軋むオール    
 
 
 操船指揮官に手を引かれてきた男は目が見えないようだった。指揮官は私の列の漕ぎ手に向かって男を紹介し「とりあえず第二に入れてみる」と言った。男は目を閉じたままだった。私は、立ち上がり男の手をとって私の隣に座らせた。男は手にした小さな布袋を足元に投げ、手探りでオールの把手の位置を確かめた。指揮官は私に「この列は楽できるかもしれんぞ」と囁いた。
 出発まで少し間があったので、私は声をかけるかわりに、その男を観察した。歳は五十を越えているように思われた。禿げた頭を縁取る頭髪も、口から下を覆う髭も真っ白だったし、円くえぐれた粗末なシャツから見える胸の毛も、太い腕を覆う柔らかそうな毛もうっすらと白かった。背丈はあったがずんぐりとしていて、首は太く短かった。ガレー船の漕ぎ手としては長持ちするタイプの体つきである。
 それにしても、目の見えない男が、この国のガレー船に乗り込んでくるのはどうしたことか、と私は驚いていた。イタリアの海洋都市国家は、商船を護衛する軍船の乗組員が不足していた。乗組員は漕ぎ手と言えども、基本的に市民であり、奴隷や囚人を使うことは稀であった。絶えず監視していなければ、反乱でこちらの命が危なくなるような関係を、都市国家の乗組員たちが嫌ったのだ。ガレー船には、武装した戦闘用員が乗り込んでいたが、それだけでは人数が足りないので、ガレー船同士がぶつかり合って船を動かす必要がなくなったときには、漕ぎ手は武具を身につけ、戦闘に参加することになっていた。だから、漕ぎ手も戦闘ができなければならないのだが、目が見えないとなれば、刀や矢を避けることもできない。どうするつもりだろう、と私は不安に思った。大きな戦闘はまれだが、オスマントルコの軍船との小競り合いは日常茶飯事であった。
 
 出発の時刻が来た。副操船司令官が首から下げた銀色の笛を左手で持ち上げて口に咥えた。長い音が一回、それに続いて短い音が二回鳴った。全員で平常漕艇である。
 一つのオールに取り付いた五人の中で、中央通路に近い方から順に第一漕手、第二漕手と名づけられ、一番船縁に近い場所にすわる者は第五漕手と呼ばれていた。第一漕手である私は、最も動作が大きく、そして最も力を要求された。その上この位置で漕ぐものには上背が必要だった。オールが水を打つときには、オールにはかなりの角度がついており、第一漕手の位置では、オールは高い位置で支えられなければならないからだ。第四、第五と船縁に近づくほど動作は小さくてよいのだが、ここは敏捷性が要求された。もし水に入ったオールが、タイミングよく水から抜けなければ、水に押されたオールがものすごい力で漕手に向かってくるのだが、船縁にあるオール支えに近い部分ほど、抗い難い力で漕手を襲う。オールになぎ倒されたり、オールと腰掛の間に足をはさまれ、骨がくだけることもしばしばあるのだ。
 オールを長く漕ぐには、先のことを考えてはいけない。あと何回この苦しい漕艇の動作が続くのだろう、と考えはじめると絶望的な気分になる。先のことを考えず、ただこの一漕を全力で漕ぐことだけを考えなければならなかった。私は、そういう時、軋むオールの音に耳を傾けることを覚えた。一回一回、オールの軋む音は違っていた。前後の列の漕ぐオールが立てる音の中から自分たちのオールの軋む音を聞き分け、同じ列のほかの四人の息遣いとオールから伝わってくる力の具合を感じながら漕ぎ方を微妙に調整する、自分の意識をそこに集中するようになってから、私の苦痛はかなり軽減されていた。
 最初の一時間を過ぎたころであろうか、私は突然オールが重くなったのを感じた。私は新しく入った第二漕の男を見た。男の漕ぎ方には明らかに力が入っていなかった。私は、その男の分まで力を入れて漕がなければならなかったので、次の半時間私は狂ったようにオールと格闘した。オールの軋む音に耳を傾ける余裕など全くなくなっていた。
 
 漕ぎ手の半分だけで船をすすめる半漕モードに入って、船尾ちかくにいる私たちは休息に入った。第三漕の若い男が私の方に意味ありげな視線を送ってきた。新しく入った目の見えぬ第二漕の力が急に弱ったことに気がついているようだった。
 目の見えぬ老人は、不安げな顔つきでオールに腕を預けていた。
「一漕のお方」
 男は私の方に顔を向けてささやいた。言葉に強いフランス訛りがあった。
「なんだ」
 私もつられてヒソヒソ声になった。
「ここでは、漕ぎ手の力が弱ったとき、綱で背中を打つ人はいないのですか」
「俺たちは奴隷じゃないし、囚人でもない。そういう扱いはされていない」
「そうですか」
 老人は溜息をついた。
「前に乗っていた船では、激しい罵声をあびせられ、綱に打たれてオールを漕ぎましたぞ」
 そう言って老人は背中を私の方に向け、手を後ろに回して薄い布を少し持ち上げて見せた。そこには、左上から右下にかけて親指くらいの太さで肉が幾筋も盛り上がっていた。
「打たれないと力がでませんのじゃ」
 老人はそう言って、持ち上げたすそをもとにもどした。
「囚人だったのか」
「はい、ちょっとした喧嘩だったのですが、ガレー船のこぎ手欲しさに裁判所が有罪にしました」
「そこからは解放されたんだな」
「六年の刑期があけて放免になりましたが、無一文でした。郷里に帰る金もありません。目が見えなくなったんで、ほかに仕事ができるわけじゃない。私にできるのは、やっぱりオールを漕ぐことぐらいだったんです。この国の船では漕ぐと金がもらえると聞いて無理やり頼み込みました」
 そう言って、老人は老いの見え始めた大きな手で寒そうに腕をさすった。    
                 
                  
(終)