あせった話



 山の中で日が暮れかかると本当に困ってしまう。
 丹沢、二の塔到着が三時半。回りにいたハイカーたちはヤビツ峠の最終バスを気にして次々と下っていった。私一人取り残されたが、ヤビツ峠あたりは前に来たこともあり自信があった。最終バスに乗り遅れても、峠から蓑毛までは林道を小一時間歩けばいいのだ。私は十分な休息をとってから、全く静かになってしまった山道を悠然と下りはじめた。
 三十分も下ったころだろうか、車も通れるような大きな道に出た。下の方からは車の音も聞こえてくる。この大きな道は前に来たことがあるような気がする。標識を見ると右側に行くと菩提峠、左へ行くとヤビツ峠。よしよし左、左と。
 霧が出てきて全くあたりは視界がきかないが、こんな大きな道である。間違うはずはない、と思って足を速める。昔、ヤビツ峠から逆方向に二の塔に登ったことがあった。その時の道路はコンクリートかアスファルトだったような気がするが、きっと拡幅工事か何かだ。私は、舗装されていない大きな道を疑わなかった。
 堰堤の工事現場を過ぎると道はだんだん投げやりな様子になってきた。おかしいと気がついたのは、五十分を過ぎたころだった。ヤビツ峠まで三十五分と看板に書かれていたのに、全然峠に着く気配がない。車の音も全く聞こえなくなった。それでも私はもう少し、もう少しと思い歩き続けた。思い余って地図を出してコンパスで確かめると道は北に向かっている。どう見てもこれはおかしい。あたりが薄暗くなってきた。どうしたらいいのか、もう半分パニック状態である。これからさっきの分岐点にひきかえすまでに日がくれたらどうしよう。標識さえも見えないではないか。今日は懐中電灯も持ってきていない。頭の中には、家族が心配して捜索願いを出している様子が浮かんだりする。捜索隊が出され、テレビに私の顔が映り、新聞に「無謀な中高年登山」の文字が躍る。捜索隊ってものすごくお金もかかるらしい。ああ、どうしたらいいのだろう。
 一時間歩いたところを、二十分で走って引き返した。時計が止まっているかと思うほどだ。薄あかりの中、標識をよく見ると、ヤビツ峠への道は左をさしていない。標識の矢印は大きな道を横切って下に降りる小さな道を指し示している。私は転げ落ちるように急な山道を下った。
 十分ほどでコンクリートの道路に出た。ここは確かに見覚えがある。橋の先には車やバイクが通っている。助かった。これでとにかく捜索隊は出ないだろう。膝がガクガクして、私は思わずそこに座り込んでしまった。
(1998/4)