浜賀さんのこと (2)
浜賀さんを語る上で登山のことが欠かせないと私が思うのは、それが浜賀さんの魅力的な人柄に大きな影響を及ぼしているような気がするからです。粘り強く地味な仕事をやることや、誰とでもすぐに打ち解けて一緒に行動できること、また計画を作り実行することが上手なこと、これらは冬山や岩登りといった危険を伴う登山を集団で行ったことによって培われたのではないかと私は思っています。
戦後すぐに山小屋倶楽部という山の会に入った浜賀さんは、一九五一年に、より高度な登山を目指すアルペン・ローゼ・フェラインというしゃれた名前の山岳会を作り、のちこれを改称して雪嶺会としたそうです。この山岳会は今も存在しています。「創立会員」ということで浜賀さんは非常に大切にされていたようで、毎年のOB会に出席するのをとても楽しみにしておられました。
浜賀さんは文章を書くのが得意だったので、これらの山岳会での山行記録が会報などによく発表されています。また記録に残すということをとても重視しておられ、雪嶺会の記録を「雪嶺: 雪嶺会45年の記録 1951−1996」という立派な本に仕上げられました。
私にも「記録」の大切さを事あるごとに説かれたのですが、細かいことが苦手な私はなかなか浜賀さんのようにはいきませんでした。それでもいくつかは手元にあるので、浜賀さんといっしょに穂高連峰に行った時の記録の一部(北穂登頂の部分)を引用してみます。
1995年8月8日(火)
・・・ 涸沢小屋を過ぎてからの登りを浜賀さんは快調にとばす。ついていくのが大変だ。樹木がなくなって岩屑と雪渓が目の前に広がる。僕は雪渓の中を、浜賀さんは雪渓の縁の道を歩く。この部分の雪渓は緩やかな傾斜だが、滑り落ちると涸沢まで行ってしまいそうだ。雪渓のところどころに鋭い岩がつきでている。衝突したら大けがをしそうだ。一歩一歩踏みしめて登る。雪渓が尽きたところは、緩やかな傾斜のまっすぐな長い道。頭が痛いので、浜賀さんにそう言って少し休む。ヘリコプターが穂高山荘に荷物を運んでいる。音がうるさい。黄色い小さな花が白出のコルの方にずっと続いている。見事だ。写真を撮る。急に霧が出てきた。あたりが暗くなる。不気味だ。
ザイテングラードを登る。恐竜の背骨のような感じのする細長い岩場である。上を見ないようにして登ることにした。先を考えずに一歩一歩登っているうちに穂高岳山荘に着いた。テラスで軽い食事。浜賀さん、時間が遅れていることを気にする。気温15度C。
いよいよ最大の難所である。霧がでてきて、全体がどうなっているのかわからないが、上に向かって最初のハシゴがかかっていて、昇る人が次々と霧の中に消えていく。滑り止めのついた軍手をはめ決心を固める。文字通り「霧中」で浜賀さんの後について登る。幸い霧で何も見えない。もし晴れていたら下が見えて体が硬直したに違いない。さほど恐いと思わないまま、ハシゴの難所をすぎる。岩屑の道を上へ上へ。岩に地衣類がついていてなかなか味がある。海の底を見ているような錯覚を覚える。山頂は狭い道を挟んで右と左の両方にある。学生風のグループと、宿(涸沢ヒュッテ)でいっしょだった中年の人などがいた。霧の中で何も見えず。しかし達成感はある。右の方の山頂で写真をとってもらって出発。細い道をすぎると、たくさんケルンがあり、人が休んでいる。・・・・