ムーン・リット・ロード
 
(1)
 
 隣の部屋からひどくうなされる声が聞こえた。ベルナール院長は立ち上がり、机の上の蝋燭たてを持って石の壁に近寄った。壁に取り付けられた小さなドアを開けると、アルフォンスの苦しげな息遣いが聞こえた。
 ベルナールは、足元に気をつけながら、ベッドに近づいた。蝋燭の光は暗かったが、毎日のように出入りしている部屋なので壁や調度品にぶつかることはなかった。ベルナールがベッドの傍らに来た時、アルフォンスが、お許しください、コマンドールと叫んだ。
「どうしたのだ、兄弟」
 ベルナールはアルフォンスを驚かさぬよう、低く声をかけた。アルフォンスは、身をよじって、ベッドの上に半身を起こした。アルフォンスの荒い息が、狭い部屋に響き渡った。
「申し訳ありません、院長様。眠りを妨げてしまったようで」
 蝋燭の光に、アルフォンスはまぶしそうに顔をしかめて言った。
「いいや、眠ってはいなかったのだ。書類の整理があったものでな」
「そうでしたか」
「何か、悪い夢をみたのか」
 ベルナールが問うと、アルフォンスは小さく頷いた。
「何か、私が叫びましたか」
「いや、うなされていただけだ」
 ベルナールがそういうと、アルフォンスは安堵したように息をついた。
「安らかな眠りが訪れますように」
 そう言って、ベルナールはアルフォンスのベッドを離れた。
 
 ベルナールは、自分の部屋に戻って、再び修道院の帳簿を整理しはじめたが、アルフォンスのことが気に掛かって、整理は進まなかった。
 やはり、アルフォンスはテンプル騎士団の一員だったのだろうか。ベルナールは、アルフォンスがこの修道院に来た時の事を思い出していた。
 アルフォンスは、この修道院の副院長と従者が山中で盗賊に襲われていたところを助けてくれた。盗賊との格闘で、アルフォンスは左肩とわき腹に刀傷を負った。傷が癒えるまで、とにかくこの僧院に留まってもらうことにしたのだが、アルフォンスは自分の素性を語らなかった。あれは十月の末だった。テンプル騎士団への大弾圧が行われてから半月あまり後だ。弾圧の直後にパリ近郊から人目を避けて歩き続けてくれば、ちょうどこのあたりに着く。盗賊との格闘でも、アルフォンスは勇敢に相手の刀を奪い取り、頭目と互角に渡り合ったそうではないか。
 ベルナールは、さっきアルフォンスが叫んだ「コマンドール」という言葉を思い出した。コマンドール、コマンドール、ベルナールは、ふと、この国に三千もあるテンプル騎士団の領地、コマンドリーの長をコマンドールと呼ぶことを思い出した。
 一月ほど前、美男王とよばれるフィリップがこの騎士団を弾圧し、フランス国内の騎士のほとんどを一挙に捕らえて拷問にかけたのだ。拷問により数十人の騎士が殺され、死ななかったものも、牢獄につながれて宗教裁判にかけられるはずだった。弾圧の理由は、背教、イエス・キリストの侮辱、騎士団の怪しげな儀式などだったが、フィリップが騎士団の財産目当てに弾圧したことは、事情のわかった者の間では常識のようになっていた。フィリップは、前年にパリのユダヤ人を一人のこらず捕らえ、財産を没収した。ユダヤ人に莫大な借金のあったフィリップは乱暴な手段で借金を一気に棒引きにしたのだった。
 もし、アルフォンスが騎士団にいたとすれば、やっかいなことになりかねない。今や国王の宣伝部隊のようになっているドメニコ会の連中が、国王の兵といっしょになって修道院を回り、騎士団の生き残りを捕らえていた。異端審問官が突然修道院にやってきて、騎士団にいた者を拷問にかけているという噂も耳にした。
  
 
(2)
 
 翌日、夕刻の祈りの前に、ベルナールはアルフォンスを鐘楼にさそった。鐘楼の鐘はもう長いこと使われていなかったので、この建物には人気がなかった。ベルナールが密会の場所に鐘楼を選んだのには、もう一つの理由があった。アルフォンスにこのあたりの地形を教えたかったのだ。
 鐘楼の長い階段を登る時、太ったベルナールは息が切れて、何度も立ち止まった。アルフォンスは立ち止まることなく、ずんずんと進んで行った。相当の肉体的修練を積んでいるようだった。
 鐘楼を登りきったところには見晴らしの良い空間がある。空間の真ん中には大きな鐘が吊り下げられていたが、鐘はひび割れ、錆びていた。ベルナールはすぐに切り出した。
「もし、そなたが、かってどこぞの騎士団に所属していたのだとすれば、そのことを私に言ってくれぬか。こちらとしても準備せねばならぬことがあるでな。悪いようにはせん」
 アルフォンスは困った顔をして視線を遠くに投げた。
「異端審問会の人々がここにやって来るかもしれんのだ」
 ベルナールがそう言うと、アルフォンスはベルナールの方に向き直り、ベルナールの顔をまじまじと見た。
「そなたに関係のないことなら、何も心配ないのだが」
 ベルナールが言うと、アルフォンスはうな垂れた。
「院長様、今まで黙っていて申し訳ありません」
 アルフォンスは跪いた。
「さあ、お立ちなされ。フィリップの悪業に、心ある者は皆、眉をひそめておる。だが、現実には、異端審問官と対峙せねばならぬ。覚悟はあるのか」
 ベルナールがそう言うと、アルフォンスの顔は白くなった。
「覚悟はできております。コマンドールのシモン師が拷問で殺されたと知った時から、私はもう生きていまい、と決めたのです。コマンドリーで、シモン様といっしょに捕まり、運命をごいっしょできたら、私の心はどんなに穏やかだったでしょう。たまたまシモン様のご命令で、コマンドリーからはなれた領主様のところに借財の返済を求めに行っておったため、私の運命が狂ってしまったのでございます」
 そう言って、アルフォンスは錆びた手すりに手をかけ遠くを見つめた。
「騎士団における背教を素直にみとめ、ひたすら許し請えば、拷問らしい拷問もなしに、少し牢に入っただけで許されると聞いておるぞ」
「それはできませぬ」
 アルフォンスは堅い声で言った。
「騎士団での生活は、神への祈りと武道の鍛錬、友への友愛と師への尊敬にに満ちた日々でございました。そのどこに背教があるのか、私にはわかりません。どんなに拷問をされても、私が神に背いたと認めるわけにはまいりませぬ」
「そなたは、騎士団におったとしても騎士ではないであろう」
 ベルナールは、アルフォンスが騎士でないことに気がついていた。騎士になるには、貴族の身分が必要だった。ベルナールは貴族ではなかったが、貴族とのつきあいもあったので、、言葉遣いや立ち居ふるまいから、アルフォンスが貴族ではないと思っていた。騎士でなければ、罪も軽いはずだった。
「はい、私は騎士ではありません。従士でした。シモン様の盾持ちと警護をつとめました。私は従士ですが、従士は立派な騎士団の一員です。私と同じコマンドリーにいた従士が何人も捕らえられ、中には拷問で命を落とした者もおります」
 ベルナールは頷いた。
「そなたによって、わが修道院の罪なき二つの命が救われた。このような事態のなかで、私たちはどのようなお礼をすればよいのだろう。どのようなことが私たちにできるのであろう」
「何もしていただくことはないのです。二つの命を救ったと言っても、あの時、私は自分が追いはぎに殺されればいいとさえ思っていたのです。従士でありながら、シモン様をお守りできなかったこの苦しさにくらべれば、死ぬことなど何でもありません」
 ベルナールは、アルフォンスと主人との絆の強さに改めて目を見張る思いだった。
「傷も癒えましたゆえ、できるだけ早くこの僧院から出て行きたいと考えております。皆様にご迷惑がかかってもいけませんから」
 アルフォンスがそう言った時、ベルナールは自分の胸が不思議に温かく弛緩するのを感じた。自分はこの言葉を待っていたのではないだろうか。ベルナールは自分の心のありように狼狽しながらも、冷静に振舞い続けた。
「こちらにいらっしゃれ」
 ベルナールはそう言って、鐘を回りこみ、西側の山々が見えるところにアルフォンスを案内した。近くの山は緑に輝き、遠くの山は幾重にも重なって青く霞んでいた。
「あそこにうっすらと黒い広がりが見えるであろう」
 ベルナールは、山並みのずっと向こうに水平に広がる森に視線を向けて言った。
「ええ、見えます。あれは何ですか」
「あれは森なのじゃ。どこまでも広がる黒い森。あそこはもうフィリップ王の力の及ばぬところなのじゃ。ここはもう国境が近い村なのだ。この地を離れるなら、あの方角に行かれるがよい」
 ベルナールが言うと、アルフォンスは小さく頷いた。
 
(3)
 
 それから二週間ほど後に、ベルナールとアルフォンスは夜更けに修道院を抜け出した。ベルナールは、山道を通って、アルフォンスを国境まで送り届けるつもりだった。ベルナールは国境に通じる正規の道でなく、山の中の目立たぬ道を選んだ。修道士たちが国境の衛兵にとがめられることなく隣国との間を行き来するのに使っている道だった。ジグザグに山を下り、谷を抜け、すり鉢状になった岩壁の底に暗い水が溜まった湖を回りこんで、ベルナールたちは峠に続く緩やかな細い道を登っていった。満月の夜で、道はよく見えた。
 ベルナールは、アルフォンスにコマンドール・シモンのことを聞いてみたくなった。
「そなたの仕えた騎士はどんな方だったのだ」
 ベルナール歩きながら言った。
「なぜ、そんなことを」
 アルフォンスはぶっきら棒に言ったので、ベルナールは振り返った。足元を見つめて歩くアルフォンスの表情は僧服のフードに隠れて読み取れなかった。
「そなたが、それほど敬愛しているコマンドールがどんな人であったのか、興味があるのだ。騎士だから、勇猛な人なのであろうな。戦闘の経験もあろうな」
「シモン様は、アッコンの戦いに参加されました」
 アルフォンスは、まるで神のことを口にするような厳かな口調で言った。アッコンはエルサレムの近くにあり、十字軍の最後の拠点になっていたが、1291年にイスラム軍によって攻め落とされていた。
「大勢の死者が出た戦いだったな」
「ええ。その戦いでシモン様は左足の自由を失われたそうです」
「それでは騎士として困るであろう」
「いえ、それ以後、戦闘はありませんでしたし、コマンドリーの長としてお暮らしになる分には、大して差しつかえありませんでした。馬にもお乗りになりましたし、ゆっくりではありましたが、お一人でお歩きにもなりました」
「そなたは、そのシモン殿だけに仕えたのかな」
「はい、十八で騎士団に入ってから、ずっとシモン様のもとで」
「おいくつくらいの方なのかな」
「六十五でした。まだまだお元気でしたのに」
 アルフォンスに声が悲しげに低くなった。
「植物を育てるのが好きな方でした」
 アルフォンスは気を取り直すように言った。
「異教徒と戦う騎士にしては珍しいのではないかな、そういうものが好きな人物は」
「シモン様は、たいそう武術に長けた方でございましたが、実際の戦いはお嫌いでした。もともと、巡礼者の安全を守るという騎士団の趣旨に賛成なさったので、異教徒なら無差別に殺してもかまわぬ、という一部の騎士団の方の意見には反対だったのです。コマンドリーで作物や花を育てているお姿は、本当にご満足のご様子でした」
「よくしてもらったのだな、そのシモン殿に」
「それはもう」
 アルフォンソの声が活気を帯びた。細い山道は下りにかかっていた。風のない静かな夜だった。
「騎士団に入ったものは結婚が許されません。ですから当然家族もありません。しかし、年老いた騎士と若い騎士、あるいは年老いた騎士と若い従士の間には父と子のような、いやもっと強い感情の融和が生じる場合がございます。私とシモン様との間にはそのような感情が生じていたのでございます」
「そういうものかのう」
 ベルナールは信じられぬ思いでアルフォンスの言葉を聞いた。長く修道院で暮らしていいたが、ベルナールにはそのような感情が生じたことはなかった。
「シモン様は読み書きがおできになりませんでした。それは騎士の間で珍しいことではありません。私はパリの指物屋のせがれだったので、多少の文字や数字は扱うことができました。それで、シモン様は私にコマンドリーの会計係の仕事を手伝うように言われました。今思えば、あの日、私がコマンドリーから出て、となりの領主様のところに出かけたのも、なまじっか私が読み書きができたためです。こんなことになるなら、会計の仕事など手伝うのではなかった」
 アルフォンスはそう言ってから、急に黙った。それからは、ベルナールが尋ねてもアルフォンスは短く答えを返すだけだった。
 
(4)
 
 三つ目の峠を登りきったところで、ベルナールはアルフォンスに立ち止まるように言った。ここが国境であった。
「さあ、ここからは一人で行かれるがよい。もうフィリップ王の力も及ばぬ土地じゃ」
 ベルナールはそう言って懐から金の入った布袋と、一通の書状を取り出した。
「金はどんな時にも役に立つ、どうぞお受け取りくだされ」
 ベルナールはそう言って、戸惑いの表情を見せているアルフォンスの胸に布袋をおしつけた。
「それから、これは、ベネディクト派の修道院への紹介状じゃ。これからそなたが踏み入れる国にもベネディクト派の修道院や教会はたくさんある。この書状を見せれば、何かよいこともあるじゃろう」
 ベルナールは、そう言って書状を若者の手の中に押し込んだ。事情を知らぬ副院長がアルフォンスが出立すると知って、ぜひ便宜をはかってやって欲しいとベルナールに懇願したのであった。
「院長様、何とお礼を言ってよいやら」
 アルフォンスは跪き、ベルナールの手に接吻した。ベルナールは後ろめたい思いで、ゆっくりと手を引いた。書状の内容は、この僧が我が僧院に留まった者で決して怪しいものではないことを記してあったが、ベルナールはそれをわざわざ自分の字体を崩して書いた。署名も普段使う文字と違う形にしてあった。万一、アルフォンスが異端審問官の手に落ちたとき、知らぬと言うためであった。ベルナールは用心深い男だった。アルフォンスが修道院に来てから、隣の部屋に住まわせ、できるだけ他の修道僧と接触せぬようにしてもきた。
「さあ、もうお行きなされ。命を大切になされよ。シモン殿が生けるものを愛したように、そなたも自分の命を大切にするのじゃ」
 アルフォンスは立ち上がり、ベルナールを見つめた。アルフォンスの人を信じ切った眼差しにベルナールはたじろいだ。
「シモン様を失ってから、生きる気力をなくしておりましたが、あなた様のような方にめぐりあって、私はまた生きる力を得ました。また、いつかお会いできることを心の底から願っております」
 そう言ってから、アルフォンスは名残惜しそうに振り返りながら、月の光に照らされた道を歩き始めた。月明かりの中で、アルフォンスの姿がだんだん小さくなっていった。これでよかったのだろうか、ベルナールはわざと字体を崩した書状のことが気になった。アルフォンスがそのことに気がついた時の驚いた顔がベルナールの胸に浮かんだ。許せ、修道院を守るためには仕方のないことだ、ベルナールはそう思いながら、しだいに闇の中に吸い込まれていくアルフォンスの姿を見つめた。