ジェントル・ヴォイス
山小屋のテラスからは大岩壁が辛うじて見分けられた。暗い空に瞬く星は刻々とその数を増していた。
テーブルを囲むように設えられた木の椅子に座って、身なりのよい白髪の老人が一人で何か飲んでいた。
「もしよければ、こちらに来て一杯やりませんか。ワインがありますよ」
コップを揺すりながらその老人が私に声をかけてきた。
「ありがとうございます」
そう言って私は老人の向かいに腰をおろした。老人は、今日の山行の様子を話しながら、プラスチックのコップにワインを注ぎ、私の前に置いた。私は礼を述べてコップのワインを口に含んだ。芳醇な香りが喉から鼻に抜けてきた。高級なワインのようだった。
「おいしいワインですね」
「そうですか。それはよかった。フランスに住んでいる友人が送ってくれたものなんですが」
老人の声は、人の心に染み込んでくるような深い響きを持っていた。
「明日はどちらに行かれますか」
老人が訊いてきた。
「調子がよければ赤岳まで行こうと思っています」
「そうですか、私も赤岳に行こうと思います」
日常の行動では「じゃあ、一緒に」ということになるのだろうが、山行では少し事情が違っている。お互いの技量がわからないので、知らない人と行動をともにすると、思わぬ迷惑をかけ、また迷惑をかけられることになった。それで、本格的な山行では、途中で知り合った人と行動を共にするのは慎重にすべきである、ということになっていた。老人もそれを知っているようで「じゃあ、一緒に」とは言わなかった。
老人は以前赤岳に登った時のことを話し始めた。私は、なぜこの老人がこんなに優しい響の声を出すのか、不思議に思った。よく聞いていると、老人の優しい声の中にかすかに寂しい響きがまじっているのが感じられた。
「お一人ですか」
私はそれとなく訊ねてみた。老人は頷いた。
「はあ、去年の秋に女房をなくしまして。以前はよく二人でこの山にもきたのですが」
「ああ、そうですか。それはお寂しいことですね」
やはりそうなのか、と私は思った。
「それにしても、あなたのお声は、異常なまでに優しさに満ちている。何か声を使うお仕事をされていたのですか」
「はあ、時々そう言われる方がいます。自分では気がつかなかったのですが、やはりそうなのですね」
老人は、私のコップにワインを注ぐと、「実は」と言って話しはじめた。
「女房は、最後の三年ほどは認知症にかかっていました。女房は、誰かが自分を連れに来る、と口癖のように言い続けました。夜中に電話間違い電話でもかかってこようものなら、それこそ、施設の人が自分を連れにくる連絡なのだろう、と推測し、本当のことを言ってくれと私を責め続けました。そしてガタガタと震えて朝まで眠らないのです」
老人は溜息をついて岩壁の方を眺めた。暗くて岩壁自体はよく見えないが、満天の星が稜線で鋭く切り取られているので、その存在は確認できた。
「私は、女房の面倒をずっと見るつもりだったので、『こんなところに施設の人が来るはずがない』、と説明するのですが、女房は納得しません。いくら理屈で説明しても受け付けません。やっと納得したかと思うと、五分後にはもとの状態に戻るのです。私は苛立ち、大きな声をだしたこともありました。すると症状はいっそうひどくなりました。私をどこかの施設の人だと思いこむこともありました。もちろん老人の施設が「怖い」ところでないことを私は承知しています。でも、女房には恐怖の対象だったようです。女房は小さいころに養女になったので、いつ自分が施設のようなところにやられてしまうかわからない、という恐怖にずっとつきまとわれていたのかもしれません。
言葉で説明してもダメなのだ、と気がついた私は、声の調子で気持ちを伝えることにしました。女房はもう目も衰えていたので、私の顔の表情が見分けられない状態でした。でもまだ耳は十分に聞こえていました。「一生愛情を持って、あなたの面倒を見るよ」、私は、そういう気持ちを込めて女房に語りかけることにしました。言葉の調子、優しい愛情にあふれた言葉の調子、それがすべてでした。私は、自分の思いが届くよう祈るような思いで一言、一言を女房に投げかけました。
女房の顔から恐怖の表情が消えさったのは、亡くなる半年ほどまえでした。心静かに昔の思い出を語る日々が続きました。私は、女房が全く正常なのではないか、とふと思いました。もちろん、それは願望による錯覚でした。今、起こったことが記憶できない症状は治っていませんでした。でも、女房はあの恐怖から解放されたのです。比較的落ち着いた状態で死を迎えられたので、私もほっとしました」
ああ、そういうことだったのか、と私は納得した。身体が冷えたのか、老人は激しく咳き込んだ。
「さあ、もう中に入りましょう」
私は老人に負けぬくらいやさしい口調で言った。
「ああ、そうしよう」と言ったが、老人はなかなか立ち上がらなかった。