日記
 
 
 母が亡くなってすぐに父は入院を繰り返した。糖尿病が悪化したのだ。その日、孝夫が見舞いに行くと、父はどこかに母の日記があるはずだから探して持ってきてくれ、と言った。退屈なのだろう。
 父の家に戻った孝夫はあちこちを捜し、母が使っていた小さなキャビネットの中に日記を見つけた。本のカバーをかけ日記と解らぬようにしてあった。全部で五冊あった。
 孝夫は何だか読むのが恐かった。それで、読まないまま、その五冊を次の見舞の時に持って行った。父はその日記を読み上げてくれ、と言った。目を患っているので読めないとのことだった。孝夫は同室の人が居なくなるのを待って、初めから読んでいくことにした。まず母が入院した時のことが書かれていた。そのことを告げると父の瞳は期待に輝いた。母を頻繁に見舞っていた父は、母が自分に非常に感謝していると信じているようだった。
 日記は「今日、昼過ぎに夫が来た」という言葉で始まっていた。その次の言葉を孝夫は読み上げることができなかった。
「夫は垢にまみれたジャンパーを着ていた。おまけにどこから引っ張り出したのか、妙なセーターを着ている。独身時代のものだろうか。何と言うセンスの悪さだ。恥しくてしょうがない」
 孝夫が声を止めたので父は不思議そうな顔をした。
「どうしたのだ、早く読んでくれ」
「ええ、ちょっと字がよみにくくて」
「わかところだけでいい」
 そうですね。と言って孝夫は、頭の中で文章を組み立てた。
「夫は少し汚れたジャンパーを着ていた。自分で洗濯ができないのだろう。やはり私がいないとだめなのだ。ジャンパーの下には古いセーターを着ていた。確か私が何かの記念に買ってきたものだ。思い出の品をわざわざ着てきてくれたのだろう」
 父はうっとりとして目を閉じ、続けてくれと言った。その先はさらに読み上げることが困難であった。「どうして私はこんな人といっしょになったのだろう。よりにもよって」と書かれていた。
「どうして私はこんなにいい人といっしょになったのだろう。よりにもよって」
 孝夫が読み上げると、父は満足げに大きく頷きながら聞いていたが、最後の文章のところに来て目を開けた。
「文章が少しへんだな。よりにもよっての使い方が間違っている。慌てて書いたんだろうな」
 父は首を傾げた。その時、同室の人がよろめくような足取りで部屋に入ってきた。
「お父さん、じゃあ続きは今度にしましょうね」
 孝夫が言うと、父は「そうだな」と言った。
「じゃあこれは一応持って帰ります。字が読みにくいところを予め読んで解るようにしておきますから」
 うん、と言って父は腕を組んだ。日記は全部燃やしておう、と孝夫は思った。