(1)
階下から私を呼ぶ声がかすかに聞こえた。私は「イエース」と大きな声で答え、部屋を出て大急ぎで階段を下りた。玄関の横にあるビルの部屋はドアを開けっぱなしにしてあった。部屋に入ると、ビルがベッドの上から哀れっぽい目つきで私を見た。トイレに行きたいのだ。私は頷いてベッドに近寄った。
「すまんな、タカシ」
とビルはかすれた声で言った。病み衰えてはいたが、ビルにはリア王を演ずるイギリスの舞台俳優のような風格があった。私は腰をかがめて、ビルの顔に自分の顔を近づけた。ビルの顔からはシナモンの香りがただよってきた。ビルが昔から愛用している香水の匂いだった。ビルの毛むくじゃらの腕が私の首に十分巻きつくのを待って、私はゆっくりと腰を伸ばした。ビルの上体がベッドから少しずつ離れた。ビルは大きく息をついて上半身を起こした。私はビルの足をかかえてビルの体を回転させ、足がベッドの側面に垂れ下がるようにした。
「車椅子をつかおうか」
と私が聞くと、ビルは首を横に振った。
「仕事の邪魔をしてわるかったな。もう大丈夫だから行ってくれ」
ビルはすまなさそうに言った。
「少し、ここにいるよ」
私がそう言うと、ビルはうなずいて、ベッドに立てかけてある杖を手にした。ビルはひどくゆっくりした動作で立ち上がり、よろめきながら部屋の隅にあるトイレに向かった。私はビルがトイレから出てくるまでここにいようと思った。もしも倒れたら、ビルは一人で起き上がることはできないからだ。私はビルのベッドを整え、ベッドの脇にある椅子に座って窓の外を見た。入り江の向こうに太陽が沈むところだった。空の半ばを覆う雲は上は灰色なのに下側は夕日を浴びてオレンジ色に輝いていた。日本ではそろそろ節分の時期だろう、と私は手をかざして夕日を見ながら思った。
私はこの冬は日本に帰らなかった。安宿の共同経営者であり、家族のような関係を保っているビルが体調を崩したからである。ビルはこのところ病気をしがちだった。八十に近いので、自然な衰えといえばそういえるのだが、数年前まで、歳に似合わぬ快活さと敏捷な身のこなしでこの地を訪れる若者を感心させていただけに、私自身、ビルの衰えにはショックをうけていた。バックパッカー相手のこの宿は、カナダのバンクーバー島の小さな港町からさらに船で三十分もかかる。冬はめったに客がこないので、例年、私はその時期に神戸に帰り、語学学校でアルバイトをしてきた。神戸に帰るのはは、そこが私の育った町であり、再婚した母がいるからだ。
私がこの宿を最初に訪れてから十年近くたつ。日本での生活がうまくいかず、とりたてて目標もないまま私はアメリカ大陸をさまよっていた。この宿に着いたとき、私はほとんど金を使い果たしていた。三日目の夜、私はビルに、ここで働かせてもらえないか、と恐るおそる尋ねた。ビルは、私が就労ビザを持っているかどうかを確かめ、持っていないことを知ると、首をひねって思案顔になった。「就労ビザがなければ働いてもらうわけにはいかないが、まあしばらくここにいたらどうか、宿代はあとで考えよう」という意味のことを言った。それからビルは私に、料理が作れるか、と訊いた。私は自信がなかったが、日本料理と中華料理といくつかの西洋料理が作れると答えた。簡単な料理しか作れなかったのだが、とにかく雇ってもらうためにはそう答えるよりほかなかった。
ビルは「中華料理がつくれるのだな」と念を押した。ビルが中華料理にこだわったのは、当時バンクーバーには中国からの移民が激しく増加し、その影響で、この宿にも中国人が泊まりに来ることがあったからだろう。私は、とりあえず客としてこの宿に寝泊りしながら、少しずつ宿の仕事を手伝うようになった。ビルは私が就労ビザを取れるよう骨折ってくれた。
ビルは私が気に入ったらしく、客のいない日には自分の部屋に私を呼んでいろいろな話をした。ビルは七十近くになっていたが、結婚暦はなかった。
ビルはイギリス出身だった。出身だったというよりは、人生の大部分をイギリスで過ごした男だった。中学と高校がくっついたような男子校の教師を定年でやめた後、旅行でカナダに来て、この島がすっかり気に入ったということだった。もっとも、ビルの曾祖父はバンクーバー島の先住民、ファースト・ネーションズだった。ビルの祖母はイギリスの親戚に引き取られ、金持ちのイギリス人と結婚した。このあたりが気に入ったというのも、ビルの中にある八分の一のファースト・ネーションズの血が目覚めたのかもしれない。ビルは別荘にするつもりで、売りに出ていたこの家を買ったのだが、この家はバックパッカーのための安宿として使われたいたことがあり、ふらりと旅行者がやってくることがあった。人と話すのが好きなビルは、旅行者を家に招きいれ、泊めることもした。もっとも、この小さな島には宿屋が一軒あるだけなので、頼まれれば宿泊を断るわけにはいかなかったのだろう。そのうちに、この家はだんだんと宿として機能するようになった。ビルには家族がいなかったが、宿屋を始めてから、バンクーバーから白人の中年女性が来て、料理や家事を手伝うようになった。その女性は、私がこの宿に雇われるよういなってからもしばらく居たが、だんだん来なくなり、ついに全く姿を見せなくなった。私はこの人の仕事を奪ったようで気がとがめた。ビルに訊くと、無理してきてもらっていたのだから、と言ったので、私は安心した。
トイレから出てきたビルは、幾分晴れやかな顔で再びベッドに横たわった。私は、明後日の来客のことを聞いておかなければならなかった。
「ビル、あさっての客には何を出せばいいんだろう、イギリスの料理ってあんまり得意じゃないんだけど」
私が言うと、ビルは微笑んだ。
「いやあ、何でもいいんだよ。でも肉の方がいいかなあ。魚は苦手かもしれん」
「偉い人なの」
「いや、そんなことはないが」
ビルの言い方で、私は来客が相当な地位のある人たちなのだろうと想像した。ビルのパブリックスクール時代の教え子がイギリスから泊りがけでやってくるのだ。ビルがクリスマス・カードに書いた言葉を察して、わざわざこんな季節に合いに来るのだろう。
「気にすることはない、料理を食べにくるんじゃないからな」
「ロブスターは食べられるかな」
「ああ、大丈夫だと思うが」
「わかった」
私は、ベッドサイドの小さなテーブルの上に載せてあるカップに紅茶が残っているのを確かめてから立ち上がった
「何か欲しいもの、ない。紅茶は残っているようだけど。新しいのいれようか。それにクッキーなんか食べる」
「いいや、ほしくない」
ビルはそう言って毛布をかきあげた。私は暖炉に近寄り、薪を足してから部屋を出た。、
(2)
翌日、私はビルに朝食を取らせた後、ロブスターをとらえる籠を仕掛けるためにボートを漕いで入り江に出た。幸い風もなく波もなかった。しかし、ボートが岸を離れ、水の色が急激に濃くなると、私の心は不安に揺れた。私は日本にいた時、大学でカヌー部に所属していた。だから、暖かいシーズンには荒れる海も怖くなかった。しかし、今の季節、水に落ちれば命が危なくなるのだ。岸から漁場まで十分ほどであったはずだが、私にはとてつもなく長く感じられた。
目印のブイが浮かぶところに着くと、私はすぐに錘のついたロープを水の中に投じた。ロープには鉄でできたかごが七つばかりぶら下がっていて、ロープの一番端には目印となる大きなガラス球がついていた。籠にはロブスターの好きなサバの切り身が入れてある。籠の上面には丸い穴が開いていて、そこには漏斗状になった細い針金が張られている。ロブスターはそこから籠の中に入り、出口を見失ってしまうのだ。籠が水底に着くのをロープの感触で確かめながら、私は一つ一つ慎重に籠を沈めていった。最後の籠を沈め、それにつながる長いロープを沈め、最後にガラス玉の位置を調節するためにロープの結び目をいったん解いて結びなおした。
作業が終わったので、私はほっとして陸の方に目を向けた。氷河に削られた谷に海水が入り込んでできた典型的なフィーヨルドの地形だった。桟橋の隣に、私たちの安宿の赤い屋根が小さく見える。白頭ワシが岸近くの獲物をねらって旋廻しているのが見えた。
それにしても何という美しさだろう。結局、ビルも私も、この美しさに惹かれてここに住み着くようになったのだ。私はボートのへさきを岸に向け、力を抜いてオールを漕ぎながら、私はビルとの楽しい思い出を反芻していた。
客の少ない日の夜、ビルは私に英語を教えてくれた。私はもともと英語が苦手であり、バックパッカーとして必要な最低の言葉しか話せなかったし、発音も日本式で単語をつなぎ合わせたような話し方しかできなかった。それに北米のあちこちを渡り歩いたので、私の英語にはそれぞれの地方のなまりがまじっていた。ビルはもちろん美しいイギリスの英語を話した。
ビルはまず私に何でもいいから英語で五分間話し続けるように言った。間違っても、発音が汚くても、意味が通らなくてもいいから、とにかく好きなことを絶え間なく五分間話し続けろ、とビルは言った。その訓練を一ヶ月続けたると、不思議なことに、自分の口から無意識に英語が飛び出してくるようになった。もちろん発音は汚いし、流暢というにはほどと遠いのだが、とにかく、私は連続的に英語を話せるようになった。ビルは私に「なぜイギリスの英語とアメリカの英語が違うか知っているか」と尋ねた。私が「イギリスの英語は古くて、アメリカの英語は新しいから」と答えると、ビルは愉快そうに笑った。「その反対なんだよ」とビルは言った。ピルグリム・ファーザーズが、プリマス湾に到着した時、彼らは今のアメリカ英語に近い言葉を話しており、イギリスではその後言葉が改良され洗練されて、今のイギリス英語になったが、アメリカでは昔の英語がそのまま大陸に広まっていった、ということだった。
ビルはヨーロッパの文化についてたくさんのことを私に教えてくれた。いかに教えるのが商売とはいえ、私はビルの教養の深さと広さに驚いた。ビルはほとんどのヨーロッパの言語を読み書きできた。私はビルを尊敬した。そして思いやり深く礼儀正しいビルがだんだん好きになっていった。
私が自分の英語力に自信を持ったのは、五年ほど前、パスポートの更新のため神戸に帰った時であった。私は生涯カナダに住むつもりはなく、いずれ日本に戻りたいと考えていた。私は大学を中退しており、特に職業的な訓練を受けているわけではないので、日本での就職先は限られていた。私は英語の力を生かした仕事につきたいと考え、ためしに神戸の三宮にある英会話スクールの講師募集に応募してみた。 米国人を含む五人の試験管は、私のスピーチが始まると一様に驚きの表情を見せた。私は、すぐにでも講師になってほしい、と言われたが、カナダに戻らなければならないので、冬の間だけ講師をするアルバイトの単年契約を結んだ。この分なら、将来完全に日本にもどっても何とかやっていけそうな気がした。私は、英語の力をつけてくれたビルに深く感謝した。
ボートが岸に近づくにつれ、私はビルのことが気になった。何か起こっても、ビル一人では何もできないのだ。
私はボートを桟橋に寄せ、バランスをとりながら立ち上がり、自分の体をボートから桟橋に移した。私は桟橋に縛り付けてあるロープをボートのへさきに取り付けてあるリングに通して、ボートが流されないようにした。それから、私は走るように宿に向かった。
ビルの部屋に入ると、静かな寝息が聞こえてきた。私はほっとした。私がベッドに近寄ると、人の気配を感じたのかビルが目をあけた。
「帰ったのか」
「ああ」
「こんな季節だから心配していたのだ」
「だいじょうぶだよ」
「そうか、ボートが出て行くところを見守っていたんだ。無事かどうかずっと見ていようと思ったんだが、眠ってしまった」
「眠れるのはいいことだ」
私は、ビルが窓から私が漁に出かけるところを見守っていたと聞いて、嬉しかった。
「ロンドンからのお客さんは、二階の個室を二つ使ってもらおうとおもうんだけど、それでいいかな」
「ああ、それでいい」
ビルは頷いた。今日はいくぶん顔色がよかった。
「いくつくらいの人たちなの」
「そう、六十ちかくになるな、二人とも、私が若いころに教えた男たちだから」
そう言ってビルは私を見つめた。
「今のタカシよりずっと若いときに教えたんだ」
ビルの目が一瞬若々しい光を放ったように思えた。
(3)
イギリスからやってきたのは、背の高い二人の紳士だった。一人は丸顔の太った男で、もう一人はひげを生やしたすらりとした男だった。どちらも黒っぽいスーツに黒っぽいコートを着ていた。
私は二人をビルの部屋に案内してから食事の用意に取り掛かった。ビルの部屋からはイギリスから来た男たちの遠慮がちな声とそれに答えるビルの重々しい声が聞こえてきた。
私は、大なべに水を入れ、海から撮ってきたばかりのロブスターをその中にいれた。四匹のロブスターは、まだ生きていて、水の中で慎重に動き回っていた。私はかわいそうな気がしたが、なべに蓋をしてガスコンロにかけた。それから足元に積んである野菜の箱から、ブロッコリーとジャガイモとにんじんを取り出した。
ビルの部屋から聞こえる声はだんだんと活気を帯び、ビルの声もいつになくトーンが上がっていた。私は、自分の知らないビルがそこにいるような気がした。考えてみれば、ビルトの付き合いはこの十年であり、その前の生活を、私は見たことがなかったのだ。私は、イギリスから来た紳士たちの子ども時代を思い浮かべ、その子どもたちを教えているビルを想像した。ビルはきっとすばらしい教師だったにちがいない。そう思うと私は誇らしい気持ちにもなった。
食堂の用意ができたので、私はドアをノックしてビルの部屋に入った。部屋には香ばしい葉巻の香りが漂っていた。ビルはベッドの上に上半身を起こしていたが、頬が紅潮し、目が輝いていた。
私が食事ができたことを告げると、ビルは二人の紳士に先に食堂に行くように言った。二人が出て行くとビルは私に、着替えを手伝ってくれないか、と言った。
「無理することないんじゃないの」
「ああ、そうなんだが、学校時代の風習でな」
「それなら手伝うけど」
「すまんな」
ビルはそう言ってパジャマのボタンに手をかけた。手は振るえ、ボタンはなかなか外れなかった。
夕食の片づけを済ませて、私は二階の自分の部屋にもどった。二階の端にある個室からは二人の客が話し合う声が低く聞こえていた。
ドアをノックする音が聞こえたような気がした。私はドアに近より「どうぞ」と声を出しながらドアを開けた。そこにはガウンをはおったさきほどの太った男が立っていた。
「ちょっとよろしいですか」
と男は柔らかな表情を作って言った。
「ええ、どうぞ」
ビルに聞かせたくない話があるんだろう、と私は思った。幸い部屋の中は片付いていた。私は男を部屋に招きいれ、に椅子を勧めた。男が座ると、椅子は大きな音を立ててきしんだ。男は首をすくめた。
男は、自分は医者だと言った。私はビルからそのことを聞いていた。
「ビルの容態がよくないんでしょうか」
「そうですな」
男は、感情を出すまいと努めているような表情になった。
「先生は、以前大病をしておられます。定年直後に」
「ええ、聞いたことがあります。心筋梗塞だったそうですね」
「よくぞ今まで生き延びたものだと、私たちは驚いています」
「病院に行った方がいいんでしょうか」
「私はそう思うんだが、先生は行きたくない、とおっしゃる。あの歳では手術は危険すぎるんだが、まあせめて医者が近くにいる環境の方がいいと思って、先生にそういったんだが、頑として受け付けてくれないんだ。どうせ良くなる見込みがないのなら、病院の白い壁を見てくらすのなんか真っ平だ、って言われるんだ」
「ビルは頑固なところがありますからね」
「それで・・・」
男は言いよどんだ。
「私から頼んだ方がいいんでしょうか」
「まあ、そうなればベストですが、私が今お願いしたいのは別のことです」
男は、ヒソヒソ声になって、もしビルが発作を起こしたら、バンクーバーの救急センターに連絡をしてほしい、と言った。そこには知り合いの医者がいるので話をしてきたのだそうだ。男はガウンのポケットから手帳を取り出し、挟んであった紙片を抜き取って私に手渡した。そこには美しい字で名前と電話番号が書かれていた。男は、二十分くらいでヘリコプターがやってくるはずだ、と言った。
「それから、私にも電話をくださいね」
男は、紙片に自分の電話番号を書き加えた。
「万一の時には、ロンドンで盛大な葬式をやってあげたいんです。なにしろ生徒に人気のあった先生ですから」
低い声だったが、男は案外サラリとそう言った。私は黙って頷いた。
「先生はこんなところで一人で寂しくくらしているのかと思ったが、あなたのような人がいっしょに暮らしているのを見て、私たちはとても安心した」
男はそう言って、意味ありげに笑った。
(4)
客が去って数日間、私は憂鬱な日々を過ごした。ビルの死が急に現実味を帯びて私の心に迫ってきた。私はビルの前では努めて陽気にふるまったつもりだったが、敏感なビルは私の異常に気づいているようだ。
「あの連中が何か言ったのか」
お休みを言うためにビルのベッドに近づいた私に、ビルは心配そうに訊いた。
「いや、何も」
「私の病気のことか」
「できれば、医者がいるところにいるほうが安心だっていってたけど」
「まっぴらだ」
いつものビルに似合わぬ断固とした調子で言った。
「まさか、私たちのことについて、彼らが何か嫌なことを言ったんじゃないだろうな」
「いや、そんなことはないよ」
「もし、そうだったら、気にせんことだな。愛情の多様なあり方をわからぬやつらはほっておけ」
「いや、本当に何も」
「じゃあ、なぜ元気がない」
そう問われて、私は何かそれらしいことを言わなければならなかった。
「あの紳士たちとビルの楽しそうな話を聞いていて、やっぱり僕には近寄ることのできないビルの世界があるんだな、と思って」
とっさに出た言葉だったが、嘘ではなかった。
「ああ、そういうことだったのか」
ビルは納得したようだった。それから申し訳なさそうな顔つきになった。
「悪かったなあ。久しぶりに生徒が来たんで、もうすっかり教師にもどったような気持になってしまって。タカシの気持も考えずに」
「いや、もし、日本から昔の友人が来たら、僕もああいう風に夢中になって話すと思う。ビルは何も悪くない」
私は、言い訳のために何気なく言った言葉が、自分の狭量を示してしまったことを悔いた。
「ありがとう」
ビルはそう言って視線を宙になげ、思案顔になった。
「そうだ、タカシに一度ぜひ見せたいものがある」
「何?」
「秘密だ」
そう言って、ビルは楽しそうな顔つきになった。
(5)
その日はバカに暖かく、日が落ちてからも気温が下がらなかった。ビルは、ツール岬に行きたいと言い出した。
「何で日が暮れてから行きたいの。危ないよ」
「いや、どうしても日が暮れてからでないとだめなんだ」
「まだ体もよくなってないし」
私が言うと、ビルは懇願するような目つきで私を見つめた。
「頼む、最後の願いだと思って聞いてくれ」
「何かあったらどうするの」
「どうせ、もう長くない」
「何をバカなことを」
と私は言ったが、私の言葉に力がなかった。
結局、私はランドクルーザーに車椅子を積んでビルをツール岬に連れて行くことになった。岬は私たちの宿から車で三十分くらいのところにある。昼間はボールドイーグル湾全体を見渡せる眺めのよいところだが、夜は何も見えないだろう。何をしにいくのか、ビルは言わなかった。
エンジンを切ってランドクルーザーを降りると、あまりの静けさに耳がジーンした。寒くはなかった。背後の山から狼の遠吠えが聞こえてきた。襲われることはないが不気味だ。私は車椅子にビルを乗せ、ビルの要求するままに、慎重に崖に近づいていった。私の頭に巻きつけたヘッドランプの光が水平に伸び、暗い海に薄く広がっていった。
「タカシ、そのあたりに石はないか、あんたが遠くへ投げるのにちょうどいいくらいの」
「何に使うの」
「それは秘密だ。うまくいくかもしれないし、うまくいかんかもしれないから」
ビルは得意そうに言った。なんだか嬉しそうだった。私は車椅子を押すのを止めて下を向き、ヘッドランプの光の輪の中にあるピンポン玉くらいの大きさの石を一つ拾った。
「一つでいいの、ひろったけど」
「ああ、一つでいい。じゃあ、車椅子をもっと崖に近づけてくれ」
何をするのか、私は心配になった。まさか崖から車ごと落とせというのでもあるまいが。
「タカシ、崖を覗いてくれ。波打ち際が青く光っていないか」
「さあ、どうかな」
私は丸太でできた手すりにつかまり、こわごわ足元を覗き込んだ。崖は三十メートルはあるはずだ。湾のうちは凪いで、崖の下に波はないようだった。崖と海面の境がわからなかった。波の音が全く聞こえなかった。
「波が全然ないみたい。青い光は見えないようだけど」
「波があると、波打ち際が光るはずなんだが。まあいい。とにかく石を投げてくれるか。できるだけ遠くに」
「ああ、じゃあ投げる」
私は車椅子のストッパーを足先で押し、車輪が動かないことを確かめてから後ずさりした。私は数歩助走して勢いをつけて、大きく腕を振った。私は野球のリトルリーグで選手をしていたので物を投げるのには自信があった。
飛んでいく石は見えなかったが、すぐに石が海面に衝突する音がした。岸からずいぶん離れたところが一瞬青く光り、その場所を中心にして一つの淡い光の輪が少しずつ広がっていった。
「おお、見える、見える」
ビルが嬉しそうに声をあげた。
「きれいなもんだね。何なの、あれは」
「ノクチルカだ。日本語ではなんというのだろう。プランクトンの一種で刺激に反応して光をだすんだ」
「多分、夜光虫だね。初めて見たよ。きれいなもんだね」
「ああ、一度これをタカシに見せたかったんだ」
幻想的な景色に私は見とれた。これを私に見せるためにビルが無理をしてここに来たのだと思うと、私は嬉しかった。
ビルの体の動きが止まったような気配がした。私は驚いてヘッドライトの光線をビルの顔に向けた。ビルは目を閉じていた。
「ビル、大丈夫」
私はそう叫んでビルの胸に手を当て、ビルの体を揺すった。
「大丈夫だ、まだ死にはせん」
そう言って、ビルは物憂げな声を出した。ビルの分厚い掌が私の甲の上に重なった。
「タカシ、ありがとう。お前に出会えたことが、私の人生で一番すばらしいことだった」
ビルがうめくように言った。
(了)