校内球技大会  
 
 
 
 決めたと思ったが、功をあせって腕が縮んだのだろうか。ババンと二連銃のように音がして、僕の足が地面につくより早く、ボールが味方のコートに落ちた。ピピッと笛が鳴って、どっと喚声があがった。とうとう一点差に追いつかれてしまった。灼熱のコートのなかで、僕は後悔と緊張感のあまり異常な肌寒さを感じた。キャプテンの小山君はすかさず作戦タイムを取った。タイムといっても、とにかく落ち着いていこうと声をかけあうだけで、いまさら新しい作戦があるわけではない。目的は、続けざまにボイントを取られているゲームの流れを中断することにあった。
 決勝戦が白熱した試合になっているので、コートのまわりは黒山の人だかりである。相手の一組の応援団は優に二十人を越えていて、サイドライン際に集まった選手に氷水を使わせたり、レモンを食べさせたりしていた。僕のクラスは応援らしい応援もなかったが、二組や四組、それに一年や二年のものがさかんに声をかけてくれた。三年一組は、この校内球技大会で、六種目中四種目に優勝していて、総合優勝はもうまちがいなかった。各種目で一組に痛めつけられた連中が、心情的に三組を応援してくれているのだった。生徒にまじって、一組の担任の松田先生の顔が見えた。松田先生はルールがよくわからないのかさかんに隣の生徒に質問をしていた。
 予想外の苦戦だった。僕のクラスには、バレーボール部のキャプテンの小山君と、二年まで部にいた森君がいたし、僕はこの学校では部員ではなかったが、中学の時はキャプテンで、県大会で決勝まですすんだこともあった。一方、一組は、現役の部員は広瀬君ひとりで、決勝戦まで進んできたのが不思議なくらいだった。試合前の予想では、圧倒的にわが方が有利と思っていたのだが、いざ試合が始まってみると、一組にはすごく気迫があって、僕たちはてこずった。試合は第三セットにもつれこみ、さきに二十点取ったものの、じりじりと追いつかれ、ついに一点差になったのだった。
 試合が再開された。相手のサーバーはまだ広瀬君だ。気をつけなければならない。ジュースに持ちこまれるようなことになれば、そのまま押しきられる公算が強かった。
 変に回転のかかった重そうなボールが、ネットすれすれにはいってきた。「やられた」と思ったが、幸運にも、ボールは、レシーバーとして最も信頼のおける森君の守備範囲におちた。森君は、やや体のバランスをくずしながらも、正確に小山君の顔の位置にパスを返してきた。小山君は僕に「正面突破で行くぞ」と目で合図して、自分の頭の上に低くトスを上げた、しめしめ、チャンスだ。僕は素早く走りこんでボールに飛びつき、スナップをきかせて正確にアタックした。ブロックはなかった。こんどこそ決まったと思ったが、意外にも、ボールは相手コートのうしろの方で高々と舞いあがり、中継されてネットを越えてきた。何てしぶといやつらなんだろう。僕は憎しみというよりも恐怖のようなものを感じた。ボールは、レシーブに少し難のある三宅君のところに正確にやってきた。きちんと狙っているのだ。小山君は、やや前に出ながら、右手ですばやくネットの左端を指さした。僕は大きくまわりこんでアタックするため、いったんサイドラインの外に出て身がまえた。案の定、三宅君のパスは短かったが、小山君はしゃがみこんで巧みにボールの下に入りこんだ。長いパスが弧を描いて正確にネット際に落下してきた。三歩踏みこんで、僕は気合いをいれて飛び上がった。六本の腕が目のまえに壁のようにたちふさがった。それを外して打つことはできそうになかった。ええどうにでもなれ、そう思って僕はこん身の力を込め、壁のまんなかめがけてボールを打ちおろした。バシッと音がしてネットと腕の間に入りこんだボールが相手の体といっしょに落ちていくのが、スローモーションのようにゆっくり見えた。勝った、とうとう勝った。割れるような喚声があがって帽子やハンカチがコートに投げこまれた。急に目の前が暗くなり、僕は膝をついた。
 
 試合に出た者は教室に戻り、着替えをすませて帰っていったが、僕はもうすこし教室で休んでいくことにした。日頃やりつけない激しいジャンプで、左足がけいれんを起しかけていたからだった。僕は足を引きずりながら、風のよく入る窓の近くに席を移し、外を眺めた。たたきつけるような夏の陽射しのなかで、グランドではソフトボールの決勝戦がおこなわれているようだった。グランドのはずれの松林の上には、大きな入道雲が真白くもりもりと盛りあがっていた。
 廊下を通りかかった一組の松田先生が僕に気づいて教室に入ってきた。
「大活躍やったな」
「はあ、やっと勝たせてもらいました」
 松田先生は窓のそばにきて、右手で目の上に日除けを作り、グランドのほうを見た。一組の攻撃がなかなか終わらないところを見ると、大分点差がひらいているようだった。
「先生のクラスはどうして何でも強いんですか」
 僕は前から不思議に思っていたことを尋ねてみた。何でやろうな、とだけ言って松田先生は窓の方を眺め続けていだ。
 この学校にはクラス替えというものがなかったので、三年生にもなるとクラスに個性か出てきた。僕のクラスは個人主義が徹底していて、何かをまとまってやるとか何かを強制されるのを嫌う人が多かった。一人でこつこつ勉強するタイプが多くて、試験では、クラスの平均点はこれまでずっと学年で一番よかった。担任の中田先生は戦前は漢文の先生だった人で、もう七十を越える好好爺だった。まんまるい眼鏡越しに穏やかなまなざしを投げかけながら語りかける授業は、名物のようになっていたが、最近はとみに体の衰弱が激しいようだった。一組の方は、クラスの行事がさかんで、クラスの中にサッカーチームを作ったり、ハイキングに行ったりしているようだった。クラブに入っているものも多くて、クラス対抗の球技大会や合唱コンクールでは圧倒的な強さをみせた。勉強は三組、遊びは一組、と相場が決まっていたのだが、三年生になって様子がかわってきた。一組が勉強でも追い上げてきて、この期末試験ではついに三組を抜いたのであった。
 一組の攻撃が終わったところで、松田先生はかざしていた手をおろして腕をくんだ。
「一組はいろんなことやってるけど、どれも私がやりなさいといったもんやない。まあ、みんなで力をあわせて何かをやることはとても大切や、ということはいつも言うとるんやけどな」
「勉強の方も頑張ってますね」
「ああ、放課後、自分たちで教えあいやってるみたいやな」
 松田先生は、ハンカチを取り出し、発掘調査で日焼けした腕と首筋の汗をふいた。グランドの方から、ワッと喚声が聞こえてきた。試合が終って選手が二列に並んで挨拶をかわしていた。コールドゲームのようだった。
「先生、試合終わったみたいですよ」
「そうやな、ちょっと声かけてこようかな」
 松田先生は、教室の出口の方に歩きかけて、ふと立ちどまって振りかえった。
「中田先生には知らせてあるんか、バレーボールの優勝のこと」
「いいえ、もうお帰りになったみたいでしたから」
 そうか、と言って松田先生は引き返し、机の上に腰をおろした。
「中田先生も今年がこの学校の最後の年や、いわば君たちが最後の生徒や。お歳もお歳やし、授業だけでも大変なご様子やから、クラスのことは、クラス委員のもんがちょっと気つけとけよ」
「ええ、わかってます」
「事務室の電話、使えるように話しとくから、ともかく中田先生にお知らせしときなさい」
 そう言って、松田先生は立ち上がり、ゆっくりと教室から出ていった。
 静かな教室に勢いよく風が入ってきて、壁際の掲示物がいっせいに翻った。