何のためでもない

ジョセフ・ラヴ


....円―かっては、完全な形、今は無形。
どのようにして窓としての絵画を避けるか。
ミニマルアーチストの論争と関わらず......

表面、他に何もない純粋な表面。後に何ものもない。
極めて現実的で物理的なもの
(表面を触りなさいーサンドペーパーのようなものだ)
そして同時に画面のうちに何かを描く必要がないように.....。
私はそれを探している。そのようにすれば、
私が強いて何かを表現してしまう必要がない。
放っておきなさい、頭について心配することはない。
体は充分それを荷なうだろう。

「往復」はちゃんとプランの中に含まれている。
それで表面は空間のバリヤーになりうる。
その裏にも入り込み見る人の所にも動き得るようになる。

 どうしてこれをそんなに求めるのか? 
場所の確実さがほしいが、同時に偶発性も意識したい。
動きながらの不事、意味深い緊張― 
人を害するそれではなく。
それに希望の象徴を探す、
このような仕事は、その一つではないか。

 つくるという過程は。自分自身になることの比喩か象徴か。
ぼくは自分自身でやることを許してもらいたい―
他人もまた彼自身であるように。
偽の自分は恐怖に満ちた欲望の産物。
それはあくまでも執念にちがいない。
自由がないために何時も「どこか」へ行っている。
もしかしたら、円は初めも終りもないからこそ
一番よいのかもしれない。
必死になることもないし、この画面に懸命な構成はない。

 深みに入る可能性への興味があるが、
渦の中に引っ張られたくはない。
こちらに近づく光への興味はあるが、
ライトアートとオップアートのトリックはなし。


この全ては、ぼくを自由にさせるはずだ。
操られることもいやだし、ぼくの仕事も決して人を操らない。
人のことの責任は、全部その人の所にある。
オップアートの大部分には残酷で冷たい計算がある。
コンセプトアートもそうだ。
両方はまちがった心理的な空虚に頼る。
よい空虚もある。それは充実の実のようなもので、
その場は目的性のない行為ーまたは人を操る目的のない行為にある。

 音は何処から出てくるのか、何処へ行くのかを考えずに、
ただ音を聞くことのなかに耳のエクスタシーがある。
音―利用する分析するものではない。
色(または光 ― 同じはずだが)の場合も同様だ。
眼のエクスタシー。
その目的はそれ自体であって、祈りのようなものだ― 
何かを得るための祈りではなく、単なる祈り。
意識せよ。静かにせよ。何も探すな。
教えられるよりただ栄養を与えられるように。

― あの人のシステムは、重要なものを何一つささえない。
それじゃ、システムを追求するのはどうして?
.....大切なのは、何をすべきかということではなくて、
生命だけだ。
生命は他の容器の中に入るものじゃない。

 ジョン・ケージはジャスパー・ジョーンズに
別にどっちでもかまわないよ、と言ったが、
ジョーンズは、まだテスト中。
肯定するにしても否定するにしても、
彼は確実ではないようだ。
ジョーンズが与えてくれるメッセージは
絶えざる革命の無駄な抵抗。

....与えるべきなのは、
「軽く取り扱いなさい― 全部消えてしまうだろう」
軽く取り扱うべし。―しかし取り扱いなさい。
一貫したつくること、生きることのパラドックス― 
その高い価値をずっと認めながら、
(神はつくられた全部を見て極めてよいとおっしゃった。)
知覚の全くできない程、変わってしまうだろうと言うこと。
「何のためか」という質問を全然聞かないで、......

何のためでもないが、しかし生命でいっぱい。

   
(この文章は「さぐる」第1号より転載しました。)
..............(和訳もジョセフ・ラヴによるものです。)















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