車社会の弊害

私がまだ小学生だった頃、我が家の車はブルーバードだった。
ある同級生の男の子の父親は弁護士だったらしく、その息子はとても口が達者だった。
彼の家の車はベンツだったらしい。
私はその男の子からいつもいじめられていたのだが、ある日、皆の家の車は?という話題になり、私はもちろんブルーバードだと答えた。
その日は彼に「ブルーバードだったらまあまあじゃん」などと言われたのだが、次の日になると「家はベンツだぜ。こいつんち、ブルーバードだってよ」とバカにされた。
あまりにも腹が立ったので「じゃあ、見に行くから見せてよ」と言った。
すると「家はマンションだから今はなくて、別の場所に取りに行かないといけないから、今は見せられない」と言われた。
私は小学生ながらに、そんなの乗れなかったら意味ないじゃん、と思った。
ちなみに家のブルーバードは家の車庫に入っていていつでも乗れる。
ベンツがナンボのもんじゃい!と思った。
ついでに、彼には家そのものについてもバカにされた。
その頃の我が家は古い木造だったのだが、それでも定期的にペンキを塗り直したりしていたので、丁度その時期にペンキの塗り直しをすることになった。
家の周りにはペンキを塗るための足場が組まれていたのだが、「稲垣んち、とうとうぶっ壊すみたいだぜ」と、またバカにされた。
私は家へ帰って母にその話をすると「ペンキを塗るのだって何十万もかかるんだから、ぶっ壊すだなんて随分失礼なこと言うわね!」と、かなり憤慨していた。
悪いが、家は古いかもしれないけどそれなりに手入れもしているし、小さいマンションの管理費なんかよりもずっとお金がかかるのだ。
好きな時に乗れないベンツを持っていればそんなに人をバカにしても良い位に偉いのか。
すぐ乗れるブルーバードの方がよっぽど便利じゃないのか、とやっぱり思った。

偉いといえば、中学校の同級生の男の子の家は父親がどこぞの社長だったらしく、BMWを所有していた。
また、この同級生も生意気な奴で、父親が社長でBMWに乗っている金持ちだ、というのを殊更に誇示していた。
その頃の我が家の車はカムリだったので「またか」と思った。
ある日、友人と彼の家の前を通ったのだが、彼の家は私の家よりも狭かった。
その時、人の自慢話は当てにならないと思ったのだが、BMWがあることには変わりない。
車に対する価値観とは何なのか、と私は中学生ながらに思った。

私は車で良い思いをしたことがあまりない。
それは今でもそうで、ビクターのコンピュータの発表会のために大阪へ行った時も、安いワゴン車のレンタカーでスタッフと機材と一緒に運ばれた。
乗り心地は素晴らしく、長時間のドライブには持ってこいだった。
肩こり、胃痛、それはそれは手厚い待遇を持って移動させてもらった。
写真やビデオの撮影の時もなかなかだ。
機材や荷物を自分で運び、セダンで移動する。
着替えもセダンの中だ。
撮影が終わった後の疲労感は清々しいくらいに格別なものがある。
そして、その様な移動の際には必ずと言っていいほど、ツインカムやらターボやらロータリーやらの話を聞かされる。
私のマイカーは調子の悪いビートだ。
ツインカムやロータリーではなく”軽”で660ccなのだ。
それなのに、散々聞かされるものだからいい加減覚えてしまったではないか。
まったく迷惑なものである。

車社会というものは、この様に様々な弊害が伴うものなのである。
そんなにベンツやBMWやツインカムやターボやロータリーに乗りたいものなんだろうか。
そういえば、私の父もベンツに乗りたがっていた。
しかし、母の反対であっさり現在はナディアに乗っている。
せめてもの抵抗でレザーシートにしたようであるが。