北斎の富嶽図を見る

講師 小山清男(東京芸術大学名誉教授)
日時 2001年9月27日
...奥村政演の創始した浮絵は、洋風画の線遠近法に歌舞伎小屋の内部を描いたもので、 それまで主とし
て至近距離から描かれた美女や役者の姿絵を見ていた庶民を、斬新な 空間表現に目覚めさせた。 後に浮
絵 の描写対象は屋内から屋外へ移り、歌川豊春は舶 載された銅版画を木版に模し、その過程で遠近法を
習得 して自然の眺めを描くように なる。ここに風景版画の成立をみる。多才な葛飾北斎は、さまざまな
傾向の作品を遺 しているが、風景版画で一つの頂点を示す絵師である。 以下にその代表作「富嶽三十六
景」またそれに続く「富嶽百景」の特色ある作品をみる。
...自然の眺めとして富士を描いたものには、現地で写生したと思われる図もあって、北斎の対象をみる眼
の確かさがわかる。そのうちでも「信州諏訪湖」「武陽佃島」などは、とくにすぐれた写生画である。そ
れに対して市井の眺めや庶民の生活を描いた作品では、人工的な構築物と遠景の富士の描写との間に、空
間的な矛盾がみられるものがある。「礫川雪の旦」「本所立川」「隠田の水車」、百景の「足代の不二」
などである。

「隠田の水車」
また三十六景の方には、 洋風画的なものがいくつかみられる。厳密に線遠近法で描かれているとはいえな
いとしても、たとえば「江戸日本橋」「五百らかん寺さざえどう」などは、かなりよく線遠近法的な空間
があらわされている。
 北斎はまた、幾何学的な形、三角形や円を意識して画面を構成している。富士を一つの三角形とみれば、
それに呼応する三角形的な形が描かれていることが多い。例えば遠景の富士の三角形とそれに対置して屋
根の三角形を描いて、絵画空間を決定している。「尾州不二見原」などは、 遠景の小さい富士の三角形
と、手前の大きな桶の円との対置がはっきりと絵画空間を定めている。
 両シリーズを通じて虚像を描いたものが6例ある。百景の「ふし穴の不二」は、閉ざされた雨戸の節穴
をピンホールとして障子に映じた富士の倒影を描いている。画面にあらわれていない富士の実像と障子上
の虚像とが、独自の空間的構造を感じさせる。三十六景の「甲州三坂水面」では、上下対称となるはずの
実像と虚像とが、左右に大きくずれており、斜アフィンの関係になっている。しかも実像は峨々とした夏
の富士であり、虚像は雪をいただいた冬山となっている。現実を超えた独自の機知的な画面となっている。

「甲州三坂水面」
..以上のように北斎の富嶽図は多様であり、図法的にみると空間的な矛盾を含むものも多く、また時には
作意にすぎるものもみられるが、意表をつく機知てきな発想がみられるところに北斎の魅力の一つがある
といえよう。

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