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Bruno Maderna (1920--73, イタリア)
・Satyricon, Ages (stradivarius)
キャリアの最初から、ベリオやブーレーズら前衛の世代を代表する作曲家たち
と歩みをともにしていたマデルナは、年齢がやや上だったこともあって兄貴分
として慕われていたが、作風は穏当さが目立ち、むしろ指揮者としての活動の
方が目立っていた。しかし、遺作となったオペラ『サチュリコン』は、モンテ
ヴェルディから現代に至る雑多な音楽様式を、下品なまでにアナーキーに混合
した異色作である。自作自演の初演を収録した上記CDを特に推薦したい。
Iannis Xenakis (1922--, ギリシャ/フランス)
・Metastasis, Pithoprakta, Eonta (Le chant du monde)
○Akrata, XAS, Echange etc. (mode: Xenakis 2)
◎Chamber Music for Strings and Piano (montaigne: Xenakis 1, 2CDs)
○La legende d'Eer (montaigne: Xenakis 2)
作曲に数学とコンピュータを駆使した理知の人、というクセナキスへの誤った
イメージは、CD初期に『サッファ』『プレアデス』など打楽器のための作品
が集中的に録音されたことでかなり修正されたはずだ。彼の音楽の強烈な表現
性は、ギリシャ時代に反ナチ/反軍事独裁政権ゲリラに投じて左眼を失う重傷
と死刑判決を受け、辛うじてフランスに亡命した経験と密接に結び付いている。
しかし、その後の録音が比較的穏やかな近作に偏っていたため、1960年代半ば
から70年代半ばにかけての彼の音楽の底知れない凄味は、CD時代のリスナー
にはなかなか伝わらなかった。音群の分布を自然界に見られる確率分布に等し
く設定した《推計的音楽》の典型『ST/4』や集合論を用いて音群をグループ化
した《記号的音楽》の第1作『ヘルマ』から、弦楽四重奏曲の傑作『テトラス』
(1983)までを含む『弦楽器とピアノのための室内楽作品集1955--1990』は、彼
の作風の変遷をまず掴んでおくのに最適である。アルディッティ弦楽四重奏団
のメンバーによる演奏も素晴らしい。ただ、エルフェのピアノはかなりガタが
来ているので要注意。管楽アンサンブルのための傑作『アクラタ』(1964--65)
を含むアルバムは愉悦感に満ちており、*現代音楽嫌い*でも楽しめるだろう。
彼の最後のアナログテープ音楽『エルの伝説』(1977--78)は、まだCD化され
ていないこの分野での傑作『ボホール』(1962)『ペルセポリス』(1971)の圧倒
的なパワーには及ばないが、テクノとノイズを結ぶ瞑想音楽として聴き直すと
面白い。そして、『テレテクトール』(1965--66)『サンドレ』(1973)といった
代表的な管弦楽曲が当分はCD化されそうにもない現状では、処女管弦楽作品
『メタスタシス』『ピソプラクタ』とピアノと金管五重奏のための初期代表作
『エオンタ』(1963--64)からなる歴史的名盤は、依然貴重な存在である。
Gyorgy Ligeti (1923--, ハンガリー/オーストリア・ドイツ)
○Avantures, Nouvelles avantures, Requiem (WERGO)
・Continuum, Monument-Selbstportrait-Bewegung, Horn Trio etc. (WERGO)
◎Concertos for Cello, Violin, Piano (Deutsche Grammophon)*
ハンガリー動乱を機に西側に亡命し、総音列技法を批判した論文で現代音楽の
世界に登場したリゲティは、『レクイエム』(1963--65)『ロンターノ』(1967)
をはじめとするトーン・クラスターを用いた作品群で一世を風靡したが、この
ようなオリジナルな創作活動を行っていたのは束の間で、1960年代末頃からは、
ミュージックシアター、ミニマル音楽、新ロマン主義などの流行を後追いする
作風になってしまった。その時期にも、『連続体』(1968)『記念碑・自画像・
運動』(1976)など興味深い作品は存在するのだが。彼が自分を取り戻したのは、
1980年代はじめにナンカロウの自動ピアノ作品を知り、オリジナルな発想に貫
かれた作品は、時代や語法を超えて強烈なインパクトを持つという事実を確認
してからである。西側亡命以前の全音階的なポリフォニーの世界に戻った彼は、
『ヴァイオリン協奏曲』(1990--92)『練習曲集第2巻』(1989--94)などの真に
円熟した傑作を、70歳を迎えてようやく書くことができた。彼のこのような
歩みはストラヴィンスキーと似ているが、かたや前衛技法の採用、かたやそれ
との決別で復活した点は全く対照的で、2つの時代の違いを象徴している。
Luigi Nono (1924--90, イタリア)
・La fabbrica illuminata, Ricorda cosa ti hanno fatto in Auschwitz (WERGO)
○....sofferte onde serene...., Das atmende Klarsein etc. (col legno)
◎Prometeo--Tragedia dell'ascolto (EMI, 2CDs)
・A Pierre, Diario Polacco 2, Post-prae-ludium per Donau (Ricordi)
ノーノの創作は、『不寛容』(1960)『偉大な母なる太陽に向かって』(1974)と
いう2つのシアターピースによって、政治的なテキストと厳格な総音列技法を
結合した初期・テープ音響を用いて鮮烈なイメージを打ち出した中期・ライブ
エレクトロニクスによる瞑想的なサウンドが特徴的な、政治性は後退した後期
に大きく分けられる。初期にも『墓碑銘』のシリーズや『領土と仲間』(1957)
などの優れた作品はあるが、同時代の前衛作曲家たちと比べて、際立った個性
はまだ感じられない。独自の様式が確立されたのは中期からで、テープ音楽の
代表作『輝ける工場』(1964)『アウシュヴィッツの仕打ちを忘れるな』(1966)
を含む1枚は、まず押さえておきたい。この時期には他にも『バスティアナの
ために』『力と光の波のように』などの秀作がある。そして、後期の諸作品は、
時代から桔立した真にオリジナルなものであるが、彼のこの変化は、第三世界
の民族解放闘争に寄せていた強い共感が、ベトナム戦争のソ連主導の戦後処理
を見て打ち砕かれたことと無関係ではないだろう。『....苦悩に満ちながらも
晴朗な波....』(1976)に始まり、『息づく清澄』(1980--81)や『冷たい怪物に
気をつけろ』(1983)を経て、シアターピース『プロメテオ』(1981--85)で一つ
のピークに達し、最晩年の『後−前−奏曲』(1987)『ノスタルジックでユート
ピア的な未来の遠景』(1988--89)まで、高いテンションは持続し続けた。
Pierre Boulez (1925--, フランス)
○Le marteau sans maitre, Structures II, 12 Notations (SONY)*
◎Pli selon pli (ERATO)*
・Repons, Dialogue de l'ombre double (DGG, in preparation)*
ブーレーズは、いまさら紹介するまでもなく、今世紀を代表する作曲家にして
指揮者にして音楽学者の一人である。彼が、どの分野においても一流の仕事を
残していることは疑いない。だがその反面、どの分野でも、極めて狭い範囲に
自己を限定した上での活動にとどまっていることは忘れてはいけない。作曲家
として輝いていたのはせいぜい1960年代の半ばまで、『主なき槌』(1953--57)
『プリ・スロン・プリ』(1957--62//84--90)という代表作に、3つのソナタ等
のピアノ曲くらいである。これらの作品にしても、全く新しい音楽の世界を開
いたわけではなく、20世紀前半の音楽の課題を、自らの作品の中で総括したと
いう印象が強い。その後の彼は、むしろ指揮・執筆活動に多くの時間を割いて
おり、以後の作品のうちで聴いておきたいのは、IRCAMの所長として音響
合成を研究した成果の結晶『レポン』(1981--84)と旧作『ドメーヌ』の抜本的
改作『二重の影の対話』(1982--85)を収めた近日発売予定のCD程度である。
Luciano Berio (1925--, イタリア)
○Laborintus 2 (harmonia mundi France)
◎Sinfonia, Eindrucke (ERATO)*
ベリオは、基本的には前衛の流れに属しつつも、構造や論理を重視する主流派
からは離れた部分での音楽の魅力を追求し続けた。ヴィルトゥオジティの魅力
にいち早く着目した『セクエンツァ』のシリーズや、声の官能性を発揮させた
キャシー・バーベリアンのための一連の作品など、彼の独創性は1960年頃には
すでに明白になっていた。そして、フリージャズとライブエレクトロニクスを
融合したシアターピース『迷宮2』(1965)と、レヴィ・ストロースのテクスト
の断片が語られ/歌われる中に、管弦楽の*名曲集*の破片が漂う『シンフォ
ニア』(1967--69)という、現代音楽の一時代を象徴する傑作を相次いで書いた。
だが、あまりに出来すぎた《代表作》の呪縛から、彼は遂に抜け出せなかった。
その後の彼は、『カーブで見出す点』『スノヴィデニアへの回帰』などのエク
リチュールを徹底的に追求した作品や、オペラの歴史や制度を扱った舞台作品
など、量的には旺盛な創作を続けているように見えるが、守りの姿勢に入った
音楽は、バーベリアン追悼作品『レクイエス』(1984)以降は見る影もない。
Morton Feldman (1926--87, アメリカ合衆国)
◎Durations I-V, Coptic Light (cpo)
・False Relationship and Extended Ending, Viola in My Life etc. (CRI)
○Piano Three Hands, Vertical Thoughts II, Instruments I etc. (RZ)
・Piano, Palais de Mari (for Francesco Clemente) etc. (hat hut)
ケージらとともに、図形楽譜を用いた偶然性の音楽から出発したフェルドマン
だが、ヨーロッパ伝統音楽の要素を批判的に取り入れることで、独自の音楽を
作り上げた。確定的な譜面に戻りつつある時期の『持続』の連作(1960--61)と
彼の最終到達点の一つ『コプトの光』(1985)を組み合わせたCDは、彼の音楽
を聴き始めるには最高の1枚である。もちろん、その間にも優れた作品は多く
書かれており、特に彼自身が「ベケットの時代」と呼んでいる1970年代半ばの
作品群は傑出している。ミニマル的な後期の作品群のリリースラッシュが一息
つき、この時期の作品の録音もようやく増え始めたが、彼の一つの頂点をなす
『インストルメンツI』(1974)と彼自身やチュードアのピアノによる初期作品
の録音をまとめた1枚は、入手は容易ではないが是非聴いておきたい。さらに、
2枚目は「ベケットの時代」前後の室内楽を、4枚目は幅広い時期のピアノ曲
をシュレーダーの優れた演奏で聴けるCDである。ただし、後期を特徴づける
1曲が数時間に及ぶ時間感覚の変革を促す作品群は、あえて入れなかった。
Gyorgy Kurtag (1926--, ハンガリー)
・Kafka-Fragments (HUNGAROTON; ONDINE)
極度に切り詰められた表現が特徴的な寡作の人クルターグは、ある意味で現代
においてウェーベルンの精神を体現している作曲家と言えよう。国際的に評価
が高まってからの近作は、音色と調性に耽溺し過ぎているようにも感じられる
が、『カフカ断章』(1985)はソプラノとヴァイオリンをあえてモノトーンに響
かせたテンションの高い作品で、彼の音楽の本来の魅力がよく表れている。
Franco Donatoni (1927--, イタリア)
○Spiri, Diario etc. (Harmonic-->ACCORD)
ノーノ、ベリオ、ブソッティらと比べると、ドナトーニが世に知られたのは遅
かった。ヨーロッパ前衛語法の後追いに飽き足らず、それらとケージ的な世界
の間での逡巡を1970年代に入るまで引きずったせいだろう。だが、この時期も、
マデルナの追悼音楽『ブルーノのためのデュオ』あたりで終わりを告げ、1970
年代後半からは、旋法的でメカニカルな断片を休みなく変容させていく独自の
書法に専念する。『日記』『スピリ』はその幕明けを告げる傑作である。
Karlheinz Stockhausen (1928--, ドイツ)
◎Studie I,II, Gesang der Junglinge, Kontakte (Stockhausen-Verlag)
○Klavierstucke I-XI, Mikrophonie I,II (SONY, 2CDs)*
シュトックハウゼンは、1950〜60年代のヨーロッパ前衛音楽を文字通りリード
していた。60年代末以降の彼は、テクノロジーと神秘主義の狭間の*あちらの
世界*に迷い込んでしまっているが、それ以前の傑作まで否定してはいけない。
1970〜80年代には、ドイチェ・グラモフォンと組んで数多くの録音を行ったが、
CD化の遅さに業を煮やして、全作品のマスターテープを買い取って自主レー
ベルを始めた。豪華ブックレット付きとはいえ、1枚4000〜6000円という法外
な価格には二の足を踏んでしまうが、『少年の歌』(1955--56)『コンタクテ』
(1959--60)という電子音楽の代表作2曲を含む1枚だけは是非買っておきたい。
『ピアノ曲第1番〜第11番』(1952--61)は良くも悪くも《前衛音楽》の典型に
留まっているが、タムタムの衝撃音のみを素材にしたライブエレクトロニクス
初期の傑作『ミクロフォニーI』(1964)や、世界の国歌やラジオ放送の録音と
電子音楽をリミックスした大作『ヒュムネン』(1966--67)は、神秘主義に向か
おうとする感性を理性が辛うじて引き止めている危うい均衡が実に面白い。