ティベリス川のほとりで
隣のベッドで寝ているプリニウスの唸り声で私は目をさました。
「だいじょうぶですか、お父さん」
私はベッドから下り、暗がりの中をプリニウスの枕元まですすんだ。
「ああ、大丈夫だ」
「足が痛いんでしょう」
「少しな」
プリニウスは軍隊生活が長く我慢強かった。プリニウスが「少し痛い」というのは相当な痛みであるに違いない。
湯を沸かして足を浸してやれば、痛みはやわらぐだろうが、集合住宅(インスラ)の中で火をたくと、煙が部屋の中に充満し、それが隣室にも入り込む。昼間の食事時なら少々のことはお互い様なのだが、この時間ではそうはいかなかった。
私は暗がりの中にプリニウスの足を探り当て、マッサージを試みた。
「すまんな」
プリニウスの声は弱々しかった。
しばらく足をさすっていると、プリニウスは安らかな寝息をたてはじめた。私はほっとして自分のベッドにもどった。
目を閉じたが、眠りはもどってこなかった。プリニウスの鼾が耳についた。私の頭はプリニウスとの十年余の生活を振り返っていた。
プリニウスと私は法律的には父子だったが血がつながっていなかった。プリニウスはローマの属州のガリア出身だった。正規のローマ軍を補助する支援軍(アウクシリア)に組み入れられ、ブリタニアでローマ帝国の北方の警備にあたっていた。兵士の結婚禁止令はもう解かれていたが、正式に結婚する者は少なかった。兵舎の近くに日用品を売る店や酒房が立ち並び、そこに出入りする女性たちと非公式に愛を交わす場合がほとんどだった。プリニウス自身は特定の女性と深い関係になることはなかったが、兵士仲間には子どもまで設ける者もいた。プリニウスの親友のドミティウスが酒房の女と仲良くなって生れたのが私だった。私が三歳の時、ドミティウスは「蛮族」との戦闘で亡くなり、私と母が残されたが、母はすぐに別の兵士と仲良くなり、私に異父兄弟が生れた。私の継父にあたる兵士は乱暴者でしばしば私を虐待した。プリニウスが見かねて暴力を止めることもあった。プリニウスは私を可愛がってくれていたのだ。
支援軍での兵役を終えて市民権を得ると、プリニウスは私を自分の養子にしたいと言いだした。プリニウスが四十三歳、私が十二歳の時だった。母は迷ったようだが、私はぜひともそうしてもらいたかった。私はプリニウスが大好きだったのだ。そしてプリニウスと私は長い旅をしてローマにやってきた。プリニウスが出身地のガリア北部に帰らなかったのは、家族が四散していたのと、気候のせいだった。ブリタニアでの長い勤務の中でプリニウスは手足の関節が激しく痛む病気を患っており、寒さが厳しいと病状が悪化した。それでプリニウスは暖かいローマに住もうと思ったのだ。私に世界の首都ローマを見せてやりたいとも考えたのだろう。
市民権を得たといっても、私たちのローマでの生活は楽ではなかった。プリニウスは除隊の時に報奨金をもらっていたが、軍隊での地位が高くなかったので一生遊んで暮らせるほどの額ではなかった。ローマは物価が高く、特に住居費が高かった。プリニウスは病気のため働けなかったし、私はまだ職といえるほどのものを持っていなかった。プリニウスの貯金を食いつぶしながらの生活だったので、小麦の無料配給があるのはありがたかった。
奴隷を買う金はなかったが、プリニウスは家事を何でもこなした。軍隊での生活は、非戦闘時には兵舎内の様々な作業があり、食糧も現物支給だったので料理も自分達でやらなければならなかったのだ。ただ、関節の痛みがだんだん激しくなってきたので、家事は私がやることが多くなっていた。
朝になると、プリニウスの足の痛みは少しよくなったようだ。居間で一緒に簡単な朝食をとると、プリニウスのために昼食の支度をしてから、私はティベリス河畔にある青物市場へと急いだ。
アウレリアヌスの城壁に穿たれたオスティア門から真っ直ぐにティベリス川に向かって伸びるオスティア通りは川の手前で右に曲がり、トミゲミナ門通りにつながっている。トミゲミナ門通りは、アウレリアヌスの城壁より内側にあるセルウィウスの城壁に穿たれた門に通じる通りである。セルウィウスの城壁はまだローマの町が小さかった時に作られたもので、今では城壁としての役割を失っていた。トミゲミナ門をくぐると、家畜市場のある大きな広場に出る。牛や豚や羊や鳥、生きたままのものも肉になったものも売っている。いろいろな動物の匂いに満ちた広場を回りこんで北の端にある通りを進むと花市場があり、その先に青物市場がある。
青物市場は、もう仲買人や一般客で溢れていた。私は人波をかき分けて市場の奥へとすすんだ。私の働く場所はルーガ親分と呼ばれる解放奴隷が仕切っていた。ルーガ親分はまだ四十になったばかりだったが顔には皺が多かった。それでルーガ(皺)親分と呼ばれていた。異常に背が低く太っていた。
私は正式に雇われているわけではなく、時々手伝いをして手間賃をもらっていた。主に野菜や果実を裏の倉庫から市場に運んでくる仕事であったが、ときおり大量に購入した人のために品物を屋敷に届けることもやった。これは、屋敷で心づけがもらえることもあったので、私にはありがたい仕事だった。私たちの住む集合住宅の一階部分にすむ裕福な男は、ルーガ親分の所有者だった男と親しかった。その関係で私はルーガ親分から仕事をもらうようになったのだ。
ルーガ親分は私を見るなり大きな声を出した。
「レンズ豆とヒヨコ豆がないんだ。五袋ずつ持ってきてくれ」
「わかりました」
私はルーガ親分から倉庫の鍵を受け取り、手押し車を押して市場の裏口から倉庫に向かった。このあたりはもうティベリス川に近く、船着場から運ばれてくる穀物などを保管しておく倉庫が立ち並んでいた。ルーガ親分は、倉庫の鍵を普通の奴隷には預けなかった。親分自身もかっては奴隷であったのに奴隷を信用していなかったのだ。普段は、腹心のエジプト出身の奴隷が鍵を持って倉庫に行くのだが、ここ数日、体調が悪いので、私が呼ばれたのだ。
豆を手押し車に積んでルーガ親分のところにもどると、タマネギとオリーブがなくなりかけていた。
倉庫と市場を数回往復しているうちに昼近くになり、市場に人気がなくなってきた。ルーガ親方は、私にアウェンティウスの丘にある二軒の屋敷に配達してくれと、と言った。代金は前払いでもらってある、とのことだった。アウェンティウスの丘はティベリス川を見下ろす高台で、交易で富を得た新興商人たちの邸宅が立ち並んでいた。心づけが期待できるので、私は喜んで荷車に穀類と果実と野菜を積み込んだ。ティベリス川沿いに進んで、左に折れ、丘に登る道に入れば、そこからは道が込み合うこともなかった。
一軒はいきなり奴隷が出てきて荷車から注文の品を運び始めたので心づけはもらえなかった。もう一軒は、女主人が出てきて、品物を台所のそばにある貯蔵庫に運んでくれ、と言った。仕事が終ると、女主人は私にアス銅貨を一枚握らせた。屋敷の角を曲がって坂を下りかけると、そこからティベリス川の船着場が見渡せた。
空の荷車を引いて市場に帰ると、ルーガ親分は地べたに座り込んで金の勘定をしていた。私に気付くと、手間賃だと言って、真鍮の硬貨を二枚投げてよこした。そして、腹心の奴隷がそろそろ元気になるので、しばらく来なくていい、と言った。明日から仕事がなくなる、と思うと目の前に真っ黒い布が広がっていくような気持ちになった。ルーガ親分は売れ残りの野菜を持って帰っていいというので、タマネギを二個とオレンジ一つを懐にいれ私は市場を出た。プリニウスのことが気にかかったので、少し買物をして真っ直ぐ家に帰ることにした。
人と車でごったがえすオスティア通りをさけて、隣の細い木工職人通りを歩いていると、角の軽食屋の中から声がかかった。見ると、店の中からルキウスが私に向かって手を振っていた。
「なんだか浮かない顔をしてるな」
店に入って私がテーブルに近づくと、ルキウスはそう言った。ルキウスはこの近くの家具工房で働いていた。私と同年代で気のいい男だった。ルキウスと親しくなったのは、この店の前でルキウスがならず者に絡まれた時、通りかかった私がルキウスに加勢したことがきっかけだった。私には武術の心得があった。プリニウスに教えてもらったのだ。それで、三人のならず者が相手でもたじろぐことはなかった。
「うん、少し続いていた市場の仕事が明日からなくなるんだ」
私はそう言ってルキウスの向かいの席にすわった。
「あんた、昼はまだだろう」
「ああ」
私が答えると、ルキウスはL字型のカウンターの奥で料理を作っている主人に向かって「フォカッチャとワインもう一つ」
と怒鳴った。フォカッチャは石釜で焼いた一種のパンで昼の軽食として人気ガあった。
「あんた、読み書きはできるのか」
ルキウスが小声で聞いてきた。
「そうだなあ」
私はどう言おうか迷った。ローマにやってきた時、私は読み書きを教える初等学校に行く年齢をとうに過ぎていた。プリニウスは心配して、私に文字を教えようとした。町のあちこちに書かれたラテン語をプリニウスは読んで聞かせた。プリニウスは私に字を書かせようともしたが、私は熱心でなかった。そんなことをするよりローマの町をあちこち見て回る方がよほど面白かったのだ。
「読むことは何とかできるんだけど書くのはどうもなあ」
「計算は」
「できないなあ」
「そうか、計算は無理か」
ルキウスは思案顔になった。
「家具職人の組合で経理の仕事をする人をさがしてたから、どうかとおもったんだが」
「ああ、そう。ありがとう。いい話だけどそういう仕事は無理かもしれないな」
給仕の女がフォカッチャとワインをもって来た。ルキウスは食べろと手で合図をした。
「コロッセウムの試合、見に行くんだろう」
ルキウスは話題を変えた。私はワインをいっきに飲み、フォカッチャをむさぼった。
「今日は人気のダキア人が出るんだぜ」
ルキウスは剣を打ち下ろす仕草をして言った。
「ああ、これから父親を浴場に連れて行ってゆっくりさせてやりたいから」
私の答えに、ルキウスは不思議そうな顔をした。
「親爺さんと一緒に見に行って、風呂はその後でいいんじゃないの」
「ああ、父親は殺し合いがすきじゃなくってね」
「珍しいね、軍隊にいたんだろ」
「うん、そうなんだけどね」
プリニウスは剣闘士の試合を見に行きたがらなかった。私が一人で見に行って帰ってから話題にしてもプリニウスはのってこなかった。プリニウスは「私はもう一生分の血を見てしまったからな」と言った。「蛮族」との闘いの中で残虐なことが行なわれたのだろう。ローマ軍は刃向かう部族に対して見せしめのため、女性や子どもを含めて皆殺しにすることがあった。支援軍であっても同じことをしたのだろう。プリニウスは戦闘の話をしたがらなかった。
店の中に客が少なくなっていた。コロッセウムに行ってしまったのだろう。
「あっ、俺も行かなくちゃ」
そう言ってルキウスは立ち上がった。私が懐を探って金を取り出そうとすると、いいんだと言ってルキウスはカウンターの向こうに立っている主人に銅貨を手渡し、私に手を振って足早に店を出て行った。
肉屋に寄ってソーセージを何本か買って家に帰ると、プリニウスが小さな窓から通りを見ていた。私を待っていたのだろう。テーブルに用意しておいた昼食は食べたようだ。私はほっとした。このところプリニウスの食欲が落ちていたのだ。
「お帰り、忙しかったのか、今日は」
「ええ、配達が二件ありましたから」
私は明日から仕事がなくなることは言わないでおこう、と思った。
「さあ、浴場に行きましょう。きっと痛みにいいはずだから」
私は、心配事を悟られないように陽気な声で言った。
「ああ、そうしよう」
プリニウスはそう言って嬉しそうな顔をした。プリニウスは風呂に入るのが好きだったのだ。ローマには千に近い公衆浴場があった。皇帝の建てたものはどれも立派だったが、それ以外のものはいろいろなレベルがあった。プリニウスは大規模な浴場より客の少ない静かな浴場を好んだ。
私は体に塗る油の小壷とヘラを入れた皮袋を持ちプリニウスとともに部屋を出た。急な階段を下りるとき、私は先に立ち、プリニウスが足を踏み外さないように気をつけた。プリニウスは一段ごとに足を揃えて、苦しそうな顔つきをした。
ゆるやかな坂を少し上ったところにある公衆浴場は中規模なものだった。コロッセウムでの試合が始まっているので客は少なかった。狭い入口から通路を通って中庭に出ると、そこに木箱をかかえた料金徴収係りがいた。アトリウムの右手に着替え室があり、その奥に浴室があった。
プリニウスと私は、裸になって微温浴室(テビダリウム)に入りぬるま湯につかった。体を徐々にあたためて高温室に入るための準備をするのだ。プリニウスはこの微温浴室が好きだった。浴槽に入ったり出たりを繰り返しぐずぐずしていた。
私はプリニウスを置いて高温浴室(カルダリウム)に入った。熱い湯と冷たい湯の浴槽あり、装飾をこらした広いスペースには簡易式のベッドが並んでいた。ベッドは、そこに身を横たえて体の垢を掻き取ってもらうためのものであった。
私が熱い浴槽に浸かっていると、プリニウスがやってきた。
六十を過ぎていたので、プリニウスの体はもう昔のように逞しくはなかった。しかし分厚い胸は針金のような見事な白い毛に覆われていた。その白い毛は下に向かって細い筋となり臍のあたりで消えかかり、またしだいに広がって下の茂みにつながっていた。
浴槽に足を入れたプリニウスは顔をしかめ、長い時間をかけて全身を湯に浸した。それから、湯の中を歩いて私の側にやってきた。プリニウスは「熱いな」と言った。
プリニウスは体をあたためる間もなく湯からあがった。熱い湯が苦手なのだ。私はプリニウスを追った。
プリニウスは簡易式ベッドの一つにうつぶせになった。私は家から持ってきた小壷を傾けて油を手にとり、それをプリニウスの背中にこすりつけた。石けんは高すぎて一般の市民は手に入れることができなかったので、油を体に塗り、それをヘラで掻き落とすことによって垢をとるのだ。普通は浴場付きの奴隷が有料でやってくれるのだが、この浴場では、貧乏な市民は自分たちの手で垢を掻き落とすために無料でベッドを使うことが許されていた。
プリニウスの背中には一面に毛が生えていた。その毛を斜めに切り裂くように大きな刀疵があり、その部分は皮膚がむきだしになっててらてらと光っていた。油を塗るとその傷跡がいっそう光って凄みを増した。
ローマに着いてしばらくした頃、私はプリニウスに背中の傷のことを訊いたことがあった。プリニウスは、私の血のつながった父であるドミティウスが殺された戦闘でその傷を負ったと言った。プリニウスは「ドミティウスを助けられなくて申し訳ないことをした」と私に詫びた。そして「もっとドミティウスのことが聞きたいか」と苦しそうな表情で言った。私は首を横に振った。ドミティウスのことはもうどうでもよかった。過去のことだ。プリニウスを苦しめないことの方がずっと大切だと私は思った。
油を塗ったプリニウスの背中にヘラを走らせるとプリニウスは気持ちよさそうに目を閉じた。
公衆浴場を出たプリニウスと私は、まだ日の高い通りをぶらぶらと歩いた。プリニウスの足の調子はよさそうだった。ゆっくりだがしっかりとした足取りがもどっていた。
「少し歩いてみたいな。歩かないと足がだめになる」
プリニウスはそう呟いた。
「じゃあ、船着き場を見に行きましょうか」
私は、配達の時に見た船着き場を一望できるあたりにプリニウスを連れて行ってやりたいと思った。「ああ、行こう」
プリニウスが頷いた。市場から丘に登る道は知っていたが、ここは丘の南麓だ。ここからどう行けばよいのかわからなかったが、とにかく道を上に上にと進んでいけばいいのだろう。
プラタナスの並木道を抜け、セルウィウスの城壁に沿ってゆるやかな坂道を歩き続けると階段が現れた。階段を上がりきると古い神殿に着いた。そこからティベリス川の船着き場が一望できた。
「おお、美しいな」
プリニウスが息を切らせながら言った。川のこちら側にも向こう側にもたくさんの船着き場があり、どの船着き場も船から荷物が陸揚げされていた。船着き場に隣接して細長い大きな倉庫がびっしりと建ち並んでいた。配達の途中で見たところよりずっと眺めがよかった。大理石、材木、穀物、野菜、果物など荷物の種類ごとに船着き場が決まっているようだった。世界中から大型船で運ばれてきた荷物は、河口にあるオスティアの港で小型の艀(はしけ)に積み替えられる。艀は岸に沿って馬に引かせて川を遡ってくるのだ。
荷を船からおろし倉庫に運ぶ人たちの姿が小さく見えた。タブレットを片手に記録をつける人の姿も見えた。
「ガリアやブリタニアから来た荷物もあるのだろうな」
プリニウスが目を細めて懐かしそうに言った。
「それにしても、これだけの産物をローマに送るために属州の農民がどれだけ苦労していることかなあ」
プリニウスはため息をついた。ガリアの農民の出身であるプリニウスにはそう言う人たちの苦しみが身近に感じられるのだろう。ローマが属州の民にかけた税金は収入の十分の一だが、属州の長官たちはそれより遙かに多くのものを民衆から取り上げていた。
「お父さん、それでも、私たちのところにはほんの少ししか回ってきませんね」
私は、明日から食費を何とかしていかなければならないことを思い出してそう言った。
「そうだな」
プリニウスは苦笑いした。
「ねえ、僕にまたラテン語の字を教えてくれませんか? それから計算も」
私はさっきのルキウスとの会話を思い浮かべてそう言った。
「これはどういう風のふきまわしかな」
「ええ、、やっぱりそういうものができた方がいいんです」
プリニウスは軍隊にいた最後の二年あまりは裏方に回って軍団の事務を手伝っていた。兵役の終わり近くまで生き延びた兵士に対する配慮であった。だから計算もできるはずだった。
「仕事に使いたいのか」
「うん、このままじゃなかなかちゃんとした仕事が見つからないもんですから」
「ああ、そうだろうな。体を使う仕事はみんな奴隷がやってしまうからな」
プリニウスは頷いた。
「まだ私がおまえのために何か役に立てることがあるのは嬉しい限りだ」
そう言ってプリニウスは頼もしそうに私を見つめた。
(了)