浜賀さんのこと (1)
 
 浜賀知彦さんは私の人生の中でこの上なく大きな位置を占める方でした。知り合ったのは文学団体の会合の席でした。確か会社を定年で退職された直後で浜賀さんは六十歳、私は三八歳であったと思います。
 その後お宅にお伺いして、文学、山、絵のことなどを教えていただき、また若い頃のことなどを聞かせていただきました。
 浜賀さんのお父さんは慶応の出身、玉川電鉄に勤めておられました。またお母さんは高崎の素封家の出身でしたから、浜賀さんは典型的なインテリの家庭に育った方と言えるでしょう。一九三六年に玉川電鉄が東急に合併・吸収される中でお父さんが玉川電鉄での職を失ったそうです。
 自由な雰囲気の家庭の中で、子どものころから自分の好きなことをやられたそうです。少年向け科学雑誌を購入し、植物採集や科学機器の作製に熱中したということでした。そういうことが面白くて「学校の勉強なんかやっておれない気持ちだった」そうです。現在の芝浦工大の前身に当たる工業系の学校に入学したのですが中退して、親戚の営む会社に入ったとのことでした。
 戦後すぐに日産自動車に就職したのですが、一九五年に争議がおこり、これをきっかけに第二組合ができて激しい第一組合の切り崩しが行われたそうです。第一組合が第二組合に吸収される形で「合同」が進み、第一組合に最後まで残っていた浜賀さんは節を曲げなかったため組合への加入を拒否され、ユニオンショップをとっていた日産自動車を解雇されることになりました。その後、関連会社に再就職したのですが、そこにも日産から手がまわり会社に居られなくなったとのこと。以後組合を作りながら中小企業を転々としたそうです。私はこの話に非常に興味を持ち、私の小説の中に取り入れました。
 浜賀さんは日産時代から詩を書き、同人誌を発行していました。その後、中央労働学院で文学を学び、小説を書いておられましたが、やがて文芸評論を書かれるようになりました。
 浜賀さんとはいろんなことを一緒にやったのですが、一番の思い出は一九九五年に北アルプスの穂高連峰に連れて行ってもらったことでしょうか。車中二泊、山小屋一泊の強行日程でしたが、とても楽しかったことを覚えています。浜賀さんは七十歳直前でしたが、私よりずっと元気でついて行くのが大変でした。浜賀さんは若い頃から本格的に登山をしておられ、ヨーロッパアルプスのアイガーにも登頂しておられます。
 浜賀夫人のセツさんは長くパーキンソン病を患い、浜賀さんはずっと介護をしておられました。セツさんが亡くなったのはたしか七年前、二00四年だったと思います。子どもさんがおられなかったため、一人っきりの生活になってしまったので、そのころから以前より頻繁に浜賀宅を訪れるようになりました。
 浜賀さんと非常に親しくおつきあいをするようになったのは、三年ほど前、二00八年の夏からです。浜賀さんは連日のように激しい幻覚に襲われるようになり、一人で暮らすのは無理だとドクターに言われました。老人ホームあるいは老健のような施設に入るという話もあったのですが、ご本人は「この家でまだやりたいことがある」と言われました。ライフワークである東京南部のサークル誌の蒐集と研究が山場にきていた時期でした。
 幸い家が近かったので、会社の帰りにお宅によって一緒に食事をとり、仕事のお手伝いをして帰宅する生活がはじまりました。(続く)