レオナルドの左手



(1)
 その日の夕刻、私は机に向かい、レオナルドが描きかけて放り出したアンボワーズ城のスケッチを窓から見える本物と見比べていた。レオナルドはこんな小さな素描さえ完成できないほど衰えてはいたが、それでも、こうして見比べてみると、城壁も塔も本物よりも本物らしかった。
 私は引き出しから紙挟みを取り出し、机の上のインク壷の蓋をとった。レオナルドのスケッチを模写し、さらに書き加えて完成させておこうと思ったのだ。レオナルドのスケッチに直接手を加えることは避けたかった。せっかくの作品が台無しになる可能性があった。
 私は、レオナルドの描いた線を注意深く見つめ、描かれたものの位置関係に注意しながら、慎重になぞっていった。
 主要な線を写し終わって斜線で陰をつけようとした時、私はレオナルドの斜線が左上から右下に走っていることに気がついた。右手では描きにくい斜線だった。マエストロはやはりこのスケッチを左手でお描きになったのだ、と私は確信した。
 レオナルドは右手と左手を同じように使えたが、大勢の人の前では右手を使った。絵を描くときも、完成間近になって注文者が見に来るころになると、右手で絵筆を握った。
 どうしようか、と私は迷った。右手で描けば、斜めの線に不自然さがでる。左手で斜線を引いてみようか。
 私は、左手に羽ペンを持ち替え、宙で左上から右下に向けて手首を動かしてみた。左手でペンを握った違和感があって、うまく線を引けそうになかった。少し練習が必要だ、と私は思った。
 
(2)
 三日練習して、私はようやく左手で斜線が引けるようになった。滑らかではなかったが、一応レオナルドの引いた斜線に近いものが描けた。左手で斜線を引きながら、私は不思議な感覚にとらわれていた。濃淡を表現するために線の密度を変えて斜めの線を重ねると、その線が明らかに陰に見えるのである。私は、試しに紙を動かして上下が反対になるようにした。こうすれば、右手で斜線が引ける。私は慎重に右手で斜線を引いてみた。茶色いインクによって美しく引かれた斜線は、しかし直ちに陰影をあらわしてはいなかった。 
 何だろう、何が起こったのだろう。左手で描くとなぜこんなことになるのだろう。私は、紙バサミを繰り、新しい紙を一枚取り出した。左手で城の輪郭を写し取ろうと思ったが、羽ペン左手で握ぎると、相変わらず違和感があった。真新しい紙にインクで物の形を描く自信はなかった。私は慌しく引き出しの中から黒いチョークを取り出した。
 左手の親指と人差し指、中指の三本でチョークをつまむように握ると、チョークは掌の中に隠れた。違和感はよほど薄れていた。これなら描けそうだった。
 私は窓に目を向け、城の城壁を見据えた。やや黄色みを帯びた白い城壁が夕日の中で微妙な陰影を見せていた。
 私は、町と城を区切る垂直な石垣の一番上の線を、左手で右から左に勢いよく引いた。線はほぼ水平に引けたがギザギザした部分が現れた。しかし、そのかすかなギザギザはもはや線でなく、石の質感をともなった石垣の輪郭だった。私は、その上に、城壁や窓や屋根や尖塔を描いていった。左手の動きはぎこちなく、線が安定しなかったが、それでも、紙の上に描かれたチョークの線は、描く後からあとから、建物の一部になっていった。一通りの輪郭を描くと、絵は、なかば実物でありなかば線そのままであったが、それぞれの部分が実物になりたがっているように見えた。私は、要求されるままに、左手に握ったチョークで、線を描き足していった。左目の奥が引きつるような感じがして、頭の後ろ半分が空になったような不思議な感覚が強まっていった。
 ふと気がつくと、手元が暗くなっていた。夕闇の中にまだアンボワーズ城がかすかに見えた。私は立ち上がり、紙片を手にして窓の際まで歩いた。窓を背にして、わずかに残る明かりにかざしてみると、スケッチは異様な生々しさで私に迫ってきた。自分とレオナルドとの間にあった深くて広い谷の底がようやく見えたような気がした。
 
(3)
 その日はレオナルドは気分がよいようだった。庭に連れて行ってくれないか、と私に頼んだのだ。レオナルド一人では庭を歩き回れないが、私が手を貸せば何とか歩けた。
 館を出て、池を回りこみ、大きな菩提樹の下まで来たとき、レオナルドは、少し休もうと言った。
 小さな青い花が一面に咲く木陰に私たちは腰を下ろした。
 私は、左手でスケッチを描くことについて遠まわしにマエストロに尋ねてみようと思った。私が左手で描いたスケッチをまだレオナルドに見せていなかった。レオナルドがどんな反応を示すかが怖かったのだ。
「マエストロ、あなたの描き損じたスケッチを模写して、完成させておこうと思います」
「そうか、世話をかけるな」
 レオナルドは、左手で小さな青い花を撫でながら言った。
「マエストロのスケッチにタッチを似せようとするのですが、どうもうまくいかないところがあります」
「そうか」
「左上から右下に引く斜線がどうも描きにくくて」
 レオナルドは小さく頷いたが、表情が硬くなっていた。
「紙を回転させて、描きやすい状態で線を引けばよかろう」
「ええ。それはそうなのですが、マエストロらしい線になりません」
「まあ、もう私はスケッチさえ完成させることができないんじゃ。もうそなたの名前を署名するがよい。私の絵に似せることはない」
 レオナルドは肩を揺すって、麻痺している右手を草の上に押し出した。それからレオナルドはしばらく黙っていた。やはり左手でスケッチをしていたことは私にも知らせたくないのだろうか。遠くフランスまでレオナルドについてきたのは、私とサライと召使のヴィラニスだけだった。サライはこの町が気に入らぬと言って、ミラノに帰ってしまったので、今は弟子は私しかいなかった。こういう状態になっても、やはりレオナルドは自分だけの秘密を私に明かさないのだろうか。そう思うと私は切ない気持になった。
 
(4)
 私は、やはり自分が左手で描いた城のスケッチをレオナルドに見てもらおうと思った。これまでになく出来がよかったのだ。城を形づくる線は、ぎこちないところは残るものの、不思議な現実感を持っていた。現実よりも現実らしいあのレオナルドのスケッチにどこか似ていた。
 一週間悩んだ後、私は、自分の絵をレオナルドの寝室に持っていった。レオナルドは穏やかな表情でベッドの上に起き上がっていた。
「ちょっと今までと違うやり方で描いてみたんですが」
 私は、紙挟みを開いて見せた。
「こっちによこしなさい」
 レオナルドは微笑み、左手を伸ばした。私は不安と期待に震える手で開いたままの紙挟みをレオナルドの手に押し付けた。
「どれどれ」
 レオナルドは紙バサミを膝の上に置き顔を近づけた。レオナルドは髪が額にかかるのも気に留めず、レオナルドはスケッチの上に目を走らせた。それから、紙挟みを持った手をいっぱいに伸ばして目を細めた。
「よい出来だ。見違えるようだ」
「ありがとうございます」
 私はほっとして言った。自分の声が安堵に満ちているのがわかった。
「いつもと違うやり方で描いたのか」
「ええ、まあ」
「どうしたのだ」
「なるべくマエストロと同じ方法でと思いまして」
 私はそう言って、左手を胸の前で動かした。
「そうか」
 レオナルドの顔が曇った。
「いけなかったでしょうか」
「いや、いけないことはない。ただ、左利きはあらぬ疑いを受ける。悪魔の使いのように言われるのだ。土地によっては、左利きだというだけで裁判にかけられるかもしれぬ。わしも危ない目にあったことがある」
「マエストロほどのお方でも、やはり左手でお描きになることを隠しておられたのですね」
「そうだ」
 レオナルドは恥ずかしそうな顔をした。
「しかし、それにしてもこの絵はよく出来ておる」
 そう言ってレオナルドは思案顔になり、スケッチの上に目を落とした。
「やはり、そうだったのかのう」
 新しいことを発見したときにいつも現われる若々しい表情がレオナルドの顔を浮かんだ。
「私は、自分のスケッチの能力が左手と関係があるような気がしておった。私は生来の左利きだったから、万一左利きであることを責められてもいわば自業自得だ。もし、私の弟子の中に左利きの者がいたら、左手でスケッチすることをこっそり薦めたかもしれん。真実を知るためにな」
「私たちには、左手で描くことを薦めてくださいませんでしたね」
「ああ、それはできなかった。もともと右利きの者に左手でスケッチが出来るようにしてやることはどうしても出来なかった。かわいい弟子たちが、どんな危険な目にあうかわからんからな」
 私は頷いた。レオナルドが左手でスケッチすることを勧めなかった理由が愛情に基づいていることを知って、私は嬉しかった。
「左手で描くことは、人に知られぬようにするのだぞ、よいな」
 レオナルドは優しくそう言って、紙挟みを私に差し出した。