太り気味の騎士  

 
 湖の渡し場に出迎えた私は、その騎士を見て意外な気がした。私の想像していた男とずいぶん違っていたからだ。騎士は、ザンクト・ゴッドハルト峠への道の安全を確保する目的で建設されつつある塔の工事監督官としてやってきたのだが、ハプスブルグ家から派遣されてこんな山奥にやってくる貴族は、大きな失敗をしたか、よほど取柄のない男だけだった。この騎士も、王家の末娘をかどわかした罪により罰をうけてこの谷にやってきたと噂されていた。五十をいくつか過ぎていると聞いていたので、よほど女好きの脂ぎった男かと思ったが、私をねぎらう陽気な騎士は太り気味ながらどこか清々しい雰囲気を漂わせていた。日に焼けたふくよかな丸い顔に笑顔がよく似合っていた。
 太り気味の騎士は立派な黒い馬から降りて、その馬を牽いて船に乗り込んだ。馬は主人を信頼しているようで、嫌がらずに一段低くなった馬置き場におとなしくおさまった。騎士がベンチに座ると船が右に傾いたので、私は慌ててベンチの左側に座った。船は左右に揺れたが直ぐに平衡をとりもどした。私は船頭に船を出すように手で合図を送った。船は細長い湖を南に向かってゆっくりと進み始めた。
 私は皮袋からチーズとパンとゆでた卵を取り出し、私と太り気味の騎士との間に並べた。
「お口に合いませんでしょうが、もしよろしければ」
 私は自分が卑屈になっているのを感じながらそう言った。ハプスブルグ家から派遣されてやってくる代官も家来も客人も、この地方の食べ物を好まないようだった。私には食べ慣れたものであったが、これらの人々にとっては我慢できぬ不味いもののようだった。開けた土地ではおいしいものが何でも食べられるのだろう。
「一つもらおうか」
 騎士は、そう言って船縁から手を出して水に浸し、腰に下げた布で手を拭ってから、薄く切ったチーズをつまんで口に入れた。その食べ方が何となく優雅だった。
「うまいな、これは」
 そう言って騎士は再びチーズに手を伸ばした。私はほっとした。騎士は私に一緒に食べるように言って、パンも卵も口にした。
「この谷の民とうまく付き合うにはどんなことに気をつけたらよいだろうか」
 食べ終わると、騎士は親しげに私の方に顔を向け訊ねてきた。こんなことを訊ねる貴族は初めてだった。
「そうでございますなあ」
 私が言い淀んでいると、騎士は遠慮なく言ってくれ、と私を促した。
「ここの住民は何しろプライドの高い者ばかりでございます」
 騎士はそれはわかっている、といわんばかりに大きく頷いた。
「もし、豪農の屋敷に招かれた時には、出されたものは何でも一応お食べくださいませ、先ほどのように」
「大丈夫だ、それは」
 今度は私が頷いた。
「それから、愛想の悪いのをあまり気になさらぬよう。何せ代々狭い谷に住んでいる者ばかりで、よその地に行ったことのないものが多いものですから。自分たちの間だけに通用するしきたりなどを頑なに守っておりますので」
「わかった。ほかには」
「これは万一のことがあってはいけないと思って申し上げるのですが」
 私は船頭に聞こえぬように声を潜めた。
「なんだろう」
「ここの土地の男は、妻の貞操を非常に重んじております」
「そうだろうな」
「隣の州では、農夫の妻に言い寄った代官殿が風呂の中で惨殺されるという事件がおこっております」
「聞いておる、聞いておる。心配しなくていい。私は決してそのようなことはしない男だから」
 騎士はおどけた口調で言った。
「申し訳ありません」
 私は余計なことを言ったような気がした。
「そなたは、私がここに来た訳を知っているのだな」
 騎士は微笑を浮かべながら訊いてきた。
「はあ、噂話のようなものだけですが」
 そうだったのか、と言って騎士は頭の後ろに手を回した。太り気味の騎士はどう言おうか迷っているように見えた。
「詳しくは言えんが、あれは行き違いなのだ。私は問われて恥じるような行いはしていないのだよ」
 騎士はそう言って視線を宙に漂わせた。それきり騎士は黙ったまま船の行く手を眺めた。
 私は騎士の横顔を盗み見た。騎士が気分を害したのではないかと心配したのだ。騎士は怒っていなかった。顔の表情はむしろさっきより柔和になっていた。王家の娘との関係を喋りすぎないようにしているのだろう。
 湖の両側には険しい岩の崖が連なり、その向こうには雪をかぶった峯が高々と聳えていた。騎士は目を細め、「美しい」と言って溜息をついた。暮れかかる淡い光の中であらためて騎士の顔を見て、私はある種の感銘を受けた。なんと言う善意にあふれた顔だろう。人柄の良さが長年の蓄積によって見事に顔の造作にあらわれていた。
 王家の末娘の方が、この太り気味の騎士に夢中になったのだ。騎士には妻も家庭もあるのだろう。愛に目のくらんだ末娘が、騎士に冷たくされて血迷い、ぬれ衣を騎士に着せて騒いだのではないだろうか。私はふとそう思った。