壁に架かった時計は5時少し前を示していた。そろそろヘルパーさんが来る時間だ。母と同居している姉の康子は、亡夫の墓参りに行っていて、帰宅は6時になる。さっき予定通り帰れると電話があった。「ヘルパーさんが来たら帰ってちょうだい」と康子は言った。お盆のUターンラッシュがはじまっていて、遅くなると新幹線が混むので、私は康子の言葉通りヘルパーさんが来たら帰るつもりだった。私は机の上に散らばっていた本をリュックに詰め、ハンガーに掛けてあった上着をはずして手元に置いた。母は慌てた様子で「ちょっと待っててね」と言ってよろめきながら自分の部屋に戻って行った。間もなく抽斗を開けたり閉めたりする音が聞こえてきた。私は立ち上がった。母は金を探しているのだ。
部屋に入ると、母は「ない、ない」と言いながら、一心に引き出しの中をかき回している。
「お母さん、お金はそこにはありませんよ」
私が言うと、母は手を止めて首を傾げた。
「昨日はあったんだよ。確かに」
「いや、もう金庫に入れるようになってから、二年もたちますよ」
「そんなはずはない」
母は前にも増しては激しく抽斗の中をかき回し始めた。数年前母は、訪ねてくる孫や曾孫に大金を渡すようになった。それで、康子が自分の部屋の金庫に母の金を入れて管理するようになった。
「やっぱりない」
そう言っては母は溜息をつき、天井を仰いだ。
「お前、どうやって東京まで帰るんだ」
母は心配そうに私を見つめた。
「大丈夫ですよ、お金は持ってますから」
私がそう言うと、母は恨めしそうに抽斗を閉めた。自分で金を管理していたころ、私が帰省すると、母は帰りには交通費を手渡そうとした。ある理由で会社でずっと不遇だった私の暮らしは楽ではなかった。妻はリューマチで働くことができなかったし、二人の子どもの教育に金がかかった。その時期、私は有り難く交通費を頂いた。今は子どもも独立し、以前より生活は楽になっていた。
「ほら、こんなにありますよ」
私がポケットから二つ折りの財布を取り出し、それを開いて背中に入っている数枚の一万円札を見せた。
「ああ、よかった」
母は安堵の表情を見せた。
「さあ、熱い紅茶をいれますよ、行きましょう」
私はそう言って母を誘って居間に戻った。私は時計を気にしながら急いで紅茶を入れた。
「お前、今日、東京に帰るのか」
カップに口をつけて、母は聞き取りにくい声で言った。今朝から何十回も口にしている言葉だ。
「ええ、ヘルパーさんが来たら帰ります」
母はカップを皿に置き、そりゃ大変だ、と言った。
「ちょっと待ってておくれ」
そう言っては母は立ち上がりよろめくように居間を出て行った。すぐに抽斗を開け閉めする音が聞こえ始めた。