レオナルドの遺言



 
(1)
 
 部屋に入ると、珍しくレオナルドはベッドの上に起き上がっていた。
「おはようございます、マエストロ」
 ベッドに近づきながら、メルツィは微笑んで言った。レオナルドの元気な顔を見るのは嬉しいことだった。
「おはよう、スィニョール・メルツィ。今日は気分がいいんだ」
「そのようですね」
 メルツィはそう言って、朝食を載せたワゴンをベッドに近づけた。
「ちょっと描いてみたんじゃが」
 レオナルドはベッドの上に置いてあった紙挟みをメルツィに手渡した。窓から見える景色のスケッチだった。
「アンボワーズ城ですね」
「そうじゃ」
「美しくかけていますね」
 レオナルドは笑って首を振り、無言で窓に目を向けた。北に向かった大きな窓からは、木立の向こうに白い建物が累々と重なっていた。フランソワ一世の居城だった。1ミッリョ近く離れているのに、建物の連なりは窓をはみ出していた。巨大な城なのだ。フランソワ一世は、居城とこの館をつなぐ地下道を通ってしばしばレオナルドに会いに来た。
「スケッチならまだ何とか描ける」
 そう言って、レオナルドは左手を差し出した。その手にメルツィは紙バサミを柔らかく押し付けた。レオナルドは両方の手をつかったが、もともとは左利きである。スケッチは左手で描き、絵の具は右手で塗った。今は右手が麻痺しており、左手はまだ動いたが、誰も真似のできぬあの往年の鋭いタッチは失われていた。
「サライから便りはないか」
 紙挟みをベッドの上にもどしながらレオナルドは言った。
「ありません」
「そうか」
 レオナルドの額が曇った。
「元気にやってますよ、きっと」
「そうだといいが」
 レオナルドはため息をついた。
 
 
(2)
 
 自分の部屋にもどったメルツィは、自分の描いたアンボワーズ城のスケッチに手を入れながらサライのことを思い出していた。
 サライは本名をジャン・ジャコモ・カプロッティと言ったが、レオナルドも弟子たちも小悪魔を意味するサライと呼んでいた。手癖が悪く、町で盗みをしたり、工房内でも人の金を盗んだりしたからだ。メルツィが14歳でレオナルドの工房に入った時、サライは27歳であった。ほかの弟子と違って、サライは工房の仕事を何もしなかった。まもなく、メルツィはサライがレオナルドに特別愛されていることを知った。レオナルドの絵に現われる美しい若者はたいていサライをモデルにしたものだった。レオナルドはサライに上等の衣服を買い与え、町に出るときはサライを伴った。サライはレオナルドの養子になっていた。弟子のうちで養子になっていたのはサライだけだったが、16歳になった時、レオナルドはメルツィも養子にした。そのことを知ったサライはひどく荒れた。
 たくさん居た弟子も、レオナルドの凋落とともに一人減り、二人減り、ミラノをはなれこの地に来たのは、サライとメルツィ、それに召使のヴィラニスだけだった。それなのに、サライはミラノに帰ってしまった。理由は、この町の暮らしが面白くないということだった。サライはフランス語が話せないので、この町に溶け込むことができなかったのだろう。
 レオナルドの弟子は、今は自分一人になってしまった。寂しいことだったが、メルツィは、レオナルドが掛け値なしに自分を必要としていることに喜びを感じてもいた。
 
 
(3)
 
 その日、メルツィはレオナルドから遺言の口述筆記を頼まれた。下書きを作って、公証人の前で読み上げるためのものであった。
 あえぎ、あえぎ一言ずつ発する言葉を、メルツィは羽ペンで書きとめていった。
「召使パッチス・デ・ヴィラニスには、ルイ十二世よりいただいたサン・クリストーフォロ運河の水利権と、イル・モーロが下さった葡萄園の半分を遺し、残り半分はサライに、サライがその地に建て現在住んでいる家とともに贈る。女中マトゥリーヌには・・・」
「まってください」
 メルツィは手を止め顔を上げてレオナルドを見た。
「なんじゃ」
「サライの分はそれで全部ですか」
「そうじゃ」
「ひどく少ないのではありませんか」
 メルツィがそう言うと、レオナルドは目を細めてじっとメルツィを見つめた。
「サライは、私を見捨てて出て行った」
「しかし、サライはマエストロのそばに二十六年もいたではありませんか。サライのおかげでよい仕事ができた時もあったのではないですか」
 レオナルドは微笑んだ。
「そなたは、心の美しい人じゃのう。何分の一かでもサライにそのような心根があったらのう」
「とにかく、これでは少なすぎます」
「心配には及ばぬ」
 レオナルドの頬が赤くなった。
「最後は全部そなたに任せることになると思っていた。遺言でサライにたくさんのものを与えたのではそなたが不満に思うのではないかと心配したのだ」
「そんなことは決してありません」
「それでサライには前もって十分なものを渡してある。絵も金もな」
「そうですか。それを聞いて安心いたしました」
 メルツィは目を机に戻した。レオナルドはマトゥリーヌに残す衣類と小金、異母弟たちに渡す預金と小さな土地のことを述べたあと一息ついた。そしてささやくような声で言った。
「遺言執行人となるフランチェスコ・メルツィ殿には、残り全部、年金、財産、衣服、書物、私の書いたもの、そして画家の技術と仕事に関わるあらゆる道具類と絵画を遺贈する」
 メルツィは耳を疑った。残り全部、ここにあるすべてのものを私に残すというのか。メルツィはありがたいと思ったが、同時に責任の重さも感じた。
「これで全部だ。書き取れたか」
「はい、確かに」
 レオナルドはきらきらと輝く目をメルツィに向けて頷いた。
「もっと早く、そなたと出会いたかった。そうすれば私のただ一人の息子として生活のすべてを分かち合って生きることができたのに」
 そう言ってレオナルドは視線を宙にただよわせた。
 
(4)
 
 メルツィが書きとめた遺言状の下書きを、アンボワーズの公証人ギョーム・ボロー氏と立会人の前で読み上げ、正式に遺言状が受理されてた日を境に、レオナルドは一日中眠っている日が多くなった。
 その日は、朝食を一口食べた後、夕刻まで眠り続けた。メルツィは、ベッドの横に付きっきりになっていた。
「いま、何時だろう」
 うっすらと目をあけてレオナルドが尋ねた。
「もう五時でございます」
 メルツィは立ち上がってカーテンを開けた。レオナルドが眠っている時には明るさが眠りを妨げぬよう、メルツィは カーテンを閉めておいたのだ。窓からは夕日に赤く染まった城が見えた。
「オオアマナの花が咲いているだろうか」
 レオナルドは身をよじって体を起こそうとした。オオアマナはレオナルドが好んで写生した植物で、この季節には細い花弁をもつ清楚な白い花を、敷き詰めるように咲かせるのだった。
「もう一度、オオアマナの花がみてみたいものだ」
 レオナルドは体を起こすのを諦めて、メルツィの方を見た。息が荒かった。
「さて、いかがいたしましょう。オオアマナの群生地は池の向こうの日当たりのよい丘でございます。マエストロがお歩きになるには少しばかり遠いかと存じますが。私が摘んでまいりましょうか」
 レオナルドは首を横に振った。
「地面を埋め尽くすオオアマナこそ見事なのじゃ。摘んではつまらん」
 そう言って、レオナルドは哀願するような目をメルツィに向けた。
「私が背負って、あるいは抱きかかえてお連れいたしましょうか」
「最後の望みだ、聞いてくれるか」
「ええ、もちろん。でも無理をしてお加減が悪くなられてはいけません。それが気がかりです」
「いや、もうどうせ長くない、一度庭を見てみたい」
 そう言って、レオナルドはメルツィに向かって両腕を差し出した。
 
 
(5)
 
 レオナルドを抱きかかえて、館を出たところで、メルツィの腕は早くも痺れはじめた。病床にあったとは言え、レオナルドの体は案外重かった。元々外見はすらりとしていたが、レオナルドは筋肉が発達していたのだ。
 池を回り込み、ハト小屋をすぎ、右手にブドウ畑を見ながら、メルツィは夕日の当たる緩やかに傾斜した草地へと進んでいった。レオナルドは首をめぐらせ、愛おしそうにあたりを眺めていた。
「長い間、世話になったな」
 苦しげな荒い呼吸が、レオナルドのわき腹から、メルツィの体に伝わってきた。メルツィは腕の痛みをこらえ、少しでもレオナルドがこの庭の景色を楽しめるようゆっくりと足を運んだ。
「いずれはミラノへ戻られるのであろうな」
「先のことは考えておりません」
「父上からそなたを奪ってしまったな」
「私が強く望んだことです」
「申し訳ないことをした」 
 レオナルドは目を閉じた。メルツィの父はミラノ近郊に領地を持っていた。メルツィはその領地を継ぐよう期待されていたのだが、すべてを振り捨ててレオナルドについてきた。レオナルドはメルツィの心を惹きつけ、焼き尽くすまでの魅力でメルツィの魂を奪い続けたのだ。
 これから、どれくらいこの人といっしょに居られるだろうか、一月、あるいは半月、もっと短いかもしれない。この短い時間の間に一生分の心のふれあいをやっておこう、とメルツィは思った。
 登りの傾斜が終り、メルツィは大きく息をついた。偉大なレオナルドは、今、この腕の中にあった。
「マエストロ、ほら、オオアマナが咲いていますよ」
 メルツィは、少しからだの向きを変えて、レオナルドの顔が斜面を埋め尽くす白い花に向くようにした。
「美しい」 
 そう呟いたレオナルドの顔にかすかに血の色が戻っていた。   (終)