おじいちゃんの競馬
 
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 歩行者専用となっている大きな通りには、大道芸人を取り囲んであちこちに人の輪ができていた。夏の終わりとは言え、日差しは肌を刺すように強かった。大通りの左手、ちょっとした空き地の奥に、日の翳った小さな通りが見えた。道の両側に古めかしい店が並び、店の前に出されたテーブルでビールを飲む客の姿が私を誘惑した。どこかでビールでも飲んでいこう、と思って私はその小路に入り込もうとした。
「だんなさん、馬か」
 空き地と道の境の縁石に腰を下ろした老人が私に声をかけてきた。すねの半ばまで隠れる半ズボンに運動靴、シャツは薄い緑色の半そでで、頭にはハンチングをかぶっていた。小柄でころっとした体の上に乗っている顔は見事に日焼けしている。白い色の新聞と赤いボールペンを手にしていた。何となく愛嬌のある老人だ。
「何ですか」
 私は老人に近寄り聞き返した。
「競馬だよ」
 老人は馬の手綱を前後するような仕草をして顎を大通りの方にしゃくった。大通りのはずれに場外馬券売り場の大きなたてものが見えた。
「いや、そういうわけじゃないんですが」
 私はそう答えたが、老人の目が私の小さな肩掛けバッグからはみ出ているスポーツ紙を見ているような気がした。
「あっ、これですか。プロ野球のひいきのチームが勝ったものですからうれしくてつい。いつもは買わないんですがね」
 私はスポーツ新聞に手をやってそう言った。いくつかのスポーツ新聞には競馬の情報が満載されている。それで老人は私が競馬をやるものと思ったのかもしれない。私がこの町にやってきたのは、小さな劇場で行われる芝居を見るためにであった。知り合いの娘さんが出演するということで招待券をもらったのだ。
「ちょっとお願いがある」
 老人は私の言葉が終わるか終わらないうちに切り出した。
「申し訳ないが、あそこで、馬券を買ってきてくれないか」
 老人は手にしたボールペンで場外馬券売り場の建物を指した。
「ええ、でも私、競馬なんかやったことないですし」
 私は、もちろん断ろうと思ったのだが、老人の哀願するような目つきが気になって気弱に答えた。
「金は今出す。手間賃も差し上げる。もし当たったら山分けにしよう」
 そう言って老人はポケットから取り出した札入れをから千円札を一枚抜いて私に手渡そうとした。
「こんなに近いんだから、ご自分で行かれたらいいでしょう、それとも足が悪くて歩けないというようなことなのでしょうか」
 私は札を受け取ってはいけないと思い、両手を後ろに回してそう言った。
「うん、あそこでちょっとトラブルがあって、今、いけないんだよ」
 老人は、昼から場外馬券売り場にいたのだが、レースの最中に隣で興奮して大声を出す男がいたので、耳を覆ったら、レース後にその男に襟元をつかまれた。振り払ったら喧嘩になり、二人とも馬券売り場から追い出されたのだ、と言った。大人しそうに見えるが案外血の気の多い人なのかもしれない。
「見知らぬ人をそんなに信用していいんですか、私が持ち逃げしたらどうするんですか」
「だんなさんがそんなことしない人だ、というのは、私にはよくわかる。伊達に八十年近く生きてきたわけじゃない」
 そう言われると私は悪い気持ちがしなかった。実際、私は人のよさそうな顔をしているのか、よく道を訪ねられたり、観光地では写真を撮るのを頼まれたりした。
「さあ、あんまり時間がないんだ。○○競馬のメインレース、8番が先頭、11番が二着それを馬単で五百円分買ってほしい。これは当たる、ピンと来た。それと同じ一着二着に5番、6番、10番で三連単のフォーメーション」
 老人は勢い込んでそう言った。
「私、競馬やったことがないんで、よくわからないんですが」
 私が言うと、老人は頷き、胸のポケットから紙のカードを取り出して、赤いボールペンで印をつけ始めた。
「さあ、これを持って行って、機械にいれればいいんだ。二階から六階までに売り場がある。簡単だ。余った金は手数料だ。レースも見てきてくれ」
 そう言って、老人は二枚のカードと千円札を私の手に押し付けた。
 
 
 
 
 金を受け取ってから、私は奇妙な恐怖感におびえた。これは新手の詐欺ではないか、と。外れたといって帰れば、自分の頼んだのと違う券を買った、弁償しろと言われるのではないか・・・しかし、老人の実直そうな眼差しを思い浮かべ、私はそういう考えを頭から振り払って足を速めた。
 場外馬券売り場は、六階建ての大きな建物であり、一階は人が少なかった。私はエスカレーターで二階に上がった。そこは人であふれていた。
 発売の締め切りがせまっているのか、大型テレビで掛け率の速報を見ていた男たちが急ぎ足で部屋の端に並んだ機械にむかっていた。私も走るように券売機に向かった。
 金を入れて一枚カードを差し込むと馬券が出てきた。もう一枚のカードを差し込むとまた馬券が出てきて一番下のトレイに百円玉が二個落ちてきて音をたてた。
 券を買い終えて、私はほっとしてあたりを見渡した。二百人はいるだろうか。ほとんどが男の老人だ。杖をついている人もいる。足を引きずって歩いている人もいる。八十を過ぎているのではないかと思われる人も大勢いる。老人たちはいくつかある大型テレビの前に移動して、画面を見つめはじめた。やがてレースが始まった。
 出走直後には小さな声でぶつぶつ言っていた老人たちは、競走馬が第四コーナーを回って直線に入るといっせいに大きな声を出しはじめた。
「逃げろ」とか「差せ、差せ」と叫ぶ声が前からも後ろからも聞こえてきた。「そのまま、そのまま」という声も聞こえてきた。「ぶったたけ」と乱暴な声も耳に届いてききた。先頭を走っていた11番をゴール寸前で8番の馬が抜き去った。当たった。さっきのおじいさんの予想は当たったのだ。三着は、1番の馬が来たので、三連単と書かれた馬券の方ははずれとなった。大声を出していた老人たちは、何事もなかったようにもとの静かな人にもどっていた。「惜しかったな、もう少しだったのに」と言って外れた馬券を仲間に見せている人もいた。
 私は、一刻も早く老人のところに行って馬券を渡してあげたかったので、そのフロアを出て下りのエスカレーターに飛び乗り、エスカレーターの中を急ぎ足で下った。
 老人ははさっきの場所で新聞を読んでいた。私は声をかけて隣に座り、手にした二枚の馬券を差し出した。
「こっちをは当たっていました。こっちの方は三着に1番が来たのであたらなかったようです」
 私の言葉に老人は頷き「1番は予想外だったな。やっぱり三連単は難しい。しかし馬単が5枚分当たったから、今日は上出来だ」と嬉しそうに言った。
「ついでと言っちゃなんだが、この当たり券を清算してきてもらえないだろうか」
 老人は遠慮しながら言葉を続けた。
「券を買ったところでいいんだ。機械が二種類あって、発売専用のやつと払い戻しもできるやつがあるから、払い戻しもできる方にこの券を入れると現金が出てくる」
「そうですか、いいですけど、私が金を持ち逃げすること心配じゃないですか」
 私がそう言うと、老人は
「だんなさんがそんなことをする人じゃないってことはよくわかるから」と
とさっきの言葉を繰り返した。 
 私は老人から当たり券を受け取り場外馬券売り場に向かった。
 
 金を持って再び老人のところに戻ると、老人は拝むような仕草をして金を受け取り、その中から千円札を五枚抜いて私に渡そうとした。私が頑なに断ると、老人は「じゃあ、いっしょに食事をしよう」と言って立ち上がった。
 
 
 
 
 大通りの外れにあるトンカツ屋はおじいさんのなじみの店のようだった。
「大将、今日はこれですか」
 店の主人はそう言って、懐に金を入れる仕草をした。老人は「そうだ、ガッポ、ガッポだ」と言って嬉しそうに笑った。
「何がいいですか、飲み物は」
 そう言って老人は机の上に置かれたメニューを開いて私の方に向けた。
「じゃあビールで」
「食べ物は」
「普通のトンカツで」
 私がそう言うと、老人はカウンターの向こうにいるマスターに「ビール日本。トンカツ定食二つ」と声をかけた。 
「長いんですか、競馬は」
 私が訊くと、老人は首を横に振った。
「若いころからやってたわけじゃないよ」
「そうですか」
 私は意外な気がした。老人になっても競馬をやっている人は若いころから競馬に凝っている人ではないか、と思ったからだ。
 ビールがやってきたので、私は瓶を手取り上げると、老人が私の手からビール瓶を取り上げた。老人は私のコップにビールを満たし、自分のコップにもビールを注いだ。
「この十年くらいだよ。ほかにできることがなくなったから」
 一口ビールを飲んでから老人はそう言った。  
「儲かるものなんですか、競馬って」
 私が問うと、老人は首を傾げた。
「どうなんだろうね。よく研究して競馬場に行って実際に馬を見たり、資料なんかを集めることができる人は儲かるのかもしれんな」
「そういうものですか」
「あの馬券売り場に来ている連中の多くは、本格的に研究しようなんて思ってないです。そんな余裕のない人たちだから。安いスポーツ新聞を買って、それに書かれてるいいかげんな予想で馬券を買うんだよ」
「そうですか、やっぱり競馬も余裕のある人が勝つんですね。貧乏な人はお金を捨てさせられているようなもんですね」 
「そうだね、でもね」
 そう言って老人は急にしんみりとした口調になって
「ほかに楽しみのない孤独な老人が多いんだよ、あそこには。そういう老人にとってはたった一つの生きがいみたいになってるんだよ競馬が。一レースに百円だけかけている人がけっこういるよ」
 と呟いた。
「それからね、もしかして三連単なんかで大きな万馬券が当たったら、今の生活から脱出できるかもしれん、なんてかすかな希望があるんだ。そういうわずかな望みが、絶望的になったり、ひどく弱気になって落ち込んでしまうのを防いでくれているのかもしれんな。私の場合はそうだよ。家族もなく、家もない、寂しい生活だからな」
 老人はそう言って残っていたビールを飲み干した。私はビール瓶を手にして老人のコップにビールを満たした。
 トンカツ定食を盛った盆を両手に持ったマスターがやってきた。老人はトンカツにたっぷりソースをかけ、うまそうに食べ始めた。老人の食欲は旺盛だった。
 トンカツを食べ終わり、二本目のビールを飲み干したので、私は帰ることにした。
「私はこれで帰ります、どうぞごゆっくり」
 私はそう言って立ち上がった。老人は頷いた。私は老人に気づかれないようにレジですばやく二千円を差し出した。マスターは意味ありげに頷いた。 
 店の外でどちらに行けばいいのかと思案しながらゆっくり歩いていると、老人が追いかけてきた。
「俺に恥をかかせないでくれ」
 老人は強い調子でそう言って私のポケットに千円札の束をねじ込んだ。
通行人がこちらを見ていた。老人は本気で怒っていた。私は、場外馬券売り場でこの老人が喧嘩をしたという話を思い出した。金を返すことはできそうになかった。
「じゃあ、このお金でもう一軒行きませんか」
 私は老人の怒りをおさめようとしてそう言った。老人は迷っているのか、私の問いに答えずに歩きだした。私は老人の後を追った。
「うん、いいんだ、今日はもう飲まない、明日仕事があるからな」
 私が肩を並べると老人は穏やかな調子でそう言った。
「まだ仕事をしてみえるんですか」
「食えないからね、働かなきゃ。年金なんかスズメの涙だ」
 バスの通る大きな通りに出ると、老人は「俺はこっち。だんなさんはたぶんこっちだな、地下鉄があるから」と言って道の右を指差した。
「お近くですか、お住まいは」
「うん、この道をまっすぐ北に行くんだ。二十分くらいかな」
 そう言って老人は少しふらつく足どりで歩き始めた。私は心配になり、老人が視界から消えるまで見送った。私はふと、老人の行く方向には、日雇い労働者が寝泊りする広大な地域が広がっていることを思い出した。