犬が激しく吠えるので、私は庭に出てみた。ポロは裏山の方を見てさかんに吠えていた。私はポロをなだめながら、ふと誰かが裏山に来ているのではないか、と思った。ひょっとして、プロコピオスが帰ってきたのかもしれぬ、一瞬そう思ったが、そんなはずはない、と私は思い直した。プロコピオスは五年前に死んだはずだった。北部の山岳地帯の戦場で、胸を切られたプロコピオスが敵といっしょに橋から落ちて急流に流されていくのを確かに見た、と何人もの兵士が証言した。
人か獣か、とにかく見慣れぬものが裏山に来ているのは間違いないようだった。ポロは山の方を見ながら足踏みし、低い唸り声をあげ続けた。私は家に戻り、短剣を携えて畑を横切る道を急いだ。畑で働く数人の奴隷が訝しげに私を目で追った。
裏山に続く細い道が、尾根伝いになって見晴らしのよい場所に出ると、かすかに人の匂いがした。放浪生活を続けている者が放つ特有の匂いだった。だれかがここに居たのだ。注意深く辺りを見渡したが人の姿はなかった。しかし、ここから山を下るとすれば、私の家の裏庭までは一本道だ。どこかで出会うはずだった。だれかがここまで来て、また険しい山へと引き返して行ったのだろうか。
私は不審に思って尾根道を山奥へと歩き始めた。いったん薄れた匂いが再び私の鼻腔を刺激した。放浪者特有の匂いの奥に、かすかに懐かしい匂いがした。プロコピオスだ。兵舎の中で父のように敬い、親しんできたプロコピオスの身体の匂いを、私が忘れるはずはなかった。戦場で助けられたことも一度や二度ではなかった。プロコピオスに背負われて戦場からもどったこともあったのだ。
私は足を速めた。匂いはだんだん濃くなった。雑草に覆われて途切れるあたりまで来て、私は立ち止まった。藪の中に黒い人影が横たわっていた。
「プロコピオス、居るのか」
私は声を潜めて呼びかけた。
「サンドロスか、どうしてわかった」
藪の中からしゃがれた弱々しい声が聞こえた。声の方をよく見ると、やせた老人が草の上に横たわっていた。私は駆け寄りプロコピオスの傍に跪いた。髪も髭も白くなっていたが、プロコピオスの顔は相変わらず立派であった。
「生きていたんだな」
「ああ、何とかな」
プロコピオスは苦笑いをした。懐かしさに浸る間もなく、私の頭は鋭く働き始めた。生きていたということは、プロコピオスは戦場を放棄したと見なされるだろう。見つかれば最も重い辱めを受けるはずだった。
「なぜ、わしが来たとわかったのだ」
「犬が吠えたんだ。あんたに懐いていたポロが。特別に鼻が利く犬だからな。それで山にだれか来た、と感づいた」
「一人か」
「ああ、そうだ。心配しなくていい」
プロコピオスは頷いた。
「わしが生きていて、驚いたろう」
プロコピオスは恥ずかしそうに言った。
「ああ、てっきり戦場で死んだと思っていたから」
「わしを軽蔑しているだろうな」
「いいや、こうして会えてうれしい」
「そんなはずはあるまい」
プロコピオスはそう言って私から目をそらせた。
「言い訳はしたくない。だが、もし聞いてくれるならなぜ私が生き延びたか、話しておきたい」
「ああ、聞かせてほしい」
私は頷いた。プロコピオスは身を横たえたまま、喘ぎながら話し始めた。
プロコピオスは深手を負っていたが、自力で川から這い上がり森に入った。人目につく河原は危険だと思ったのだ。森の中で、一人の敵兵が火を焚きながら食事をしていた。この敵兵も川に落ちて流されたようだ。プロコピオスは敵兵を殺し、食料を奪おうと思った。プロコピオスに気がついた敵兵は、食料はやるから、闘うのはやめよう、と言った。敵兵も傷ついていたのだ。男は「誰もみていないのだから」と二度言った。プロコピオスはその言葉が気に入ったが、それでもどうしようかと迷っていると、辺りにただならぬ気配が漂い始めた。野犬の群れに囲まれたのだ。普段なら野犬の群れは戦いやすい相手だったが、深手を負っているプロコピオスは一人では闘えなかった。幸い大きな二匹を切り倒すと、残りの野犬は森の奥に逃げ去った。二人は倒した犬の肉を火で炙って食べた。
プロコピオスは、敵に感じてはならない連帯感のようなものをその男に感じた。男も同じ感情を持ったようだった。戦況がどうなっているのかも、周りにはどちらの軍がいるのかもわからなかった。二人は森に隠れ、傷が癒えるのを待った。
幸か不幸か、味方の軍は敗れて引き上げていた。男は、プロコピオスを気の毒がり、持っていた金全部と地図をくれた。平原を南に下ると海沿いに大きな町があり、そこはいろんな国から人が集まっているので怪しまれないだろう、と言った。プロコピオスは軍服を脱ぎ捨て、剣を捨て、闇にまぎれて大きな町にむかった。プロコピオスは、その町やもっと西にある大きな町で、人々の様々な生活を知った。自分の国のように、子どものころから兵士になることを義務づけられ、鞭打たれ服従を強いられるばかりの生活は異常だと感じた。そういう生活しか知らなかった自分の狭さが惨めだった。
「ここに帰ってくるつもりはなかったんだ」
プロコピオスは、私の方を見ないまま言った。
「しかしな、死期が近くなったのだろう。もう一度故郷の景色を見てみたいという思いが湧き上がってくるのをどうしようもなかった」
「ああ、それで、見晴らしのいいところまできたんだな」
私は、見晴らしのよいところにプロコピオスの匂いが残っていたことを思い出した。
「ああ、そうだ。あそこから私の育った家が見えた。お前の家も見えた。もう一度お前と会えたらどんなにいいだろう、と思った。そしたら、突然お前があらわれた。アポロンの神のお導きに違いない」
プロコピオスが呻くように言った。
「家の人を呼ぼうか。みんな元気だ」
私はプロコピオスの耳元で囁いた。
「いや、会わない方がいい。向こうが迷惑するだろう」
プロコピオスは首を振った。プロコピオスは結婚していなかったので妻も子どももいなかったが、兄の妻と甥がいた。兄はずっと前に戦争で死んでおり、家は甥が継いでいた。
「そろそろ、夕方の食事の時間ではないのか」
「そうだ」
私は顔を上げて日の位置を確かめた。兵舎での会食に出ないわけにはいかなかった。歳をとった兵士も結婚している兵士も全員が兵舎での共同の夕食が義務付けられていた。
「行ってくれ」
「ああ、そうする。またすぐ会いにくる」
プロコピオスは力なく頷いた。私は後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。
兵舎での夕食会もそこそこに、私は家にとって返し、パンと山羊の乳と葡萄を小さな籠に入れて家を出た。幸い月が出ていて道に迷う心配はなかった。私は不思議な思いを胸に山道をたどっていた。
プロコピオスの行動に理があるかどうか私にはわからなかった。敵兵と仲良くすることも、勝手に見知らぬ国へ行ってしまったことも、よくないことのように思われた。それにも関わらず、私がプロコピオスを好ましく思う感情は少しも変わっていなかった。プロコピオスが死んだと思った日から自分の中で凍り付いてしまった感情がまた生々しく溢れかえっていた。親子ほど歳の離れた兵士同士が親密な関係を築くのは、この都市国家の軍隊の中では珍しくなかった。戦争のたびに多くの兵士が死ぬので、本当の父や息子を失った兵士は自分の気に入った兵士をあるいは父と思い、あるいは息子と思った。その中でも私とプロコピオスの仲の良さは周りのものも羨むほどだった。
十八になって兵舎に入ってすぐに、私は夕食会の席でプロコピオスと出会った。私には父が居なかったので、父くらいの年齢の男に声をかけられると嬉しかった。プロコピオスは人好きのする陽気な男だった。特別に剣の腕前が凄いわけでもなく腕力が強いわけでもなかったが、人がいがみ合うのを仲なおりさせるのがうまかった。またプロコピオスは作戦を立てるのが上手で、よく隊長から相談を持ちかけられていた。プロコピオスは男らしい立派な顔立ちをしていた。
二十台の半ばになると、剣の腕は私の方が上になったが、実際の戦場ではプロコピオスは普段の何倍もの力を発揮した。私たちが十五年余に渡って父子のような関係を続けることができたのはプロコピオスが戦場で死ななかったからである。兵役は六十歳まで課せられおり、戦争の続いたその時期、無事に兵役を全うする者は少なかった。五十を過ぎると体力が衰えてくるので、戦場で死ぬ確率は格段に高くなったのだ。プロコピオスが戦場から姿を消した時、彼は兵役免除直前だった。
月の明かりを頼りに、さっきプロコピオスが横たわっていたところまできたが、人の気配が感じられなかった。声を抑えて「プロコピオス」と呼びかけても返事がなかった。どうしたのだろう、私は胸をドキドキさせながら、藪を手でわけた。ふと死臭が漂ってきた。
私は目をこらし、プロコピオスの身体を闇から見分けようとした。草の中に、白い手が二つ浮かび上がっていた。
「どうしたのだ、プロコピオス」
私は大きな声を出して白い手に向かって走り寄った。ハエどもが音を立てて飛び上がり、白い顔が辛うじて見えた。手をとるともう冷たくなっていた。
「遅かったのか」
私はそう言って籠を放り出し、プロコピオスを胸に抱いた。
プロコピオスはさっき私に会って自分を恥じていた。自分の行為のために昔のような親密な関係はもうすっかり失われたと思ったに違いない。そんなことはないのだ。
「今でもあなたを父のように慕い、心から愛している」
生きているうちにその一言が伝えたかった。私はプロコピオスを胸に抱いたまま呆然としていた。
月が翳ってプロコピオスの顔が見えなくなった。この遺骸を、プロコピオスと私の家が見える見晴らしのよい峰のどこかに、目立たぬよう埋葬してやろう、と私は思った。急がねばならなかった。私は緋色のマントを脱ぎそれでプロコピオフを包んだ。悲しいほど軽いプロコピオフの遺骸を抱いて私は立ち上がった。月が再び雲の間から顔を出し、草に埋もれた細い道を照らしだしていた。