県界尾根 |
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私がその父子を見たのは、八ヶ岳山麓にある山小屋の食堂であった。食事を終えた父と子は、ほの暗い明かりの下で地図を広げ、明日の登山のコースを確認していた。父親の方はもう五十を超えているだろう。髪には白いものが目立ち、顔は黒く骨張っていた。息子の方は、大学生が高校生か。色が白く、いかにも育ちのよさそうな若者であった。
私はその山小屋自慢のワインをちびりちびりと飲みながら、聞くともなしに父と息子の話に耳を傾けていた。息子の方が山の知識は豊富らしく、父親の方は、「じゃあそうしようかね」とか「その方がいいかね」と言った具合に息子の意見を尊重する様子で話していた。
私はその父子のことがうらやましくなった。私にも大学に入ったばかりの息子がいるが、私がさそっても山にいっしょにくることはないだろう。山でもスキーでも、父親よりも友人といっしょに行く方を断然選ぶだろう、と私は思った。このように親密に語り合うことも、もう私と息子の間ではなくなっていた。
私が食事をすませて大広間にもどると、もう明かりは消えていて、私はてさぐりで自分の布団をさぐりあて、その中にもぐりこんだ。傾斜の緩やかな山道を三時間ほど歩いただけなので疲れてはいなかったが、明日に備えて早く寝なくてはならない、と私は思った。
目がさめたのは夜中だった。あちこちから鼾が聞こえていたが、それとはちがううーむ、うーむという唸り声が部屋の隅から小さく聞こえていた。「静かにしなさい」という押し殺したような低い声がすると、しばらくその奇妙な音はやむのだが、やがてにまたうーむ、うーむいう音が聞こえてきた。「静かにしなさい」と言ったのがさっきの父親であり、奇妙な音を出しているのが息子ではないかと私は思った。
翌日、私は、まわりの人が身支度する物音で目が覚めた。あの父子のいたと思われる部屋の隅はきれいに布団がたたまれ、荷物もなかった。もう出発したようだった。私はその日の夕刻、人気のない県界尾根で再びその父子に出会った。硫黄岳に登り尾根づたいに横岳、赤岳と登った私は、相当体力を使い果たしており、赤岳山頂から滑り落ちるように続く険しい尾根を降りるのにひどく苦労した。長く続く鎖場がようやく終わり、いくぶん道の傾斜が緩やかになったところまできて、私は、父親が膝に手を当て、うつむいているのをみつけた。
「どうしました」
私が声をかけると、父親は振り向き、
「ちょっと膝をいためまして」
と言った。
「痛み止めの塗り薬なんかありますが」
「いや、大丈夫です」
父親はそう言って、ゆっくりと歩きはじめた。
「すみませんが」
父親は少し迷った口調になった。
「この先で息子が待っていると思います。すぐ行くから心配しないように言ってくれませんか」
父親はそういって顔をゆがめ、足を引き摺りながら歩く速度を早めた。私は、わかりました、と答え、林の中の道を急いだ。シラビソやダケカンバの林をぬけ、背の低い若木が多くなって周りが明るくなっても、私は息子に出会うことができなかった。道が笹に覆われはじめた。見ただけでは道はわからず、わずかに笹が窪んだところを進んでみると、その下に道が続いていた。道を間違えたのではないか、と私は思った。私が道を間違えたのかもしれないし、息子が間違えたかもしれない。そうだとすると父親はどっちの道をすすむだろう。引き返そうか、と思った時、目の前に小さな祠のようなものがあらわれた。道はもとの大きさにもどっていた。ほとんど傾斜のない明るい尾根道をたどると、数十本の倒木が骨のような白い肌をさらしている不気味なところに出た。そこに息子がいた。息子は、倒木の方にじっと目を向けうーむ、うーむと昨日の夜中に聞いた音を発していた。
「お父さんが足をいためて少しゆっくり、歩いてみえる。もうすぐ来るよ」
私がそう声をかけると息子は私の方を振り返り、黙ってうなずいた。私はもうすぐ来るといった自分の言葉が気になった。父親と別れてから私は三十分以上歩いている。平坦な道では私はかなり早く歩ける。あの父親の足では少なくともあと三十分はかかるだろう。途中の道で迷わないだろうか、もっと足がわるくなったら、どうするのだろう。もう日暮れが近かった。この先にはまだ急な斜面があるはずだ。私は、父親のところに引き返すべきだと思った。
私が、急ぎ足で引き返すと、父親はダケカンバの林の中を歯を食いしばって歩いていた。
私を見て父親は驚いたようだった。
「この先に道がわかりにくいところがあるものですから」
私がそう言うと、父親はありがとうございますといって頭を下げた。
「息子さん、大分先で待ってますよ」
「息子、様子がおかしかったでしょう」
「いえ、まあ、そうでもなかったですけど」
私は言いよどんだ。
「緊張したり、不安になったりすると、あれが出るんです」
父親は私の歩調に合わせようとしてぎこちなく足を運んだ。
「まあ、ああいう状態なんで、ほかに山に一緒に行ってくれる友達もいませんから。私、あんまり山って行ったことなかったんですけど。あの子が少しでも元気になればと思って」
私が手を差し出すと、父親はリュックを素直に渡した。
「もう学校にもいってませんしね」
父親はさびしそうに言った。
「オオイ、聞こえるか」
と父親は口に両手をあて大きな声を出した。返事がなかった。
「オオイ、聞こえたら返事をしろ」
父親はもう一度叫んだ。
「おとうさん」
小さいがはっきりした声が藪の中から聞こえた。息子が迎えに来たようだった。
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