1
道を間違えたことに気がついた時には、夕暮れが迫っていた。引き返そうか、と思ったが、途中で暗くなることが怖かった。細い山道の先は明るく、開けた空間を予想させた。とにかくこの林を出てみよう、そう思って私は足を速めた。
案の定、じきに茂みが尽きて、その先は背丈の短い草に覆われた荒地だった。荒地の先は崖になっているようだった。一軒の小さな木造の家が荒れ地の縁にたっていた。家の前に誰かいるようだった。私は道を尋ねたいと思ってその家に近づいた。
庭で土をいじっていた小柄な老人が私を認め、大きな声を出した。
「育夫でねえけ」
老人は鎌を放り出し、駆け寄ってきた。
「育夫、やっぱりきてくれたのか」
そう言って、老人は私に抱きついた。私は驚いた。老人の身体から汗の匂いが漂ってきた。
「すみません、人違いです。私はこの山に登っていて道に迷った者です」
私は老人を押し返そうとしたが、老人は私の胸に顔を埋めたまま離れようとしなかった。
「私の名前は育夫ではありません」
私が言うと老人は顔を上げ、くるりと後ろを向いた。
「冗談言うでねえ。さあ、家に入った、入った」
そう言って、老人は畑にもどり、鎌や鋏を竹で編んだ籠に入れた。
「黒沢のバス停までの道を教えて欲しいんですが」
老人は舌打ちした。
「育夫、お前、来たばかりなのに、もう帰るつもりか。もうバスはとっくに終っとる」
老人は籠を背負って家の方に歩きはじめた。
バスがもうなくなっているのは本当かもしれない。私は時計を見た。もう五時を過ぎていた。山の案内書に四時半が最終と書かれていたのを思い出した。さて、困った。どうしよう。とりあえずこの老人の家に行くか。泊めてもらうことになるかもしれない。そう思って私は老人の後から歩いていった。
家の中は散らかっていた。老人はそれを気にする様子もなく、私を居間に通した。老人は、「今、食事を作るさけ」、と言って居間に接した台所に入っていった。居間の壁には表彰状が二枚かかっていた。一枚は市役所の永年勤続の表彰状でもう一枚は高校の成績優秀者の表彰状だった。名字は同じだが名前がちがっていたので、市役所がこの老人のもので成績優秀は息子のものだろう、と私は思った。
居間の窓を通して大きな湖が見えた。夕焼けの空を映して湖面は赤く染まっていた。私はその美しさに見とれた。左右の崖が真っ直ぐに伸び、だんだん低くなり、ずっとむこうではそれが水面すれすれに小さく見えた。刻々、湖面は色を変え、最後は暗い灰色になった。
「さあ、できたじゃ」
そう言って老人は両手に皿を持って居間に入ってきた。老人はテーブルに皿を置くと、今日釣った魚だ、と言った。私たちはビールで乾杯した。煮魚を口に含むと、生臭い匂いがたちまち口の中に広がった。私はポケットからティッシュ・ぺーパーを取り出し、老人の目を盗んで魚を吐き出した。今日釣ったものではないようだった。老人は気にならないらしく、さかんに箸を動かしていた。
私は山歩きに疲れていたので少しのビールで頭が朦朧としてきた。
ケータイの着信音が聞こえた。私はリュックのポケットから携帯を取り出した。妻からのメールだった。「母の調子がやはりよくないのでもう三、四日泊まります」と書かれていた。私は「どうぞごゆっくり、こちらも山で泊ります」と返事のメールを出した。
「病院からか」
老人が遠慮がちに訊いて来た。
「いえ、違います」
そう答えると、老人は安心したような表情を見せた。
「さあ、今日は疲れたろう、もう寝るじゃ。わしももう寝る。布団はとなりに用意してあるでな」
そう言って老人は部屋を出て行った。私は一人になるとほっとして、身体を横たえ窓の外を眺めた。空はもう暗くなっていたが、湖面は不思議な明るさをたたえていた。黒々とそそり立つ崖は張り裂けんばかりになって厖大な量の水を支えていた。月は見えなかった。湖面がかすかに光を放っているのは星明りが反射しているのであろうか。私は残りのビールをチビチビと飲みながら飽かずに湖面をながめた。ビールを飲みつくすと、私は電気を消し、這うようにして、居間の部屋続きになっている畳の間に向かった。そこにはカバーをかけた布団が敷かれていた。私は服を脱ぎ布団にもぐりこんだ。たちまち眠気が襲ってきて私は眠りに落ちた。
突然老人の部屋の方からバタン、バタンという大きな音が聞こえた。私は驚いて立ち上がり部屋に急いだ。布団からはみ出した老人の細い腕が畳を打っていた。枕元に点された橙色の小さな光の中に、苦しげに歪んだ老人の顔が浮かび上がっていた。
「大丈夫ですか」
私は心配になって声をかけた。老人の眉間には深い皴が刻まれていた。老人は目を開けた。
「あんた誰だ、どうしてここにいるだ」
老人は怯えたような声を出した。
「ここに泊めてもらっている者ですよ。あなたが育夫だと思っている」
「ああ、そうだ、育夫だった」
老人の顔は夕方見た時の穏やかな表情に戻っていた。すぐに老人の寝息が聞こえてきた。
あぶないところだった。そう思って私は部屋にもどり布団に入った。老人があのまま「誰だ」と叫び続けて警察でも呼ばれたら大変なことになる。私は目を閉じたが、胸がドキドキしていて眠りはなかなかやってこなかった。
窓から差し込む光がまぶしくて私は目が覚めた。台所で食器のぶつかる音がした。老人はもう起きているようだった。私は起き上がり下着のまま恐る恐る居間に顔を出した。
「育夫、まだ寝てれ、飯できたら呼ぶから」
老人の声には張りがあった。私はほっとした。夜中のことは覚えていないようだった。
朝食が終わると老人は今日は一緒にジャガイモを掘りに行くと言った。私はとまどったが、老人と悶着をおこすのがやっかいだと思ったので従うことにした。
2
空の篭を背負った老人の後について崖に沿って歩くと、すぐに山に向かう細い道があらわれた。老人は黙ってその道に入り込んだ。私が降りてきた道とは違うようだった。道はなだらかに起伏し、やがて目の前の斜面にジャガイモの畑があらわれた。老人は私に軍手と小さな熊手のようなものを渡した。
「さあ、やるべ」
そう言って、老人は肩から竹で編んだ篭をおろし、それを手に持って畑の中に入り込んだ。私も腕まくりして畑の中に入った。ジャガイモの葉はよく繁っていて私の腿のあたりまであった。
老人は私に、あれを採れ、これを採れと引き抜く株を教え、自分でも根本から引き抜いていった。綱引きのように力を込めて茎を引き抜くと、鈍い音がして根に連なって大きなジャガイモが三つと小さなものがいくつか土の中からあらわれた。生々しい土の匂いがした。
「土の中に芋が残っていることがあるでな」
老人は土の中を手でまさぐりながら私に向かって言った。私は「わかっています」と返事をした。子どもの頃、裏庭で作ったジャガイモ掘り出したことがあったのだ。小さな熊手で引き抜いた後の土を掻くと中位のジャガイモが二つ引っかかってきた。老人が慣れた手つきでジャガイモを掘り出す姿を私は美しいと思った。
二時間ばかりで、一つの畝をすっかり掘り尽くした。
「そろそろいいじゃ」
老人は立ち上がり、拳で腰を打った。老人は土の上に散らばったジャガイモを篭に入れはじめたので、私も自分の掘った分を集めて篭に放り込んだ。それがすむと、老人は葉のついたジャガイモの茎を集め畑の隅に積み上げた。
その日の夕食は二人でいっしょに作った。肉じゃがとポテトフライ、ポテトサラダにコロッケまでつくった。とれたてのジャガイモだったのでどれもおいしかった。
老人は上機嫌だった。明日は湖で魚釣りをしようと言った。
3
翌朝、私が居間に行くと、老人はテーブルの前でひどく暗い顔をしていた。私が向かいに座ると、老人は正座をして私を見据えた。老人の顔には一昨日の夜中に私が見た苦しげな表情があらわれていた。
「すまんことをした」
老人はそう言って頭をさげた。
「すまねえ、気がついていただ。いや、どう言えばいいだか。死んだ女房の話によると、俺は、ときたま正気にもどるのだそうだ。時々どうしようもなく辛く感じることがあるんだが、その時は多分正気にもどってるときなんだな、きっと。途切れ途切れにしか思い出せねえ。あんたは育夫じゃねえ。育夫は十年前に死んじまっただ。働きすぎたんだ。医者になったばかりだったのになあ」
「そうだったんですか」
私は声を潜めて言った。
「 悪かったなあ、俺がまたあんたを息子だと思いこむかもしれん。あんたをひきとめることがあるかもしれんが、その時は、かまわず振り払って帰ってくれ」
そう言って、老人はとぎれとぎれの声で。バスが来るところまでの道を私に教えた。
老人は立ち上がり、よろめきながら部屋を出ていった。私は心配になって少したってから老人の部屋に行ってみた。老人は布団の中で息をたてて眠っていた。私はあらためて老人の顔に見入った。素朴なやさしさに満ちた立派な顔だった。
私は居間に戻るとリュックの中から紙片を取り出し、お礼と別れの挨拶を書いた。老人が眠っている間にこの家を出てしまえば一番トラブルがないだろうと思ったのだ。
書き終えた手紙をテーブルの上に置き、荷物をリュックに詰めていると、「育夫」と叫ぶ老人の声が聞こえた。私は老人の部屋に急いだ。
老人は布団の中から愛おしそうに私を見つめ「水をいっぱいくれ」と言った。私は台所にもどりコップに水を満たして老人の枕元に引き返した。
老人はおいしそうに水を飲むと上半身を起こした。
「気分がよくなってきたじゃ。朝飯がすんだらいっしょに釣りに行くべ」
老人は空になったコップを私に差し出してそう言った。とても「帰る」とは言い出せなかった。まだ夏休みは三日あった。その三日をこの気の毒な老人といっしょに過ごそう、と私は覚悟を決めた。