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Luc Ferrari (1929--, フランス)
◎Petite Symphonie, Strathoven, Heterozygote etc. (BVHAAST: Acousmatrix 3)
・Cellule 75, Collection 85 (ADDA)
今のところ、フランスのローカル作曲家という以上の評価を得ていないように
見えるフェラーリだが、彼のユニークな音楽は、もっと注目されるべきだろう。
彼は、アンリ・シェフェールの下でピエール・アンリらとともにミュジーク・
コンクレートの実験を始めた。『ヘテロジゴーテ』(1964)はその成果の総決算
と言えよう。1960年代後半からは、具体音の日常的意味をあからさまに用いた
独自のテープ音楽を作り始めた。『音楽の舗道』『ほとんど何もなし第1番』
など、1970年前後の代表作はまだCD化されていないが、その雰囲気の一端は
『小交響曲』(1973)にうかがえる。それと並行して、演奏行為を社会的活動の
メタファーとして捉えたコンセプチュアルな作品も多い。前衛以降の時代には、
『牢獄』のような単純音型の反復と環境音の録音を重ねて双方を異化する作品
や、『小品コレクション』のような意図的に陳腐な調性的パッセージを用いた
スラップスティック的な作品が大半を占める。『ストラトーヴェン』(1985)も、
『運命』と『火の鳥』のリミックスという、アイディア一発のバカ音楽だ。
湯浅譲二 (1929--, 日本)
・イコン、ヴォイセス・カミング etc. (デンオン:湯浅譲二作品集成3)
○芭蕉の情景、透視図法、啓かれた時、始源への眼差II (フォンテック)
今日の日本で最も着実に優れた作品を書き続けている湯浅は、武満徹とは対照
的なスロースターターだった。電子音楽の分野では『イコン』『ヴォイセス・
カミング』などの優れた作品を1960年代後半から作っていた彼だが、真に自己
を見出したのは、ヨーロッパ前衛音楽体験の総決算『クロノプラスティック』
で尾高賞を受賞してから、具体的には、混声合唱のための『芭蕉の俳句による
プロジェクション』(1974)の頃からである。その後の創作の充実はめざましく、
『私ではなく、風が....』(1976)『マイ・ブルー・スカイNo.3』(1977)などの
優れた独奏曲を相次いで発表し、『芭蕉の情景』(1980)の透明なオーケストラ
書法と『夜半日頭に向かって』(1984)のピアノとコンピュータ音響の親密な対
話において、ひとつの頂点に達した。その後しばらくは再び模索の時期に入っ
たが、近年の『ピアノ・コンチェルティーノ』(1994)『ヴァイオリン協奏曲』
(1996)では、これまで慎重に避けていた調性的音響を積極的に取り入れている。
しかし、決して退嬰的なものではなく、深遠な《晩年様式》と言えそうだ。
Edison Denisov (1929--96, ロシア)
・String trio, Piano trio etc. (mobile fidelity)
シュニトケとグバイドゥーリナの蔭で、不当に評価の低いデニソフだが、音楽
の密度の高さでは、この2人に勝るとも劣らない。旧ソ連で最初に総音列技法
を取り入れて、『インカの太陽』などブーレーズ・スタイルの作品をまず書き、
やがて『弦楽三重奏曲』『ピアノ三重奏曲』(1971)といった、叙情的な無調の
旋律を持つ柔軟な作風に移行した。これらの作品の録音の中では、演奏もこの
CDが最高。以後の彼の作品では、『ピアノ協奏曲』『ヴァイオリン協奏曲』
『ヴィオラ協奏曲』など、ジャズや古典音楽を引用したものが面白い。
武満徹 (1930--96, 日本)
○Distance, Voice, Stanza II, Eucalypts I,II, Garden Rain etc. (ポリドール)
『ノヴェンバー・ステップス』の国際的成功以来、日本作曲界の顔とみなされ
てきた武満だが、創造力が充実していた期間は比較的短く、1960年代後半から
1970年代前半にかけてである。『地平線のドーリア』『アステリズム』などの
60年代後半の尖鋭な作品ももちろん素晴らしいが、『ウィンター』『秋庭歌』
『ジティマルヤ』など、ビロードの中に刃を隠し持つような70年代前半の作品
群こそが彼の真骨頂だろう。室内楽の分野においても、秀作はこの時期に集中
しており、そればかりを集めたこのCDの選曲の良さは特筆すべきである。
Cristobal Halffter (1930--, スペイン)
○7 Cantos de Espana (col legno)
アルフテルとパブロというスペインを代表する2人の作曲家は、いまのところ
《現代音楽史》の中ではまだあまり大きな位置を占めていないようだ。しかし、
総音列技法の歴史的意味が問われ始めた時、この2人への評価は大きく変わる
はずだ。彼らの1960年代の作品は、この技法の力で圧倒的に美しく輝いている。
しかし、CD時代の今日、彼らのこの時期の作品は殆んど聴くことができない。
近年は初期ストラヴィンスキー風の聴きやすい作品が多かったアルフテルだが、
『スペインの7つの歌』(1986--92)の響きは、前衛の時代を彷彿とさせる。
Luis de Pablo (1930--, スペイン)
○Concierto de camara, Dibujos, 5 Meditaciones etc. (ADDA-->2e2m)
・Segunda lectura, Libro de imagenes, Metaforas (stradivarius)
アルフテルが前衛の時代に最も輝いていたのと対照的に、パブロが本領を発揮
し始めたのは、前衛が相対化され始めてからである。彼の音楽も、基本的には
総音列技法や管理された偶然性などの前衛の諸技法に多くを依っているのだが、
彼は、そこに民族音楽やクラシック音楽の要素を取り込む手腕が卓越していた。
彼の歩みは、若い頃の不遇な境遇やその後の自国内での地位も含めて、武満徹
ときわめて似通っていたが、彼の場合は、前衛の時代が終わってからも音楽の
厳しさを失うことはなかった。1980年前後の室内楽を集めた1枚目のCDには、
その美質がよく表れている。特に『5つの瞑想』(1984)のテンションの高さは
素晴らしい。彼の創作の充実ぶりは、『イメージの書』(1990--91)など1990年
前後の室内楽作品を集めた2枚目のCDでも、些かも揺らいでいない。
Mauricio Kagel (1931--, アルゼンチン/ドイツ)
・Exotica (koch schwann)
○Variete (montaigne: Kagel edition 4)
・Sankt-Bach-Passion (montaigne: Kagel edition 8, 2CDs)
◎Finale, Den 24.XII.1931 (montaigne: Kagel edition 3)
前衛の時代からポストモダンのあるべき姿を体現してきたカーゲルの重要性は、
時を経るにつれて増すばかりである。もっとも、前衛の時代には作曲者自身も
自らの作品の真価は十分には把握していなかったようで、偽民族音楽を通じて
ヨーロッパの音楽状況を風刺した『エクゾティカ』(1970--71)でも、1972年の
最初の録音は「ヨーロッパ人が未経験の非ヨーロッパ楽器を演奏する」という
コンセプトにこだわりすぎて、文化的帝国主義に陥っているように感じられる。
しかし、アンサンブル・モデルンによるこの新録音では、日本人奏者のリード
で、作品の本来の魅力が引き出されている。彼の作品は視覚的要素を重視した
ものが多く、録音だけではその全容を把握できないもどかしさがあるが、ここ
に挙げているのは、比較的聴覚的要素の占める割合が大きな作品ばかりである。
ポピュラー音楽の断片をパッチワークした『ヴァリエテ』(1976--77)、50歳
記念コンサートのために書かれた『フィナーレ』(1980--81)、J.S.バッハ生誕
300年に合わせて書かれた『聖バッハ受難曲』(1981--85)、60歳記念コン
サートのための『1931年12月24日』(1988--91)と、創作歴の節目ごとに生み出
された代表作をたどっていけば、20世紀後半の音楽の流れが見えてくる。
Pauline Oliveros (1932--, アメリカ合衆国)
・In Memoriam Mr. Whitney, St. George and the Dragon (mode)
演奏者自身の聴取体験を重視したアコーディオンによる即興をデビュー時から
続けてきたオリヴェロスだが、ライブエレクトロニクスなどにも意欲的に取り
組んでいる。瞑想音楽を標榜する有象無象は多いが、彼女は稀有な本物である。
近年はディープ・リスニング・バンドでの活動が多いが、『セント・ジョージ
とドラゴン』では、彼女のソロがたっぷり聴ける。『ホイットニー氏追悼』は
教会の残響の多い空間を生かした合唱曲で、音響構成の手腕が冴えている。
Vinko Globokar (1934--, ユーゴスラヴィア)
・Discours III,VI etc. (koch schwann)
◎Les emigres (harmonia mundi France)
現代トロンボーン曲のスペシャリストという顔を持ち、自ら即興アンサンブル
も組織していたグロボカールの前衛の時代の作品は、実験性は十分だが、演奏
家にありがちな視野の狭さも感じられた。だが、ポストモダンの時代が到来し、
視覚的要素や調性(民族音楽やポピュラー音楽の要素:そもそも彼のキャリア
はジャズトロンボーン奏者として始まった)を作品に取り込んでいくにつれて、
彼の音楽は独自の存在感を持つようになった。『ディスクール』のシリーズは、
超絶技巧と演奏の身体性をともに追求したもので、ベリオの『セクエンツァ』
シリーズの先を行っている。シアターピース『移民たち』(1982--86)は、時代
状況をアクチュアルに扱った代表作で、以後の『バルカンの哀歌』(1992)など
にも共通する、多民族国家に育った者ならではの問題意識が感じられる。
Alfred Schnittke (1934--, ロシア/ドイツ)
・Piano Quintet, String Trio etc. (BIS)
◎Concerto Gross No.2, Concerto for Viola and Orchestra (Melodiya)
旧ソ連を代表する作曲家とみなされているシュニトケのピークも、武満と同様
に、あまり長くは続かなかった。ヨーロッパ前衛とチャイコフスキーの伝統を
アナーキーに混合した『交響曲第1番』(1974)から、全てがロシア聖教の合唱
の中に包まれて終わる『交響曲第4番』(1983)あたりまでの10年程度である。
母の死を悼んで作曲された『ピアノ五重奏曲』や、プリペアド・ピアノと通俗
的な映画音楽の取り合わせが面白い『合奏協奏曲第1番』など、比較的端正な
作品の評価が世間では高いようだが、アナーキーな様式混合が極北まで行き着
いた感のある『合奏協奏曲第2番』(1982)のバカ音楽ぶりを、筆者は最も高く
買っている。Melodiya盤では、彼の最も端正な作品『ヴィオラ協奏曲』(1985)
とカップリングされており、バシュメット全盛期の独奏を堪能できる。
James Tenny (1934--, アメリカ合衆国)
・Selected Works 1961-1969 (Artifact)
ケージたちの偶然性の流れにも、ミニマル音楽の流れにも属さない、真にイン
ディペンデントなアメリカの作曲家。ケージは晩年に「僕がいま学生だったら、
テニーに師事したい」と語ったという。上記の作品集は1960年代の電子音楽が
中心で、ミュジーク・コンクレート風の作風(とは言っても、ジャズを素材に
していたりする)から、ノイズ音楽の先駆のような作風へと変化している。
Helmut Lachenmann (1935--, ドイツ)
○Gran Torso, Salut fur Caudwell (col legno)
ノーノの強い影響下に出発したラッヘンマンは、シュトックハウゼンらの世代
の特徴だった電子音楽への関心は殆んど示さず、演奏家の身体性と結び付いた
特殊奏法に基づく特殊な音響にこだわった創作を始めた。弦楽四重奏のための
『グラン・トルソ』(1971)は、この方向での創作の頂点である。1970年代半ば
から彼の関心は西洋音楽史の異化に移り、その当初には『アッカント』(1976)
のようなユニークな秀作がある。しかし、1980年代以降の作品は異化をお題目
にして古典音楽に依存しているような印象が強く、それまでの鋭さはない。
Arvo Paert (1935--, エストニア/オーストリア)
・Tabula rasa, Fratres, Cantus in memory Benjamin Britten etc. (ECM)*
《聴きやすい現代音楽》としてペルトの音楽がブームになってからもう十年が
過ぎた。単純な旋法的音型を執拗に反復しつつ、反復のたびに異なる三和音を
添えていく《鈴鳴らし様式》は、その後のミニマル音楽ブームを予言していた
かのようだが、彼の場合は、音列技法や偶然性からコラージュに至る前衛音楽
の模倣を繰り返すうちに、ようやく手探りでアイデンティティを見つけた重み
があった。このCDにはその感動が素直な形で詰まっている。もっとも、この
純粋さは、人気とともに1980年代末には跡形もなく失われてしまったが。