.....かれこれ20年ほど前になると思うが、ラヴさんは日本の現代美術を論じた長大で精緻をきわめたある文章の末尾に、「しばらく内部(インサイド)に身を置くよそ者(アウトサイダー)」として同時代の日本美術を論じた、と印象的なことを書き、もし自分が誤っていたら、その誤った印象を誰かが訂正してくれることを願っている、とも書いていた。

 この謙虚さは、ラヴさんの生涯を貫いているある気高い意志の存在を感じさせるものだった。彼の現代日本美術論が誤っていると断じることのできる人は、扱われた当の芸術家たちについてはいざ知らず、当時誰一人いるはずがなかったのである。なぜなら、彼ほど丹念に精密に深い愛情と理解力をもって、同時代の生まれつつある作品に付き合い、見守っている批評家は他に一人もいなかったと言っていいのだから。そして当の芸術家たちにしても、自分自身についていわれたことについてならいろいろ言うこともありえたが― 芸術家は常に他人の批評や賞賛に対して不満をいだくものだ ― ラヴさんの視野は常に洋の東西の広大な比較芸術論的背景の上に築かれていたから、個として独自性をいかに強く主張する作家であっても、自分の姿をより大きな視野の中で見直すきっかけをあたえられるラヴ論文に対しては刺激と感謝の念をよびさまされずにはおかなかったはずである。

 彼の感化力がいかに深かったかということは、彼が重い障害と戦う身になってから、夫人の舞踏家嵩康子さんをもその一員として、LAF(Love Art Family)と名付けられたラヴさん支援組織が作れ、親交のあった教え子、友人、芸術家、批評家、大学関係者、マスコミ関係者たちがこのメンバーとなって支えていること一つを指摘するだけでもわかろう。

 彼が日本で開いた個展の最初のものは1972年秋の日本橋「南画廊」でのジョセフ・ラヴ展だったが、このときすでに彼は下辺が上辺よりも長い台形のキャンバスなどを用いて作品を描いていた。当時流行しはじめていたミニマリズムを意識した作品だったと思うが、私はその問題についてラヴさんと話したかどうか記憶にない。この人は自作について語ることが、全くといっていいほどなかったように思う。

 この控え目な自己抑制は、彼が他の若い作家たちについて書く時の、ほとんど献身的な善意の魂とさえ感じられるこまかい配慮にみちた評論を一方に置いて考えると、何だか不思議な気分にさえなる事だった。実際ラヴさんは、自らの作品について説明的になるのを極端に抑制していたと思われる。それが彼の驚嘆すべき自己統御の現われだったとしても、私にはそれが少し不満だったのも事実である。ラヴさんの作品のような、本質的に寡黙で瞑想的な画面は、その抽象性がどんな精神的磁場から生じているかをじっと考えないと、これは私には無縁のものと思われてしまうおそれもあるからだ。

 私はこれらの作品を見ながら、ラヴさんの脳裏に一つの光明世界のようなものがひろがっている状態を想像する。彼はスプレーで色を吹き付ける技法と、鉛筆のストロークで力強く不定形の線を画面に走らせる方法との二つの技法を併用しているが、色の形態の配置には、ある大いなる心の平安の世界への憧れが、祈りのように波うっているのが感じられる。

 色はその遠く遥かな世界から、光のように、また音のように、したたりつつ降りてくるように思われる。そのようなものとしてラヴさんの当時の大作を見てみると、彼の精神的背景をなす神聖な世界にたいするラヴさんの独特の接近の過程がこれらの絵になっているのだろうということが、直観的に了解されるように思われる。

(おおおか・まこと 詩人)
..この文章は92年の「ジョセフ・ラヴ
作品展」のカタログの序文から筆者の承諾を得て転載いたしました。

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