国境の宿
 


(1)

 モーリスが宿の部屋に帰ってきたのは夜中の一時すぎだった。モーリスは闇の中を足音を忍ばせて自分のベッドの方に歩きかけた。
「モーリス、どこへ行ってたんだ、こんな夜中に」
 私は声を潜めて言った。
「ファビアン、野暮なことを訊くもんじゃないよ。女のところにきまっているだろう」
 モーリスがしゃがれた声で答えた。
「起こしちまったようだな、悪かったな」
 そう言ってモーリスは私のベッドに近寄り、「おやすみ」と言って私の頬にキスをした。
 女のところに行ってきた、というのはウソに決まっていた。モーリスはもう老人と言ってよい歳だし、これまでも女に執着を見せたことはなかった。それに、今、私にキスしたときも、女と接したときに着くはずの移り香もなかった。また施しに行ってきたのだろう、と私は思った。モーリスは照れて本当のことを言わないのだ。陽のあるうちに生活に困っているいくつかの家族を見つけておいて、夜中にそっと戸口に金を置いてくるらしい。モーリスは、貧乏人が召し上げられた物を賭博で取り返してやっているだけだ、と嘯いたことがあった。
 暗闇の中でモーリスが着替えをする布摺れの音が聞こえた。その音を聴きながら、私はモーリスと一緒に放浪した年月を思い出していた。
 モーリスはヨーロッパのあちこちの宮廷を回って賭け事遊びを主催する賭博師であり私はその助手を務めてきた。
 モーリスと初めて出会ったのは、私が召使として仕えていたパリの屋敷で、トランプのパーティが開かれた時であった。モーリスがその屋敷に泊り、私はモーリスの係りを言いつかったのだ。その時、モーリスは胴元として大勝ちし上機嫌だった。私は誠意をもってモーリスを世話した。モーリスは私のことを気に入ったようだった。
 モーリスは私に、自分と一緒に諸国を巡らないか、と冗談半分で誘った。ゲームに集中するために、ゲーム以外の雑事をする者が要るのだということだった。私の心は動いた。私は三十過ぎだったが独り身だった。この地を離れても何も困らなかった。こんな屋敷でうだつの上がらぬ生活をしているより、ずっと楽しいことがありそうな気がした。私にその気があると見たモーリスは、召使いとしてではなくパートナーとして来てくれぬかと言った。私はその言葉がひどく気に入った。モーリスはもちろん貴族ではなかったが、貴族と同じような服を着ており、小柄ながら立ち居振る舞いも立派だった。ヨーロッパのいろんな国の言葉が話せるようだった。モーリスは愛嬌のある顔をしていて、よく手入れされた灰色の髭が似合っていた。私はこの男についていきたいと思ったが、館の主人がどう言うか気にかかった。モーリスは「わしに任せておけ」と言った。主人がモーリスとの勝負でこしらえた借金を棒引きにすることをモーリスが提案したので、主人は大喜びで私をモーリスに譲り渡した。
 私たちはフランスをはじめオーストリアや大小の領主国のお城で貴族を相手に賭博をして回った。通常の私の役目は助手であるが、貴族たちが賭博で負けた金を「払わぬ」と言い始めると私の出番だった。私は背はそれほど高くなかったが、見るからに喧嘩の強そうな風貌をしていた。おまけにパリにいたころに剣術も学んだ。相手の屋敷まで押しかけ証文を突きつけるとたいてい相手はしぶしぶ払ったが、時には剣で決着をつけることもあった。私は相手を傷つけぬようにしながらしかも相手が自分の負けを認めるように試合を運ばなければならなかった。賭博師の助手が貴族を傷つけたとなれば大事件になるからだ。私の身体のあちこちに刀傷が残った。モーリスはその傷を見て悲しそうな顔をした。
 二人でいろんな事を乗り切って旅を続けているうちに、私たちの間には強い絆が生まれていた。モーリスは最初の約束通り、私をパートナーとして扱い、賭で得た金も折半にした。
 
 
(2)

 数日後、私たちがたどり着いたのはサクソニアに隣接した小さな国の城であった。夕食もそこそこに、さっそく私たちは広間に通され、そこでファロと呼ばれるトランプゲームが始まった。 
 ファロは、一人の胴元に対して、一度に多くの客が賭けを楽しむことができるものだった。ルールはいたってシンプルである。胴元と客との間に十三枚のハートのトランプの札が描かれた大きな布が置かれ、客は思い思いにトランプの絵の上に金を賭ける。トレイ状の四角いボックスに積まれたトランプから胴元が順に二枚取り出すのだが、先に取り出した一枚は「親のカード」、後に取り出したカードは「賭け人のカード」と呼ばれていた。「親のカード」と同じ数字に賭けられた金は胴元のものとなり、「賭け人のカード」と同じ数字に賭けられた金は、同じ金額が追加されて客のものとなった。トランプのマークは関係なく数字があっていればよかった。他の十一枚に賭けられた金はそのままにされた。パリの貴族の間で流行し、その後全ヨーロッパの宮廷ではやった遊びである。すでに出尽くした数字に賭けることを防ぐ目的で、どの数字が何枚出たかを客に示すための算盤が用意される場合もあったが、モーリスは算盤なしでゲームをすることを好んだ。算盤がなければ記憶力の勝負になる。
 その日のモーリスはどことなく落ち着きがなかった。客の中に片目を黒い眼帯で覆った不気味な男がいて、城の持ち主である公爵の横につき、時々何かつぶやいていた。よく聞くとそれはこれまでにモーリスが開いたカードを最初から順番に口にしているのだった。記憶力のよい男のようだった。ボックスから取り出されたカードは積み重ねられていくので、何が出たか、そしてつまり何がまだボックスの中に残っているかは、よほど注意していなければ記憶することができなかった。モーリスは眼帯の男に文句を言ったが、男は視力の弱い侯爵のために札を教えているのだ、と言い返した。ボックスの中にどんなカードが残っているかがわかっても、それだけでは客は何も有利にならなかった。残ったカードのうちどれが「親のカード」になりどれが「賭け人のカード」になるかはわからなかったからである。ただ、すでに出尽くしている数字に賭ける事をふせぐことができるだけだった。 
 ボックスのカードを三度開け尽くし、四巡目に入った。モーリスは負けがこんでいた。珍しいことだった。黒い眼帯の男は相変わらす呟いていた。モーリスはその男の声に注意を払っているように見えた。
 残りのカードが少なくなったころモーリスが開いた「親のカード」を見て、私はオヤッと思った。ハートの七はすでに出ているのではないか、と思った。眼帯の男のつぶやきの中にこのカードの名前があったかどうか、私は覚えていなかった。しかし、このカードを見たのは確かこの巡に入ってからであったような気がした。十分に明るいとは言えない蝋燭の光の中でも、私がハートとダイヤを見誤ることはないように思われた。
 眼帯の男の覆われていない方の目が嬉しげに怪しく光った。数字の七に賭けられた大量の金貨をかき集めるモーリスの手が小刻みに震えていた。
 ボックスに入ったカードを開け尽くしたところで今日のゲームの終了が告げられた。公爵は丁寧な口調で「ちょっとお待ち願いたい」と私とモーリスを引き留めた。すぐに屈強な衛兵たちが戸口に現れ、私を両側から抱え、部屋から連れ出そうとした。残りの衛兵はモーリスを取り囲んだ。
 
 
(3)

 私は薄暗い別の部屋で椅子に座らされ、一時間ほど待たされた。二人の衛兵が付き添っていた。眼帯の男が部屋に入ってきて衛兵に耳打ちして立ち去った。衛兵の一人が私に服を脱ぐように命じた。私が大声で抗議するともう一人の衛兵が刀に手をかけた。私は渋々服を脱ぎ次々と衛兵に渡した。ズボンのポケットにはかなりの額の金貨がはいっていたので「盗むなよ」と衛兵に声をかけた。衛兵は表情を変えず私の服と下着を全部持って部屋を出ていった。私は丸裸で椅子に座ることになった。遠くでモーリスの叫び声が聞こえたような気がした。モーリスがひどい目にあっているのではないだろうか、私は自分の身が痛めつけられているような息苦しさを覚えた。寒さが皮膚から浸透してきた。
 半時間も待っただろうか、私の衣服を持った衛兵が現れ衣服を私に返した。私はすぐにポケットを調べた。金を入れた布袋はちゃんと入っていた。私が衣服を身につけると、衛兵が馬車が待っていると告げた。
 私は玄関に降りて急いで馬車のところまで歩いた。馬車のドアの前に立った偉そうな衛兵が「お前達を国境まで護送する」と言った。馬車の座席にモーリスが座っているのが見えた。偉そうな衛兵はドアを開けて私を馬車にいれ自分も一緒に乗り込んできた。馬車の中は血の匂いがした。隣に座っているモーリスの様子がおかしかった。馬車が出発し車体が揺れ始めた。馬車の後ろの窓から見える城の灯火がだんだん小さくなっていった
「モーリス、大丈夫か? どうしたんだ」
 私が声をかけたが、モーリスは弱々しく唸るだけだった。
「あんたら、モーリスに何をしたんだ」
 隣に座った偉そうな衛兵に向かって私は声を荒げた。
「まあ、そいつに訊くこったな」
 偉そうな衛兵はそう言って視線を窓の外に向けた。モーリスがこんなに酷い目にあっているのに私が罰せられなかったのは、モーリスが必死で私がいかさまに無関係であることを訴えたからではないか、と思った。
 馬車は全速力で真っ暗な街道を走って行った。
 切り通しの坂を上りきったところで馬車が止まった。
「国境だ、降りろ」
 偉そうな衛兵が言った。
「こんなところで降ろされてたまるか。病人がいるんだぞ」
 私が怒鳴ると、衛兵は黙った。
「行きましょうや、宿はすぐそこですから」
 天井から声がかかった。御者が気をきかせて言ってくれたのだ。衛兵はドアを開けて降りた。そして国境を守る兵隊のところに駆けて行った。すぐに戻ってきた衛兵は、御者に「じゃあ、やれ」と声をかけてから乗り込んできた。
「内緒だぞ」
 私の隣に座った衛兵が言った。馬車が右に大きく曲がると木立の先に赤い灯が見えた。国境を越えて旅する者を泊める宿のようだった。
 
 
(4)

 その晩、私は一睡もせずモーリスの枕元で夜を明かした。宿の主人に医者を呼んでくれるように頼んだのだが、夜中に来てもらうのは無理だということだった。モーリスの身体がひどく熱かった。水に浸した布で頭を冷やさなければならなかったが、すぐに布は熱くなるので、私は頻繁に布を水に浸しなおした。モーリス、死ぬなよ、お願いだから死なないでくれ、私は心の中で叫び続けた。
 モーリスはうなされていた。覚えられない、やめてくれ、覚えられない、と繰り返した。
 おそらくカードゲームのことだろう。あの黒い眼帯の男が出た札を呟くのが気になったのだろう。そう言えばモーリスは一度出た札はその図柄が頭に残るので忘れることはないのだ、と言ったことがあった。それがあの男のつぶやきによって邪魔されたのだろうか。
 モーリスが時々不正にカードを操作することがあるのに私は気がついていた。そのことについて尋ねても、モーリスは「ファビアンは知らない方がいいのだよ」と言って教えてくれなかった。    
 モーリスは身体のどこかに隠し持ったカードを巧みな手さばきで本来の「親のカード」と差し替えたのだろう。普段はすでに出たカードを全部覚えているので、それとは違ったカードによって差し替えるはずなのだが、昨夜はその記憶が乱されたのだろうか。あるいは、黒い眼帯の男はモーリスを引っかけるつもりで、すでに出たカードの名前を飛ばしたのかもしれない。私はモーリスがハートの七を出した時の眼帯の男の勝ち誇ったような目つきをふと思い出した。私が着物を脱ぐように言われたように、モーリスも衣服をはぎ取られたに違いない、そしてその衣服の中から隠していたカードが発見されたのだろう。
 朝になって宿の者が使いに出され、それからしばらくして医者が馬車でやってきた。医者はモーリスの痩せた背中につけられたミミズ腫れの傷を見て驚いたが、どうしたのかとは訊かなかった。鞭の痕であることは一目瞭然だったからである。医者は強い匂いのする膏薬を傷に刷り込み、粗末な紙に包んだ飲み薬を私に渡して飲み方を説明した。モーリスは意識がないままだった。
「もし身内がいるのなら呼んだほうがいい」
 部屋を出るとき、医者は押し殺したような声で私に言った。私は暗い布が目の前に広がっていく思いがした。私はそれでも気を取り直し、医者に礼を言い、ルイ金貨五枚を渡した。医者は驚き、バッグの奧を探って小さなガラス瓶を取り出した。そしてさっき渡した薬はやめてこれを一日三回スプーンで一杯ずつ飲ませなさい、と言った。
 その薬が効いたのだろう、モーリスは翌日の夕刻意識を取り戻した。モーリスの最初の言葉は「ファビアン、ひどい目にあわなかったかい」だった。私は首を振り「モーリス、何か食べるか」と訊いた。
「いや、何も欲しくない、水が飲みたい」
「わかった、いまあげるよ」
 私はそう言って水差しからカップに水を注ぎ、モーリスの口元に持っていって飲ませてやった。モーリスの咽がゴクン、ゴクンと鳴るのが聞こえた。
 私は、我々が追放になりここは国境近くの宿であることをモーリスに告げた。モーリスは「悪いことをしたな」と言ったきり考え込んでしまった。
 それからモーリスの状態は少しずつよくなっていった。一週間後にはベッドから起きあがれるほどになった。
 
 その日の夕方は空気が澄み、丘のすそはもちろん、その先の林や農場、村々が遠くまで見渡せた。
 私たちは窓辺に肩を並べてその景色を眺めた。
「ファビアン、あんたこれからどうする」
 モーリスは景色に目をやったまま言った。
「パリにもどろう」
 私は手持ちの金でパリまで行けるだろうと思った。
「そうか、あんたはまだ若い。雇ってくれる屋敷もあるだろう。俺の事は気にせずにパリに戻ってくれ」
 モーリスはそう呟いて弱々しく咳き込んだ。
「こんな異国にあんたをひとり放っていくわけにはいかない。いっしょに帰ろう」
「ありがとうよ、だが俺は足手まといだ。金も全部取り上げられちまった」
「モーリス、一緒にパリに行こう。贅沢しなければ、何とか暮らせるだろう」
「そうかな」
 モーリスは曖昧な返事をした。
「俺はトランプで貴族どもを騙すことばかりやってきた。他に何かできるわけじゃないからな」
 モーリスは溜息をついた。
「貴族を騙すのは俺も嫌いじゃない。しかし危険すぎる。今度見つかれば殺されるだろう」
「多分な」
「あんた手品できないか。パリの大通りには大道芸人たちがたくさんいる。あんたの見事なカードさばきに客は大喜びするんじゃないかな」
「さあ、どうかな」
「モーリス、今度のことで、僕にとってどんなにあんたが大切な人か、よくわかったんだ」、
 モーリスが小さく頷くのが私の目の端に映った。
「お願いだ、一緒にパリに行ってくれ。あんたが居ない暮らしなんか、もう僕には考えられない」
 もう窓の外は暗くなっていた。遠くに農家の灯が散らばっていた。
「ありがとうよ、私もそうだ」
 突然私の方に向き直り、モーリスは痩せた腕で私を抱きしめた。