雨宮校長のこと
 
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 その夜、いつもより早く家に帰った私は、夕食もそこそこに自分の部屋でパソコンに向かっていた。「しんぶん赤旗」日刊紙での連載が終了したので、その新聞に「連載を終えて」という短い記事を書かなければならないのだが、それがなかなかうまく書けない。連載は半年にわたり、原稿用紙にすれば六百枚に及ぶものだったが、まだ書き残したこともあれば、もう少し事実関係を調べて書けばよかったと思うところもあった。
 玄関の方から電話の着信音が響いてきた。すぐに着信音は止み、妻の声が聞こえた。「はい、はい」「わかりました」といつになく緊張した口調である。電話を保留する「エリーゼのために」のメロディがかすかに聞こえてきた。
「あなた、お電話よ」
 部屋のドア越しに妻の声が響いた。
「雨宮さんと言う方、あなたの高校の校長先生」
「わかった」
 そう返事をして、私は立ちあがった。雨宮校長とは面識がない。何の用だろう。ひょっとして抗議の電話ではないだろうか。
 連載を終えたばかりの小説は、私の高校時代を描いたものだったが、この学校の当時の受験体制を批判し、おまけに、その時期に結成された教職員組合のことも書き込んである。私は身の縮む思いで受話器を取り上げた。
「お電話かわりました」
 声が上ずっていることが自分でもわかった。
「風間さんですね」
「はい、そうです」
「私は雨宮という者です。現在K高校の校長をしております。失礼とは思いましたが、同窓会の名簿で電話番号を調べさせていただきました」
 雨宮の口調はやわらかである。
「そうですか、おそれいります」
「連載小説、読ませていただきました」
 それ来た、と私は身構えた。
「大変面白かったですよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 どうやら抗議ではなさそうだ。
「あの小説、本になりますか」
「はあ、まだわかりませんが」
「そうですか。もし本にならないのなら、こちらで印刷と簡易製本して、教師と生徒に読ませたいと思っておるのですが、そういうことをやってよいものかどうか」
 あっ、そういうことか、と私は驚いた。抗議どころか、大変好意的な申し出ではないか。
「多分、本になると思います。いえ、そういうことならば是非本にしてもらいます」
 私はそう言って受話器を握りしめた。
「いつごろ本になりますか」
「そうですね、三カ月ぐらい先でしょうか」
「そうですか、じゃあ出来上がったら送ってください。楽しみに待っています」
 そう言って雨宮は電話を切った。
 
 
 その夜、床に着いても眠りはなかなかやってこなかった。雨宮の言葉が嬉しかったのだ。
 作品は、高校二年生の学校生活を描いたもので、四十年近く前の私の体験をもとにしていた。
 私は、北陸の小都市に生まれ育ったが、私が中学三年の時に父が定年退職し、新たな働き口をもとめて一家で関西に移った。私は高校受験を前にしてI市の中学に転校した。その町にある県立高校を受験するつもりだったが、暮れに担任の教師に呼ばれ、隣町にある私立のK高校を受けてみないか、と言われた。K高校は古い学校で、この地方では有名な進学校であった。塾にも予備校にも行ったことがなかったので、K高に行くことなど考えてもいなかったし、第一我が家には、私を私立の学校にやる経済的余裕もなかった。私がはっきりしない返事をすると、担任は、K高校は、有力な酒造会社が利益を地元に還元するために作った学校であり、月謝が公立並みに安く寄付もないこと、このところ毎年この中学から一人ずつ進学しているが、君の成績はその人たちに劣らない、と説明した。
 父親に話して、K高校の過去の入試問題集を買ってもらい、それを解いてみる程度の準備しかできなかったが、数学の難問が偶然解けたせいか、合格通知が来た。
 入学してみると、一学年二百人のうち百五十人は同じ市内にある系列の中学から無試験で上がってきた連中で、彼らは中学のうちに高校の課程の半ば以上をこなしていることがわかった。それで、一年生の間は、勉強の遅れを取り戻すのに懸命であったが、二年生になるころには何とか追いつくことができたので新聞部に入った。小説は、新聞部で活動した一年間を描いている。
 新聞部に入って、私はこの学校についていろいろなことを知った。一番驚いたのは、一年ほど前にこの学校に教職員組合ができて、その責任をとる形でA校長が辞職し、県の教育委員会から新しい校長が来たことであった。
A氏は、関西の有名な私立大学の英文学の教授であった人物であり、強く請われてこの学校の校長になった。ラジオの英語講座などを担当する人でもあった。
 組合の役員は、生徒に人気のある教師ばかりであった。なつかしくその先生方の穏やかな顔を思い浮かべ、思い出に浸っているうちに、私はいつしか眠りに落ちた。
 
 
 出版社との交渉に手間取り、結局本ができあがったのは、年をまたいだ二月の初めであった。私は郵送することを考えたが、父の法事で実家に帰る日が近かったので、そのついでに学校に寄り、校長に手渡すことにした。一度会ってみたかったのだ。
 高校の校舎はK山の山裾にあった。私たちが通っていたころには、校舎は浜の近くにあったのだが、周辺の道路の交通量が激増し環境が悪化したので移転したのだ。したがって母校を訊ねるといっても、全く別の学校に来たような感じがする。
 受付の若い女性に案内されて、私は校長室の前に立った。ドアをノックすると、「どうぞ」と聞き覚えのある声がかすかに聞こえた。私は遠慮がちにドアを開けて中に入った。雨宮校長と思われる小柄な人が、踏み台の上に立ち、棚にならんだ本を選んでいるところだった。五つ六つのダンボールが口を開いて踏み台を取り囲んでいた。雨宮が手にした書籍から埃が立ちのぼり、窓から斜めに射し込む光の中でキラキラと輝いていた。
「風間でございます」
 と私が声を出すと、雨宮は「はい」と頷き、踏み台から下りて私に近づいてきた。
「やあ、わざわざおいでくださってありがとうございます」
 雨宮はそう言って頭を下げた。電話の声から想像していたよりいくらか年老いていた。広くなった額の向こうに白髪がウェーブし、なかなか立派な顔立ちをしていた。雨宮が胸のポケットから名刺入れを取りだしたので、私も上着のポケットに手をいれ用意した名刺を取りだした。雨宮の名刺には高校と系列中学の校長の肩書きがあった。
「本は郵送でもいいと思ったのですが、一度先生にお目にかかりたかったものですから」
 雨宮は頷き、右手を広げて、私にソファに座るよう促した。
「悪いね、汚くしてて。今、荷物を整理しているところなんだ」
「引っ越しですか」
「まあ、そんなもんです。この三月で校長をやめるんです。私も七十になったからね。ここの校長を十年やった」
「そうですか、十年ですか」
 私はそう言って、足下に置いたバッグの中から本を三冊取りだし、ガラスのテーブルの上に置いた。
「これはサンプルのようなものですが」
私は一冊を取り上げ、雨宮に差し出した。
「本になるとやっぱりいいね」
 ページを繰りながら雨宮は言った。
「この本、もっとあるんでしょう」
 そう言って、雨宮は本をテーブルの上に置いた。
「ええ、二千部刷ってもらったので、まだまだあります。私、人気作家じゃないですから、そんなに売れないと思います」
 そうだな、と言って雨宮は思案顔になった。雨宮は私に本の値段を尋ね、手帳を開いてボールペンで数字を書き付けた。
「とりあえず、百部くらい送ってくれますか。買いますので」
「そんなに買っていただいていいんですか」
「うん。三月中旬くらいまでに送ってもらえるとありがたい。私が校長のうちに決済してしまう。大した額じゃない」
 雨宮はそう言って手帳を閉じた。
 さっき私を案内してくれた若い女性がお盆を手にして部屋に入ってきた。彼女は茶托に載せた二つの茶碗をテーブルの上に置き、ごゆっくり、と言ってドアに向かった。女性が出て行ってから、私は以前から訊ねたいと思っていたことを思い切って口にした。
「先生、私の連載、どこで読んでみえたんですか」
 訊いてはいけないことを尋ねたのではないかと心配し私は校長の表情をうかがった。
「ああ、あれは、あなたの連載が始まってからこの学校で新聞を購読することにしたんですよ。この学校のことが書いてあると教えてくれた教師がいたもんだから。職員会議にはかったら、『読みたい』と言う人が多くてね」
 雨宮は事も無げに言った。私は驚いた。学校としてあの新聞を購読してくれていたなど信じがたいことだった。
「職員室に置いておくと、昼休みなんかに先生方が争うようにあの小説を読んで『今日出てきた教師はだれがモデルだろう』なんて言い合っていたみたいだ。夕方、新聞を私のところに引き取り、小説の部分を切り抜いて私が保管していた」
 雨宮は茶を飲み干して立ち上がった。
「いいものがあったな。あるいはもう持っておられるかもしれんが」
 そう言って、雨宮はガラス戸のついた書棚から「校報」とタイトルのついた冊子を取り出してきた。
「この中に、組合ができたころのことを書いた記事が載っている」
 雨宮は冊子を広げ、私の方に向けて手渡した。そのページには「嬉しかったこと」という題のついた記事が見開きで掲載されていた。Nという署名があった。斜めに目を走らせただけだったが、「組合ができてからすぐに、恒例になっていた元旦の全教師の理事長宅への挨拶とその後の理事長が信奉している神社への参拝が中止された」という趣旨のことが書かれていた。
「この冊子初めて見ましたし、こんなことがあったことも知りませんでした」
 このような記事を教えてくれるとは随分組合に好意的な校長である。
「じゃあ、差し上げるよ、その冊子。ささやかなプレゼントだ。同じものがまだあるから」
 校長の机の上の電話が鳴った。雨宮は立ち上がり机に近づいて受話器を取り上げた。
「ああ、わかった。すぐ行く」
 受話器を置いた雨宮が申し訳なさそうな顔をした。
「悪いが、急な会議が入ってきた」
「そうですか。わかりました。私はこれで失礼します」
 私は残念に思った。この校長ともう少し話していたい気がしたのだ。それが顔にあらわれていたのだろうか。
「もしよかったら、いつか私の家にきませんか」
 と雨宮はさそってくれた。雨宮は、女房は亡くなったし、子どもはもともと居ないので一人暮らしなのだ、とつけ加えた。
 雨宮は名刺入れからもう一枚名刺を取りだし、裏に自宅の住所と電話番号を書き込んで、私に手渡した。
 
 
 雨宮を訪ねたのは、結局お盆の帰省の時になってしまった。
 神戸の西の端にあるS駅の改札口に着くと、そこに雨宮が待っていた。茶色い作務衣のようなものを着ているせいか、この前会った時に感じた校長としての威厳のようなものがなくなっていて、親しみが湧いた。老いた農夫のような風情があった。
「先生、暑い中をすみません。ネットの地図で調べたので、わざわざ来ていただかなくてもよかったのですが」
「ああ、電話でもあなたはそう言ってた。そうなんだが、あなたの書いた小説にこんな場面があったから、それに敬意を表して来てみたんだ」
「そうでしたか」
 私は、自分の書いた小説の最後の部分を思い出していた。激しい受験勉強の中で神経を病み学校をやめていく黒川を、クラス担任の浅井が主人公哲郎とともに自宅に招き、ささやかな送別会を開こうとする場面だった。哲郎と浅井は駅で待っていたが、結局黒川は来なかった。浅井と哲郎は暗い校庭を横切って学校の裏手にある浅井の家に向かった。その途中で、浅井は賛美歌「神ともにいまして」を優しい声で歌うのであった。
 
 私は、小説中の哲郎になったような気持ちで、雨宮と肩を並べて歩き始めた。
 駅前の広場から左手に続く松林の中の小道を二人は進んだ。海岸道路と電車の軌道に挟まれた細長い黒松の林の中には蝉の声がやかましく響いていた。
 松林のはずれを左に折れ、小さなガードをくぐると、急な坂道になった。その坂を上って少し道が緩やかな勾配になったところを左に曲がると雨宮の家があった。質素な感じのする二階家だった。
 雨宮はポケットから鍵を取りだし、玄関のドアの鍵穴に射し込んで回した。擦れるような音がした。
「さあ、どうぞ」
 雨宮はドアを開けて先に入り、ドアを押さえながら振り返って私を促した。ガランとした玄関の隅に麻紐でしばった新聞の束が積み重ねられていた。その中の一つは、「しんぶん赤旗」の日刊紙であるように見えた。
 雨宮は私を居間に案内した。独り暮らしにしてはよく整った部屋である。冷房がよく効いていて汗がとたんに引いた。
 食卓の椅子を私にすすめると、雨宮は「風間さん、お酒は」と訊いてきた。
「はあ、きらいじゃない方です」
「それは頼もしい。何がいい。ビールも日本酒も洋酒も、何でもあるが」
「そうですか、じゃあビールか日本酒か」
「日本酒なら『白龍』がある。大吟醸だ。退職記念にたくさんもらった」
 「白龍」は私たちの高校を経営するT家がつくる酒である。
「じゃあ、今日は『白龍』をいただきましょうか」
 わかった、と言って雨宮は部屋を出て行った。台所の方で物音がしていたが、すぐに大きな盆を手にした雨宮が部屋の入り口にあらわれた。雨宮は盆の上に載っている皿やグラスをテーブルに移した。青い小ぶりのグラスには冷えた酒が入っているようだ。グラスの外側に水滴がついていた。
「さあ、まずは乾杯だ」
 席についた雨宮はそう言って、グラスを私に手渡した。
「乾杯」
 と声をあげて、私と雨宮はグラスを軽く打ち当てた。一口飲むと、強い香りが喉の奥にひろがった。液体はするりと喉を通り抜けた。きっと上等なお酒なのだろう。
「あなたのほかの作品も読ませてもらった。大企業における思想弾圧のすごさに身震いする思いだった」
「そうですか、読んでいただいたんですか。ありがとうございます」
「実はね」
 雨宮はグラスをテーブルにもどして、少し言いにくそう口を開いた。
「そんなに昔じゃないんだが、私も世の中の進歩に貢献する生き方をしようと決心した人間なんだ」
 おそらく共産党員であったか、あるいは今も共産党員である、ということなのだろう。やはりそうだったのか、と私は納得した。
「どんな活動ができるのか、と検討していた時にこの学校に来て、いきなり校長になった。希望したわけじゃないが請われたので、仲間の人たちに相談して引き受けることにしたんだ。立場上、表立ったことができなくてね」
 雨宮はそこまで話すと大きく息をついた。
「さあ、たくさん食べてくださいね。私の作ったものばかりだ。案外料理は上手なんだ。もう一人暮らしが長いからね」
 雨宮は空になった私のグラスを手にして立ち上がった。
「何にもそれらしいことができなかったけど、退職を前に、あなたの小説にかかわった。少しは貢献できたかな、と思ってね。私も嬉しかった」
 そう言って雨宮は身を翻し、部屋を出て行った。
「十年も校長やってたから、リタイヤしたからと言って、いきなりあなたみたいな活動はできない」
 台所の方から雨宮の声が聞こえてきた。すぐにもどってきた雨宮は、酒を満たしたグラスを私の前に置いた。
「何ができるか、これから考えていくんだ。しかるべき人たちと相談しながら」
「そうですか」
「まずは、市民講座のようなものをやってみようと思ってる。あの高校も、前にいた県立の高校も、卒業生にはリベラルな有名人が何人もいる。そういう人たちにも声をかけて講師になってもらってな」
「先生にしかできない活動です。すばらしいですね」
「そうか。ありがとう。とにかく、今日はあなたと一杯飲めて、本当によかった」
 そう言って椅子に座った雨宮は、グラスを手にとり、残っていた酒をグイと飲み干した。    (了)
 
 2020年8月発行『水車』31号掲載