夏休みの前日   
 
 貸切りバスの一番うしろの席で、僕は窓の外を見ていた。道に平行して走っていた鉄道がしだいに離れ、鉄道のむこうに見えていた夕方の海が古い家並にかくれてしまった。狭い歩道には日焼けした子供連れの海水浴客があふれていた。須磨のあたりなのだろう。
 バスの中がまたさわがしくなってきた。マイクを回して、しゃべったり歌ったりが始まった。僕は窓ガラスに額を押しあて、日が落ちて色彩を失いかけた街路を眺めながら、今日の出来事を思い出していた。
 
 その日は、夏休みの前日だった。いや、普通ならもう夏休みにはいっているのだが、この高校では、七月いっぱいは全員補習があって今日がその最終日なのであった。三時間目の数学が終わった時、僕は全身が破裂しそうな解放感を味わった。僕はぼう然としてしばらく席に座ったままでいた。四月に入学してから今日まで、毎日、毎日宿題に追われ、息つく暇もなかった。僕は中学までは勉強で人に負けるということをあまり知らなかったが、この高校に入ってからは授業についていくのが大変だった。中学と高校が一貫教育となっているこの学校に、僕は高校から編入したので学力差は歴然としていた。僕は学校が終るとすぐに帰宅し、毎日深夜まで勉強した。クラブ活動にも生徒会の行事にも一度も参加したことはなかった。友人とも遊ばなかった。とにかく無我夢中で勉強しているうちにあっという間に一学期が終ったという感じだった。
 人の少なくなった教室に評議員の田中君があらわれて、僕を高校野球の予選の応援に誘った。田中君の説明では、この学校の野球部は人数も少なく、監督も試合当日だけOBに頼むという状態だが、今年はくじ運もよく三回戦まですすんでいるという話だった。姫路までちょっと遠いが、学校の出すバスが二台あって、まだ席が余っているのだそうだ。僕はすぐに応じた。今日はまっすぐ家に帰る気がしなかった。
 試合は、八回に三点取って同点に追いつき、ひょっとして勝つのではないかと僕も胸がドキドキしたが、延長戦に入り、満塁にヒットを打たれてサョナラ負けとなった。残念ながら、同じクラスの本田君の出番はなかった。
 
 肩をたたかれて、僕は我に返った。目の前にマイクがつきだされていた。僕はなにをしゃべればいいのか思いつかず、口ごもった。前の方の席から、「歌でもうたえ」と声がかかった。すぐに思いつく歌もなく、困っていると、前の席に座っていた三年生らしい人が振向いて、「君、歌の一つも歌えんようでは、この先困るよ」と言って、鞄の中から歌集を取り出して渡してくれた。中学校で歌ったことのあるドライボーン(骸骨)という黒人霊歌を僕が歌いはじめると、前からも横からも歌声がおこり、しかも四部合唱になってしまった。合唱部の人たちが乗りこんでいたようだ。最後の連続した半音階を下がりきると猛烈な拍手がきた。
 窓の外はもうすっかり暗くなってしまった。バスは、街路樹のしげる住宅街にはいると頻繁に臨時停車して、生徒が数人ずつ降りていった。学校の裏手に到着した時、バスの中は、もうガラガラになっていた。
 バスを降りると、田中君が僕を待っていた。僕たちは肩を並べて歩き始めた。バスから降りた生徒の中には、近道をするために塀をよじ登り、学校の中に消えていく者もいた。学校の塀はなだらかに低くなって、やがて暗くひろがる運動場と、そのむこうに古い大きな校舎が見えた。職員室とクラブ室のあたりだけに灯がともっていた。
「学校慣れたか」
 田中君が澄んだ声で尋ねてきた。
「ああ、だいぶな。でも勉強はなかなかしんどいな」
「心配すんな、じき追いつくって。わからんとこは聞くんやで、中学から来たもんに」
 田中君は同じ学院の中学から上がってきた秀才だった。
「夏休みはどっか旅行行くのか」
「いや、予定ないわ。金もないしな」
 田中君は、ふうんとうなずいた。
「ずっと自分の家ばっかりにおって退屈やったら、僕の家に遊びにこうへんか。夏休みの前半は陸上部で毎日練習あるけど、後半は空いてるから」
 田中君はそういって、右手で槍投げのまねをした。
 駅の改札口で田中君と別れ、僕は神戸方面のプラットホームに出るため人気のない長い階段をゆっくりと登った。不思議な興奮が僕の胸に満ちてきた。