岩壁

               
 
 道の両側は落葉松林であった。落葉松は、誇らしげに枝を広げ高々と立ち並んでいた。
 左手から水の音が聞こえ、すぐに水量の豊かな北沢があらわれた。水は澄んでいるが川底の石は赤茶色にそまっていた。水の中に鉄の成分があるのだろうか。川は時に淀み、またなめらかな滝となってしだいに水量を減らしていった。
 私は、何度もハリガネで木を結わえただけの橋を渡った。川に沿った細い道は、山が迫るたびに丸木橋を経て対岸に移るのだ。落葉松の林の中にシラビソが混じりはじめた。  緩やかな上りの道が、やや急になって大きな丸木橋をわたると、左右の山の間に大きな岩壁が見え始めた。岩壁の中央に一際大きな岩の峰がそそり立っていた。あれが有名な大同心なのだろう。
 この見事な景色をUに見せてやれたらどんなによかっただろう、と私は思った。
 Uは、研究所の同僚で、独身寮でも私達は仲がよかった。Uは福島の工業高等専門学校(高専)を卒業してから関東の内陸部にあるY大学に編入し、そこを卒業して研究所に入ってきたのだった。高専での成績が特別よかったので、そのまま就職するのが惜しいと思い、大学の三年に編入したのだそうだ。当時、高専からの編入を受け入れてくれる大学が極めて限られていて、Uはあまり気のすすまぬ思いでY大に編入したようだった。Uは、Y大学での成績も抜群であったらしい。
 研究所に入ってからのUは、傍目も心配するほど勉強と研究に打ち込んでいた。私が寮の部屋を訪ねると、たいていはノートを取りながら一心に論文を読んでいた。Uは焦っているように見えた。Uにとっては、自分より学問が出来る人を見るのが珍しかったのだろうか。
 Uの部屋には雑誌から切り取った山の写真が張ってあった。写真は甲斐駒ヶ岳と八ヶ岳だった。Uは両方とも行ったことはなく、中央線から眺めて憧れていたのだ。いつか行ってみたいが、今はそれどころではないとUは言っていた。
 入社した年の秋ごろから、Uはおかしな咳をするようになった。声もかすれてきた。私が病院に行くように勧めてもUは「休暇が惜しい」と言って拒んだ。新入社員に与えられるわずかな有給休暇を、Uは郷里への帰省に取っておきたかったようだ。
 翌年の春にUは体調不良を訴えて会社の付属病院に行った。年度が変わり、有給休暇が新たに二十日与えられたのだ。検査の結果すぐに入院となった。入院してからUの状態は急にひどくなった。見舞いに行くと、痩せて目が大きくなった顔で恥ずかしそうに私に応対した。その年の夏、私が現場実習で大阪に行っている間に、Uは突然亡くなった。肺ガンだった。
 葬儀は、私が見たこともない田舎の風習で行われた。白装束の母親が棺を積んだ荷車の綱を握った。土葬だということであった。Uは二三歳だった。
 それから私は、結婚や子どもの誕生、自分の生活の中で何か嬉しいことや面白いことがあるたびに、Uがこんなことを知らずに人生を終わってしまったことをふと思いおこすのだった。
 硫黄岳から横岳を経て赤岳に至る岩の壁が全部見渡せるところまで来て、私は立ち止まった。秋の夕日に照らされて、大岩壁は赤く輝いていた。