げて説明した。
「お父さん、ロールに引き込まれたんや」
「ロールってなに」
「むかし、家にあった洗濯機に両側からはさみつけて水気をとる搾り器がついてたやろ。あれをごっつう大きくしたようなもんやわ」
 峰子は高校生のころ工場にアルバイトに行っていたのでよく知っているようだった。
「何をするもんや」
「板状になった原料のゴムをロールにかけてつぶすんやわ。父さんそのロールに右手の指を引き込まれて、思わず左手でロール押さえたけど左手も引き込まれて。左手の指がつぶれて血がたくさん出たから、それで指がすべってロールから抜けた。その手で機械の上に渡してある非常用の棒を引っ張ってロール止めたんや。その時は右手は手首まで引き込まれてたんやって」
血だらけの手をロールから引き抜く父の姿を想像すると、哲郎は息苦しくなった。
「あんなあ、きのう、お父さんと喧嘩してん、私。そのことが今日の事故と関係あるような気がして、ちょっとたまらんわ」
「なんで喧嘩したんや」
「結婚のこと」
「峰ちゃん結婚するんか」
「するつもりやったんやけど、やめたんや」
「例の自動車男と?」
「うん、そのつもりやったんやけど、向こうの親がちょっとね」
「親なんか、関係ないやろ」
「そうやけど、まあ、親のことが気になるくらいの関係いうんかなあ、私も死ぬほど好きってわけでもなかったから」
「そいで、何で喧嘩したん」
「お父さんはもともと、乗り気なんや。贅沢いわんと結婚しろ、こんなええ話はもうないやろって。親に気に入ってもらうために努力しろって」
「お父さん、相手のこと知ってるんかいな」
「いっぺん、家に来たことある、あんた遅かったときに」
「へえ、あの家に」
「まあ、夜やったし、玄関だけやったから、あの家の全貌はわからへんかった思うけど」
「その時、お父さん、これは将来銀行の幹部になる男や、思たみたい。お父さん偉い人にものすごいあこがれがあるんよ、自分が違うから」
「まあ、そうかも知れんなあ」
「その時、あんたの事もものすごく自慢してたわ、お父さん」
「おらんでよかったな、僕。昔からそれが一番いややった」
 峰子が手をうしろに組んで腰を曲げ、地べたに置かれたサツマイモの山に顔を近づけた。
「よっ、美人のおねえちゃん、特別安くしとくわ、買ったってえなあ」
 変に低く響くしゃがれた声で、手ぬぐいを額に巻いた若い男が声をかけた。 
 
 狭くて長い市場が尽きると、住宅地に出た。そのあたりの家は色も形も同じつくりの建物が四、五軒並んでいたり、庭がなくブロック塀が建物すれすれに造られていたりした。歩くにつれて、家が少しずつ大きくなり建て方もいくぶんゆったりとした感じになった。それでも亜希や青山の家のあるあたりとはまるで雰囲気がちがっていた。
「もう、帰るろか」
 哲郎は峰子に声をかけた。峰子は頷いた。
「お父さん、会社やめさせられるやろか」
「さあ、どうやろ」
「僕、学校やめんといかんやろか」
「あほなこと、言わんとき。あの学校の月謝くらい何とでもなるがな」
「そしたら、高校出たら働いた方がええやろか」
 峰子は哲郎のその言葉には答えず、ちょっと待っててな、と言って、足早に歩き、市場の入り口にある菓子屋に入っていった。哲郎は店の入り口で待っていたが、買い物に来た主婦の目が時々自分に注がれるのが気になった。制服姿でこの時間帯にこんなところにいるのは、不自然なのかもしれなかった。
「お父さんとお母さんにちょっと食べさせるもん、買うてきたわ」
 そう言って、峰子は黄緑色の紙包みを哲郎に見せた。
「あっ、なんやったかなあ。働くって、哲郎ちゃんが」
「ああ、高校出たらそうせなあかんかもしれん、思うてんのやけど」
 峰子はちょっと黙った。
「あのな、男の子が高校出て、すぐに働くのは、そんなに甘いことと違うわ」
 サングラスをかけたやくざ風の男が、すれ違ってからチェッと舌打ちした。因縁をつけられなければいいが、と哲郎は心配したが、追ってくる様子はなかった。
「うちの銀行でも、私の近くにいる人最近ちょっとおかしいわ。高校出て私と同期に入った男の人やけどな。どうしたんかなあと思てたら、今年、高校で同級やった人が、大学出て銀行に入ってきたんや。エリートコースの人やわ。もうそれは最初から待遇が全然ちがう。私、哲郎ちゃんにそういうエリートになって欲しい、と言うてんのとちがうのよ。でも今の会社では、そういうことがある、いうことは知っといた方がええと思て」
「そういうことはあるやろうな」
「お父さんの期待もあるし、とにかく大学はいきなさいよ。奨学金とかアルバイトで何とかなるみたいやし。私の高校の友達でも仕送りなしで東京の大学行った人おったわ」
「家から通えるとこにするわ、大学は」
「何言うてんの、東京でも京都でも下宿せんならんかったら、私の貯金全部はたいて応援してあげるがな」
「結婚のために貯めたんやろ、そのお金」
「そうやけど、もう当分結婚は考えんことにした」
 峰子はそう言って足を速めた。
 
14
 
 
 その年の冬休みに哲郎は喜助の工場でアルバイトをすることにした。学校ではアルバイトは禁止されていたが、そんなことは言っていられなかった。喜助は工場内での怪我ということで、一応給料は保証され、工場にもでていたが、仕事らしい仕事もなくいつまで勤められるかわからない状態だった。残業もなかったので喜助の給料はぐんと減っていた。峰子が学費を出すと言ってくれたが、峰子の貯めた金を使うのは、峰子の破談を決定的にするようで心苦しかった。
 喜助の工場はゴムを使ったいろいろな製品をつくっていたが、哲郎は空気バネの組立ての現場にまわされた。空気バネというのは、円筒形の厚いゴムと金属のフレームが組み合わさったもので、自動車や車両の車体の下に取り付けられ空気の圧力を加減することによりショックを吸収する働きをするらしかった。
 哲郎は喜助と同じ職場でなかったことでほっとした。仕事のない父の姿を見るのが辛かったからだ。哲郎は安さんという父と同年輩の人の下で仕事をすることになった。安さんは新潟からの出稼ぎ労働者で喜助のことをよく知らないようだった。哲郎はかえってその方が気楽だった。
 
 圧搾空気ドライバーの刃先を、太いボルトの頭の溝にあてがい、そのまま力をこめて刃先を押し付けると、ウィーンとけたたましい音がしてドライバーといっしょにボルトが回転した。ボルトは三センチほど先にあるナットを貫きながら回転して、見る見るナットを引き寄せた。ナットの溶接された丸い帯状の金具が縮んでキリキリとゴムのカバーに食い込んだ。十分強く締め付けると、ドライバーはシュパン、シュパンと音をたてて空回りした。床一面にならべられた空気バネに、哲郎は次々とほこり除けのゴムのカバーを取り付けていった。それは組み立ての最後の工程であり、比較的やさしい作業だった。作業場の入り口には、時々運搬係りの人がやってきて、カバーをつけた空気バネを運びだした。
 哲郎は、作業場にならべられた空気バネ全部にカバーをつけ終わると、台車を押して同じフロアにある試験用水槽のところに空気バネを取りに行った。水槽で空気漏れがチェックされ、合格したものに哲郎がカバーをつけるのであった。
「もう時間だ、やすんどけ」
 ゴムの水除けを腰にまいた安さんが哲郎に声をかけた。安さんが一心に見つめている水面を、哲郎ものぞきこんだ。少し濁った水の中から、小さなあぶくが細い糸のように連なってまっすぐにあがってきた。安さんは首をひねって、手元の空気圧を調節するレバーをわずかに右にまわした。とたんにビシッと鈍い音がして水面がわきたった。安さんは、血管の浮き出た太い両腕を水の中に突っ込んで空気バネを引き上げた。空気を溜めるゴムのベローがみごとに縦に裂けて、その黒い断面がキラキラと輝いていた。水は冷たいようだった。安さんの手は真っ赤になっていた。
「不良だ、こりゃ」
安さんは、空気バネを抱えて破れたべローを一瞬見つめ、すぐにそれを不良品の山に乱暴に投げ入れた。その時、昼のサイレンがなった。
 
 食堂は500人ほどが一度に入れる大きなものだった。もう半分ほど席が埋まっていた。カウンターの前に出来た長い列の一番後ろについた哲郎は、灰色のよごれた作業着を身につけ、怒鳴るような声で話しながら食べ物をむさぼっている人々の様子に圧倒された。カウンターでうけとったトレーには、サバの煮付けとガンモドキが一つの皿に盛られ、もう一つの小さな皿には煮たキャベツとヒジキが少しずつ載せられていた。白いプラスチックの丼にはたっぷりと飯が盛られていた。
 窓際の席に着くと、安さんは勢いよくご飯をかき込みはじめた。哲郎も箸を取り、すぐに食べはじめた。一日の出来事の中で食事が一番の楽しみだった。哲郎はサバはあまり好きではなかったが、とにかく食べなければならなかった。夕方まで働き続けるためでもあり、食べ物を残すことで回りから軽蔑されるのを避けるためでもあった。
 食堂から出ると、安さんは、哲郎に右手をあげて離れていった。出稼ぎ仲間がいるタイヤ工場の方に行くようだった。それで哲郎は一人で休息室にもどった。
 作業場の一角をズック地の大きな布で仕切っただけの薄暗い休憩室では、長椅子に座った二人の中年男が、タバコを吸いながら将棋をさしていた。このコーナーは喫煙室にもなっていて、ここに来る者は皆タバコを吸った。タバコを吸わないと手持ち無沙汰だったが、哲郎は吸うわけにいかないと思った。学校に行くようになった時、匂いが残っては困ると思ったからだった。将棋盤はベニヤ板に線を引いたものであり、駒は形のそろわぬ安物であった。「歩」の中には、ボール紙でつくったものも混じっていた。
 哲郎が腕組みをして将棋をぼんやりと見ていると、哲郎のとなりに皆からシン坊と呼ばれている若い男がすわった。シン坊のシンが、名字からきているのか、名前からきているのかわからなかった。名字にも名前にも関係ないのかもしれなかった。シン坊は痩せて背が低く、まだ中学生のように見えた。
「ジブン、ケンコー」
 シン坊は哲郎にそう聞いた。ジブン、ケンコー。どういう意味だろう。自分が不健康に見えるのを気にして、人に確かめているのだろうか。何か反応を示さなくてはいけないと思って、哲郎は「ああ」と曖昧に言って頷いた。
「松野って知ってる?」
 シン坊は目を輝かせた。その言葉を聞いて、哲郎はシン坊が自分の通っている高校の名前を聞いたのだと気がついた。ケンコーというのは、市内に一つある県立高校の略称であったし、このあたりでは相手のことを「ジブン」という人間がいることも思い出した。中学か何かで仲のよかった松野という男が県立高校に居るのだろうな、と思った。
「あっ、悪いな、聞き間違えたわ、僕ケンコーとちがう」
「じゃあ、イチコーかあ」
 シン坊はちょっとがっかりしたように言った。イチコーとは市内にある市立の高校の略称であった。
「いいや」
 哲郎は小さく首を振った。シン坊は不思議そうな顔をしたがそれ以上尋ねてこなかった。
「シン坊、あのな、その兄ちゃんはなあ、そんじょそこらの学校いっとるんとちがうのやぞ」
 将棋をしているはげ頭の男が、将棋盤から目を上げないまま大きな声をだした。いやなことになりそうだな、と哲郎は思った。男が哲郎の学校の名前を言うと、シン坊はあっと小さく叫んだ。
「みんな東大に行く学校やぞ、あそここは。親父さんがしょっちゅう自慢しとった」
「そんなことはありません、いろんな学校にいきます」
 哲郎は頬が熱くなるのを感じた。シン坊も恥ずかしそうな顔をして下を向いていた。
「しかし、その学校は野球の強かったところやぞ」
 将棋の相手をしていた白髪まじりの恰幅のいい男が言った。
「甲子園で優勝したことがあるぞ。しかも初出場で。もうこのあたりも提灯行列で大変やった。随分前やけどな。プロ野球の選手でもあの学校出身のもんがおるぞ」
 そう言って白髪男は野球選手の名前をあげた。それから話題は野球のことに移っていった。哲郎はほっとした。
休憩室の入り口に青白い顔をした係長があらわれて、将棋をさしている二人に鋭い視線を投げ、そのまま足早に去っていった。
 
 
15
 
 
 翌日、哲郎が食堂から帰ってみると、休憩室の入り口に「部外者立ち入り禁止」と書いた紙が貼られていた。入り口をはさんで長椅子が置かれ、休憩室の外に昨日の白髪まじりの中年男が座っていた。白髪男は将棋盤に駒を軽く打ちつけていた。休憩室の中には誰もいなかった。
「どうだ、いっちょうやらんか」
 白髪男は哲郎に声をかけた。
「将棋、あんまりやったことないんです」
 哲郎がいうと、白髪男はウム、と唸った。哲郎は昨日助け船を出してくれたこの男に好意をもっていた。
「どうしたんですか、常連の人」
「ああ、今日はみんなどっか行ってもた。逃げたみたいや」
「ええと、部外者なんですか・・・あなた」
「ああ、俺、吉岡っていうけど、同じ工場の中で部外者もないもんだ。俺をここにこさせないための嫌がらせだよ」
 哲郎は何がおこっているのかわからなかった。
「挟み将棋ならできますが」
 哲郎はそう言ったが、吉岡は首を横に振った。哲郎は吉岡の作業着の襟につけられたバッジに気がついた。何本かの赤い線が真ん中で交差し、その中の一本だけが抜けている変わったデザインだった。どこかで見たことがある、と思った。
 哲郎は休憩所に入っていつもの場所に座った。しんとしてしまって変な雰囲気だった。何か話さなければならないような気がした。「それ、何のバッジですか」
 哲郎は自分の作業着の襟を引っ張りあげながら聞いた。
「これか、これはなあ、原水爆禁止の運動を進めている団体のバッジや、きれいなもんやろ」
 吉岡は自慢気に言った。哲郎はそのバッジはいつか高木先生が夏の間シャツの襟につけていたものであることを思い出した。
「うちの学校の先生で、そのバッジつけてる人がいます」
「おう、そうか。坊のいっとるものすごい学校にも、こんなものつける先生がおるのか」
 吉岡は興味を持ったようだった。哲郎は坊と呼ばれたことで吉岡にいっそう親しみを感じた。
「ねえ、そこは寒いでしょう。こっちに入ったらどうですか」
 ああ、と吉岡は言って思案顔になった。吉岡は盤の上にあった駒を集めてピースの缶にしまい、将棋盤と駒を乗せたまま長椅子を持ち上げて部屋のなかにもどした。
「また来るわ」
 そう言って吉岡は部屋を出ていった。
 昼休みが終わる頃になってぽつぽつと人が帰ってきてタバコを吸いはじめたが、だれも口をきかなかった。
 
16
 
 体を動かさないというのがこれほどの快楽であることを、哲郎は初めて知った。夕方工場から家に帰ると、夕食もそこそこに哲郎は居間に寝転がって時をすごした。新聞も読みたくない、本も読みたくない、まして勉強などする気が起きなかった。ただ漫然とテレビを見るのがせいぜいだった。じっとしていることで、体の奥からじわじわとけだるい安心感がしみ出してきた。哲郎は帰宅後の喜助のだらしない生活を責められないような気がした。
 その日も哲郎は、家に帰って食事をすると、もう何もする気が起きなかった。二時間の残業がひどくこたえていた。先に帰った喜助は一眠りしたらしく、体を起こしてテレビを見ていた。哲郎は喜助に吉岡の事を聞いてみようと思った。
「なあ、お父さん。吉岡さんって知ってる?」
「ああ、知ってるぞ。吉岡の庄一さんだろ」
「名前はしらんけど、半分頭の白いよう太った人や」
「ああ、庄一さんだ、そりゃ。その庄一さんがどうした」
 哲郎は休憩室での出来事を簡単に話した。
「庄一さんは共産党だからなあ」
 喜助はちょっと困ったような顔をした。 
「共産党の人はどこでもああいう風な扱いをうけるんか?」
「どこでもかどうかしらん。けどうちの工場ではああいう具合だな」
「あんまりいい感じせんかったな、休憩室にわざわざ、部外者立ち居入り禁止なんて仰々しく張り紙だして」
「おまえ、庄一さんなんかに近づくんじゃないぞ、大切な経歴にいっぺんに傷がつくぞ」
「あんた、怪我したとき庄一さんにはずいぶん世話になったのに」
 編み物をしていたキヨが喜助の方に顔をむけ、小さな声でそういって、すぐにまた目をおとした。
「それとこれとは話が別だ、おまえはだまってろ」
 そう言って喜助は恐い目をした。
「それより、お前、勉強の方はいいのか」
「ああ、大丈夫だよ、一週間や二週間」
「そうか」
 喜助の言葉に力がなかった。自分が怪我をしたために息子が働いているので、強いことは言えないようだった。そんな風に喜助に言われると哲郎はかえって寝転がってばかりいられない気持ちになった。
 哲郎は起き上がり、机のある自分のコーナーに引き上げた。冬休みに特に宿題があるわけではなかったが、三学期がはじまるとまた猛烈な速度で授業がすすみ、毎日数学も英語も演習問題を大量にこなさなければならないので、休みの間に貯金しておくのが普通だった。
少しでもやっておくかな、と思って哲郎はオリジナルと名前のつけられた数学の問題集を本箱から取り出した。難問であることを示す*の印がついた漸化式の問題を解いてみたが、標準の時間で解けた。頭がさびついているわけではないようだった。
 
 
17
 
 
 冬休みの最後の日曜日に、哲郎は三宮に映画を見に行った。アルバイトを始めてから、哲郎はものの値段をアルバイトの金で計るようになっていた。使われる金が、退屈で苦しい一日の労働で得る賃金の何分の一かに値するものであるかどうか、そういうことを考えるようになったのだ。この日の映画はどのようなものかわからなかったので、アルバイトの半日分の料金を払う気はしなかったが、青山が招待状をもらったからというのでつき合うことにした。
 神戸三宮の映画館の前に行ってみると、青山と木下が待っていた。木下も青山に誘われたようだった。
 細長い殺風景な映画館は八割くらいの入りであった。ガード下なので時々電車の音が天井から聞こえてきて座席が小刻みに揺れた。映画はフェデリコ・フェリーニという監督の「8 1/2」と、いう白黒映画だった。映画監督の創作の苦悩を表しているように見えたが、幻想や夢の入り交じったわかりにくい映画だった。
 映画が終わっても哲郎は中途半端な思いのままだった。青山がもう一度見ようと言ったので、哲郎と木下はしぶしぶ従った。
 もう一度見たが、哲郎はやっぱりよくわからなかった。哲郎と木下が帰ろうと言っても、青山は席を立とうとしなかった。
「いやあ、ものすごくよかった。僕、もう一回みていくよ。今はストーリーを追っていたから、今度はディテールに重点をおくよ」
「まさか。青山。頭いたくなるからやめとけ」
 木下があきれたように言った。
「いや、悪いが先に帰ってくれ。僕はどうしてももう一度見たい。これは傑作だよ」
「青山、結局わからなかったんだろうけど、もう一回みても理解できるとはかぎらないよ、きっと。この映画は。これは失敗作だ。「道」をつくったフェリー二が、なんでこんなものつくるんだ」
 木下の言葉を青山は否定しなかった。
「そやそや、こんな映画わかるかい」
 青山は二人の言葉にかまわずバイバイと手を振った。二人は青山を残して映画館の出口にむかった。
「しかし、青山、あんなに映画が好きとは知らんかった」
「あれは、多分予習してるんだよ」
「予習って」
「女の子かだれかといっしょにあの映画見るときのために。あいつわからなかったから、もう一回見ようとしてるんだよ」
「あいつ、そんなことするのか」
「僕を誘う時、下見につきあってくれないか、なんて言ってたから」
「ええかっこして、女の子にあの映画の解説なんか話すんかな、青山のやつ」
 哲郎は、亜紀がうっとりと青山の解説に聞き惚れているところを想像した。
 映画館を出るとあたりはもう暗くなっていた。
「波多野、僕の家によっていかないか。近くなんだ」
 三宮駅の近くまで来た時、木下が言った。
「ああ、ありがとう。でも突然やから、迷惑とちがうか」
 哲郎は、もし友人が突然自分の家に来たら、キヨも喜助も慌てるだろうな、と思ったのだ。
「家には、だれもおらん。僕が夕食作るから、いっしょにたべようよ」
 だれもいないなら気楽だな、と哲郎は思った。
「そんならちょっと寄らしてもらうわ」
 そうか、と言って木下はうれしそうな顔をした。 線路沿いの道から裏通りに入ると、所在なげに客を待つ派手な化粧の女があちこちにいた。
 木下の家は古びたマンションの一階にあった。台所と部屋が二つあるだけだったが、きちんとかたづいていて清潔な感じがした。
「まあ、レコードでも聞いて、そこにすわっててよ」
 木下はそういって、台所で野菜をきざみはじめた。レコードでも聞いて、と言われても、哲郎はレコードのかけかたを知らなかった。家にプレーヤーがなかったのだ。
「なあ、テレビないんか、ここは」
「ああ、親父がテレビきらいで、まあその遺言まもってるような感じなんだけど」
「あっ、そうか。親父さん亡くなったんやてな」
「誰から聞いたの」
「矢口先生。家に行った時」
「ずいぶん世話になったよ。あの時」
「ああ、そうやってな。病気やったんか、親父さん」
「ああ、ガンだった」
 鍋にほうり込んだ肉と野菜が大きな音をたてた。
「そうそう、この前、波多野の親父さん事故だったそうだけど、大丈夫だったのか」
「ああ、ちょっと指を切ってな」
「軽くて、よかったな」
「まあな」
 哲郎はそう言って、プレーヤーの下の小さな棚に並べられたレコードを取り出してみた。ピアノ曲ばかりだった。木下は昔ピアノを習っていたのだろうか、と哲郎は思った。
「さあ、できた、できた」
 そう言って、木下は大きな皿に盛った肉野菜炒めをテーブルの上に置いた。木下は手早く茶碗にご飯を盛り付けて哲郎の前に置いた。その様子がいかにも手慣れていた。
「なあ、いつも自分でつくるのか、ご飯は」
 哲郎は箸をとって食べはじめた。なかなかおいしかった。
「ああ、母親が遅いからね、時々。それに疲れて帰ってくるから」
「仕事?お母さん」
「そう。普段は会社に勤めてるけど、それだけじゃ足りないから日曜なんかはアルバイトしてるんだ」
「木下、一人っ子なんか」
「いや、弟がいた」
「今はいないのか」
「ああ、東京に行ったんだ。叔父さんのところに」
「親父さんがなくなったことと関係あるのか」
「ああ、事実上の養子だね」
 木下の声が小さくなった。
「さびしいな、それは」
「でも、もう慣れたよ。新聞部で友達もいるし」
「俺もその友達に入っているのか」
「ああ、一番の友達だよ」
 そう言ってから、木下は言ってはいけないことを言ってしまった、というような顔つきになった。
「ちょっとこれ味がたりないね」
 そう言って、木下はテーブルの真ん中にあるソースを取り上げて残っている野菜にかけた。
 哲郎は木下と仲よくしなければならないな、と思った。
                  
 食事が終わると、哲郎はたちまち眠くなった。木下は、見せるものがあると言って自分の部屋からスクラップブックを持ち出してきた。
「こんなことが行なわれているんだよ、ベトナムでは」
 木下が開いたページには、銃をかまえた米兵と燃え上がる民家の写真の切り抜きが貼られていた。
「これから、どんどん酷くなるだろうね、アメリカの侵略は」
 木下がアメリカの侵略、という言葉を迷わずにスラリと口にしたので、哲郎は驚いた。学校の現代史の授業では、アメリカの侵略という風には教えられていなかったからだ。
「これ、どこからもってきたの?」
 哲郎が聞くと、木下はいろんなところだ、とあいまいに答えた。木下は哲郎があまり興味を示さないので、最近読んだ本の話を始めた。木下はたくさん本を読んでいるようだった。哲郎の聴いたことのない作家の名前がたくさんでてきた。
「ねえ、これ面白かったよ。新しい本だけど」
 木下は、また部屋に入って本を持ち出してきた。井伏鱒二という人の「黒い雨」という小説だった。哲郎は小説なら疲れていても読めるかもしれない、と思った。
「これ、借りてもええか?」
「ああ、いいけど。休み明けに返してね。借りた本だから」
「高木先生?」
「いいや、稲沢君」
「ふうん、稲沢君こんな本も読んでるんやなあ」
「彼はしっかりしてるよ。彼が部長になると、新聞部もずいぶん変わるよ、きっと」
 普段は木下と稲沢は特に親しいようには見えなかった。二人とも高木先生の影響を受けているので通じるところがあるのかもしれないと哲郎は思った。
「あ、そろそろ帰るわ、僕」
 柱時計が八時を告げたので、哲郎は立ち上がった。
「じゃあ、送るよ。駅まで」
「ええよ、わかるから」
「ここは、夜は一人で歩かない方がいいところなんだ」
 そう言って、木下はポケットから鍵を取り出した。
「送ってもらったら、あんたが一人で帰ることになる」
「僕はなれてるから」
「恐喝にあったら、僕の方がまだ相手に立ち向かえるやないか」
「そういうことじゃないんだ」
 木下は、そう言って、先に哲郎をドアの外に出した。
 マンションから出ると、木下は自分から離れないようにと言った。多分さっき見た女たちが声をかけてくるのだろう、と思った。哲郎は、こいう環境の中にある家にさそってくれた木下の開けっぴろげな態度にひどく親しみを感じた。
 
 
18
 
 その日はアルバイトの最後の日だったので、係長が、三十分早く仕事を切り上げて給料を庶務課に取りに行け、と言った。
 庶務課に行くと、青っぽいうわっぱりを来た中年のおばさんが金庫の中から給料袋の束を取り出し、名前を確かめて渡してくれた。お礼を言って立ち去ろうとすると、窓際の大きな机についた太った赤ら顔の男が哲郎を呼び止めた。哲郎が机のところに行くと、男は吸っていた煙草を灰皿にこすりつけた。
「波多野君だね」
「はあ」
「ご苦労さまでした」
 胸についた丸いプレートには、総務部長 浅野 と書かれていた。
「お父さん、どう」
「はあ、なんとか。おかげさまで」
 おかげさまで、などという言葉が自然に口からでた。哲郎は自分が少し変わったな、と苦笑する思いだった。
「まあ、大事にしてあげてください」
 浅野のしゃべり方は落ち着いていて、表情にも余裕が感じられた。きっとこの会社で将来が約束されている人なのだろうな、と哲郎は思った。
「K高校だってね。学校の方はどうなの。勉強、大変」
「ええ、まあ、冬休みですから。宿題もありませんし」
「そう。将来はどういうところにすすむの」
「まだ、決めてませんが」
「そう。大学を出たら、この会社に来る気はないかね」
「さあ、どうなるか、わかりませんから」
 哲郎が答えると、浅野はちょっと頬を赤らめた。
「ここは確かに、超一流企業ではないよ。でもこういう会社はそれなりに面白味もあるからね」
「ああ、そうでしょうね」
 哲郎は喜助がいつも「あんなボロ会社」と悪口を言っていたせいもあって、将来自分がこの会社に入ろうとは全然考えていなかった。自分の将来は何かもっと明るい輝いたものと結びついていて欲しいと思った。
「ああ、どうもご苦労様でした」
 哲郎の返事によい響きを感じなかったせいか、浅野は話を打ち切って、机の隅に置かれたタバコの箱の手を伸ばした。
 庶務課のある建物を出て時計を見ると、終業時刻までにまだ十五分あった。これから仕事場に帰っても中途半端な時刻だった。空気バネ組み立て工場の手前にある小さな倉庫の中に吉岡の姿が見えたので、哲郎は挨拶しておこう、と思った。喜助からは吉岡に近づくな、と言われていたので少し迷ったが、挨拶もしないで去るのはやはりよくないような気がした。薄暗い倉庫には他に人影もなく、錆びた金属と油のにおいが鼻をついた。
「吉岡さん、お世話になりました。今日で一応おわりですので」
 哲郎がそう声をかけると、不良品の山を仕分けしていた吉岡は手を止め、哲郎の方にやってきた。
「そうか、今日が最後か。よう頑張ったな」
「父が、怪我した時にお世話になったそうで」
「ああ、何もできんかったけどなあ。喜助さん、最近どうなんや」
「なんや、酒の量増えたみたいです」
「そうか。喜助さん、腕がよかったから、その分今の立場は辛いかもしれんな」
「首にならんでしょうか、親父」
「工場の中での事故や。首になってたまるかい。自分のできる仕事要求して堂々と会社におったらええんや」
 吉岡は吉岡は作業帽をとり、腰にぶらさげた手ぬぐいで額をごしごし拭いた。
「坊、給料はもうもらったのか」
「ええ、今、庶務課へ行った帰りです」
「残業代、ちゃんとついとったか」
「ええ、多分。まだきちんと確かめてませんが」
「帰るまでにしらべとけよ」
 吉岡は入口近くにある蛇口で手を洗いはじめた。哲郎が浅野部長からこの会社に来ないかと言われたことを話すと、吉岡は手拭いで手をふきながら首をかしげた。「あんたの採用のかわりに親父さん辞めさせるつもりやろか」
「そんなことないんと違いますか」
「ああ、ようわからんけど、これまでもそういうケースあったから」
「あんまり気がすすまなかったから、どうなるかわかりません、言うときましたけど」
「ああ、それでええ、坊は無理してこの会社に来ることないやろなあ」
 ちょっと考えてから、吉岡はそう言った。
 
 
19
 
 二月に入ると、耐寒登山に備えて放課後にランニングがあった。六時間の授業が十分ずつ短縮されて、ちょうど一時間がグランドや学校の周囲を走るのにつかわれた。クラスごとに整列して走るので、原則としては一番遅い人に合わせることになり、トレーニングとしてはハードな方ではなかった。
 その日は準備体操を念入りにしてから学校の周囲を走ることになった。校門を出て左手に曲ると、すぐに阪神電車の小さなガードがありそれをくぐって左におれ、電車の通る土手の下を哲郎たちは走り続けた。
 運動部の連中はこういう時に掛け声を出すのが普通らしく「K高ーファイト、ファイト」という声を続けざまにだした。学校帰りの小学生が振り返ったので、哲郎は恥ずかしい気がした。
 学校の裏手に回ると、校舎は普段とちがった形に見えた。正面から見た校舎は横に一様に長いシンプルな形をしていたが、今、校舎は灰色の巨大な直方体が複雑にかさなった見慣れぬ建造物であった。
 角を曲って校門が見えると、列が乱れた。陸上部や野球部の連中が遅い者につきあっていられない、とばかりにスピードをあげた。哲郎も余力があったので、最後に思い切って走ってみた。
 校庭の真ん中で整理体操をしてから、校舎の端にある水飲み場に行くと、水を飲みおわった青山が長い足を前後に大きく開いてアキレス腱を伸ばしていた。
「おい、物足りないだろう、いっちょうつきあわんか」
 青山はそう言って顎をしゃくった。グランドの端をコンクリートの通路が走っていて、その通路をはさんで、まっすぐな百メートルコースがつくられていた。
「百メートルか?」
「ああ」
「よし、つきあうわ」
 哲郎がそう言うと、青山はにやりと笑ってゆっくりとコースのスタート地点に歩き始めた。哲郎は口に含んだ水を地面に吐き出して青山の後を追った。
 青山と哲郎がスタート地点につくと、スパイクをはいた陸上部員がスタートの合図を買ってでた。哲郎は自信があった。陸上部員であったことはなかったが、中学までは運動会ではいつもリレーのアンカーを走った。青山に負けることはないだろうと思った。
 膝をつき、備え付けのスタート台に爪先から静かに足をのせて、哲郎はまっすぐ行く手を見据えた。こうして見ると百メートルというのは随分長い。
 パンと手を打つ音がしたので、哲郎はスタート台を蹴って突進した。青山は視界に入ってこなかった。やっぱり、俺の方が早いぞ、哲郎は胸に熱いものせりあがってくるのも気にかけず走り続けた。六十メートルを過ぎたあたりだろうか、左の目の隅に青山の大きな体が見えてきた。負けるか、哲郎はスピードをあげたつもりだったが、青山の体はススーっと前にでた。その差は縮まることなく青山が先にゴールの白線を走りぬけた。
「青山、ごっつう早いんやなあ」
 五メートルほど遅れてゴールした哲郎は、完敗を認めてそう声をかけた。
「波多野、足、足。お前のは足が後ろにながれる、あれじゃ早くはしれないよ。地面を蹴ったら、すぐに腿を下腹に引き付けるんだ。それから腕の振りをもっと強く。足が連動するから」
 息をはずませて、青山が言った。何でもよく知ってるいやなやつだ、と哲郎は思った。藤棚の下を肩を並べて歩いていると、ちょっと話がある、と青山は言った。何か話があるので、自分を百メートルにさそったのだろうか、と哲郎は思った。
 
「あんた、亜希さんとつきあってみる気はないか」
 青山が珍しく真剣な表情で言った。
「なんや、青山、亜希さんに飽きたんで、俺のとこにまわすのか」
 哲郎が言うと、青山は驚いた顔をした。
「波多野、何かあったの。あんた、随分ストレートに言うようになったね。こりゃおどろいた」
 アルバイトに行ってから、哲郎は学校の友人たちに対する態度が少し変化しているように自分でも感じていた。アルバイト先でいろいろ気をつかっていた分だけ、クラスメートには遠慮なく口がきけるような気がした。学校の友人が少し子どもっぽく見えて、ある種の優越感のようなものが哲郎の中に芽生えてもいた。
「波多野、そうじゃないんだ。もともと、僕は亜希さんとは特別親しくなる気はなかったんだ。あの子は賢い子だし、まあ、ちょっと気軽に遊ぶにはふさわしくない相手だよ」
「女の人は、別にあんたに紹介してもらわへんでもええよ」
「まあ、そりゃそうだが」
 グランドの方から土埃を巻き上げ、突風が吹いてきた。青山は顔を被い、風に背を向けた。
「そりゃ、そうなんだがねえ」
 青山は運動着の後ろのポケットからきれいにたたまれた白いハンカチを取り出して目をこすった。
「亜希さんは、あんたが好きみたいなんだ」
「まさか」
「いや、おれと会ってる時でも、時々あんたのことを尋ねるんだ」
「どんなこと」
「家は何をしているかとか、勉強はよくできるかとか、どんな本を読むかとか」
「いやなこと聞く人だね」
「僕はそのたびに答えにつまったよ。何もしらないものね、考えてみたら」
「勉強は学年で一番、家は医者、愛読者は大江健三郎って答えといて、今度会ったら」
「本当、波多野の家、医者だったの」
「あほか、冗談や、冗談」
「まあ、おれも亜希さんに言われてからちょっとあんたを観察してみた。いままで気がつかなかったけれど、あんた非常にハンサムだねえ。亜希さんが好きになるの、わかるような気がする」
「まあ、そう言ってくれるのはありがたいけど、今は女の人と付き合ってる余裕ないわ、ごめんな」
「そんなに勉強ばかりしてもしょうがないよ、波多野」
「まあな」
 余裕がない、というのを青山は勉強で手いっぱいと受けとったようだ。映画をみたり、喫茶店にはいったり、話題になる本やレコードを買ったり、プレゼントをしたり、亜希にとってはおそらくごく当たり前のことにかかる金の方が、今の哲郎には問題だった。金のことを考えると亜希とつきあう気力が湧いてこなかった。
「一応、伝えたよ、亜紀さんの気持は」
 そう言って青山は歩く速度を早めた。校舎の出口から、制服に着替えた生徒たちがあふれ出てきて二人とすれちがった。クラブ活動をやらずにまっすぐ帰宅する人たちだった。
 
 
20
 
 
 矢口先生は哲郎にソファに座るように言って、カチリと音がするまでドアの取っ手を強く引いた。 
 窓からは中庭が見えた。応接室として使われることがあるのだろうか。特に目的を記す表札のないこの部屋に哲郎はこれまで来たことがなかった。遠くで、テニスの球を打ち合う音とカウントを取る声が聞こえていた。
 
「黒井のこと、聞いてるかね」
 やせた体をまっすぐに伸ばして、矢口先生はじっと哲郎の顔をみつめながら切り出した。
「ええ、怪我したってききましたけど」
 学校行事として毎年行われる六甲山の耐寒登山で、黒井がコースを間違えて崖から落ち、腕を骨折したことは、哲郎もクラスメートから聞いて知っていた。
「お見舞い行ったか」
「いいえ」
「黒井と仲がいいんじゃないのかね」
「ええ、まあ」
 と答えて、哲郎は少し不愉快になった。見舞いに行かなかったことを非難されたように感じたからだった。
「今はあんまりつきあいがないんです。僕はクラブの方が忙しいから」
「ああ、そうなのか」
 矢口先生は表情を変えずにうなずいた。
「それじゃ、特に聞くことはない。わざわざ呼び出してすまなかったね」
「でもなぜ、僕を」
「ああ、恥ずかしいことだがね。私のクラスには黒井と仲がいい生徒がいないんだよ。ただの一人も。それは今度の事故がおこってからわかったんだけどな。クラスの生徒が、黒井君がBクラスの波多野君と一緒にいるのをよく見かけたなんて言ったもんだから。まあそれで、最近の黒井の様子なんか聞ければと思ってな」
「ええ、でもそれは一年の時のことです。帰る方向がいっしょだったから。二年になってからはあんまり付き合いがないんです」
「そうなのかね」
「何か、あったんですか」
「いや、別に。ちょっとかれの様子を知りたかっただけだ」
 そう言って矢口先生は立ち上がる様子を見せた。
「先生、黒井君の落ちたところ、どのあたりでしょうか」
「蛇谷の近くだな」
 蛇谷と聞いて哲郎に思いあたることがあった。この夏に奥池から六甲山の山頂の脇を通って有馬に抜けたのだった。たしかあれが蛇谷だ。哲郎は黒井がのぞき込んでいた暗い谷を思い出した。黒井が落ちたのは、事故ではなく、もっと別のことではないか、と思った。
「そのあたりは、黒井君といっしょに行ったことがあります」
「ほう、いつごろ」
 矢口先生は座り直して身をのりだした。
「この夏です」
「そうか。その時、何かかわったことはなかったかね」
「変わったことといわれても」
 哲郎は、あの時、黒井が「ここから落ちたら死ねるだろうな」とつぶやいたような気がしていた。もちろん、哲郎はそれを冗談と受け取った。
「コース覚えているかね、君たちの通った」
「ええ」
「波多野君、どうだろう、わしといっしょにそのあたりに行ってくれんかね、今度の日曜日にでも」
「ええ、それはいいですが」
 矢口先生「よし」と言って頷き、弁当と交通費はこちらで用意すると言った。
 宝殿橋でバスを降りると、ひやりとした冷気が体をつつんだ。哲郎たちがドライブウェイにそって歩き始めると、あたりが暗くなってきた。アスファルトの道をそれて山道に入り込んだ時に雪が降って来て、熊笹の上でかすかに音をたてた。登山道が、再びアスファルトの道に出ると、風にのってきた雪が正面から吹き付けてきた。息をこらえながら凍った道を転ばぬように歩き続けると道は南斜面に出て、雪の密度が急に薄くなった。すぐに谷の見える見晴らしのよいところに出た。激しくふっていた雪がやみかかっていた。峰を越えてきた雪がまばらになって、深い谷をどこまでも落ちていった。
「先生、ここです。彼がじっと谷を覗き込んでいたいたところは」
 矢口先生は大きく頷いて、ガードレールを乗り越えた。老人に似合わぬ軽い身のこなしだった。
「先生、危ないですよ」
「何、これぐらいの崖、大丈夫だ。波多野もおいで、何なら私につかまりなさい」
 哲郎もガードレールをまたぎ、矢口先生につかまりながら、下をのぞいてみた。矢口先生は哲郎のベルトを後ろからしっかりつかんでいた。
 足元でくずれて落下した雪の塊が視界から消え、しばらくしてから岩にぶつかる音が聞こえた。
「やはりここだな」
 と矢口先生がつぶやくように言った。崖の下に枝がはげしく折れた木がかすかに見えた。あの木に黒井はひっかかったのだろうな、哲郎はそう思いながら、ガードレールを跨いで道にもどった。矢口先生もガードレールを跨ぎ、広げた地図が風で折れ曲がるのを手で押えながら、万年筆のキャップを口にくわえて、地図に印をつけた。
 
 
 
21
 
 
 矢口先生は哲郎を促し、峠にある茶屋に入った。夏に黒井と来た時に昼ご飯を食べたところだった。今は季節外れのせいか客はいなかった。
 ヤッケを脱ぐと矢口先生の肩から湯気が立ちのぼった。窓際の席につくと矢口先生は地図をテーブルの上に広げた。矢口先生は地図の上に白鶴美術館から南斜面をのぼって山頂に達し、それから尾根道を歩いてケーブル駅にいたる耐寒登山のコースを書き込んだ。
「黒井君の落ちたところはコースからずいぶんはずれてるね」
 矢口先生の眉間に深い縦の皺があらわれた。「ええ、たまたま迷いこんだのではないような気がします」
 道もしっかりしているし、ガードレールもついている。あやまって落ちることはまずないような気がした。
「自殺でしょうか」
「そう言う言葉は、軽々しく口にしちゃいかんよ」
 矢口先生がきつい口調で言った。哲郎が黙り込んだので、部屋の中がしんとしてしまった。
「私は、昔、岩登りをやったことがあるんだ」
 矢口先生が哲郎の機嫌をとるような口調で話しはじめた。
「東京にいたころにね」
「どこの岩ですか」
「上州、つまり群馬だねえ、主に」
「それで、さっきも恐くなかったんですか、崖が」
「ああ、そうだ」
 注文した甘酒とビールがきたので、矢口先生は古びた黄色いザックから大きな紙包みを取り出してひろげた。二つのアルミの弁当箱の中には、卵焼きやのり巻きや鳥のから揚げなどがぎっしりとつまっていた。
「さあ、たべなさい。ビールはだめだぞ、君は」
 そう言って、矢口先生はコップにビールをついだ。箸をとって哲郎が食べるのを、矢口先生はビールを飲みながらながめていた。
「戦争が激しくなってきてから、岩登りどころではなくなってきた、そういう余計なことをするのは非国民だといわれてね。でも、何回か夜中にそっと行ったことがある、友達と二人でね。僕より五つくらい若かったけどいい男だったな」
「今はやらないいんですか」
「ああ、その友達がなくなったからね。どうも岩登りをすると彼のことを思い出してしまって気がふさぐから」
 矢口先生は窓の外に目をむけた。哲郎がすすめても矢口先生は箸をとらず、ビールばかりを飲み続けた。
「文化祭の時、はすまなかったね。注文をつけて」
「いいえ、高木先生に叱られました。文章にするときには本人の了承をとるようにって」
「ああ、そうだったのか」
 矢口先生は苦笑いした。
「私に岩のぼりを教えてくれたその友人はねえ、まあ、反戦思想のようなものをもっていてね。その友達との約束みたいなものだったんだ、あの髪型は。私自身、そんなにしっかりした考えがあってやったことじゃないから、あんまりおおげさにしてもらいたくなかった。私が関西に来てから、その友達が特高につかまって拷問をうけて、それがもとで死んだ。その時正直なところ私は恐かった。ものすごく恐かった。特高に友人が殺された怒りよりも、恐怖の感情の方がはるかに強かった。彼の死を知ったその日に私は自分で頭を丸めたんだ」
 哲郎は頷いた。木下に言わせると「権威に弱い」矢口先生がなぜ人よりは長く普通の髪型を保ったのか、哲郎は納得のいく思いがした。矢口先生が木下のいうように「権威に弱い」としたら、それは矢口先生が師範学校出身であるためというよりは、権力に逆らって命を落とした友人のことがずっと頭にあるからではないだろうかと哲郎は思った。
「ちょっとトイレに行ってくる」 そう言って矢口先生は椅子から立ち上がった。矢口先生の足元が少しふらついていた。こんな矢口先生を見るのは初めてだった。
 
22
 
 
 その日、哲郎は原稿の校正に身がはいらなかった。昼休みに廊下ですれちがった矢口先生から黒井が退学したと告げられたからだった。なぜですか、と聞いても矢口先生は「そういうことになったから」というだけで理由は言わなかった。
「波多野、顔色が悪いよ」
 向かいに座って赤鉛筆を走らせていた木下が手を止めて言った。
「いや、大丈夫だ」
 哲郎はそう答えて原稿にむかった。哲郎と木下が担当しているのは年に一度発行される雑誌の原稿だった。卒業をひかえた三年生の全員が一言ずつ言葉を残していくのが恒例で、その部分を哲郎が担当した。
『この学校の友達と先生と校舎にキスして卒業していきたい』
 きっと充実した学校生活を送った人なのだろうな、と思いながら哲郎は原稿を読み進んだ。
『目を閉じて見る夢は虚妄の夢、目を開いて見る夢は真実の夢』
 わかるようでわからない言葉だ。
『三年間、面白いことは何一つなかった』
 というのもあった。哲郎はまた黒井の事を思い出した。哲郎は、自分が矢口先生と山に行ったことが、黒井への処置に悪い影響を与えたのではないか、とふと思った。矢口先生は、あの時、黒井が自殺を図ったことを確信したに違いなかった。そんなことをする生徒を厄介払いしたくて、矢口先生は退学の処置をとったのではないだろうか。しかし、そんなことで退学になるものだろうか。退学の処分ではなく、自分から退学するように仕向けたのかもしれない。体面をひどく気にするところがあるので、矢口先生はそういうことをやってしまったのだろうか。それならば、自分は黒井の退学に手を貸したことになる。そう考えると哲郎はたまらない気がした。
『○○先生、私の青春を返して!』
『ベトナムに平和を、K高校に嵐を』
『諸君、頭狂大学か狂徒大学にいきたまえ』
・・・・・・・・
『大学に合格したらまた考えます』
『猿鳴き、熊吠え、毒天に満つ、この荒野』
 猿や熊や毒というのがこの学年の担任の先生たちの渾名であることを思い出して哲郎はほくそえんだ。
「波多野、やっぱりおかしいよ」
 木下が心配そうに覗き込んだ。
「チェックがきいてないよ」
 木下が哲郎の校正した原稿を手にして首をかしげた。
 土曜日の午後、哲郎は学校の名簿をたよりに黒井の家を訪ねることにした。あらかじめ電話をすべきだ、と思ったが、黒井の家には電話がなかった。
 黒井の家のあたりはゴムの焼けるような匂いと化学薬品の酸っぱい匂いがいり交じっていた。それで哲郎は何となく安心した。
 家が五軒長屋風につながった真ん中に、黒井とかかれたすすけた表札があった。声をかけると、たてつけの悪い玄関の戸を片手でこじ開けるようにしてでて来た母親は一度奥に引っ込み、それからひどく申し訳なさそうな顔で出てきた。
「すみません、わざわざ訪ねていただいたのに。邦彦は気分が悪くて、どうしてもおきられません。本当にすみません」
 自分に会いたくないのだな、と哲郎は思った。一緒に六甲山に行った時のことを自分が矢口先生に話して、それが退学の理由になったことで、自分を恨んでいるのだろうか。
「おじゃましました」
 そう言って、哲郎は頭をさげ、玄関をでた。たてつけの悪い戸を閉める時に力をこめたので、戸が急にしまって音をたてた。
 社宅を出て、小さな商店街のところまで来たとき、後ろから勢いよく下駄の音が聞こえてきた。振り向くと、黒井の母親だった。母親は手に赤い財布を握りしめていた。
「すみません、本当に」
 哲郎に追いつくと、母親は大きく息をつきながら言った。急いで化粧をしてきたせいか、口紅が唇の横に少しはみだしていた。
「あの子、お酒を飲んでたんで、あなたに会いたくなかったんです。もしよければ、いつか来てやってくれますか。誰かと話すとあの子気が落ち着くみたいです。本当はあなたには会いたがっていたんです」
 ああ、そうだったのか、と哲郎はほっとした。
 黒井の母親は駅前でタイ焼きを三つ買って、哲郎に渡した。
 
 
23
 
 
 翌日、哲郎が黒井の家を訪ねると、母親はひどく恐縮した様子で、黒井が社宅のはずれのグランドにいることを告げた。
 狭い通路を小さな子どもをよけながら進むと、すぐに小さなグランドに出た。グランドでは小学生が野球をしていた。黒井はジャンパーを羽織ってベンチに腰掛けていた。黒井は哲郎に気がつくと、驚いて「あっ」と声をあげた。右手を吊っている黒井は左手で不器用に手招きして哲郎にベンチに座るように言った。
「いま、家にいってきた。ここやてきいたから」}
「ああ、家の中は狭くて気が塞ぐから。昨日はすまなんだなあ」
「もう、ええんか。けがは」
「ああ、歩くのは大丈夫や。腕はあと一カ月かかる」
「退学やってなあ」
 黒井の隣に座って哲郎は小さな声で話した。
「退学と違う。自主退学や」
「自分でやめたんか」
「ああ」
「なんでや」
「あの学校に何にも未練ないわ。俺はもうああいう生活いやや」
「どうするんや。ほかの学校に行くのか」
「まだ、決めてへん。一週間後に編入試験がある。二つうけてみる」
「あのな、僕先週の日曜日に六甲山に行ってきた」
「何しに」
「ああ、ちょっと気になったことあったから」
 黒井は怪訝そうな顔をした。矢口先生からそのことは聞いていないようだった。
「一人でか」
「まあな」
 哲郎は矢口先生に頼まれて行ったことを言いたくなかった。
「おれのことか」
「ああ、前に行ったことあったな、二人で、あんた落ちた近くに」
「そうやったかな」
「あんた、その時、ここから落ちたら死ねるやろうな、って言った」
 飛び立ったばかりの大きな旅客機が銀色の腹を見せて頭の上をかすめて行った。黒井が何か言ったようだったが聞き取れなかった。
「今度の事故、何かそのことと関係あるような気がしたから」
 黒井は少しの間黙っていた。
「もうすんだことや。あんたの推測通り死ぬ気やったけど、助かってみたら、そんな気なくなってた」
 黒井は怒ったように言い放った。
「矢口先生、何か言うたか」
「学校やめるなって」
 矢口先生が学校をやめるようにすすめたのではなさそうなので、哲郎はほっとした。黒井は独り言のように話しはじめた。
「おれ、ケガして家で寝てたら、中学の時の友達、何人か来てくれてな。みんなうちみたいに有名な高校行ってる連中と違うやつらや。学校の話きいたら、俺、なんやうらやましなってな。高校いかんかったやつもおった。みんないろんな生き方目指してるみたいやった。中学の時はおれ、まあしっかりしてた方やった。そやけど、見舞いにきてくれたやつ、どいつも俺をおいぬいて大きなってるような気がした。おれだけ縮んでるような気がした。なんで、俺こんなことで苦しまなあかんのや、死ぬくらいやったら学校やめたらええんや。ほかに生きていく道なんかいっぱいある。そう思うたわ。ほんまに」
「今から取り消したら学校にもどれるんと違うか。自分で選んだ学校や。もう一年で卒業や。頑張ったらどうや」
「俺あの学校もどったら、また変な気持になるかもしれん。それがこわくてな」 黒井は強く首を振った。
「もう、ええんや。もうすんだことや。訪ねてきてくれて、ありがとう、二年ちかくあの学校に通ったけど、おまえがはじめてや、あの家にきてくれたの」
 そう言って、黒井は折れた腕をギブスの上からさすった。もう少し黒井と早く話し合うことができれば退学せずにすんだのではないか。黒井に申し訳ないことをしたな、と哲郎は強く思った。
 
 
 
24
 
 
 
 職員室の入り口近くの席で、高木先生は一心に書き物をしていた。
「先生、これ、下見です」
 哲郎は、そう声をかけて原稿の束を机の端に置いた。下見というのは、新聞や雑誌の原稿をあらかじめ顧問の先生に渡し、顧問が内容をチェックをする制度で以前は点検と呼ばれていたそうだが、高木先生が顧問になってから下見という名前に変わった。高木先生からは原稿にクレームがついたことはなかった。先生は書類から顔をあげ、哲郎を見つめた。
「ちょっといいですか」
「ああ、いいよ。僕も君に話があるんだ」
 高木先生は、机の上にあった書類を引き出しにしまい、哲郎といっしょに職員室を出た。
 高木先生は先にたって玄関ホールの左手にある小さな部屋に入った。畳の敷いてあり押し入れもあって旅館のような風情があった。宿直の教師が泊まる部屋のようだった。
 高木先生の後に従って靴を脱ぎ、畳の上に上がると井草の匂いが鼻をついた。最近畳替えをしたようだった。
「黒井君のことだろう」
 部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルをはさんで座ると、高木はそう言った。
「ええ、彼のところにも行ってきたんですが」
「ああ、そう。そりゃよかった。よくいってあげたね」
 高木先生は、机の上に伏せてある湯飲みを二つひっくり返し、薬缶から茶をそそいだ。
「実は、僕、矢口先生に頼まれて、彼が落ちたところに行きました」
「ああ、その話は聞いたよ」
「職員会議で出たんですか」
「いや、そういう話は出なかった。矢口先生から直接相談をうけてね。矢口先生は私より三十も年上だけど、率直に相談してくれて、私も嬉しかったよ」
「あれ、ただの事故じゃないんです。黒井君にも聞きましたが」
「ああ、そのことは矢口先生も気がついてみえた」
「僕が、矢口先生を現場に案内したことが、何かよくない結果につながったかと思って気になっていたのですが」
「そんなことはない。黒井君の情況がわかって、それから手が打ちやすくなったからね」
「でも、黒井君は退学しました。手を打ったことが役に立たなかったんですね」
 いや、と言って、高木先生はゆっくりと首を振った。
「彼は、もう一度やりかけたんだ。あの後。今度は入院中の病院の屋上から。一週間後だね、耐寒登山の」
「ああ、そうだったんですか」
 哲郎は、事態の深刻さをあらためて思い知らされた。
「それで、彼、また怪我したんですか」
「いや、矢口先生があらかじめ病院の先生に彼の情況を伝えてあったから、病院も気をつけてたんだ。それできわどいところで防げたんだそうだ」
 哲郎は頭の中で日付けの計算をしてみた。耐寒登山があったのが水曜日、矢口先生といっしょに六甲山に登ったのはその週の日曜日、次の水曜日頃に黒井がもう一度飛ぼうとしたとすると、矢口先生は月曜か、火曜に病院に行ったことになる。あるいは、山からの帰りに病院に寄ったのかもしれない。すばやい対応だな、と哲郎は思った。しかし、黒井を家に訪ねた時には、黒井は二度目に飛ぼうとしたことについては一言も触れなかった。それに二度も自殺を試みた人間とは思えないほど落ち着いていた。
「退学は、黒井君が希望したとききましたが」
「ああ、そうだ。矢口先生は休学を主張して、黒井君を説得したらしいけどね」
「そうだったんですか。僕誤解してた」
「学校が、というか校長が、というか自殺をはかるような生徒を学校に残しておくことに反対だったんだ」
「退学になって孤独になったら、もっと自殺する可能性が増えるんとちがいますか」
「学校としてはね、K高校の生徒が自殺されては困るんだよ。退学していれば、元K高ということにはなるけど、現役のK高生が自殺するのとは、やっぱりずいぶんダメージがちがう、というのが学校の判断だ」
「そんな。ひどいじゃないですか」
 高木先生は苦しそうな表情になった。
「本人の強い希望、というのがやっぱり決め手だったなあ。皮肉なことにな、退学が決まってから黒井君の精神情況はうんとよくなってきたんだ。黒井君が怪我で入院していた病院は総合病院で精神科の先生もいて、その先生も黒井君と話をしたみたいだな。この学校にかかわる一切のものを自分から切り離したい、という欲求が一応満たされたということらしいけど」
 部屋の入り口付近に物音がして「高木先生みえますか」と中沢先生の声がした。
「はあい、いま行きます」
 と高木先生は大きな声を出した。
 
 
 
25
 
 
 
 新聞部発行の雑誌「K高校」が出来上がったので、その日のクラブ活動はお菓子をつまみながらの反省会になった。哲郎は、担当した「卒業生の言葉」と「新任先生の一年」の評判が気にはなったが、反省会に集中できなかった。黒井のことがやはり気にかかった。新聞部での活動の忙しさと面白さに夢中になって、黒井の存在さえ忘れていたが、それでよかったのだろうか。クラブに熱中して自分から離れていった友人を黒井は冷たい人間だと思っていなかったろうか。怪我をしても見舞いにも行かず、苦しみのさなかに相談にのってやることもなかった。友人の苦しみに寄り添うこともできない人間の作った新聞や雑誌にどれほどの価値があるのだろう。
「ねえ、卒業生の言葉は正直で面白かったけど、でも、もう少し気のきいた事はいえないのかねえ。前の学校じゃこういうもの書くときは、みんな絶妙なこというぜ」
 ふと気がつくと「卒業生の言葉」が話題になっていた。また、前のガッコウかよ、と南が舌打ちした。
「青山、そろそろ前の学校は卒業しらたどうなんや、きらわれるぜ」
 南が言うと、青山は 「悪うございました」 と言って舌を出した。
「あの、もう少し我々の生き方の根本を問うような企画が必要じゃないでしょうか」
 稲沢が遠慮がちに言った。
「例えば?」
 南はむっとした表情になった。
「ベトナムでは、アメリカがハノイやハイフォンへの空爆を開始しました。日本の沖縄がその発進基地になっています。あるいは、紀元節が復活して、今年から建国記念日として祝日になりました。非常に危険な動きです。そういうことにも何かコメントしなくていいんでしょうか」
「あくまでも学内のことでいきたいけどね、この部は」
 南は稲沢を見据えて言った。
「雑誌も出たし、僕らはもう解散だね。もう稲沢君たちの時代だよ」
 青山は稲沢の意見に賛成のようだった。
「じゃあ、今日はちょっと早いけど、これで終わろうか」
 南が言いおわらないうちに青山は鞄を脇にかかえドアに向かった。
 みんなが出て行ったので、部屋の中は急に静かになった。暖房がないので、寒さが体の中に染み込んできた。中庭にある木立をすり抜けてきた夕方の赤い光が、部屋の隅の壁を照らしていた。斜め上の天井から合唱曲が聞こえていた。ミサ曲なのであろうか、陰鬱な響きが途切れることなく続いていた。
 誰かと話したかった。話せるとしたら木下だ、と思ったが、木下は、弟が東京から帰っている、というので今日はクラブに参加していなかったのだ。
 矢口先生のところに行ってみようか、と哲郎は思った。懸命に黒井の休学を主張して、自分より若い校長から一喝され、しぶしぶ黒井の退学を認めざるをえなかった矢口先生が気の毒でもあり、何かいとおしくもあった。矢口先生はまだ職員室にいるかもしれなかった。しかし、哲郎は職員室でなく、家に行きたかったので、夕刻になるまでここで待ってみようと思った。
 哲郎は、鞄の中から英語の教科書と辞書を取り出し、明日の予習にとりかかった。
 
 
                  
26
 
 
 英語と数学の予習を終わると、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。風が出てきたようだ。校舎全体が唸りをあげはじめた。さっきまで聞こえていた陰鬱な合唱曲は、今は校歌の合唱に変わっていた。卒業式が近いので、練習しているのだろう。
 哲郎は机の上の教科書と辞書を鞄にしまい、電灯を消して部屋を出た。人気のない暗い廊下や教室には昼間と違う不思議な親密さが漂っていた。北の端にある新聞部の隣は図画教室、その隣は日本史、A組の教室があって、その先には講堂への大きな入り口があった。B、C、D組と教室が並び、地理の教室があって突き当たりが化学の教室だった。哲郎は静かな廊下を北から南までつっきり、化学教室の手前で左に曲り、スロープを降りた。この校舎は正面の吹き抜けのロビーの両側に回り階段があり、校舎の両端にはつづら折りのスロープがあった。スロープは階段とちがってひどく歩きやすかった。
 校舎の南側の出入り口から外に出ると突風が吹き付けてきた。襟巻きも外套も禁止されていたので、寒さを防ぎようがなかった。
 哲郎は通用門にむかって走った。昔の木戸のような小さな通用門をくぐって、学校の塀にそって歩くと、風はいくぶん弱まった。
 塀の尽きたとことろをさらに進んで、小さな掘割を超えて右に曲ると矢口先生の家があった。時計を見ると七時を少しまわっていた。食事の時間は避けたつもりだが、まだ少し早いような気がした。玄関の前に立ってブザーを押そうかどうしようか迷っているとき、かすかに家の中から矢口先生の声が聞こえたような気がした。はっきりとは聞き取れないが、数学を教えているような口調だった。
 哲郎はそっと玄関を離れ、学校への道にもどった。矢口先生がアルバイトで数学を教えていても、何も不思議はなかった。それがこの学校の生徒であれ、よその学校の生徒であれ、悪いことではないのだろう。それでも、哲郎は自分の知らない矢口先生の生活を垣間見てしまったようで胸がドキドキした。
 
 支線の終着駅に着くと、乗客は車両の出口に殺到した。肩や肘で小突かれながら、哲郎はやっとのことで電車から降りた。人の流れの中で、矢口先生のことを考えながら改札口に向かっていると、後ろから肩をたたかれた。
「今日は、遅いやないの」
 姉の峰子だった。
「ああ、ちょっとな」
「お父さん、心配するで、また」
「そうやろな」
 駅を出た時はおおぜいの人がまわりにいたが、商店街のはずれに来る頃にはあたりには人影がなくなっていた。
「成績、落ちたんやってな」
「ちょっとだけや」
 特に試験ができなかったようにも思わなかったのだが、二学期の終わりには学年で二十番近くまで来ていた席次がこの試験では五十番近くまで押し戻されていた。「やっぱりアルバイトがこたえてるんとちがうかしら」
「そうやろか」
「なあ、もうアルバイトなんかせんときな。お金なら、私だしてあげるから」
「ええよ、できるとこまで自分でやってみるわ」
「あのなあ、私、お父さんからたのまれてん」
「何を」
「アルバイトせんとけ、って言うてくれって」
「自分で言えばええのに」
「あんた、もったいないやないの、こんな時にアルバイトして、せっかく上がってきた成績下がるの」
「それはそうやけど、ちょっと成績がさがったらやめるいうのも、なんか根性ないしなあ」
「春休みもやるつもり」
「ああ、三年になったら、どうせできへんやろから、この春休みはやるつもりやけど」
「お父さん、ごっつう反対すると思うでえ」
 何とか、喜助を説得してもう一度アルバイトをしてみたい、と哲郎は思った。金のこともあったが、今度はアルバイトをしながら成績を上げることに挑戦してみたいと哲郎は思ったのだ。
 
 
27
 
 
 食事を終えて、一休みしてから社宅の風呂に行くと、もう男湯はすいていた。板で四角く区切った脱衣棚には一組だけ作業着と下着が乱暴に脱ぎ捨てられていた。その隣に服を脱いで、ガラス戸を開けると、汚れた湯の匂いが鼻をついた。女湯との仕切りは手をのばした位の高さしかないので、亭主の悪口をまくしたてる甲高い声と子どもの泣き声が、天井近くの空間を通してよく聞こえてきた。湯船の中には一人吉岡が太った体を横たえていた。
「おう、波多野のとこの坊やないか。元気か」
 吉岡は哲郎に気がつくと大きな声をだした。
「はあ、あの時はお世話になりました。でも珍しいですねえ、ここでお会いするのは」
「ああ、今日は工場の風呂に入りそこねたから、こっちにきたんや」
 工場の風呂は、地下の薄暗い通路をずっと奥まで入ったところにあった。哲郎も一緒に作業をしていた安さんに何度か連れていってもらったことがあった。工場のボイラーを使っているので、湯はじゃんじゃんと出ていてきれいだったが、作業で汚れた男たちの汗と垢の匂いが濃く漂っていた。最初に行った時、脱衣所で哲郎は思わず吐き気を催した。それでも、哲郎は安さんに誘われるたびにその風呂に行った。将来どんな職業につくかもしれぬ、これぐらいの風呂にはいれないでどうするのだ、と哲郎は思ったのだった。
 哲郎は、かけ湯をすると、湯船にそろそろと足をいれた。
「どうや、またアルバイトやるのか」
「ええ、そのつもりなんですが、どうも親父が」
「おやじさん、反対なんか」
「ええ、ちょっと成績がおちたりしたもんですから」
「そりゃ、親父さん心配するわなあ、それでこのごろ元気ないんかなあ」
「まさか、そんなことで」
「冗談、冗談」
「どうせ三年になったら受験でアルバイトできませんし、この春休みは稼いでおきたいんですけど。親父をどう説得すればいいかと思って」
 そうか、と言って、吉岡はザブザブと湯を滴らせて湯船から出た。吉岡の胸は厚く、腰まわりは気持ちのよいほど太かった。吉岡の頭髪はもう半ば白くなっているのに、胸に生えた硬そうな毛は黒々としていた。
「喜助さん、勉強に関係あるアルバイトやったら承知するかな」
「ええ、まあ」
 吉岡は、入り口付近に置いてあるプラスチックの小さな椅子を足で蹴飛ばして鏡の前に滑らせ、ヨイショと声をだしてその上に座った。
「K高行っとるんやったら、英語はようできるんやろな」
「どうなんでしょう、まあ、辞書引きながらなら何とか」
「そうか、設計の古井さんのところで外国特許訳せる人探しとったなあ」
 そんな難しいことが自分にできるかどうか哲郎は自信がなかった。しかし、英語の勉強になる、と言えば、喜助が承諾するかもしれない。吉岡はうまいことを考えるものだと哲郎は感心した。
「いっぺん、聞いてみたろか、設計の方に」
 吉岡は鏡の頭に石鹸をこすりつけはじめた。
「ご迷惑じゃないでしょうか」
 哲郎は、この前の将棋のことがあったので、吉岡が工場の中でそんなに顔がきくとは思えなかったのだ。
「まあ、あかんかもしれんけど、物はためしや。それに喜助さんが怪我したことやし、会社も黙ってみてるわけにいかんやろ。よし、頼んでみてやる」
そう言って、吉岡は勢いよく頭にお湯をかけた。哲郎は喜助が吉岡に近づくな、と言っていたことを思い出した。吉岡がアルバイトのことで自分の家を訪ねてきたりしたら喜助が怒るだろうな、と思った。
 
 
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 その日、学校から帰ると、台所で食事の支度をしていたキヨが「手紙が来ている」と告げた。自分の部屋に入って机の上を見ると、端が黄色く変色した封筒が置かれていた。差出人は黒井だった。哲郎は引き出しの中から挟みをとりだし封を切った。
 横書きの便箋二枚にボールペンで書いた乱暴な字が並んでいた。哲郎は仰向けになって便箋にゆっくりと目を走らせた。
「波多野君、この前は二度も家に来てくれてありがとう。とても嬉しかったです。母もとても喜んでいました。
 昨日、大阪の私立学校から編入許可の通知が来ました。実は、この市の公立高校の編入試験は二つともだめでした。もうその時は、高校に行かなくてもいいような気持になっていたのですが、矢口先生が大変心配され、先生の山口時代の教え子が先生をしている大阪の学校を紹介してくれました。その上、その学校の編入の準備のため、試験直前には私を家に呼び、数学の勉強を見てくれました。
 もし、矢口先生があの家で私に教えてくれた時のような親密な心をいくらかでも在学中に私が感じ取ることができたならば、こういう結果にならずに済んだのかもしれません。
 先生の教え子が教頭をしている学校だったので、矢口先生は編入試験の内容をあらかじめ聞いていて、その内容を私に教えてくれるのかと思い、少し複雑な思いはありまあした。でも、実際の試験は、矢口先生の家でやった問題と全然違いました。それよりずっとやさしい問題でした。なんだかほっとしました。」
 ほう、矢口先生もやるもんだ。木下も言っていたように本当は生徒思いの優しい先生なのだろう、と哲郎は思った。哲郎にふと思い当たることがあった。黒井のことが話たくて矢口先生の家を訪ねた時、数学を教える矢口先生の声が聞こえて、哲郎は家に入らず引き返してきた。あれは黒井に数学を教えていたのだろうか。そうとは限らないが哲郎はそうだと思いたかった。哲郎は寝転んだまま便箋を繰った。
「僕は、これから、K高校にかかわる一切のものを自分の心から締め出したいと思っています。そう思うことでようやく心の平静を保っているのかもしれません。でも、それは簡単にできることではありません。壊してもこわしてもつきまとってくるもの、これと私は一生闘い続けなくてはならないでしょう。それを思うと少しうんざりします。
 入院やら何やらで金がかかった上、編入でも入学金が必要だったので、私の家はいま借金をしています。それで、この春休みはさっそくアルバイトをしようと思います。幸い今度の学校は、みんなアルバイトをやっているみたいで、学校も黙認しているようです。
 君に手紙を出すのもこれが最後になると思います。K高でのつきあい、本当にありがとうございました。」
 
 字が乱れているのが、哲郎には気にかかった。K高校に入った時から、哲郎たちは字をきれいに書くことをやかましく言われた。答案の字が汚いと受験の時損をする、という趣旨らしかった。哲郎も中学時代の癖のある乱暴な字から、きれいな素直な字に変わった。字をきれいに書くということが精神の緊張を要し、それが思考を助けることも経験した。黒井も哲郎に負けないくらいきれいな字を書いていた。今、哲郎の目の前にある文字は、黒井が書いたとは思えぬくらい乱暴なものであった。あの筆致をわざと壊しているのだろうか、と哲郎は思った。
 気がつくと、キヨが部屋の入り口に立っていた。哲郎は手紙を畳の上に置き、体を起こした。
「どうしたん、お母さん」
「あのな、昼間、庄一さんがきやってな」
 キヨは濡れた手をエプロンでぬぐい、ポケットから皺になった小さな紙切れを取り出した。
「おまえ、何かたのんだのか、庄一さんに」
 キヨは心配そうに言って、紙片を哲郎に渡した。
「ああ、アルバイトのこと」
「お父さんがどう言うかのお」
「なんとかするわ、僕が」
 おい、帰ったぞ、と玄関の方で声がした。キヨはびくっと体を震わせ、あわてて部屋を出て行った。
 部屋の襖をきちんと閉めてから、哲郎は机について吉岡が届けた紙を広げてみた。大きな体に似ないかわいい文字が並んでいた。
「この間の件、OK。設計の石川という男を一度訪ねてみること。喜助さんには古井さんのところで外国特許の勉強を兼ねてアルバイトする、と言うこと。僕は今日もこの前と同じ時間に社宅の風呂に行くので、もしわからないことがあればその時。」
 ありがたいことだ、と哲郎は思った。しかし、石川という人は知らない。吉岡の紹介だと言えばいいのだろうか、それとも吉岡の名前は出さない方がいいのだろうか。もう一度吉岡と会った方がいいような気がした。それにしても、吉岡が夜、この家を訪ねてこなかったのは、喜助が吉岡と哲郎との接触を嫌っていることを見越してのことだろうか。とにかく、今日は遅い時間に風呂に行ってみよう、と哲郎は思った。
 
 風呂は、やはりすいていたが、脱衣棚には三人分の衣服が脱ぎ捨てられていた。
「こんばんわ」
 と声をかけると、「おう」と返事をしたのは鏡にむかって髭を剃っていた体格のよい中年の男の方だった。その男の隣で頭を洗っていた吉岡は軽く頷いただけだった。中年の男を哲郎は見たことがなかった。男は頭が小さくて肩幅がひろく、体つきには、何か激しいスポーツで鍛えたような精悍さがあった。男は洗面器の湯をすくって口に入れ、目を白黒させながらがらがらと音をたててうがいをし、口の中の湯を勢いよく溝に吐き捨てた。
 湯船には、これも哲郎の見たことのない老人が入っていた。哲郎が湯船に入ると、おとなしそうな老人は黙って頭を下げた。老人は髪を短くしていたが、その髪はもう真っ白だった。顔には黒いシミが張りつき、細い腕には血管がみごとに浮き出ていた。
 吉岡は哲郎の方を見なかった。おそらく、この二人のうちのどちらかが、吉岡にとって危険な人物なのだろう、と哲郎は思った。
 精悍な体つきの男が、手拭いを腰に巻き、首を左右に振ってコキ、コキとならしながら出て行くと、吉岡は哲郎の方を向いてにっこりと笑った。
 老人が湯から上がり、よろめくように出て行くと、吉岡は手招きした。
「やあ、すまなんだなあ。あいつ、自衛隊あがりで、ちょっと危ないやつやから」
 哲郎が、吉岡のとなりの椅子に座ると、吉岡は入り口の方を気にしながらヒソヒソ声で言った。
「老人とちがう方?」
「ああ、そや。じいさんの方は、こんど横浜からきた男の家族や」
 吉岡は石鹸をつけた手拭いを長く伸ばし、背中に回してせわしなく斜めに動かした。
「手紙、ありがとうございました。母からもらいました」
 脱衣所から人の気配がなくなってから、哲郎は礼を言った。
「おう、あれは、うまいこといってなあ」
「それで、守衛所で石川さん、言うたらわかりますか」
「ああ、わかる」
「石川さんのところに行ったとき、吉岡さんの紹介や、いうたらよろしいのん」
「そやなあ」
 吉岡はちょっと考える様子を見せた。
「まあ俺のことは言わずに波多野の息子や、言うといたらええやろ」
「わかりました」
「それからなあ、喜助さんに話す時は、必ず古井さんの名前を出すんやぞ。そしたらきっとうもういく」
「なんでですのん」
「古井さんは、大学を出た博士さんで、空気バネの権威や。喜助さん、そういう人にえらい憧れがある。坊が古井さんのところで働く、いうたら、きっと頷く。しかも外国特許の翻訳や。息子の将来に何か役に立つと思うやろ」
「ああ、そうですねえ」
 吉岡はよく父の心を見抜いているな、と哲郎は思った。
 
 
29
 
 
 その日授業が終わってから、哲郎たちは神戸の三宮にでかけた。新聞の版組みと印刷をやってもらっているK新聞社で最終のゲラのチェックをするためだった。今回の新聞は練習ということで部長の南が指導し、一年生の稲沢と同じ市にある中学部の三年生が中心になって作ったのだが、最終のチェックだけは哲郎たち二年生も手伝おうということになったのだった。
 哲郎たちがあてがわれたのは、広い編集室の隅っこにある小さな机で、青山と哲郎と木の下が一つの机、南と稲沢と中学生二人が少しはなれたところにある別の机についた。
 薄緑色のザラ紙に印刷されたゲラを赤いボールペンで校正すると、時折係りの女の人がそれを取りにきた。次の原稿がくるまでの間は暇になったが、そうなると青山は決まって席をはずした。
「青山のやつ、どこへいくんや」
「あいつ、新聞社の中、あちこち覗きまわるってるんだと思うよ」
「何の用があって」
「あいつ、新聞記者になりたいんだよ」
「ああ、そうなんか」
「それで、将来にそなえてるっていうのかなあ、まあ見学してるんじゃないのかなあ」
「そうか、あいつ物知りやから向いてるかもしれんなあ」
 ひじ当てのついた作業衣をきた初老の小柄な男が、新しくできたゲラを持って来た。何度も校正が続いたので直接版組みの作業をしている人が来たようだった。
「今度はちゃんとできとるおもうけどな」
 男はそう言って、数枚の緑色の紙を机の上に広げ、訂正箇所を指で確認した。
「すんません、えろう、お手数かけますなあ」
 哲郎がそう言うと、木下がびっくりしたような顔をした。 男が去ってから木下はひそひそと声をかけた。
「波多野、何かあったの。ひどく自然な声のかけかただったよ、労働者の人に」
「労働者の人はよかったなあ。まあ、ちょっとわけがあってな。僕の家はああいう人がたくさん出入りするから」
「それでも、前はそんなことなかったと思うけどなあ」
「最近、そういう人と話す機会が多くなったんだよ、急に」
 木下は、それでも不思議そうに首をひねった。アルバイトをしていたことを打ち明けるのはもう少し先にしようと思った。
「高木先生が倒れたって聞いたけど」
 哲郎はボールペンを走らせながら、話題を変えた。
「ああ、そうなんだ」
「いつ」
「おととい」
「何で」
「過労らしいな」
「組合が大変なんか、切り崩しとかそういうことで」
「大変は大変みたいだけど、切り崩しみたいなことはもうないみたい。学校もそういうことはできないと判断したみたいだね」
「ちょっと安心して疲れがでたんやろか」
「そうかもしれんな。組合もやっと一段落というところじゃないかな」
 興奮した様子で青山が走り込んできた。
「文化部、文化部」
「文化部がどうしたんや」
 哲郎は薄緑色のゲラの一枚を青山に手渡しながら言った。
「僕は新聞社に入ったら、絶対に文化部に行くよ」
「文化部でも、運動部でも行ったらええやないか。ほら、はよ校正やれ」
 青山はむっとした表情になってゲラに目をおとした。
「悪い、悪い。冗談や。将来の仕事が決まっとる人はええなあ。目標があって」
 青山は、目をあげ、文化部に行ったらうちの学校の先輩がいて話を聞かせてくれたのだ、と言った。
「前の学校の先輩はいなかったの」
 木下が笑いをこらえながら言った。
「いやだなあ、木下まで。悪いけどここはローカルな新聞社だよ。前の学校の先輩がいるわけないだろう」
 少し離れたところで長い髪をかきむしりながら原稿をかいていた若い男がこちらをじろりと見た。
「ローカルなんて言うからだよ」
 木下が押し殺した声で言った。三人は黙って校正の作業を続けた。
 
 
 
30
 
 
 家に帰ると、喜助が浴衣姿で居間に寝転がり、テレビを見ていた。テレビではキックボクシングの試合をやっていた。喜助は日本人のキックボクサーがパンチやキックをタイ人ボクサーに浴びせるたびに手を打ち歓声をあげた。哲郎は今日こそアルバイトのことを喜助に話さなければならない、と思った。
 哲郎が食事を終わるころに、二つの試合が終わり、二つとも日本人ボクサーがノックアウト勝ちした。後の方の試合ではダウンしたタイ人ボクサーは起き上がることができず、タンカで運ばれていった。
 喜助は上機嫌だった。哲郎は今しかチャンスがないような気がした。
「あのなあ、お父さん。僕、工場の古井さんのところに呼ばれてるんや」
「なんやと、古井さんに呼ばれてる?なんでや」
 喜助はフンと言って鼻毛をぬきはじめた。台所で食器を洗っていたキヨが心配そううにこちらを見た
「僕に手伝って欲しいことがあるって」
「なんのことや」
「春休みのアルバイトや、僕に来て欲しいって。外国特許の翻訳の仕事みたいや」
「ほう、古井さんがなあ」
 喜助は体を起こした。寝転がっていたため、はげた頭の側面に残った白い髪が跳ね上がっていた。喜助は肩幅が狭く胸が薄かったが、腹が出ていた。寝ている時はそれほど目だたなかったが、起きあがると、喜助の腹はことさらにせり出した。
「アルバイトに時間とられるのは許さんぞ」
 ちゃぶ台の上にあった湯飲みを引き寄せて、喜助はずるずると音をさせて茶を飲んだ。
「心配するな、金は峰子に出させる」
 そういう喜助の言い方が哲郎はたまらなく嫌だった。それにしても予想外の展開だった。吉岡に教えてもらったように簡単にはいかない。何か別の言いかたを考えなければならなかった。
「あのなあ、お父さん、僕もそろそろ進路決めんならん。たとえば同じ工学部でも機械にするのか電気にするのか建築にするのか、受験の時に決めんならん大学もある。自分が何に向いてるのか試してみんとあかんやろ」
「うむ、それはそうやが」
「古井さんのところは多分機械やろと思うわ、空気バネの設計やから」
「そうかもしれんが」
「それに、英語の勉強になるしなあ」
「入試に関係ないやろ、そういう英語は」
「このごろは、工学部はそういう技術的な英文も入試に出るらしいわ」
 嘘を言ってしまったなあ、と哲郎は後悔した。
「まあ、そういうことならええかもしれんな。そのかわり三月中だけやぞ。四月になったらやめるんやぞ」
 そう言って、喜助はまた寝転がった。
「ところで、何で古井さんがお前のこと知ってるんやろなあ」
 哲郎はドキリとした。
「そら、お父さんがあちこちで僕の自慢するからと違うか」
「それにしても、俺に話があってもよさそうなもんやが」
「まあ、ええやんか、そういうことは、とにかく僕古井さんとこで勉強したいわ」
「ああ、ええやろ」
「さっきの話は、お前、古井さんから直接言われたんか」
「いいや」
「誰から言われた」
 まずい、絶対に吉岡の名前は出せない、と哲郎は思った。
「風呂でおうたおっさんや。名前よう知らんわ」
 喜助は首をかしげた。
「お前、わしがお前のこと自慢するんで嫌がってるのかもしれんけど、この家の中にはお前以外に自慢できるものは何にもないからな」
 喜助はそう言って、寝返りをうった。
 
 
31
 
 
 終業式の日は形式的な式の後、担任の先生から事務的な連絡があって、すぐに教室の掃除になった。教室の掃除が終わると生徒は三々五々帰り始め、教室は急激に静かになっていった。三年になるとこの真下の教室にうつることになっていた。教室の造りは全く同じだが窓からの景色が少し変わるはずだった。この景色も今日が見納めだろうか、そう思って、哲郎は窓の外に目をやった。中庭の木々のむこうにガソリンタンクや赤白に塗り分けた煙突が小さく見えた。海岸に面した工場地帯のようだった。
 木下が哲郎のところにやってきて哲郎の前の席に逆向きに座り、哲郎と向かい合った。
「波多野、春休みは?」
「別に、普通や」
「僕、東京にいくんだ」
「弟のとこか」
「ああ、あいつちょっとおかしいんだこの頃。母親は仕事があるから、まあ僕が行ってやることになるんだけど」
「高校生か」
「ああ、一年生。年子なんだ」
「まあ、よう気付けたれや」
 哲郎は黒井のことを思い出しながら言った。
「ついでになあ、早稲田見てこようと思う」
 木下は恥ずかしそうに言った。
「早稲田うけるのか」
「そうなると思う」
「国立は」
「多分受けない」
「そうか、珍しいな、この学校にしては」
「国立は理科や数学があるからね。私立だけ狙う方が、うんと受かる確率が高くなるから。何がなんでも国立を受けさせるのは間違ってるんじゃないかなあ」
「それも高木先生の教えか」
「まあね」
 木下はちょっといやな顔をした。
「東大や京大に何人入ったって実績つくるために生徒をむりやりそういう学校に押し込めるんは間違ってるんじゃないか」
「まあ、そりゃそうや」
 哲郎は、学年末の進路指導でクラスメートが希望もしないのに農学部をすすめられたといって憤慨していたのを思い出した。
「そういう進学の方針も見直していかなきゃいけないな、って高木先生が言ってたけどなあ」
「組合が強くなると、進学指導の方針も変わるのか」
「それはどうなんだろう。さっきのは高木先生の個人的な意見かもしれないけどね。でもまあ、組合がしっかりしてたら、先生方も校長や学校側に遠慮しないでいろんな事が言えるから、オープンな議論のなかで物事がいい方向に進むんじゃないかな」
「まあ、そうかもしれんな」
 哲郎は先生方の組合の役割は給料上げたりそういう先生方の待遇改善が中心だろうと思っていたので、自分たちにも影響があるかもしれないと聞かされて新鮮な感じをうけた。
「明日出発する。本当は春休みに波多野とどっかにいきたかったのになあ」
「ああ、気つけてな。俺、明日からアルバイトや。工場で」
 哲郎は声をひそめた。
「すごい、波多野」
 木下は眩しいものを見るような目つきになった。
「黙っといてくれな、学校では禁止されてるさかい」
「もちろんだよ」
 木下は、そうか工場か、とつぶやきながら自分の席にもどった。
「しかし、何か気が抜けるね、クラブがないと」
「ほんまになあ」
 今朝学校新聞が出て、哲郎たちは名実ともに退部になった。新聞部の部室も、もう稲沢や新しく入ってくる一年生の溜まり場になっているはずだった。
「昼ご飯いっしょに食べようか」
「ああ、そやな」
 哲郎はそう答え、立ち上がって背伸びをした。
 
 
 
31
 
 
 哲郎のアルバイト先である第一開発設計室は、工場の東のはずれにある小ぢんまりした二階建ての建物の中にあった。冬休みに来た時には、哲郎はその建物の存在にさえ気がつかなかった。
 哲郎が与えられた二階の窓際の席からは、川の土手が見えた。土手の向こうには川の水がわずかに見えたが、近くに染色の工場でもあるのか、水は鮮やかな青い色をしていた。
 とりあえずこれを訳してみて、と言われた英文の特許を半日かけて訳し、古井のところに持っていくと、古井はざっと目を通し、ウーンとうなって頭の後ろで手を組んだ。
「おーい石川クーン」
 古井はひどく遠くにいる人に呼びかける時のような声を出した。設計図版に向かっていた石川がハーイと返事をしてゆっくりと近寄ってきた。石川は、吉岡が、「最初に訪ねろ」と言った男で、ここでアルバイトをするときの条件などの相談に親切に応じてくれた。
「あのな、石川君。波多野君にちょっと空気バネの原理を説明してやってくれんか」
 哲郎は、自分の訳がひどく悪かったのだと思った。石川は哲郎の肩をたたき、会議室に行っているようにと言った。
 哲郎が会議室で待っていると、石川が空気バネを両手に下げてあらわれた。石川は反動をつけて両手に持った空気バネを机の上に放り上げた。見ると、円筒形の空気バネが縦方向に切断され、中身がよく見えるようになっていた。二つの空気バネは種類が違うようだった。哲郎は提灯のような形をした方には見覚えがあった。冬休みに来た時に組み立てたものと似ていた。
「あっ、こっちは見たことがあります」
「ああ、そう」
 石川は、こっちはべローズ式で構造の簡単な方だと言った。石川はべローズ式を手にとった。出たりひっこんだりしてぎざぎざになった厚いゴムは石川が押し縮めると全体の長さが三分の一ほどになった。
「やってみい」
 石川がそういうので、哲郎もやってみたが、堅くて長さは半分くらいにしかならなかった。
「案外かたいもんやろ」
 そう言ってから、石川は今度は、もう一つの方を動かしはじめた。ダイヤフラム式と言うのだそうだ。ダイヤフラム式の方はシリンダーの出口とピストンの頭が厚いゴムの膜でつながれていて、ピストンがシリンダーに入ると外にはみ出していたゴムの膜がピストンとシリンダーの間の空間に引き込まれていった。シリンダーは気密になっていてその空間に溜まる空気がバネの役割をするのだ、と石川は説明した。
「すみません、組み立てたことがあったから、大丈夫や思うてたんです」
「いや、気にすることないわ。すぐ慣れるって。空気バネの原理ってそんな複雑なもんとちがうから」
 石川はちょっと待ってろ、と言って会議室から出ていった。哲郎はもう一度ベローズ式の空気バネを押し縮めてみた。やはり半分の長さにしかならなかった。
 すぐに帰ってきた石川は「空気バネの原理と設計」と書かれた冊子を机の上に置いた。著者は古井と石川になっていた。
「見かけは粗末やけど、この分野ではよう読まれてる本や」
 石川はそう言ってページを繰りはじめた。図の中には部品の名前が英語と日本語で書き込まれていた。これは役にたちそうだ、と哲郎は思った。
 
 
 
 
32
 
 
 その日、哲郎は仕事から帰ると黒井あてに手紙を書いた。もし体が空いていれば、哲郎の後に工場でアルバイトをしないか、というという内容のものであった。哲郎は外国特許の翻訳の方はほとんどやらず、今は計算の手伝いをしていた。哲郎の訳した特許は結局使い物にならなかったのだ。
 古井は、外国特許の方はゆっくりやれ、大学に入ってからアルバイトする時にでもきちんとできればいいので、当面文献を読んで理解するだけでいい、と言ってくれたのだが、それでは哲郎の気がすまなかった。
 石川に相談すると、石川は、じゃあ計算を手伝ってもらうかな、と言った。空気バネの設計には空気の圧力を受ける面責の正確な計算が必要であり、圧力によってゴムが変形するので、その計算はかなり複雑であった。計算尺では精度がでないし、卓上型の計算機はこのフロアにはなかったので、結局計算の大部分は手計算になった。
 哲郎は、石川の作った数式に数字をはめ込んで手で計算する仕事をもらった。哲郎の計算が早くて正確であることがわかると、石川だけでなく、そのフロアのあちこちから声がかかった。
 石川は哲郎が三月いっぱいでアルバイトをやめるのを残念がった。誰か友達がいたら紹介してくれないか、と石川は言った。哲郎はとっさに黒井のことが頭にうかんだ。数字の計算力では、黒井は哲郎よりも上だったからである。
 手紙を書いてをしまってからも哲郎は迷っていた。前の手紙で黒井は「君に手紙を出すのもこれが最後」と書いてきた。今はそっとしておく方がいいのだろうか、とも思った。しかし、アルバイトとしては、今の仕事ほど条件のいいところもそうそう見つからないような気がした。一日千五百円もらえるし、体がひどく疲れるわけではないので、帰ってから勉強もできる。黒井が進学を考えているのなら勉強する時間も取れる方がいいにきまっている。夏休みもアルバイトをするつもりなら、なおさらあそこは条件がいい。哲郎は黒井のために何かをしたかった。いや具体的には何もできなくても、自分が応援していると黒井に感じてほしかった。転校先でもいいことばかりではないような気がした。
「何でK高やめたんや」
「やっぱりついていかれへんかったんか」
「こんなことも知らんのか、ほんまにK高におったん?」
 そんなことばが浴びせられた時、黒井はうまくしのいでいけるのだろうか。誰かが黒井を応援してやらなければならない。中学時代の同級生がいるのかもしれないが、哲郎は自分も黒井を応援する一員になりたいと思った。
 散々迷ったが、哲郎は手紙を出すことに決めて、引き出しから切手を取り出して封筒に貼った。
 襖が開き、峰子が部屋に入ってくる足音がした。すぐに仕切に使われているカーテンの下から預金通帳が差出された。
「何、これ」
「見てよ」
 峰子はヒソヒソ声で言った。哲郎が手にとるとめくると黒い数字がびっしりと並んでいた。最後のページの差し引き残高は四十二万円もあった。
「あんたにあげる」
「いらんよ。結婚のために貯めたんやろ」
「結婚はせえへん、言うたやろ」
 峰子の声の調子がいつもと違っていた。
「自動車男とは結婚せんでも、別の男と結婚するかもしれんやろ」
「いいや、もう結婚はやめや。男に頼らんと自分で生きていく」
「何かあったん」
「自動車男がいきなり結婚してん、神戸のどっかのお嬢様と」
「ああ、そうか。あんまり好きでもなかったんやから、ええやないか」
「それはええんやけど、銀行の中で、ウチが捨てられたみたいに言われて」
 やっぱりショックだったのだろうな、と哲郎は思った。
「なあ、それほんまにあげるわ」
「いらんよ」
「お父ちゃんの怪我、やっぱり私責任あるし、そのせいであんたアルバイトして成績おちたら、うち、やっぱり苦しいやないの」
「わかった、わかった。あのなあ、高校の授業料はもう見通しがついたんや。アルバイトももうすぐ終わりや。それからは猛勉強や。大学入ってどっか下宿せんならんかったら、その時借りるわ」
 哲郎は、通帳をそっとカーテンの下から差し入れた。
「ウチ、男の人にもう頼らんわ」
 峰子はもう一度言った。
 
 
 
 
33
 
 
 四月に入ってから、哲郎は本格的に勉強に取り組んだ。英語は「アニマル・ファーム」という副読本の訳と英作の宿題、数学は学校で使っている「オリジナル数学」の予習、国語はあまり得意でない古文の文法の復習を中心にした。
 郵便物が配布される音が聞こえるたびに、哲郎は外に出てポストをのぞいた。黒井からの手紙がくるのではないかと思ったのだ。
 その日、ポストを見に行くと、哲郎あての葉書が二枚来ていた。黒井からかと思ったが、差出人を見ると、一通は木下、もう一通は矢口先生からだった。
 木下の葉書には、弟が良い方向に向かっていること、早稲田が断然気に入ったことが書かれていた。東京で青山に会ったとも書かれていた。青山は東京の予備校で講習を受けているようだった。
 矢口先生からの葉書には、黒井君のことでは大変世話になった。七日の六時頃家に来ないか、と書かれていた。
 部屋に帰った哲郎は二つの手紙を机の上に並べて頬杖をついた。あのちゃらんぽらんの青山もいよいよ予備校の講習にいくようになったのかと思うと、哲郎も負けていられない気がした。青山は将来の希望がはっきりしているし、木下もだんだん自分のやりたいことがわかりつつあるようだ。自分はどうなのだろう、と哲郎は考え込んだ。哲郎はアルバイトをした開発設計室のようなところが気にいっていた。活気があり、しかもどこかゆとりがある雰囲気が好きだった。おそらく石川は吉岡と関係のある人物なのであろう。しかし古井の片腕として立派に仕事をしている。開発設計という仕事はそういう事を許容する職種なのであろうか。哲郎は漠然とではあるが技術の開発のようなことに携わってみたい、と思った。
 矢口先生からの手紙の方は意味がよく分らなかった。黒井に何かあったのだろうか、それとも単にお礼のつもりで家に呼んでくれたのであろうか。よくわからないがともかく行ってみよう、と哲郎は思った。
 
 夕方、喜助はブスッとした顔つきで帰ってきた。いつもは帰るなりテレビのスイッチを入れるのだが、今日はあぐらをかいて腕組みをしたままだった。
「おまえ、特許の仕事はやらなかったそうだな」
 怒った時に出す高い声で喜助が言った。台所で汗だくになって煮物を皿に盛っていたキヨが哲郎の方を見て小さく首を振った。喜助がこういう声を出すときは逆らってはいけない、という合図であった。まずいなあ、と哲郎は思った。誰かが開発設計室での哲郎の仕事のことをしゃべったのだろうか、それとも喜助が聞きにいったのだろうか。
「ちょっと僕には無理やったんや。そやから、まあ、技術的な英語の勉強にはならへんかったけど、古井さんのところの雰囲気はわかったし、ええ勉強になったわ」
「K高校でもよう出来る子の英語が通用せんなんて、そんな馬鹿なことがあるのか」
「技術的なことがわかってないと無理なんだよ」
「あそこにおる連中はみんな大学を出た人間ばっかとちがう。おまえそういう連中の前で恥ずかしくなかったのか」
「そんなこと言うても、やっぱり特許の翻訳は難しいわ」
「とにかく英語の勉強にはならなかったんだな、アルバイトでは」
 哲郎は頷いた。
「きちんと仕事ができるようになるまで、もうあそこには行くな。俺に恥をかかすんじゃないぞ」
 喜助は乱暴に作業着を脱ぎ捨て、それを関節の欠けた手でつかんで部屋の隅にほうりなげた。自慢の息子の英語が通用しなかったことがそんなに悔しかったのだろうか。父の気持は分らぬではないが、こんな風に期待されるのは重荷だった。息子のことでなく、もっと自分のことや母のことを考えてくれないものだろうか、と哲郎は思った。
 
 
 
34
 
 
 甲子園駅の長い階段を降りて西側改札口に出ると、着物姿の矢口先生が立っていた。駅で待っているとは思わなかったので哲郎は驚いた。時計を見ると六時を五分過ぎていた。
「すみません、遅れて」
 哲郎の言葉に、矢口先生は頷いた。哲郎が矢口先生と並んでも、矢口先生は改札口の方をじっとみたまま歩き出そうとしなかった。哲郎は矢口先生が黒井を待っているのだと気がついた。
「黒井君もくるのですか」
「いや、来るかもしれないし、来ないかもしれない。一応時間だけは伝えたんだがね」
「もう少し待ちましょう」
「そうしてくれるかね。波多野君先に行っててくれてもいいがな。食事が用意してあるから」
 哲郎は首を振った。小さな改札口はもう人影が絶えていた。新しい学校での生活を前に、矢口先生が黒井を励まそうとして家に呼んだのだろうと哲郎は思った。
 やがて、電車の入ってくる音と入線を知らせるアナウンスが頭の上から聞こえてきた。小さな女の子を二人連れた母親とサラリーマンが二、三人改札口を通り過ぎただけで、通路はまたしんとしてしまった。
「行こうか」
 矢口先生は時計を見ながら行った。
「そうですね」
 黒井は来ないだろう、と哲郎は思った。
「君は歌がうまいそうだね」
 歩きはじめて少したってから矢口先生はそう聞いてきた。矢口先生の言葉に力がなかった。
「そんなことはありません。誰がそんなこと」
「黒井君がね。黒井君は僕の家に来た時、君のことをよく話していた。いっしょに校歌を歌ったことがあるそうだが」
「ええ」
 哲郎は、この学校に入ったばかりのころ、黒井と一緒に校歌を練習したことを思い出した。初めて高校の校歌を聞いた日の帰りの電車の中だったような気がした。著名な作曲家のつくったものだけあって、親しみ深い美しい曲であった。黒井も哲郎もその校歌がひどく気にいっていた。あのころは黒井もこの学校での生活に大きな夢を描いていたのだ、そう思うと哲郎は胸がしめつけられた。
 低い塀の向こうに広いグランドと校舎が見え始めた。
「波多野君、君、応援歌知ってるかね」
「ええ、武庫の原頭ってやつでしょう」
「ああ、そうだ。その歌、先生に教えてくれんか」
 哲郎は矢口先生が自分のことを先生と言ったことに不思議な感慨を持った。
 哲郎が「むーこのげんとう、くもはれて」と小さな声で歌うと、矢口先生はその後に続いた。案外素直な澄んだ声だった。哲郎は矢口先生が昔小学校の先生をしていたことを思い出した。オルガンを弾きながらこんな優しい声で小さな子どもに唱歌を教えたのであろうか。自分のことを「先生」と呼ぶことがあるのは、そのころの名残だろうか。
「でも、先生、何でこの歌を」
「ああ、一度歌ってみたいと思ってね」
 校歌とちがって、応援歌は公式の行事では決して歌われることがなかった。哲郎が耳にしたのも野球の応援や文化祭の後夜祭であった。そういうものにも参加して生徒といっしょにこの歌を歌うつもりなのであろうか。この人の中で何かが起ころうとしているのかもしれない、と哲郎は思った。
「この中を通って行こう、その方が近いから」
 学校の入り口に来ると、矢口先生はそう言って正門脇の小さな扉を開けた。門をくぐると夕闇の中に校舎がどっしりと聳えていた。教室の明りは全部消え、一階の職員室のあるあたりだけに小さな灯が見えた。明日から三年生になると思うと、漠然とした不安が哲朗の胸を翳めた。
 
  武庫の原頭、雲晴れて、健児の眉はかがやけり・・・
 
 黒井とは一度も一緒に歌うことのなかった応援歌を、哲郎はもう一度口にしてみた。
                                 (完)